538話 レーテシュ女伯爵の覚悟と反攻
「やってくれたわね、あの坊や!!」
レーテシュ女伯爵が、激高する。
子供を産んで丸くなったと言われていた彼女にしては、久方ぶりの激発である。
手近にあったクッションを、壁に向けて全力投球。ボフンという音と共に、埃が盛大に巻き散らかされた。
妻の癇癪に対しては、下手に触らない方が良い。夫であるセルジャンは、しばらくの間キーキーと憤懣を当たり散らす愛妻を見守っていた。
時間にして十分ほどだろうか。
ムキーと本気で怒っていた女伯爵も、ようやく落ち着いてくる。
犠牲になったのはクッションに本にペン。そして、使いかけのペンがまき散らしたインクでシミをこしらえてしまったセルジャンの服である。
染み抜きも大変なのだが、伯爵閣下はそのようなことには気にもしない。
「ふぅ、ふぅ」
「リオ、落ち着いたか?」
「ええ。全く、本当にあの坊やだけは思い通りにならない」
「そうだな。予想もしていなかった手を打たれた」
先日、王都やモルテールン領に手配している情報員から上がってきた情報。それが、寄宿士官学校でトラブル有、というものだった。トラブルが有ったのは王都の西。禁則地として立ち入りが制限されている危険地帯だったらしい。
年齢を重ねただけの経験、もとい伯爵としての積み重ねた経験。そして、生来生まれ持った直感と、洞察力から、何かおかしいと気づいた。故に、細かい情報を探るように指示していたのだが、その報告から禁則地に大龍が“不時着”したらしいというのが分かった。
大龍に乗れる人材を育てようとしている最中に起きた事故。
事故が起きたことそのものを隠蔽しようとする動きを見透かしたからには、この“竜騎士育成“に反対勢力が湧くのを阻止しようとしているのだと思われた。
しかし、レーテシュ伯が優れているのは、そこで終わらなかった点だ。普通に隠蔽するのとは違ったモルテールン家の動きに気づき、どうやら禁則地に何か“お宝”を見つけたらしいと推測した。
そうでも無ければ、王家よりもモルテールンの方がより積極的に動く理由が分からない。禁則地で見つけたものを独り占めしようとして、大龍の事故の隠蔽という名目で全体を隠そうとしているように思えたのだ。
そこで、レーテシュ家は動いた。
推測を確証に変えるためにも、或いは本当に“お宝”が何かしらあった時に交渉する為。禁則地を買い取りたいと王宮に対して根回しをし始めたのだ。
勿論、簡単にいくtおは思っていなかった。しかし、レーテシュ家が動けば、モルテールン家は動くと見た。正確には、ペイスが動くと見た。
一体何が有るのかは分からないが、それは土地を手に入れてからじっくり調べても良いのだ。
少なくとも、レーテシュ家が動き、モルテールン家がそれに過剰に反応するようならば、その分“お宝”の価値が正確に見えてくるだろう。
レーテシュ伯は、ペイスの優秀さを疑っていない。だからこそ、此方がまだはっきりと見えていない状況で動いたとしても、見えていると想定して動くと読んだ。
そして、モルテールン家の動きから、改めてもっと正確なことを知ろうとした。
情報を得るために、後手に回らないよう動いたのだ。それが間違いだったとは思わない。
しかし、ペイスの動きはレーテシュ伯の想定すら超えた。
「証券化、だったか?」
「何それ。本当にあの子の頭の中を見てみたいわ。どうやったらそんなことを思いつくのかしら。土地を土地のまま売るのではなく、所有の権利を売る。それも、細分化して? 目ざとい商人は、一斉に真似しだすわよ。これまで大きすぎて動かせなかった土地も、権利を細かくすれば一口乗ろうって人は出てくるでしょうし」
「将来の値上がりも見込めるか?」
「それは勿論。値下がりの危険もあるけど、物が土地ですもの。価値がゼロにはならないでしょう。そう思えば、最低限の価値は保証されたものってことになる。買うわね。私なら目ぼしい土地の権利は抑えときたくなるもの。全部を買うのはしり込みしても、一部だけでも抑えることで、口を出せるようになるのは大きい」
「そうだな。まるで金を生み出す錬金術だ」
金融商品の市場化を知らない人間からすれば、権利の売買というものの観念は薄い。土地の所有権を証券化して、それを細分して売ろうなどということに理解が及ぶだけ知的水準と金融リテラシーが高いというべきだ。
流石はレーテシュ伯であろう。
ただ、今回の件で後手に回ったことは事実。
「それで、どうする?」
「そうね……」
禁則地の所有権。これを細かくして、欲しがりそうな人間で分けようというのがペイスの策謀。はっきり、レーテシュ家としては旨味が減ったし、どこまで踏み込んでいいかが見えづらくなった。
「証券化を取り下げるように動くのは、一手としてあるわね」
「ふむ。だがそれだとモルテールン家と敵対することになるな」
「ええ。その危険性は有ると思うわ」
証券化して細かく分けて売ることで、これまで塩漬けになっていた土地も動かせるようになる。お金にすることが出来るとあれば、王家も協力的になるだろう。
不動産の流動化による資金流入。不動産価値の向上まで狙える素晴らしい一手だ。それだけに、これを邪魔しようとすれば明確にモルテールン家や王家に対して損失を与えることになる。
新しいことを始めようとするときは、何かと感情的な反発は生まれるもの。なので、証券化を止めようとすること自体は実現性がある。頭の固い連中や、変に新しいことを始めて今までの安定が揺らぐことを嫌う年寄り連中なら、口説ける見込みが高いのだ。
問題は、そうやって反対勢力を纏めてぶつかることは、明確な敵対行為であるということ。
「正直、モルテールンと敵対するというのは御免こうむりたいのだが」
「そうね。軍事的に対立すれば、多分負けはしないまでも、勝ち目がないもの」
「だな」
レーテシュ家も、対モルテールン用の手段の一つや二つはある。いきなり魔法で奇襲してくる相手の対策をしないまま、無策で居るほどレーテシュ伯も甘くない。
しかし、だからといって敵対して確実に勝てるかと言えば、不安が残る。第一、守っているだけでは勝てない。どこかで攻めなければならない訳だが、レーテシュ家は海洋戦力を主軸とする家柄。陸で戦って、陸戦の専門家たるモルテールン家に勝てる見込みは無い。
第一、戦うだけ出費も増えるし、損も増える。それで得るものが、利益の不確定な土地というのは割にあわなさすぎるだろう。
「時間がたてばたつほど、振り回されることになる。それに、あの坊やが無策のままで居続けるというのもあり得ないし、モルテールン卿が国軍を動かすのも拙い」
「そうだな。敵対する利益が無い」
結論とするなら、モルテールン家を敵にして得は無い。だから避けるべきだ、ということになる。
普通に考えればそれで良いのだが、レーテシュ家のトップ。いや、南部閥領袖としての判断は、そこからさらに一歩行かねばならない。
「でも、舐められる訳にはいかないのよ」
「うむ。やられっぱなしでは沽券にかかわる」
レーテシュ家として、手も足も出ず、良いようにやられてしまいました、で終わってしまっては、確実に舐められる。
レーテシュ家の言うことなんて聞かなくてもいいと舐めてくる連中が増えるのは、どうあっても拙い。
「こうなったら、金貨で殴り合いよ。財力なら、うちにも勝ち目が有るもの」
「それだけの価値があの土地にあるのか?」
「あるからこそ、モルテールン家が手を出してきてるのよ」
仮に、何の意味も無い土地であれば、ペイスがあそこまで本気で動く訳がない。
レーテシュ家が手を出したことに対して、本気で阻止してきた。
それをするだけの価値が無いなら、そもそもレーテシュ家と喧嘩などしないだろう。
つまり、何かしら利益を生むものが在る土地なのだ。
そこで、レーテシュ伯は考える。
あの土地には、もしかして“若返りの豆”に関わるものが在るのではなかろうかと。
そもそも、モルテールン家が直轄地を貰えたのも、若返りのスイーツを作る材料を揃えるためだったと判明している。レーテシュ家としても、その技術の大凡は調べが付いていた。
魔力が関わっていることと、モルテールン家がその為の実験をしていたことまで掴めている。
機会が有れば、モルテールン領の研究者の一人ぐらいは引き抜いてやろうかとも思っていたほどだ。
この技術を持っているなら、もしかしたら禁則地にも似たような作物が生育している可能性がある。
ならば、それを手に入れたところでモルテールンと再度の交渉は可能。技術提供をさせたのであれば、土地は譲っても構わない。
最低限、レーテシュ家にも利益はあったのだという形にすれば面目もたつだろう。
「そうなると、やっぱり外交カードとしても土地の確保は必須ね」
「それが難しくなってしまったという話では無いのか?」
証券化されて小口化した土地は、価値がぐっとあがる。
しかし、それはむしろチャンスだとレーテシュ伯は思うことにした。
「証券とやら。買い占めて見せるわ」
モルテールン家は、禁則地に高値をつけて棚に上げるような真似をした。
ならば次は我々が魅せる番。レーテシュ家を舐めたこと、後悔させて見せようと、レーテシュ伯は覚悟を決めるのだった。





