094話 新春
神王国南部は乱れていた。
その原因を辿るならば、取り纏めを行うべき最重要人物が、迂闊に動けない状態で、かつ命の危機が間近に迫っていると知られたからだ。
重要人物とは、レーテシュ伯爵ブリオシュ。命の危機とは、三つ子の妊娠。
神王国広しといえど、三つ子を確実に取り上げ、母子ともに無事に過ごさせる産婆などは居らず、ましてやそれが初産の、更には高位貴族の、おまけに高齢出産などと来た日には、どれほどの熟練者でも徹底的に逃げたがる。
失敗すれば、自分のみならず一族郎党親類縁者まで罪となるやもしれず。成功すれば間違いなく破格の報酬と世界一の栄光が約束されているのだろうが、それに見合うだけの腕と経験を持つものが居ないのだ。トリプル役満をテンパっている相手に対して危険牌を捨てるなど狂人の所業だ。
功名心にかられた俗物が大勢名乗りを上げるものの、そういう類に限って腕が未熟であったりするもの。伯爵家としては、大きな難問を抱えてしまった形になる。
さて、この騒動。瞬く間に国中に広がり、果ては他国にまで喧騒が伝播するに至っては、座視することも出来ない。国の中枢や重鎮たちも動き、鎮火の術を模索し始めた。
治めるにあたって、まず重要な役割を担う人物に、責任者となるよう白羽の矢が立つ。
その人物は、若干九歳という少年。
年は幼いながらも、既に海賊討伐という軍功を挙げ、国内でも広く優秀な人物として知られる貴族の中の貴族。代々のサラブレッド。
名を、ウランタ=ミル=ボンビーノという。
南部閥のNo.2にして、南部街道を支配する伝統貴族。常在運用兵力六個小隊三百十一名。最大動員兵力およそ二千。海洋戦力に至っては、レーテシュ伯に次ぐ船数を保有する、南方屈指の大家でもあるボンビーノ子爵家。
神王国ではもっとも古くから存在する家の一つであり、伝統と格式を今に受け継ぐ名家。
レーテシュ伯に代わって一時的にせよ南部閥を治めるとするならば、彼以上に適任者はいない。
この家ならば、と多くのものが納得する立ち位置にある。
だが、重要な当の本人が、現在は深刻な悩みを抱えていた。
「はぁ」
溜息の音。
執務室の椅子に座り、執務机の上には重要な報告の書かれた羊皮紙が置いてあるのだが、彼の目には内容など映っていない。
心ここにあらずといった風情で、先ほどからしきりに溜息をついていた。
おかげで、困った顔をした部下達が数人ほど部屋に溜まっている。
「おい、うちの大将どうなっちまったんだ? 俺、姐さんから言われた報告があんだけどよ?」
「私にも分からない。さきほどからずっとあの調子だ」
ボンビーノ子爵家は、一時はお家お取り潰しの危機にあった。それを、当代ボンビーノ子爵の大活躍の元で奇跡的な中興を果たし、今や飛ぶ鳥を落とす勢いとなった、伝統と誇りある家。
というのが公式な立場になっている。
幾分か誇張と喧伝が入っているものの、ウランタが優秀であり、実際に武功をたてたのは事実。また、実際目に見えて中興を果たしたわけであり、その功績はまさに偉業。
細かい裏事情や事実を知らない人間からすれば、並ぶものなき稀代の天才、という風に見える。
それが為、今の溜息をつく悩み深き主に対して、きっと深謀遠慮の壮大な懸念に思いをはせているに違いない、という想像が生まれる。
主君の遠大な思索を邪魔してはならじと声を掛けることを戸惑い、それが為に執務が滞っている現状。
いい加減焦れてきたあたりで、気の短い重役が執務室に怒鳴り込んできた。
「たかだか酒場の喧嘩を報告するのに、どれだけかかってるんだい!!」
飛び込んできたのは、耳の鼓膜が破れそうなほど大きい声の女性。
先般、海賊討伐の功績から雇われ、能力の高さから抜擢を受け第六小隊を預かる、海蛇の異名を持つ元傭兵団長、ニルディアである。
「姐さん」
「ニルディア団長」
従士達が喜ばしいとばかりに彼女の方を見た。
良きにつけ悪しきにつけ、物事単純即決が信条の隊長格。
第六は別にして、伝統故に洗練され、お上品な従士達では遠慮していた今の膠着状態を、解決できる人物。
来訪を歓迎されたのは当然だった。
「大将、いつまでボケっとしてんだい。ただでさえ他所の事情で忙しいってのに、あんたまで呆けてたんじゃ仕事にならないよ。しゃきっとしな!!」
「……ニルディアさん。ノックぐらいしてください」
「ドアが壊れるぐらいしたっての。良いから、さっさとあいつらの報告を聞けってんだよ。こっちも暇じゃないんだ」
海蛇ニルダの一喝の迫力たるや、凄まじい。
伊達に屈強で粗暴な連中を纏めていたわけではなく、後ろで聞いていた大人しい若手従士などは、竦みあがるほど。
にも関わらず、ウランタは生返事で応え、部下たちの報告を聞く。
「先ごろ取り決めたバッツ騎士爵とオーロルゴ準男爵の関税については、以前の取り決めを大幅に見直すことで合意しました」
「そうですか」
「ガラメッツでの収穫見込みは前年よりやや下回る見込みです。生育自体は順調なのですが、以前にリハジック子爵が無茶な収穫を強行した影響があるようです」
「そうですか」
「ナイリエの酒場で喧嘩騒ぎがあり、負傷者三名。うち二名が無関係な巻き込まれ事案だってよ。巡回中の第一の連中が対応して、他人に怪我させた馬鹿を拘留。三日ほど牢で頭冷やさせて放流したって話だ」
「そうですか」
報告を聞き始めても、ウランタの返事は実にそっけない。
何を言っても上の空。聞き流しているのではないのだろうかと、疑ってしまう。
この状況に際し、部下の従士達も流石に問題を認識する。
執務室から出て、別室に集まった人間で対策を協議し始めた。
対策の手始めに、まずは現状の認識と原因の調査。
「どう考えても、今のように政務を放置するような状況は拙いですね」
「そうだね。ウランタ様も、幾ら優秀だといってもまだ九つ。全てを完璧にこなすのは難しい。やはり、レーテシュ伯の件で派閥の鎮撫を命じられたのが、相当に重圧になっているのではないかな?」
「なるほど」
海千山千の古強者や、手練手管の老獪貴族が多く居る大派閥。
それを取りまとめる苦労が、まだ幼い人間の肩にのしかかっていると思えば、そのプレッシャーも察してしかるべき。
この意見には、大いに頷く人間が多かったが、異を唱える者もいた。主に、ウランタの指揮下で海賊と戦った者たちだ。
「違うね。それは大将を甘く見すぎだ。あの人は、家が潰れかかって、絶体絶命の崖っぷちで絶対負けられないって重圧が掛かってる戦。しかも初陣で、プレッシャーに負けなかった人だ。そこらのジジイを相手にするからと言って、プレッシャーに押しつぶされる軟な人間じゃねえよ。泣きはしても、呆けはしないってもんよ」
「じゃあ何だよ。他に理由があるのか?」
「あれだけ呆けていても、話自体には相槌があった。多分、今のあの人にとっちゃ俺らの報告なんてさして重要に思えないってことだろ。もっと重要なことに頭を悩ませてるんだ」
「だから、私たちの話などは軽微な話と判断される、か。そこまでウランタ様を悩ませる重要な問題とは何だ? やはり、南部閥の取りまとめではないのか?」
現在は、ボンビーノ子爵領は発展著しい。
先ごろ正式に管轄するようになった南部街道の主要二道路について、文字通りザクザクと金が入ってくるようになったからで、それを使って今まで懸案だった事業が幾つも並行して進んでいる。
長い間だましだまし使ってきた船舶の、大規模改修工事。必要に迫られながら財政難から見送られてきた新造艦の建設。主要な港の浚渫。護岸工事に既存施設の改修。街道の再整備。商業関連への補助金給付や産業振興。疎遠になっていた諸領諸外国の各港への宣伝活動。農地の新設と開墾。諸外国由来の新作物の試験栽培。学術研究や魔法研究への予算増額。
縁遠くなっていた知人や親類縁者に対するコネクションの再構築も始めた。
どれが重要かというならば、全て重要な案件である。
頭を悩ませようと思うならば、どれでも選び放題の有様。
ウランタの様子をよく知る者の意見もあって、ウランタが何がしか重要なことで頭をいっぱいにしているのだろうという結論は纏まる。
だが、ああだこうだと議論が紛糾するも、結局のところウランタが何を重要視して悩んでいるかについては決まらない。
それさえ分かれば、対策も出来るのにと、部下たちはうんうんと悩む。
「雁首並べて、何サボってんだい。たるんでる様なら、あたいが鍛えなおしてやろうか? ああん?」
部下たちがこぞって集まっていれば、当然上司も気付く。
フットワークの軽いニルダなどは、輪の中にズケズケと割り込む。
「違うって姐さん。俺たちは、大将が何か悩んでるんじゃ無いかって話してたんですって」
「そうです、ニルダ隊長。ウランタ様が何か重要なことで頭がいっぱいになっておられるのではないかと。出来ればそれが何かを知り、微力ながらも手助けできればと……決してサボリなどというわけではないので、あの特訓だけはっ!!」
「俺たち、ウランタ様の為に一生懸命!!」
慌てて言い訳する男たち。
「……何をグダグダとダベってるかと思えば、そんな下らない。大将の悩み事なんて、ああなった時期と、顔みりゃすぐに分かるだろう」
部下たちの堂々巡りの議論について。隊長らしくも自信満々に結論が出ていると言い放つニルダ。
「一体、何でああなってると?」
何人集まっても結論が出なかった問題。
ニルダは、ニヤっと笑って答えを披露する。
「そりゃねぇ、恋煩いってやつさ」
「はぁ?!」
部下一同は素っ頓狂な声を上げた。
理由は様々で、ウランタが恋をしているという話が唐突すぎて驚いた者。天才児と言われるウランタが、案外普通のことで思い悩んでいたのだと驚いた者。或いは、筋肉も厳ついゴリラ女から恋などというロマンチックな表現が出たことに驚いた者。
それぞれに違いはあっても、驚いたことには変わりなく、上げた声は綺麗にハーモニーを奏でた。
一同の唱和に、ニルダは耳を押さえそうになった。
「うるっさいね。騒ぐんなら静かに騒ぎなよ」
「いや、でも姐さん。恋煩いって、マジですか?」
「あのウランタ様が? 相手は誰です?!」
一斉に騒ぎ出す男たち。
「この間、レーテシュ伯のところに行って、戻って来たって話じゃないか。それ以来ああなってるってんだ。晩餐会で何かあったんだろうね」
「何かって、何があったんです?」
「あたいが知るわけないだろ。ケラウスにでも聞きな。あいつは晩餐会でも大将にくっついてたんだろ?」
ウランタが晩餐会に出席していた時には、護衛を兼ねて補佐役が付いていた。
自分が参加したわけではないのだから、詳しくは補佐役に聞けと、隊長は部下たちを突き放す。
「ニルダ隊長、仮に恋煩いというのが事実として、相手は誰か分かりますか?」
「こりゃあたいの勘になるけどね。多分、モルテールンの嬢ちゃんだろうさ」
「根拠は? 本当に勘だけ?」
「舐めんじゃないよ。女の勘って奴だよ。根拠にゃ十分だろうが」
「え? 女?」
失礼なことを宣った部下の一人の背中を思いっきり蹴り飛ばし、ニルダは鼻息を荒げる。
「ふんっ、あんたらがそうまでして疑うってんなら、証拠を見せようじゃないか」
「証拠? 恋煩いに証拠なんてもんがあるんですか?」
「いいかい、見てな。大将の思い悩んでることが本当にあたいの予想通りなら、今からちょっと会話すれば、目の色が変わるって話さ」
「面白いっすね」
女隊長は、颯爽と執務室に乗り込む。
そこには、相も変わらず物思いにふける少年領主の姿があった。
「大将、ちょっと良いかい?」
「……」
「ちっ、おい、何時まで呆けてるんだい」
「ん? ああニルダさん。ノックはしてくださいね」
「だから、してるっての。それよりも大将に、耳寄りな話さ」
「そうですか」
ニルダが、恫喝に見えるよう体勢で強引に話をしているにもかかわらず、ウランタに動揺は見られない。むしろ、どこ吹く風と落ち着いて居るようにすら見える。
これが平時の堂々たる姿勢なら素晴らしいのだが、単に気持ちをどこかに落っことしているだけならば心配になる状況。
残念ながら後者の可能性は極めて高い。
「アナンマナフ聖国は知ってるだろ? この国とは南のケレスーパ海を挟んでお隣の国さ」
「そうですね」
「そこに、治療だか治癒だかの魔法が使える魔法使いが居るって話さ。港に来てた聖国人から聞いたから、確度は高い。連れて来るなり、治療に呼ぶなり出来れば、レーテシュ伯に大きな恩が売れるってもんだろ?」
「そうですね」
やはり反応が薄い。
この時点で、大よその人間が思い描いていた、南部閥の取り纏めやレーテシュ伯の妊娠について、思い悩んでいるわけではないと証明されたようなもの。
ニルダは、加虐心を燻らせながら、自らの主に本題を告げる。
「それで、他所の国に出向こうってんだ。当然不測の事態って奴が起きる。安心して対処を任せられるっていやあ、大将の伝手なら、確実なのはモルテールン家ってことにならないかい?」
「モルテールン?!」
ボンビーノ子爵家は、一時期ひどく没落していたこともあって、頼れる伝手というものが少ない。今はその手の連絡網や協力体制を再整理している最中ではあるのだが、金や利権に釣られて寄ってくる有象無象も多いため、信頼と呼べるほどの関係性はまだ出来ていないのが現状。
特に軍事面や外務面となると、頼れるのはレーテシュ伯家ぐらいのものだ。当のレーテシュ家のゴタゴタがある以上、別の伝手を使いたい。
ボンビーノ子爵家が現状で何とか都合の付けられる相手となれば、個人的に親交のあるモルテールン家ぐらいになってしまう。
「使者にはあたいが行っても良い。首狩りには面識があるし、あそこの坊ちゃんとも顔見知りだ。しかし、重要な任務ってんなら、大将自ら出向くって手もあるんじゃな……」
「行きます!!」
ニルダの語尾を食わんが如き勢いで、ウランタの目に活力が戻る。
まだ肌寒い赤上月の冬。
ボンビーノ家には春の予感が舞い降りるのだった。