519話 炎上
船の上という閉鎖空間では、火気は厳禁。
船が燃えてしまうと、乗っているものみな海の中にご招待されてしまう為、船乗りの間では強盗や殺人並みの重罪として放火が忌み嫌われている。
いや、それ以上かもしれない。
ことによれば船員全員を殺しかねないのだから、大量無差別殺人と並列に扱っても言い過ぎということは無かろう。
やらかしたなら確実に死刑。未遂であっても死刑で良いと騒がれる程度には重い罪である。
「さっさと消火しろ!!」
「てめえ!! 何てことしやがんだ!!」
「ぶち殺すぞ!!」
船の上で大騒ぎを始めたのは、ボンビーノ家の船員たち。ガラの悪い連中なので、悪態が出るわ出るわ。止まることが無い罵詈雑言の嵐。
放火しやがったフナムシ野郎どもを罵倒しつつ、なんとかして消火しようとやいのやいの騒ぐ。
だが、騒ぐだけだ。具体的な行動はとれていない。
何故なら、燃えているところと船員たち、或いはペイスとの間に、聖国人が立ちはだかったからだ。
消火作業すらさせないという、鉄壁の構え。
「……そこをどいてもらえますか?」
ペイスとしては、当たり前の要求をいったつもりである。
このまま消火を邪魔されては、船が燃えてしまう。船が沈んでしまうのだ。
それで困るのは、聖国人も同じでは無いかと、そこをどくように勧告する。
しかし、ビターたちは聞く耳を持たず、火災の灯りを背負っている。
「断る。どうしてもというなら、剣を交えてでも通さない」
「船が燃えてしましますよ?」
「当然。この船は、神王国には渡さない」
「なるほど」
ペイスは、ビターの行動の意味を理解した。覚悟を受け取った。
現状、聖国人の母船となっていた船は、モルテールン或いはボンビーノ家の接収下にある。
非正規ではあるがモルテールン家に喧嘩を吹っかけているのだ。戦争行為とみなすことも可能。当然、戦いの結果として奪い取ったものは我が物。神王国のもの。モルテールンのものである。
これに抗議しようものなら、聖国が神王国内で暗躍していたことを証明することにもなりかねない。
神王国の、それも港でも無いところに船を停めて、何をしていたのだという話になるだろう。誰がどう見ても、よからぬ活動をしていたとみる。仮に真っ当な理由をこじつけたとしても、無断で神王国の領土付近に船をやったのは、抗議の時点で動かせない事実となる。武装した軍船を無断で近づけるなど、宣戦布告だと言われても仕方ない。
そうなれば、神王国にとっては報復を名目に聖国へ攻め込みやすくなるだろう。現状の休戦状態など、軽く吹っ飛ぶはず。ただでさえ神王国はナヌーテックとの戦争が有って苛立っている。好戦的な人間は、ナヌーテックとの講和にも不満が有っとも聞く。丁度よいサンドバッグがあれば、嬉々として殴りに来るはず。
少なくとも、モルテールンは嬉々として報復してくるはずだ。
船一艘は確実に神王国が得をして、有利な状況で戦争を始められる。神王国の急進派からすれば、かなりお得なことになるだろう。
しかし、船が燃えてしまったらどうだろうか。
燃えた船はどうせすぐにでも海の底に沈んでいく。誰のものでもなくなる。
聖国としては、貴重な外洋航海船が一艘無くなるだけ、大損だ。一方、神王国としては何も損をしない。いや、手に入るはずだった船が無くなるから一艘の損と言えなくも無いが、元々聖国のものだったとするなら惜しいことも無かろう。損失ゼロと言ってもいいはずだ。
そして稀覯本についても、燃えてしまっている。
既にもうまともな本のていを成していない。灰と炭のとゴミの中間的物質だ。中の内容はもう誰も知ることが適わない。
これもまた、聖国の大損だ。そして、モルテールン家も大損だ。稀覯本は、珍しいから稀覯本なのである。社会全体の損失と言っても過言では無かろうが、貴重な一冊が失われてしまったのは心情的に痛い。
モルテールン家として、これらに抗議出来るか。となると、今となっては難しい。
モルテールン家を襲った連中の裏に、聖国が居た証拠がないからだ。
唯一強盗の証拠と言える稀覯本も燃えてしまったなら、残るのは実行犯の死体だけ。聖国との関与を裏付けようとしても、すっとぼけられたらどうしようもない。
監視に来ていて落ちていたものを拾っただけだとでも言われれば、それを否定する証拠は何もないのだ。
既に、追及の手は伸ばせない。
「痛み分けですか」
「お互い様だ」
ビターは、暗にこう言っているのだ。
無かったことにしようと。お互いの痛み分けということで、手打ちにしようじゃないかと。
証拠は燃えた。今、完全に燃え尽きた。
そして船も火が回り始めている。
遠からず、母船は海底で魚の住みかとなる運命だ。
ここで戦うか。
いや、どう考えても危ない。
沈んでいく船。決死の相手に、足止めをされたら。ペイスの頭の隅を、決死の特攻をしてきた賊どもの姿がよぎった。
ビターの魔法は、ペイスの魔法の対抗手段足りえる。彼の魔法は【消去】の魔法。
ずばり、魔法を消せる。ペイスやカセロールの魔法も大概に異常だが、聖国の序列一位も並みの魔法使いではない。汎用性と共に、対魔法使い相手には絶大な威力を産む魔法だ。
【瞬間移動】を封じられてしまったなら、そして船が燃えているなら。足止めされれば聖国人も神王国人も、そろって仲良く海水浴だ。
だから、無かったことにしよう。
聖国も、本を焼き、船を焼いた。損失しかなく、何も手にしていない。
神王国も、本が焼かれ、何も手にすることは無い。
お互いに損しかしていない。だから、ここで痛み分けとしていかないか。
ビターの提案は、断れば諸共に死。受け入れれば、両者に損失だけが残る。
実に厄介な提案だ。
しかも、時間制限はすぐ傍まで迫っている。船が沈むまで、もうあと左程も猶予は無いだろう。
「やむを得ませんか……人命にはかえられない。総員、退避!!」
「急げ!! 沈む前に逃げろ!!」
「バカやろ、積み荷なんざほっとけ!! どうせ金目のもんなんざねえよ!!」
ペイスの号令で、船員たちが自分たちの快速船に乗り込む。
我先にと逃げつつも秩序だっているのは流石に訓練が行き届いている。
「俺たちも引こう」
「……分かった」
聖本が風と共に灰になり、船の火が最早消火が出来ない大きさになったところで、ビターたちも小舟に乗り移る。母船まで乗ってきていた船だ。これで外洋を航海することは困難極まるだろう。しかし、これ以外に方法が無い。
船から急いで離れなければ、母船の沈没に巻き込まれる。
小舟の聖国人は、不思議なほどスムーズに母船から離れ、そして暗闇の中に消えていった。
これで追うことは無理になってしまったわけだ。
「痛み分け……ねえ」
快速船に乗り、燃える廃棄船が小さくなるのを見ながら。
ペイスはボソッと呟く。
その傍には、義兄であるウランタが居る。
「今回は、とても助かりました。ウランタ義兄上には心からお礼申し上げます」
「いえ。今までモルテールン家には数多くのご恩を受けておりますので、それを少しでもお返しできたならこれに勝る喜びは有りません。」
ウランタは、ペイスを尊敬している。恩義も感じているし、信義を守ろうとも思っている。
自分の、半ば勘のような忠告を真剣に受け取り、こうして大事を防ぐ役に立てたと言いうのなら、ウランタとしてもそれで十分自尊心が満たされることである。
「お礼はいずれ改めて」
「不要ですよ。何かを得た訳でも無いのに、モルテールン家が更に出費を重ねるのもおかしな話ですから」
「そうですか?」
「どうしてもというなら、またスプレが大きくなった時に剣の稽古でもしてやってください。どうもうちの子は元気が良すぎるようで」
ウランタは、笑顔で我が子について語る。
大きくなった時にペイスに稽古をつけてもらえるなら、実に贅沢な話だ。大龍を討伐した龍の守り手が教えてくれるのだ。英雄自らの手ほどきとあれば、本来なら金を積んでも叶わない夢のようなもの。
礼というならそれで十分と、ウランタは言う。
ペイスは、こくりと頷いた。
それでお礼だの褒美だのの話は終わりだ。
「甥御の為とあれば否やは有りませんが、そんなに元気なんですか?」
「ええ。元気も元気。夜泣きは目いっぱい、目につくものは何でも口に入れて食べようとする。少しもじっとせず起きてる時は何かしら手足を動かしてますよ」
「それはそれは。食欲旺盛なところは、母親に似ましたかね?」
「ははは、ジョゼにはペイス殿がそう言っていたと、伝えておきます」
「おおっと、それは内緒にしておいてください。あれで姉は根に持つんですから」
記憶力の良いジョゼは、時折妙なことまで覚えている。そして忘れないのでいつまでたっても持ち出して来る。
スプレの食いしん坊を揶揄すれば、姉は必ず反撃してくると、ペイスは確信している。
「おや、港が見えてきましたね。我が町への帰還です」
「お世話になりました」
やがて、ペイスは子爵領ナイリエからモルテールン領都ザースデンに戻る。
魔法が使えるなら、一瞬で戻ってこられるのだから楽なものである。
戻ってみると、ザースデンでは後始末が進んでいた。
襲って来た賊どものせいで、あちこちに火事があったのだ。
船にしろ家にしろ、今回の件は何かと燃やされることが多い。
釈然としないものを覚えつつ、火事の始末をしている若手たちに声を掛け、屋敷に戻るペイス。
「さて、では解読の続きをやるとしますか」
ペイスの手には【転写】で内容を複写された、稀覯本があった。





