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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

ぞうの神様の仰せのままにっ!

作者: Biz

 大きなネズミは青ざめた。彼にとっては巨大な世界のど真ん中で、青ざめた。

 赤いふかふかの絨毯の上に、彼の周囲に幾重もの紙が散らばっている。

 散らばった物は戻せばよい。幸いにも、ここは時間と言う概念があまり存在しない場所だ。

 時間がかかっても元に戻せばよい。しかし、彼には戻せない物がある。

 いつもは巨大な“象”を運んでいる彼であったが、今日だけは“二つの箱”を運んでいた。


 ――これは困った


 箱には、それぞれ“承諾”と“却下”と書かれている。

 その中身をぶちまけてしまった。字は読めるが、仕分けした者の考えは読めない。

 彼の名は〔ムシカ〕――偉い人の足をうっかり踏んづけてしまい、呪いによってネズミに姿を変えられている。ネズミは背中に冷たい物を感じながら、必死に考えた。

 これがバレれば、今度は何に変えられるか分かったものではない。


 ――全部、片づけてしまえばいいのだ


 すぐさま“解決策(わるぢえ)”が思い浮かんだ。

 幸いにも、ここ神界では“時間”という概念があまり存在しない場である。

 ムシカは散らばった紙を一つに纏め、チョコチョコと急ぎ足である場所に向かった。あまり足を向けてはならない場所であるが、背に腹はかえられない。


 金の装飾が施された白壁の通路を、右に左にと折れ曲がり――通路の奥にある部屋にたどり着くやいなや、深々と頭を下げた。


「奥方様――」


 ムシカは恐る恐る、小さな声で呼びかけた。

 彼の正面には御簾がかかり、その向こうには何があるのか分からない。

 しかし、絶対に怒らせてはならない“恐怖”が『()()()()()』と教えてくれている。


『何用か』


 頭の中に直接声が響き、思わず顔をしかめた。高く美しい声であるが、直接であるためギンギンと響くのだ。

 そして、その言葉は重い。一言口にするだけでも、小さな心臓はぎゅうと音を立ててしまう。

 なので、手短にかつ端的に“要件”を伝えねばならない。


「は、は――ご子息・〔ガネーシャ〕様への信仰心は高く、今もなおこうして様々な“ねがい”を届けられております。

 いつものように淡々と処理をすれば問題ないのですが、この頃の地上の者たちは、我らへの信仰が薄らぎつつある……そこで“ねがい”を叶えるべく、地へと降り立ち、権威を示すべきではないかと存じたのであります」


 御簾の向こうからは何の反応もない。

 しかし、ムシカはそのまま続けた。


「しかし、ガネーシャ様はご多忙な様子。そこで――」


 その時、ムシカの頭で声が響いた。

 突然のことであったので、思わず呻きをあげてしまう。


『今一度、わらわに“作れ”と言うか』

「うぅ……は、はっ!

 しかし、その時だけの――その、見た目だけ似ていれば問題ありません。

 地上の者の“ねがい”など、大した物ではございません……でしょうし」

『……』


 再び押し黙る。

 その沈黙がムシカの胸の奥を見透かしているようで、今すぐにでもここから去りたくなってしまっていた。

 しばらくの沈黙を挟み、御簾の向こうで衣擦れの音が聞こえてきた。


『これから湯浴みを行う。去れ』


 その言葉に、ムシカは大急ぎで外に飛び出した。

 もし御簾越しにでも、シルエットだけでも、衣を脱ぎ落とした彼女の姿を見れば、即座に破壊神である彼女の夫が怒り狂うであろう――。

 危ういところだった、とネズミはブルルと小さく身を震わせた。



 ◆ ◆ ◆



 人が暮らす地上――夜が更け、満点の星空が広がっていた頃。

 乾いた土の大地の上では、それに負けじと各所で煌々と火が灯り、まだ多くの人間が白いテントの前を行き来していた。

 この地の者には見慣れた光景であるため、誰も見上げる者はいない。

 見上げるのは異国からやって来た者か、『空から“金”でも降って来ないか』と願う者だけだ。


 そのどちらか、あるいは両方か……ぼうっと星空を見上げている者がいた。

 白い面布から覗く、くりっと丸く碧眼の目は、異国の女の目――大海を渡って来た者を証明する目であった。

 その目がぐわっと見開かれ、思わず悲鳴のような声をあげた。

 僅かに遅れて、周囲に居た者も空を見上げた。


『ただの流れ星だろう』


 一本の光の筋に、誰かがそう呟いた。

 それは、“日常”にすがりつきたい希望的観測だった。


「神よ――」


 大地の向こうに突き刺さらんとする光に、異国の女は己の“主”に祈った。

 直後――轟音と共に大地が揺れ、闇の中で眠っていたものたちが起きた。

 ばさばさと鳥が飛び立ち、獣が吠えた。人は悲鳴をあげ、地面に腰を落とす。


 しかし、象の嘶きに気づいた者は誰一人としていない。



_/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/



 空から“星”が落ちる少し前――

 月明かりが差し込む暗いぼろ宿の中、もぞもぞと蠢く二つの影があった。

 片方は褐色肌の男、裸のまま壁に背を預けている。もう片方は女で、ベッドからすらりと長い脚を投げだしながら、淡々と下着を身につけていた。

 この国の女がよく着ている、巻き布服に手にかけた所で、男は女に向かって金貨が入った袋を投げ渡す。


「――あら、これだけ?」


 チャリッ……と音立てた袋を手にした女は、不満げな表情で男を見た。


「相応の額だ」


 抑揚のない低い声で、男はぶっきらぼうに言い放った。

 赤と黒の布の両端を肩口で結び終えると、女は睨み付けるような目を向けた。


「約束の額より少ない。これじゃ契約違反だよ」

「異国の女に期待したが――こっちの売女の方が()()()いい仕事をする」

「ふん……それが、早々に果てた坊やが言う言葉――」


 言うやいなや、キラリと輝く物が女の顔めがけて飛んできていた。

 鈍く小さい音と呻きが起こった。男は抑揚のない声で「それを拾って去れ」と言った。幾分か怒気が込められているのが分かった。

 暗くて避けらなかった女は、左眉のあたりを押さえて俯いていた。しかしそれは一瞬のことだ。

 すぐさま地面に転がった金貨を拾い、呪詛を吐きながら宿を飛び出した。

 男は浅ましい女を嘲るように鼻を鳴らしたようだが、女にはそんなことを気にしてはいられなかった。気にすれば、その男を刺し殺しかねない。『こう言う稼業なんだから』と己に言い聞かせ、沸き立つイラ立ちを必死に押し留めた。

 それが下に向かった。真っ平らな石を積み上げた階段を荒々しく踏みつけた脚は、乾いた黄色の土の上でも変わりなかった。

 肩を怒らせながら、石壁の建物の路地を抜けてゆく。


 ――なかなか好みの男を見つけたらこれだ


 砂漠の夜は寒いが、今の彼女には寒さなぞ感じる余裕がない。

 忌々しげに奥歯を噛みしめた。彼女はこのまま、雇い主のいる店に戻る気にもなれず、夜の町の酒場で飲み直そうか、それとも他の男を取ろうかと考えていた。

 言うまでもなく、彼女は娼婦だった。しかし、他とは違う――砂漠地特有の、褐色肌が九割を占めるこの町・【タールク】の中で、真っ白な肌を持つ唯一の娼婦であった。その肌を持つのは、町より遙か北に進み、大海原を越えた先にある国・【エランダ】の者だ。

 残りの一割はその国の者、大半が売られたりしてきた女たちである。

 しかし、彼女も初めからそのような身の上だったわけではない。


(しばらくここで待って、誰も来なかったら【ラムザの酒場】にでも行こうかな)


 町の中心にある池の近くで腰を下ろし、バザーの賑わいに耳を傾けながらぼんやりと空を見上ていた。


 そして――“星”が降ってきた。


 ・

 ・

 ・


「――ジェイアッ! ジェイアッ!」


 彼女は町の路地裏にある、【クィーズ・ドゥーア】と看板が掲げられた宿屋に駆け込んだ。


「タニアッ! 無事だったんだね!」


 タニア、と呼ばれた彼女は急いで店内を見渡した。

 広めのロビーであるものの、そこは身を寄せ合う女たちであふれかえっていた。

 彼女らは“乙女”と呼ばれ、ここで働く従業員である。見知った顔は全員居るが、皆が昼間見たときとは想像も付かないような表情を浮かべていた。

 彼女らと同じ巻き布の服を纏っているのもいれば、“商売”の途中だったのだろう……上から羽織っただけのあられもない姿の者までいる。誰もが同じ物を見、それぞれの思いが自身を苛めているようだ。髪を隠さねばならない地域の出の者もいるが、それすらも忘れてしまうほどの“怯え”がそこを支配している。

 “異常”が突然やって来たのだから無理もない、とタニアは小さく頷いた。


「女たちが『神の怒り』だ、って怯えてるんだよ……」

「まぁ、こんな“商売”してるからね……」


 タニアはそう呟くと、重いため息を吐いた。

 この宿は娼婦のための店でもあり、心配そうな顔をしているジェイアと呼ばれた女が、ここをまとめる女将である。

 褐色の肌に、艶のある黒髪をしており、ぷっくりと膨れた唇が男たちを虜にしている。

 普段は気丈な彼女も、今回ばかりは不安を隠せないようだ――普段の血色の良い唇ではないせいで、“乙女”たちが余計に不安になっているのだろう、とタニアは思った。


「ジェイア、貴女がそんな辛気くさい顔してちゃダメよ」

「う、うん……でも、つい今しがたアンタに依頼が来たと思ったらあれだ……。

 何か、とんでもないことが起こってそうでさ……」

「依頼――って、どっちの?」

「アンタにとって、身体を売る仕事はどっちなのさ……」

「ま、まー……裏ではあるけど、私にとっては表稼業のようなもんね」


 はぁ、とジェイアは大きなため息を吐いた。

 そのおかげか、張り詰めた空気が少し緩んだようだ。

 タニアは娼婦として働く傍ら、もう一つの“商売”を請け負っているのである。


「その言い分だと、|《魔祓い》の仕事が来たのね?」

「そう。隣町の【ウィーズ】から来た長が、『近くの森で徘徊する死者を祓って欲しい』って言って来たのよ」

「なんだ、《ゾンビ》の類いか……でも最近、妙に多いわね」


 タニアは少し落胆の表情を浮かべたが、すぐにその表情を引き締めた。


「でしょ? “乙女”たちもアンタの仕事を知ってるし、死に損ないが増えつつある状態を合わさってね……。あの子たちを安心させるためにも、早急に調査してきて欲しいのよ」

「そうね……。降ってきた物も気になるし、明日の朝一番に発つわ」


 そう言うと、すっと自室のある二階の最奥の部屋を目指して歩き始めた。

 彼女は娼婦の他に、“退魔士(エクソシスト)”としての顔を持っていた。

 本来はこちらの方が本業であり、本土にある【聖教士会】から派遣されてこちらにやって来ているのだ。しかし、その顔は浮かない。


 黒い石畳の上に敷かれた、色あせた赤い絨毯を踏みしめながら自室の扉を開く。

 扉を開いてすぐ左に、黒いシスターのローブと、その上に着る板金を打ち付けた黒い革鎧・スプリントメイルが置かれている。鎧の中央には、神に仕える者であることを示す、大きな十字模様が刻まれていたのだが……今は、荒々しく黒い墨で塗りつぶされている。


(やる義理はないんだけどね……)


 彼女がここにやって来たのは、ていのいい“追い出し”に過ぎなかった――。

 海を越え、南の大陸・港町【ザザ】にやって来て、すぐにそれが分かった。

 当初は『その町にある教会支部へ、新たにシスターを派遣する』という形で、仕事を請け負うこととなっていた。

 ……が、やっとの思いでやって来た教会は、見る影もなく朽ち果てていたのである。

 それは、自然に果てたのではなかった。

 床には血溜まりと、入り口に向かって引きずった跡が、長椅子の脚部分には、黒ずんだ小さな手形が順に並んでおり、その下には埃の被ったヴェールが静かに遺されていただけ……。タニアは、獣たちのイケニエにされたであろうシスターを、静かに悼んだ。


 それもわずか、彼女は即座に行動を起こした。

 手配されているはずの現地スタッフはもちろん、帰りの船も無いだろう。

 近くを通りがかった行商から、この国で着られている<ガラビア>と呼ばれる男物の衣服を買い、最低限の食料を購入するとすぐに、南下を始めた。

 案の定――彼女が、【聖教士会】からやって来たシスターの話を聞きつけた、蛮族たちがその跡を追ってきた。

 それらはすぐに()()()ものの、褐色肌の者が多い土地では、彼女の白い肌・宝石のような碧眼はずいぶんと目立つ。

 余計な敵を作らないためにも、裏道を歩き、なけなしの路銀を惜しみなく使ってここ【タールク】にやって来た。タールクは比較的治安もよく、肌の白い女たちも居住している地であると聞いていたからだ。


(あれから一年、か……早いもんね)


 やって来たのはいいが、路銀は完全に尽きていた。

 肌の白い者が働き口を求めてフラついていれば、間違いなくハイエナ(おとこ)たちの餌食となろう。


 ――食うか食われるかならば、こちらが食う側に回ってやろう


 彼女は腹をくくるようにして息を吐くと、“商売道具”が入った大きな鞄を担ぎながら酒場に足を踏み入れた。


 ――女の色気は武器でもあり、売れば金にもなる


 選んではいられない状況であるため、一番最初にやって来た奴にしよう。

 そう心に決めた彼女に声をかけてきたのが――娼婦宿【クィーズ・ドゥーア】の女将・ジェイアであった。

 タニアは巻き布をほどき、ベッドに飛び込もうとした時……股ぐらから垂れ落ちたものに、ぶるりと身を震わせた。


「あー……そう言えば、後始末してないや……」


 思い出したくもない、と文句を言いながら下着を脱ぎ捨て、近くにあったぼろ布を指に巻き付けながら“男の痕跡”を拭い取り始めた。

 幼い頃に患った大病により、“最悪の結果”を起こさない身体となっている。

 しかし、残りっぱなしであると面倒でもあり、それが腹立たしい男のモノであれば殊更だろう。真っ暗な部屋の中では、熱っぽい吐息だけが起こっていた。



 ◇ ◇ ◇



 馬に揺られること二日――太陽が高くにまで昇った頃、タニアは依頼のあったウィーズの村まであと数キロまでの場所に差し掛かっていた。

 踏み固められた赤茶色のあぜ道、そこを歩く馬の蹄の音だけが静かに響き渡る。

 タールクの近郊を干からびた砂地とすれば、ウィーズの近郊は湿り気のある土だ。

 白い日よけのローブで身を包んだタニアは、“(あぶみ)”をぐっと踏みしめながら腰を浮かし、道脇に背の低い雑草が生い茂る一本道の向こうを望んだ。


(《ゾンビ》のせいかしら……ずいぶんと静かね)


 本来であれば、どこかの行商人の荷馬車とすれ違っていてもおかしくない道である。

 鞍の後ろには寝袋や“商売道具”を入れた鞄と刃渡りの短い剣を据え付けてあり、手のひらサイズの木板に鳥の絵が刻まれた “お守り”が揺れている。タニアはその鞄に手を突っ込んだものの、目的の物がないことを思い出し、すぐにその手をひっこめた。


 “お守り”が大きく揺れる。

 これはタールクからの正式な使者であることを示す手形であり、これがあればタダで行商人から水や食料などを分け与えて貰えるのだ。

 無論、一介の小市民……ましてや、娼婦などに渡される代物ではない。タニアが務めている娼婦宿の女将・ジェイアの“仕事ぶり”を町の長が讃え、秘密裏に授けられた物なのである。タニアが町を離れる際、ジェイアは不自由がないようにと持たせてくれるのである。


 ローブの下には鎧を着込んでいるせいで、暑く、すぐに身体が水気を求めてしまう。

 乾いた身体に水を与えても、しばらく時間が経てば、“欲求”と共に流れ出てゆく――いくら水があったとしても足りないのだ。


(困ったわね……このままだと町に着く前に倒れちゃいそう……)


 タニアは困った様子で周囲を見渡した。行商人が来ることを前提としていたため、水が尽きかけているのである。

 もう一度、(あぶみ)を踏んで腰を浮かせた。やはり先ほどと変わらず、辺り一面に芝生のような草原が広がるばかりの一本道だ。

 はぁ、と重い息を吐き、舌の下から湧き出てくる唾液を口内に溜めようかとした時――先の道に奇妙な物を発見した。

 ウィーズは雨が多い方ではあるが、街道に差し掛かってから細い雨すら降っていないはずだ。……にも関わらず、奇妙な窪みの中に水が張られているのだ。


(ずぶ濡れになった“何か”が、右から左に向かって横断したってこと……?

 右って言っても、ただの雑草の海だし。左は……何か不気味な森ね……)


 タニアは馬を降り、注意深く観察した。

 窪みは三十センチを超え、左の森の方向に向かって土をえぐっている。そして、周囲には水場らしき物が一切見えないにも関わらず、その場所だけ雨が降った後のように湿っている。

 細く柔らかい喉が鳴った。

 それは足跡のようにも見えるが、足とすれば、それはとんでもなく大きな二足歩行の生き物になる。しかし、それが仮に“何らかの車輪”だったとすればどうだろう? 右側に雑草が生い茂る海を渡るには、荷馬車・荷車を横断させるには至難の業だ。しかし、歯車のような車輪であればもしれかすれば――と、突拍子もない考えを過ぎらせている。

 しかし、その荷車には大量の水が積まれており、ここに差し掛かった時にこぼしたのは間違いないはずだ……そう考えると、身体が水を求める準備をし始め、頭が“乾き”の信号を送り出した。


(水があったら、分けてもらおうかな)


 相手が商人であれば、手形を見せればいい話だ。

 わざわざ街道を通らないのであれば、商人でない可能性も大いにあり得るのだが……その時は相手のズボンを下ろさせればよい。

 タニアは大きく頷くと、“商売道具”を背に担ぎ、不気味な暗さをたたえる森の方に歩を向け始めた。



 ◇ ◇ ◇



 外観以上に森の中は不気味であった。

 じりじりと肌を焼く日差しはここには届かないのか、薄暗い空気は肌寒いほど冷たい。

 葉と葉の間から差し込む光が、唯一の希望のように感じられる。

 地面を照らす光の輪は白々としているが、そこからすぐ外は緑々とした苔がびっしりと生えていた。

 先ほどの窪みはその苔をも剥がしており、つい先ほど通ったかのように真新しくもあった。

 いびつな楕円形のそれは、車輪の跡ではないことがハッキリしている。


(これ、もしかしてヒトの足跡なの……?)


 楕円形と言うよりは、小麦粉を平たく練って焼いたパンのような二等辺三角形のような形状――人間の足の形状に酷似しているのだ。

 タニアの背中に冷たい物が走る。

 それに見合った体躯をしているのならば、と恐る恐る頭上を見上げた。


(やっぱり、あった……)


 タニアの身長は一六〇センチ程度だ。けっして大きい方ではないが、女の中では上背がある方だ。

 その倍はあろうか……三メートル近い樹の幹に張り付いた苔が、不自然に剥がれているのである。左手を、親指を下にして幹を掴んだのだろう。四本の筋とすぐ下にもう一本の筋が残されている。

 三メートルほどある大きな体躯を持った生物――のっぽの人間の可能性もあるが、地面をえぐるほどの体重があるのだろうか? タニアの本能が『引き返すべきだ』、と告げた。


 ――何かが、いる


 首の付け根がチリチリとし、冷たい空気の震えに耳をじっと傾ける。

 声をあげて逃げ出したいほどの恐怖であるが、|《退魔士》として経験と誇りがそれを許さなかった。

 タニアはそれに、思わず自虐的な笑みを浮かべた。

 この土地の多くの者は、この世界には幾多もの“邪悪”が存在していることに気づいていない。しかし、神はいることだけは信じている。ただ不都合なことに目を向けていないだけなのだ。

 そのため、タニアの仕事はまったく日の目を見ない仕事だった。

 幼い頃から憧れていたので、影働きでも誇りをもって務めていたが……それももう、この地で流した涙と共に捨て去ったはずであったのだ。


(憧れは、誇りに繋がる……か)


 タニアは金属が擦れ合う音を立てながら、刃渡りの短い剣を抜いた。

 巨大な生物であれば《トロール》がまず考えられるが、それが存在していることは考えられなかった。

 存在していれば、彼女の仕事は周知されていてもおかしくないのだ。

 主な依頼は、ちゃんと供養・埋葬されなかった死者などの《不死者(アンデッド)》や、興味本位で召喚された《下級悪魔(デーモン)》の討伐などで、時おり《妖精族(フェアリー)》などの報告例が挙がるぐらいである。

 なので、タニアは《下級悪魔(デーモン)》の仕業だろうと踏んでいた。

 彼らの中でも、特に悪知恵が働く《インプ》ではないか、と。

 乾きを訴える者に水の存在を匂わせ、森に足を踏み込めば、こうして巨大な生物に見せかけて慄かせる――そう思えば、しっくり来るのである。


 同時に気持ちも引き締まり、恐怖は覚悟へと姿を変えた。

 《インプ》であれば、それほど苦労することもないだろう。恐らくは依頼の《ゾンビ》討伐も関係しているのかもしれないと、“商売道具”が入った鞄から<聖水>の瓶を数本取り出し、ベルトの左腰部分に備え付けた。不死・悪魔兼用の物であり、浴びせかければたちまち身体を消滅させる、何とも便利な代物である。


 彼女はすぐに取り出せるよう、左腰に手を添えている。

 抜き足差し足で、慎重に周囲を探りながら歩く。《インプ》は月のない闇夜に乗じて現れる。その大きさはまちまちであり、時には人間のような大きさをしているのもいる。……が、実体の質量はほとんど共通、いわば風船のように大きく見せているだけに過ぎない。


(《インプ》って、腐臭放ったっけ……?)


 彼女には気になっている点があった。

 それは、この鬱蒼とした森の中に漂う、すっきりとした草木の香り漂う森の清涼の中に、どろどろと朽ち果てた腐臭が混じっているのである。足を進めるにつれ、それがますます強く濃くなってゆく。

 上唇をあげ、鼻をスンスンと鳴らした。何年風呂入っていないのだ、と言いたくなるような男に抱かれたこともあるが、それ以上にキツい臭いだった。

 こめかみに突き刺さるような、鈍い臭いはまさしくヒトの腐臭だ。臭いの元を突き止めたとき、それは確信に至った。


 ――“ヒトであった者”がそこにいる


 どす黒く、肉がそげ落ちた者が寝息を立てている。左眉から顎まで斬り裂かれたのか、真っ直ぐに裂けたそこから、骨をむごたらしく覗かせている。ウジなどはついていないが、腐敗が進んだであろうそれは、鼻栓をしていても涙が出そうなほど臭っている。

 タニアは眉を潜めた。臭いからではなく、視線の先にいるのは見まがうことなく不死(アンデッド)の類いなのだが、人間のように腕を枕にして寝息を立てるそれなぞ、見たことも聞いたこともなかったからである。

 一七〇センチ後半ぐらいの、男……のような姿だ。黒々とした短髪であったことも分かる。


(ま、どちらにせよ、ここで仕事は終えられそうね)


 これが、ウィーズの町でウロついている《ゾンビ》なのだろう。

 近づいても起きる気配がしない。タニアは『死んだことに気づいていない、不思議な《ゾンビ》』と考えるだけにし、躊躇することなく<聖水>の瓶を取り出し、ガラスの栓を抜いて中の液体を振りかけた。

 シュウシュウ――と音を立て、白い蒸気をあげながらその“呪われた身”を浄化してゆく。

 タニアはその様子をじっと見守っていた。


 もう一本取り出し、今度は別の場所に振りかけた。

 これも結果は同じである。


 タニアはもう一本取り出したが、今度はガラス栓を抜いたその口を、自らの鼻腔に持ってゆく。

 ハーブのようなすっきりとした匂いであり、嗅いでいるだけで俗物的な己の邪な心が洗われそうな、清らかな匂いをしている。水ではなく、本物の<聖水>である。

 ではどうしてなのか? タニアは、眼前の《ゾンビ》を見やった。


 ――どうして“浄化”されないのか?


 タニアの疑問の声が聞こえたのか、《ゾンビ》は頭をわずかにズラし、ジロりと彼女に目を向けた。ぱっくりと裂けた瞼から覗く瞳に、彼女は小さな悲鳴を上げた。

 《ゾンビ》の目は『何をしている?』、『無駄だぞ』、『すべて分かっているぞ』――など、マイナスの感情を与える言葉を次々と告げている。

 無論、これは実際に口にしたわけでもなく、彼女の勝手な思い込みである。

 その証拠に、《ゾンビ》は何も行動を起こさなかった。


「ど、どう言うことなのよ……っ!?」


 タニアは急いで鞄の中から、“商売道具”である一冊の分厚い本を取り出した。

 そこには、これまでの歴史の中で確認された|《魔》をまとめた本――いわば、<魔物辞典>である。彼女はそこから《ゾンビ》の項目を開き、目を皿のようにして情報を求めた。


(死なない《ゾンビ》……死なない《ゾンビ》……。

 《グール》は……一度刺したら死ぬ、二度目で蘇る――けど、どうにもそれとはほど遠そうだし)


 何者なのだ? と諦めかけたその時――誤った情報を掲載した新聞紙の、謝罪文のような極めて小さい欄に、気になる文章が綴られていることに気づいた。


【《ゾンビ》であって、《ゾンビ》ではない存在がいる……。

 それはあらゆる道具も、武器も通用しない……なぜなら、彼らは悪霊や悪魔などに操られていないからである。

 多くは不明であるが、原動力となっている“呪い”の正体は、“強い復讐心”であると推測される。それは、のっぴきならぬ“憎悪”でもあろう。

 こちらから手を出さぬ限り、向こうから攻撃してくることはない。万が一、危害を加えた場合は――お疲れ様でした。

 しかし、方法がまったくないわけでもない。あまり推奨されるものではないが、彼らに安らかな眠りを与えること……神に誓い、彼の“復讐”を代行すればよいのだ。

 復讐の屍鬼――《タキシム》――

 我々は、そんな彼らをこう呼ぶことにした。恨みを抱いて死ぬことも、なかなか考えものだ……】


 タニアから、さあっ血が引いてゆくのが分かった。

 正体が分かったからか、居眠りしていた彼――《タキシム》の目が彼女に向いている。


 ――どちらか、選べ


 そう、言っているようであった。

 枕にしている右腕とは逆に、自由に動く左腕・左手がワキワキと動く。

 剣を手にすれば、即座に飛びかかってくるであろう。

 これまで相手にしてきた《ゾンビ》や《インプ》と言ったものは、<聖水>があればどうにかなってきた。だが目の前のそれは、二本使っても何ともない。顔をしかめるような腐臭が緩和されたぐらいである。

 この窮地を逃れる方法はないのか? 彼女はすがる思いで周囲を見渡した。


(あと数年。短い人生で終わらせたいって思ってたけど、こ、こんな辛気くさいところで死ぬのは嫌よ……。

 あるのは、シダの葉や倒木に生したコケ、木々に巻き付くツル……それと、ピンク色の象の頭……どれも役に立ちそうにもないし……)


 はぁ、と覚悟を決めようとした時、ふと“違和感しかないワード”が頭の中で反芻された。

 タニアはゆっくりと、それが見えた場所に目を向けた。

 鬱蒼とした雑草の茂みの中に見えるのは、確かに象の頭だ。

 この場には似つかわしい、ピンク色をした象がそこにいる。

 置物か、とじっと見つめると、くりっとした黒い瞳が動いた。生きているようだ。


「え、えぇっと……?」


 彼女は、<魔物辞典>を開いて該当する物を調べ始めた。

 分厚い本であるが、自然と彼女の親指が割り開く――そこは、【神】の項目である。


「【ターク】大陸の神々――?」


 彼女の目は自然と一カ所に留まった。


【ガネーシャ――象頭の神様。気分によってピンク色になる。すごく偉い】


 タニアは雑な説明しかされていない本を閉じ、その象に目を向けた。

 今日はピンク色の気分なのだろう。

 そのまま、地面に横たわる《タキシム》に視線を動かした。

 彼は二択を迫る目をしている。

 再び、ピンク色の象に目を向けた。

 つまりそう言うことだ、と言わんばかりに頷いた。


「――なんでよっ!?」


 象頭の神・ガネーシャはついに動いた。……とは言っても鼻だけである。

 ガサガサと茂みを掻き分け、二メートルはあろうかと言う、丸太のように太い鼻を宙に浮かせた。

 そこは深い茂みのようで、顔の大きさに見合った身体を持っていることがうかがえる。大きな鼻を器用に動かし、横になっている《タキシム》を鼻先で指し示した。


「これをどうにかしろ、とお願いされてな」


 低く張りのある声で、ガネーシャは淡々とそう口にした。


「嫌よっ! 復讐の代行とか絶対にやらないからねっ!」

「そうか――なら《タキシム》さん、やっておしまいなさい」

「ま、まままままっ、待ってっ!? 待って待ってっ!?」


 ムクりと起き上がった《タキシム》に、タニアは両腕・両手の平を目一杯伸ばしながらそう叫んだ。

 黒い衣に覆われていると思っていた《タキシム》の脚は、真っ黒な霧のような瘴気であった。削げ落ちた肉の代わりに覆うのだろう。


「肉体が完全に朽ち果てたら、思念体となって徘徊するぞ」

「う、うぅ……」


 それに気づいたタニアに、ガネーシャはどこか楽しそうな口ぶりで補足する。


「か、神様なら何とかしなさいよっ! 人間がピンチに陥ってるのよっ!」

「神が何でもかんでも人間に施しを与えると思うなよ」


 半目で突っぱねたガネーシャは、万能神として広く信仰されている神であった。

 ……が、父は破壊神、母は戦いの女神であるためか、穏やかな性格の中にも、その気性は少なからず受け継いでいる。その上、少しばかり気まぐれでもある。

 タニアに残された道は二つに一つ――惨殺されるか、この象頭の神の前で“復讐”の代行を誓うかである。

 こんな場所で死ねば、誰にも見つけてもらえないまま腐敗してゆくだけだ。

 しかし、“報復”も……と思った時、彼女の頭にふとある考えが浮かび上がった。


「い、いいわよ! 誓うわっ、この大陸の神・象頭の神様に誓うわよ!」


 ガネーシャはそれを聞くと、うむ……と大きく頷いた。

 そして、《タキシム》の方へと向き直った。


「――だ、そうだ。

 哀れな死人よ。汝の“復讐”が果たされるまで、ここで静かに眠っているがいい」


 すると、《タキシム》は安らかな表情を浮かべ、何かから解放されたかのように、ぐしゃり……と音を立てて地面に崩れ落ちた。

 動く気配がしない。正真正銘の、“屍”となっているようだ。

 タニアはこれに、『しめた』と心の中でほくそ笑んだが――


「まさかと思うが、『わたしぃ、この国の神様を信仰していないからぁ、ノーカンですぅー』とか考えてないよな?」

「うぐっ!? さ、さぁどうかしら?

 あいにく、うちの国は神様は一人って考えだからねっ!」


 ガネーシャは『やはりか』と言った顔をすると、どこからか大きな黒い板を取り出し、赤ん坊の腕ぐらいある指で、その盤面をなぞり……それを大きな耳に押し当てた。


「あ、もしもし――? ああ、そうそう、タークの神のガネーシャです。

 ちょっと、おたくの所の子羊がうちの管轄で――え、構わない?

 了解了解――感謝します、ええ、父にそう伝えておきます。では――」


 独り言のようにそう言うと、ガネーシャはタニアの方を向いた。


「『好きにしていい』だってさ。よかったな」

「何でよっ!? 何でそんなフレンドリーなのよっ!?

 と言うか、その板何なのよっ!?」

「これか? <エレフォーン>って、神界と連絡とれる道具だぞ。

 数百年前に、そっち側の神と直通で会話できる<ゴッド・ライン>が開設されたんだ。

 おかげで、まどろっこしい中継局を経由しなくて済むようになった」

「何でもアリかっ!!」

「まー、別にやりたくなきゃ次の奴待つけど?

 淫売の罪もあるし、ここで死んだら《ゾンビ》以上に悲惨な目に遭うこと間違いないぞ」


 そう言うと、タニアの後ろで“屍”がもぞり……と動き始めた。

 どうあっても逃げられない、と言うことである。

 彼女は観念したように、がっくりとうなだれた。


「う、あ……う、うぅぅ……や、やるわよ……。

 ちゃんと“復讐代行”するわよ……やりゃいいんでしょっ!!」

「よろしい――さて、“お願い”は一個消化・見込み、と……。

 次は……む、ウィーズの村のがまだあったか。よし行くぞ、タニア」

「い、行くってどういうことよ?」

「ちゃんと、“復讐”を果たせるか見届けなきゃならんだろ」

「え、えぇぇぇぇぇぇ――っ!?」

「タダとは言わん。全部終われば……そうだな、その身を“浄化”し、“母”となれる身体に戻してやろう」


 これが“神のお導き”なのか、とタニアは呪詛を吐いた。

 正面にいる異国の神の口ぶりからして、他にも多くの“依頼(ねがい)”が届けられているのだろう。

 そんな彼に監視されると言うことは、四六時中について回られると言うことでもあり、これを逆に言うと……


 象頭の神様に、付き従わなければならない


 と、言うことなのである――。

※中東っぽい雰囲気で書いてみようと着手したのはいいものの、雰囲気が出せず初っぱなから「うーん……」となったので、考えていた冒頭部分で切って短編にしてみました。

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