510話 ノルン司教
聖国から、外国使節がやってきた。ボンビーノ家にとっては、一大事だ。
聖国では外交使節を派遣するのにかなり複雑な手続きが必要であり、使節に選ばれる人間は教養高くシエ教の教義をよく学んでいるエリートがなるもの。それが常識である。
教皇を頂点とし、枢機卿が補佐する権力構造は単純で強固な組織を作る。頑迷で保守的と言い換えても良いが、兎に角前例主義であり、頭の固い人間が多い。腹が減っていて目の前に食べ物が有っても、それが人のものなら手を出さずに飢え死にする方が正しいという価値観を持つのが聖国だ。
正しい価値観であるかどうかは別にして、一つの価値観で全てを決めることに違いは無い。一事が万事、正しい行いというものが有り、それを外れることが人として悪であると考える宗教国家。それが聖国というものだ。
しかし外交というのは、自分の都合だけで動くものではないし、相手に自分たちの常識を押し付けても上手くいかないもの。
宗教の教義としては正しくても、現実的に見れば不合理なことも沢山ある。人間というものは正しさだけで動くものではないし、ましてや聖国の言う正しさが他の国の正しさと反することも有るのだ。
宗教的に何とか屁理屈を付けつつ、不合理を呑み込む交渉というのも、聖国の外交官には求められることが多々あった。
教義として矛盾せず、かといって現実とも整合性を取れる外交交渉を行おうと思えば、他国の外交官より一段か二段上の頭の良さが必要だ。
故に、外交使節になれる人間は限られていて、一地方領主の元に派遣されるのは極めて珍しい。
ボンビーノ家が慌てる理由である。
聖国の使者はノルン司教と名乗った。
一見すればごく普通のおじさんであり、司教服も着ておらず、着ているのは普通に売られている一般的な神王国礼服である。町中に居れば、ちょっとお金持ちそうなおじさんだと思われる程度の格好だろう。間違っても、大国のエリートという風には見えない。
ややぽっちゃりとした体形に、ふくよかで丸みのある顔。にこにことしていて、笑顔で居るのが当たり前のように感じる。
どうみても超が付くほど賢いエリートには見えない。むしろ、ちょっと抜けた印象すらある。
使節のノルン司教を歓迎するために開かれた夜会。領内の有力者や、家中の重鎮なども集めて司教を歓迎する立食パーティーが開かれていた。
ボンビーノ家の財力を見せつけ、威を張る為にも手を抜かずに持て成している。
貿易港かつ漁港であるナイリエの強みを活かし、珍しい外国の料理や、山海の珍味も取り揃えて振舞う。
特にウランタが頑張って用意したおススメは、ナータ商会ナイリエ支店に無理を言って用意してもらったモルテールン印のスイーツ。
ボンビーノ産のフルーツをふんだんに使ったフルーツタルトが特に秀逸で、モルテールン家との親しい関係性をさりげなく匂わせつつ、ボンビーノ領に優れたフルーツがあることをアピール出来ている。
味も美味しいので、是非とも食べてもらいたいと思っていた。そして、子爵家の力が侮りがたいものだと理解して欲しい。
ジョゼが好物だからという理由も、ちょっとだけある。三割、いや五割よりちょっと多いぐらいは、産後で辛いだろう妻に食べさせてあげたいという理由だ。
「ノルン司教、改めてナイリエにようこそ。ボンビーノ家当主として、貴方の来訪を歓迎いたします」
「これはこれはウランタ=ミル=ボンビーノ子爵。閣下にご挨拶いただくとは恐縮です。小職のようなものにここまで盛大な歓迎、感謝の言葉も無い」
「喜んでいただけるなら、主催者としては喜ばしく思います」
「もちろん、喜んでおりますとも。特に食事。美味しい食事で、どうにも清貧の誓いを忘れそうですな。帰った時に腹回りを見られるのが、今から怖くなります。ははは」
ノルン司教は、夜会の中ではとても普通だった。
別段目立つことも無く、最初に来賓として挨拶して以降はにこにことしたまま料理に舌鼓を打ち、美味しい美味しいと喜んでいる。ように見える。
ウランタなどは、彼の態度が素のものなのか、演技なのかが分からずに戸惑っていた。
かなり異例の来訪になったはずなのに、まるで友達の家か親戚の家に来たようにリラックスして食事を摂る聖職者の姿。
どこまでいっても不気味である。
「いやあ、噂には聞いておりましたが、ナイリエの賑わいは凄まじいですな」
「はあ」
腕を組んでうんうんと頷く司教。
自分で勝手に、何を納得しているのかと首を傾げるウランタ。
「小職も初めてボンビーノ領に足を運んで、流石はボンビーノ子爵家と感心しとります。言っておきますが、本心ですぞ。これだけの都市とするのにどれほどの資材が投じられたのか。いやはや、実に素晴らしい」
「はあ」
「仕事柄色々な土地に出向くのですが、小職としてもここまで豊かな街というのは数える程しか見たことが無い。特に港の賑わいはボーハンやグリモワースに並ぶものでしょう。実に素晴らしい」
ボーハンやグリモワースという地名には、ウランタも聞き覚えがあった。
聖国でも有名な港町だ。
特にグリモワースは聖国と神王国の間では玄関口となっているので、色々な意味で重要な港である。
またボーハンという港も、国際港として知られている。大型船舶が立ち寄れる停泊港として船乗りには有名であり、ボンビーノ家の家中にも行ったことのある人間は多い。
「そういえば、まだご子息が産まれたお祝いを申し上げておりませんでした。先ごろお生まれになったとか。まことにめでたい。心からお祝い申し上げますとともに、御息災であられますよう、お祈りいたします」
「ありがとうございます。本職の方に祈って頂けるのなら、我が息子もきっと健やか」
「実はお祝いを船のほうに置いておりましてな。いきなり押し付けるのもご迷惑と思いまして一言先にお伝えしておこうかと。如何でしょう、明日あたりに運ばせてもよろしいでしょうか」
「勿論です。お気遣いありがとうございます。息子に代わってお礼申し上げます」
「いやいや、大したものでは無いのですが、人に見せびらかすものでもありませんので。出来れば話を広めるにもお身内程度に留めておいていただければ幸いです」
「では明日、改めてお話しましょう」
「はい。いやいや、それにしてもこの魚料理は絶品ですな。これほど美味しい魚を食べたのは初めてかもしれません」
にこにこと、ずっと笑顔のまま。
結局ノルン司教はその日、特にどうということも無く、ただただ愛想を振りまいて夜会を楽しんでいた。
明けて翌日。
ウランタの元には、昨日と打って変わって。
キリリと真面目な表情をしたノルン司教の姿が有った。
「それで、本題は?」
息子のお祝いを持って行くなどとは、建前でしかない。
雰囲気からそう悟ったウランタが、ノルン司教に尋ねる。
「実は、ボンビーノ卿のお耳に入れておきたい情報がございましてな」
「と、言いますと?」
案の定、真面目な顔の司教が、心持ち深刻そうな様子で語り始めた。
「ナヌーテックの暗部をご存じですかな?」
「まあ、噂程度には存じております」
噂どころではなく、実際には相当詳しく調べている。
何せ、生まれたばかりの息子を暗殺されそうになったのだから。
何故か暗殺者当人はジョゼフィーネ付きの侍女として暮らしているが、ナヌーテックの暗部が危険であるというのは言を俟たない。
ボンビーノ家としては、十分警戒すべき相手である。
「そこが、どうやらモルテールン領でひと働きするらしいとのことです」
「モルテールンで?」
「ええ。誰かを狙っているのか。或いはと思いますが、ボンビーノ家が狙いという可能性もありましょう。御身をお気遣い頂くようご忠告申し上げる」
「それは、痛み入ります」
重要な情報だった。
モルテールン家は、ボンビーノ家とは比べ物にならないほど多くの敵がいる。ボンビーノ家に対しての敵意が十とするなら、モルテールン家に対しては百やそこらでは効かないだろう。なんなら千や万であっても不思議はない。
そもそもを言い出せば、カセロールが居なければ神王国は滅亡し、今頃周辺諸国が盛大に領土を取り合っていたことだろう。
或いはペイストリーがやらかしていなければ、サイリ王国はフバーレク辺境伯領を併呑していたかもしれないし、ナヌーテックはエンツェンスベルガー領を切り取っていたかもしれないし、聖国は神王国との戦争に勝利していたかもしれない。
たらればを言い出せばキリがないのは世の常だが、ことモルテールンに関しては恨み骨髄に至るところは多かろう。
不思議なのは、聖国の人間であるノルン司教が、わざわざ情報提供をしてきた点だ。しかも、直接モルテールンに言えば恩も売れようものを、ボンビーノ家に言いに来た。
幾らボンビーノ家がモルテールン家と親しい親戚とはいえ、少々迂遠に過ぎよう。
いぶかし気に思いつつ、ウランタはノルン司教に情報提供の礼を言う。
「それで、お知らせ頂いたご厚意に対して、当家は何をお返しすれば良いのでしょう」
お前らは何が狙いなんだ、と率直に聞くような態度に、ノルン司教はいつのまにかニコニコとした柔和な笑顔に戻っていた。
「いやいや、お返しなどとは言わずとも結構。我々とボンビーノ家とはいささかなりともいがみ合った過去がございます。今後は是非とも友好的に有りたいとは思っておりますれば、先んじて信頼を積み重ねるべきと聖上はご判断された由」
「信頼、ですか」
「はい。汝が敵を愛せとは神の教えでございます。愛するは自ずからとも教えが有りますれば、我々としても教導に殉じるまでのこと。これからも何かあれば、モルテールン卿の信頼を得るべく誠実な対応を心がけていきたい。今日は、その始まりとなるでしょう」
「なるほど、そちらのお心遣いは理解いたしました。何もお返し出来ませんが、こちらこそ誠実な対応は望むところであります」
「左様ですか。では、くれぐれもお気をつけて。そうそう、ご子息のお祝いの品は、うちのものに運ばせております。つまらないものですが、ご笑納ください」
「ありがとうございます」
ノルン司教は、ウランタに対して腰の低い態度を崩さず、本当に祝いの品を置くだけで帰っていった。
ただただ友好親善に来たのだと言わんばかりの使節だったことに、ウランタの戸惑いは大きい。
だからこそ、ノルン司教の言っていたことが気になった。
「……ナヌーテックの暗部、ですか。懲りませんねぇ」
ウランタは、じっと考え込みはじめるのだった。





