513話 ヒントの閃き
「うーむ」
ペイスは、一つの本に向かって唸っていた。
図書館に秘蔵する予定の、禁書の一冊である。
『世界の秘密を暴かんと欲する者は叡智の扉を開くべし』
表紙と前書きに書いてあることによると、この本には世界の大いなる災いと秘密について、真実が書かれているという。
しかし、内容が全て暗号化されてあったのだ。それもかなり高度な暗号で。単純な替字式の暗号ならばすぐにも読み解けるはずなのだが、どうやらそもそもの文章からして現代の文章では無さそうである。
要するに、古典の時間に習うような文章が、暗号になっているようなもの。
暗号が読み解けたと仮定して、例えば「よろづうけをひまうしあげそうらう」となったところで、そもそもこの文章が正しく解読できているかも分からないし、合っているとしてもその意味がどういう意味なのかを古典から調べなければならない。
そうして初めて「よろず請負申し上げ候」と読み解け、ああ、なんでもやるよと書いてあるんだなと分かる。
一事が万事この調子で、一行を読み解くにも鬼のように時間が掛かるということ。
しかもこれは、暗号が解けるならという前提での話。暗号をどう解くのかもまだ分からずじまい。
そんな手探りの、暗号の解読方法が分からない状況で、何とか内容を読み解こうとしているのだが、知的な上にも知的な作業の出来る人間が、モルテールン家ではペイスぐらいしかいない。
或いは寄宿士官学校卒の頭のいい人間に解かせることも考えたのだが、ものが禁書庫に収蔵するものだけに秘匿すべきと考え、ペイスが隙間時間を作っては頭を悩ませていた。
「駄目だ、休け~い」
仕事と仕事の隙間時間。
本来であればこれこそ休憩時間のはずなのだが、その休憩時間を使って頭脳労働をこっそりやっているわけだ。
休憩時間に疲れたから休憩というのも訳が分からないが、ペイスに休憩が必要なのは事実だった。
特に精神的な疲労を回復しなければ、作業効率も落ちる。
「よし、休憩休憩。ふふふんふふん」
ペイスが休憩中にすることは、勿論お菓子作り。
足取りも軽く専用厨房に移動して、早速とばかりにお菓子の材料を物色し始める。
「ふむ、久しぶりにパウンドケーキでも作りますか」
ペイスの得意な料理はスイーツであり、特に技巧を凝らしたスイーツは他の追随を許さない。
高度な技術を使ったスイーツや、特別な器具を使って作るスイーツなど、ペイスにしか作れないものは多い。
とりわけ特殊な器具を使ったものは、他の領地ではたとえ王都でも作れないものだ。何せ、先進的なスイーツを知っているペイスが、わざわざ特注した道具を使わないと作れないのだから。
また、幾つかのスイーツはブランド化に成功している。
のど飴やジンジャークッキーは、既に贈答品としては各個たる地位を築き上げた。高級品というイメージは貴族たちどころか庶民にまで浸透しており、モルテールン印のスイーツは高くても売れる。
しかし、今作ろうとしているのはそんな高級スイーツでも、製作が難しいスイーツでも無い。
むしろ、スイーツの中でも作り方が簡単なものを作ろうとしている。
それが、パウンドケーキ。
四分の四を意味するカトルカールとも呼ばれるが、卵、小麦粉、砂糖、バターを同量づつ混ぜて焼き上げるという、実に分かりやすいバターケーキの一種だ。
材料を一ポンド使って作るので、パウンドケーキと呼ぶ。
色々と細かいコツは有るにせよ、混ぜて焼くだけ。材料も小難しい比率を考えなくていいので、精密なバネ秤なども無くて作れる。何なら、ペイスほどになれば軽く手に持って比べただけで重さが釣り合うか量れるため作りやすい。
何故これを作ろうと思ったのかは、思いつきなのだが、最近ボンビーノ家と連絡を取り合ったことが影響している。
このパウンドケーキ。カトルカールは、ボンビーノ夫人ジョゼフィーネの得意料理なのだ。
というのも、ジョゼがボンビーノ家に嫁ぐにあたって、ペイスがこのパウンドケーキだけは作れるようにしっかりと叩きこんだから。
姑もいないボンビーノ家では嫁いびりなどは無さそうだったが、それでも若手注目株にして当時はモルテールン家よりも高位の貴族であったウランタに嫁ぐのに、何も準備無しであれば苦労することが目に見えていた。
景気は右肩上がりで元より高収益が期待できる領地を持ち、更には街道の利権を持ち、海賊討伐で一時的にもがっぽり稼いでいたボンビーノ家に狙いを付けていた家は多かった。
政略結婚を狙うものには高位貴族家も沢山あった中で、幾らウランタが惚れていたとはいえモルテールン家が割り込むのは恨みを買う。どうしたって避けられないことだ。
ジョゼが不出来であれば、それこそ盛大に誹謗中傷が飛び交っていたことだろう。人の悪口を罰する法律など無い世界だ。悪評がたてば最悪結婚後の出戻りというのもあり得た。
不本意な事態を避ける為、モルテールン家上層部、特に母親が必死に考えたのが、ジョゼの料理上手の評判を先んじて作ることだった。
結婚して出来るだけ早く、料理上手であるという評判を作り、悪口や陰口に反論できるものを用意しておく。それが親の出来ることだとアニエス夫人も大いに張り切り、ペイスが借りだされたのも記憶に新しい。
物事の噂、評判というものは、何よりも最初が肝心だ。
最初にいい評判がたてば、あとから悪口を言われても悪口の方を疑ってかかる。逆に飽き評が最初に広まってしまえば、良い噂があとで流れても最初の悪評を払しょくするには至らない。
人間というのは、先入観や思い込みというものがある。最初の評判というのは兎に角大事。
そしてジョゼはカトルカールの作り方を無事マスターし、結婚してすぐにも手料理でもてなすお茶会を開催。
ボンビーノ子爵夫人は料理上手で気配り上手という評判を作り、今では堂々たる地位を築くに至った。
あの、ジョゼでも作れたパウンドケーキ。
ペイスが作ると、これまた一味違う。
「ふんふん、るるる~」
ペイスが小麦粉を篩う。
さらさらとボウルに溜まっていく小麦粉は、きめの細かい品種のもの。粉にすると軽やかな粉になる。さらに、パンにして焼けば口当たりも柔らかな食べやすいパンになる。
モルテールン領ではなかなか手に入り辛い高級な小麦粉なので、趣味の気晴らしにするなどと聞けば卒倒するものが出かねないのだが、そんなことを気にするペイスではない。
グルテン量だのを勘案して、この小麦粉な試作に丁度いいと考えて作っていた。
別のボウルではバターを溶かし、更に別のボウルでは卵を混ぜる。
金属製の焼き型にはバターを塗っておいて、かまどにも火をつける。
バター、砂糖、小麦粉、卵を混ぜ、出来上がったものを型に流し込む。
トントンと型を軽く叩いて空気を抜いたところで、早速とばかりにかまどの中に。
じりじりと焼きあがっていけば、甘くて美味しそうないい香り。
「ペイストリー様」
「おや、ニコロじゃないですか。仕事は良いんですか?」
「その言葉、そっくりそのままお返ししますよ。人が忙しくしてるってときに、こんな旨そうな匂いさせて」
パウンドケーキを焼いている途中で、ニコロがやってきた。
鼻をひくひくとさせて、涎をたらさんばかりにかまどを見ている。
ニコロもモルテールン家で働いて長いので、こういう香りがするときにペイスが居れば、それすなわち美味しいお菓子だと確信していた。
そして、ペイスはお菓子を作ることも好きだが、誰かに食べてもらうのも好きだというのも知っている。
つまり、お相伴に預かれるわけだ。
仕事がどうのと言っていても、ちゃっかりと居座るあたりに誰かさんの薫陶が行き届いている。
「仕事の休憩時間ですよ。予定していた面会が存外早く終わったので、次の面会まで少し時間が空きましてね。折角なら気晴らしをと思って」
「そういうことなら仕方ないですね。いや、俺も仕事が忙しいんですが、ペイストリー様が仕事をほったらかさないように見張らなければ」
「見張らなくても大丈夫ですよ。仕事に戻ってはどうです?」
「いえいえ。そういって急にどこかに行ってしまう前科があるじゃないですか。いや、これはほんと、ペイストリー様を見張るのも仕事ですって。いや、俺ってなんて仕事熱心なんだろう」
「かまどで焼き上がりを待ち受けている様子では、とてもそうも思えませんが……まあ、良いでしょう。食べたなら、感想ぐらいは聞かせて下さいね」
「お任せください。食レポって奴でしょ? 得意中の得意です」
調子のいいニコロはともかく、他に遠巻きに様子を伺っている若手なども居るなか。
焼きあがったパウンドケーキを取り出せば、綺麗に焼きあがったふかふかのお菓子が姿を現す。
「おお、旨そう!!」
「ニコロも、食べて良いですよ」
「ありがとうございます。では早速」
「そこで見てるみなも、食べて良いですよ」
「「ありがとうございます!!」」
美味しそうな匂いに誘われて、厨房の外から中をのぞいていた若手たち。
ニコロほどには図々しくなれない、まだモルテールンに染まり切っていない新人たちが、厨房の中に入ってきてお菓子をつまみ出す。
「美味しい」
「あまくてふわふわ~」
新人の男女が、パウンドケーキに舌鼓を打つ。
甘くて美味しいお菓子は、従士たちにとってもごちそうだ。
「う~む、やはり駄目でしたか」
「何がです?」
「パウンドケーキをつまむと、手が汚れるじゃないですか」
「そうですか?」
バターもたっぷりと使ったお菓子は、手でつまめば油分が手につく。
それは仕方がないことではあるが、ペイスとしては少々不満だ。
「図書館も出来たので、読書がてら摘まめるものを作ろうと思ったんですが、これは手が汚れるので保留ですね」
「却下じゃないんですか?」
「色々と中に入れれば違うかもしれませんし。配合を変えればつまみながら読書の出来るスイーツになるかも」
「入れるものねえ」
「レーズンだったり、ナッツだったり、今の時期ならフルーツも良いですね。柑橘系を入れるのも美味しい。それに……」
気晴らしにと見つめていたのは、チョコレートの材料。
カカオ豆は貴重品なので、流石に遊びの気晴らしには使えないかと思って目がいく。
「ん? まてよ?」
ふと、暗号本の中の単語を思い出す。
同じ単語らしきものがいくつか出ていた。
亀の挿絵が入っていたので、そこからなら何か分かるかもしれないと、何度となく読み込んだページにあったもの。
「そうか!! ヒントはカカオ豆です!!」
ペイスの頭の中に、突如として閃きが走った。





