~プロローグ~「噂話が現実に」
芸能プロダクション『アンタレス』ここは私の職場だが、今日の通勤は足取りが重い。
今日ほど休みたいと思ったことはない。
それは先日、中年女性上司マキに会議室で言われた事が原因だ。
「カレン実は君に重要な話をしなくてはならない」
静かな会議室でテーブルを挟んで話すことと言えばアレしかない。
「な、なんですか急に、もしかして解雇の知らせですか」
慌てる私に上司が首を横に振る。よかったクビになるかと思った。
「そうじゃない、君は真面目だし勤務態度になんの問題もない。これを見てくれ」
半透明のファイルから一枚のプロフィール表と顔写真を取り出してくる。顔写真を見ると十歳位の子供が写っていた。
ここで私は合点がいった。新しいタレントをマネージメントしてほしいということなのだろう。
「なるほど新しいタレントさんですね。今度はこの子の担当に付くということですか」
「そうだ、話が早くて助かる」
上司マキさんはにこやかに答える。
「可愛らしい子ですね。中性的な雰囲気がいいですね」
顔写真を見て率直な感想を述べる。
「実はね、この子男の子だよ」
合点のいかない事が起きた。
上司マキさんはプロフィール表の性別の欄を指さす。私の視線は性別の欄に釘付けになった。
この業界に入って三年目になる私には初めての経験だったからだ。性別の欄など必ず『女』と書いてあるもの『男』なんて字は空想の世界の言葉だと思い過ごしてきた。
いつからだろう、性別の欄をまともに見なくなったのは……などと、考え始める私に上司マキさんが改めて言った。
「この子の担当になってもらうから」
私はプロフィール表から顔を上げ、上司を見る。
「あ、あのその事につきましてはその……」
普通の女性なら飛び上がるほど嬉しい出来事だろうが、私が戸惑うのには訳がある。
この業界で男性芸能人のマネージャーになるという事は『奴隷』として生きていく事と同義であるのだ。
男性は貴重でかけがえのない存在故に、甘やかされ我儘で傲慢になるのだ。
それはまさしく『暴君』と言っていいだろう。ましてや芸能界に入ろうとしているのだ一体どれほどチヤホヤされてきたか解らない。
暴君の奴隷になるという生き地獄に、私は堕ちようとしている。
「もう決まった事だから……」
上司マキさんが立ち上がり会議室を後にしようとしている。
そうはさせるかと、私もすかさず立ち上がり上司マキさんにすがりつく。
「もう一度考え直してください」
「ええい離せ!これは仕方のないことなんだ。我が『アンタレス』の初の男性タレントだくれぐれも怒らせて他所の事務所に移籍なんてさせないようにするんだ」
男性タレントの担当になって廃人になるマネージャーの噂をこの三年間何度耳にした事か。いつも恐ろしいと思っていた噂話が現実のものになろうとしている。
「せめて担当は交代制にしてくださいお願いします」
会議室の床にへたり込み私は懇願した。
「若い内は苦労をするものだよ」
上司マキさんは私に目もくれず会議室を後にした。
何てことだ、会社は私を生贄にしたのだ。男性タレントを確実に手に入れるために、社員を一人潰す気なのだ。
上司マキめこの恨み忘れぬぞ。私は立ち上がりテーブルの上の写真を手に取る。
「それにしても可愛いな……」
私の頬に一筋の涙が流れ男の子の可愛さだけが今の私を慰めていた。
そして今日、その男の子ロア・グッドール君がこの事務所に来るのだ。
私は腹を括り初顔合わせになる今日はそつなくこなしてみせると心に誓う。デスクの上に置いた、固定電話が鳴るのをじっと待つ。
到着を予定していた時間になると固定電話が鳴る。素早く受話器を取り受付からたった一言。
「到着しました」
「了解しました」
『誰が』とは言うまでもなく『何故』とも訊かない。
我が社初の男性タレントを迎えるのだ。
私は速やかに応接室に向かう全身が緊張して動きの固さが解る。
私がこれからこの業界で生きていけるかどうかが今日決まってしまう。必要な書類が入ったファイルを手に持ちすれ違う社員のみんなが私に敬礼をしていく、先輩も後輩も。