532話 三十六計
モルテールン領ザースデン。
ペイスが寄宿士官学校に出張している間は、平和な時間が流れていた。
平和とはつまり、穏やかで平穏な日常ということ。
ある日突然爆発音が轟くようなこともない。急に山の如く巨大な化け物が人を襲い始めることもない。大規模な武力集団が領民を襲って略奪し始めることも無い。外国の王族がアポなしでやってきて接待せねばならなくなるようなことも無い。
スリが町中に出て捕まえただの、酒場で酔っぱらって痴漢紛いに従業員へ抱き着いたアホが居ただの、畑の開墾拡張作業中に大きな岩が出てきてスケジュールが少し遅れるだの、領地替えに伴う引っ越し作業中だったハースキヴィ家から引っ越し完了の挨拶が届いただの。
何とも微笑ましい仕事ばかり。
他所の領地ならそれなりに大きなニュースになりそうではあるが、ことモルテールン家では些細なニュースである。
少なくとも従士長の決裁だけでことが進んで、事後報告で構わないと指示が出ている程度のことならば日常風景だ。
お菓子狂いが起こす騒動と比べるなら、アリとドラゴンぐらいの違いがある。
今日は定時であがって、いや何なら早めにあがって家族で飯が食えるだろうと、仕事をする従士長の手も軽い。肩も荷が無く軽い軽い。仕事が捗って仕方が無いと、鼻歌でも出そうな様子。
そんなご機嫌な従士長の側には、若手が何人か同じように仕事をしていた。
「坊は、今頃ピー公に乗って、マルクとルミを扱いてるんだろうな」
「そうですね。若様は何事も厳しいですから。あの夫婦にも厳しいでしょう」
シイツ従士長の言葉に、金庫番のニコロが頷く。
二人は内勤が基本のデスクワーク派なので、ペイスの居ない現状は執務室でのんびりゆっくりおしゃべりをしていた。
ちなみにニコロの今の仕事は、常時雇いとなっている傭兵の今月の予算執行について、内容を確認するもの。不正な使い込みや怪しい使途が無いかのチェック作業なので、ハードワークに鍛えられたニコロであれば片手間仕事だ。おしゃべりも捗るというもの。
「坊は、人にも厳しいが、自分にも厳しい所が有るぞ? 菓子が絡まなきゃ」
お菓子が絡んでいなければ、ペイスは尊敬できるだけの素質のある立派な騎士である。
お菓子が絡んでいなければ、英邁にして俊英と評するに相応しい、賢明な判断の出来る次期領主である。
お菓子が絡んでいなければ、自分を厳しく律して努力を怠らない、素晴らしい貴族である。
その点、割とペイスのことを尊敬しているニコロは頷く。
「あぁ、確かに。シイツさん、俺思うんすけどね、若様が人に厳しいのって、基準値が自分を基準にしたもんになってるんじゃないかと……なまじ自分の出来ることが上等なもんで、人にもそれを求めるから、厳しくなる」
「それは有るかもな。うちの大将が坊を剣術の訓練で扱くときなんざ、そんな感じだ」
「ああ、分かります。カセロール様もこと剣術に関しては求める基準が高いですよね」
カセロールは、騎士の家系に生まれた傍系の人間だ。
領地を継ぐということも無かったため、小さい頃から剣で身をたてると心に決め、手の豆が潰れ、更にその上に豆が出来るぐらいのことは当たり前の厳しい訓練を行って来た。
長じてからも努力を怠ることは無く、鍛えるのが当然と言わんばかりの環境に身を置いて来た。
というより、怠けるとそれだけ自身の身が危険になる環境だったとも言える。
大戦が終わった後、千々に乱れて荒れた神王国内で盗賊や海賊、果ては正規の軍人とも文字通り真剣で殺し合い、或いは絶対的不利の中で戦わねばならなかったのがカセロールだ。どう考えても割に合わない報酬でも、戦わねば稼ぎが無く生きていけなかった。
今でこそモルテールン家は豊かになったが、昔は本当に貧苦に喘ぎながら命がけで領地を守っていたのだ。
四十年近く戦い続けたカセロールは、価値観がそもそも余人と違う。強くなければ死ぬ。あっけなく死んでしまう世界に生きてきたし、その価値観で子供を育ててきた。
だからこそペイスも一端の武人としての腕前を持つに至ったのだろうが、厳しさというなら常に全力と必死さを求めるカセロールの教育方針は厳しいものなのだろう。
娘には甘いのだが。
「そんな二人がいねえ。なんて言うのかね、気持ちがすっげえ軽いのよ」
「そうですそうです。いつも全力疾走させられていたのが、今日は散歩で良いみたいな感じで」
「だなぁ」
「毎日こうだと良いのに」
「それは難しいな。どうせ、坊が戻ってくりゃ騒がしくなる」
「うわあ」
ペイスが戻った瞬間から激務になりかねないシイツの予想。
千里心眼の未来予知と言われても信じそうな、信憑性のある予想だ。
シイツの経験に、ペイスの過去の実績が真実味を持たせる。信頼と実績のペイス印。騒動が起きるのは、確定かと、ニコロはため息をつく。
そして、ふと思う。
「……戻ってこないうちから騒動を起こしたりしませんよね?」
「そりゃあ……大丈夫だろう。多分な」
「多分って」
ペイスが寄宿士官学校で大騒動を起こして、それに自分たちが巻き込まれる可能性に思い至った時。
今までののほほんとした空気が少々ぴりつく。
「ま、陛下の勅命で行ってるんだ。幾ら坊でも、そうそう問題は起こさねえだろうよ」
「そうかもしれませんけど……俺は不安ですよ」
「何がだ?」
「トラブルの方から、襲ってきそうで」
「そりゃ違えねえ」
あはははわはははと、大人たちの笑い声が響く。
彼らは、心の底から冗談のつもりであった。
◇◇◇◇◇
それは、大きな大きな、狼だった。
全長は、目測で五メートルはあるだろうか。顔だけでも人の背丈ほどは有りそうな大きさで、体色は薄汚れてはいるが白だったらしい形跡がある。
よく見れば体の根元の毛色は白っぽく、全体は灰色か、或いは黒っぽくも見えるのだから、汚らしい。或いは野性味あふれるというべきか。
「ぎゃ…むぐ」
大きな声で叫ぼうとしたマルクの口を、ルミが抑える。
ペイスはそれを見て、ルミを褒めたくなった。
野生動物に遭遇した場合、やってはならないのが大声をあげることだ。
野生動物に遭う前であれば、大きな声や音で威嚇して、遭遇を避けるのは正解である。動物も大きな音は苦手なことが多く、大抵の野生動物は大きな音に近づかずに逃げてくれる。
しかし、遭遇してしまってから大きな音を出すのは避けるべきだ。
野生動物が大きな音に驚き、興奮してしまう。我武者羅に暴れかねないし、音に怯えて無闇に攻撃的にさせてしまうかもしれない。
遭遇してしまったなら、刺激しないように静かに。そして背中を見せないように睨みながらゆっくりと下がって逃げるのが正解である。
「ゆっくり、下がりましょう」
大きな狼を見ながら、睨みつけるようにしてその場を離れようとする三人。
これで見逃してくれれば御の字。だったのだが。
「ペ、ペイス」
「逃がしてくれないっぽいですね」
ぐるるると唸りながら、後ずさる分だけ同じように間合いを詰めてくる。
いつでも飛び掛かれるように、前傾姿勢を崩さず。明らかに襲い掛かる一歩手前の動きです。
「……飛び掛かってきませんね?」
にらみ合う中、ペイスは相手の狼が唸るだけで襲い掛かってこないことに不信を抱く。
そも、ルミとマルクが五体満足で居ること自体、おかしいでは無いか。
狼というのはとかく鼻が利く。
狼が人に飼われるようになって犬になったとも言われるように、狼と犬はとても近しい近縁種。
犬が嗅覚の鋭さを活かし、麻薬探知犬や警察犬として活動するものもいるように、元々イヌ科の動物は鼻が良い。
犬の原種とも言われる狼であれば、その嗅覚は犬よりも鋭い。
ならば、マルクとルミのことも禁則地に入る前から気づくぐらいでもおかしくない。入った瞬間襲われている方が自然に思える。
「何かを警戒している?」
ペイスは考える。
狼が遠巻きにして襲ってこないのはなぜか。
考え込んでいると、状況は更に悪化してきた。
「ペイスぅ」
「周り……いっぱい……」
いつの間にか、狼が沢山集まってきていた。
ペイス達を逃がさないと言わんばかりの包囲網を形成し始め、ぐるりと囲みだした。
ことここに至って、何もしなければただ不利になるばかり。
ペイスは、覚悟を決める。
「二人は下がって。石でも何でも投げて、後ろに回り込ませないで」
「おう」
「分かった」
行動すると決めたなら、ペイスの動きは早かった。
「ピー助、いきますよ!!」
「きゅい」
ピー助が、大きく息を吸い、そのまま火を吐いた。
大龍の持つ能力の一つ。ペイスがドラゴンブレスと名付けた火を吐く能力。
ごう、と火炎の放射が辺りを覆う。焼き尽くさんばかりの劫火が、地を舐めていく。
「ぐろおおぅぅ!!」
炎の一つで解決してくれればよかったものを。
狼たちが一声あげると、さっきまで空を焦がさんばかりだった猛火が、さっと消えていく。
ただ消えたのではない。明らかに超常の力で消えた。
それはつまり、狼たちが“魔法”を使ったということだ。
「……なんと!?」
ペイスですら驚いた。
魔法を使う生き物が存在していることは既に明らかであり、世の中には魔法を使って縄張りを守ろうとするものもいるのはペイスも知っている。
何なら、海で大亀とも戦ったペイスである。驚きはしても、落ち着きは失われなかった。
「ピー助、突っ込みます。狙いはあの一番大きいの」
「きゅい!」
任せろ、と言いたげなピー助の声に、ペイスは狼に向かって突撃した。
巨大狼対大龍の、ぶつかり合いだ。
「ここです。【収納】【掘削】そして【収納】!!」
ドガンと巨体と巨体が衝突した瞬間。
ペイスが、連続して魔法を放つ。
物を収納する魔法で狼たちの足元の土をごっそり奪い、そこに掘削の魔法で大きな穴を作り、狼たちが穴に落ちないようもがき始めたところで上から土を戻してやる。
魔法のコンボ攻撃。大規模な範囲魔法とも呼べる攻撃で、狼たちは一気に穴に落ちて蓋をされた。
「よし、それじゃあ逃げますよ。二人とも乗って!!」
土に埋もれたことで、しばらくなりとも匂いを追えなくなる。
ここで空に逃げれば、追ってくることも叶うまい。
三十六計逃げるに如かず。
ペイス達はその場から立ち去った。





