502話 聖本
アナンマナフ聖国。
シエ教を国教として聖都アフジャルンを首都とする祭政一致の宗教国家である。
他の国の機嫌や動向、或いは都合に自国の政策が左右されるのが小国とするなら、自国の政策を主体的に決められるのが大国。
聖国は、間違いなく大国である。
特に国の指導層に関して言えば、大国意識はとても根強くある。一部には聖国こそ世界のトップであるべきと信ずる者まで居て、過激なものであれば聖国の為ならば余の国々は犠牲を払ってでも奉仕するべきだなど言い出す。これは、宗教国家故の宿命だ。
国のトップは、唯一絶対の神の代理人。少なくとも、教義ではそうなっている。
信仰の篤いものほど国の中枢部を神と同一視しがちであり、自分たちは絶対的に正しい存在であろうとするし、またそうであると信じやすい。
自分たちの行為は正しい行いなのだから、無知蒙昧で信仰の薄い者どもを“正して”やるのが良いことだと、本気で思っているのだ。
過激派とはどこの組織でも厄介なものと相場は決まっているが、こと聖国に関しては過激派はイコールで宗教的良識派に属するのがこの国の宿痾。
賄賂も取らず、関係性の親疎や血筋で贔屓したりせず、一般の信徒には心の底から慈しみをもって接し、日々を慎ましく暮らす、人間的には大変に尊敬できる敬虔な人間ほど、こうした過激派になりがちという、悩ましい問題。
勿論、世の中の問題というのは宗教的正しさや道徳的正しさだけで解決するものではない。
時に、表ざたには出来ない手段を用いてでも為すべき行動というものがある。
他国への諜報活動がそれだ。
外国に行って情報を集める。或いは情報を流す。その為に必要なのは教義的な正しさや信仰の篤さではない。
現実的かつ合理的な思考。そして、人間の愚かさを知るということ。金が欲しい奴には金を握らせ、女に目がない奴には美女を宛がい、男が好きなものには美男を送り込み、物欲浅ましい方には宝石の一つも贈る。嘘もつけば、騙しもする。時には脅し、時には遜る。諜報活動とは、どこまでも俗っぽくて卑しいものだというのが聖国人の評価だ。
神の正しさを信じ、人の善性を信じながらも、人間の汚さや醜さを肯定する。清濁併せ呑むことが出来てこそ、諜報機関を掌握できる。
聖国人で諜報活動を理解出来る人間は本当に一握り。
グリモワース地方管区。或いは北方管区と呼ばれる広大な土地を管轄するアドビヨン枢機卿の元に、極秘とされた情報が届けられた。
聖国でもトップの、或いは唯一の諜報機関を持つアドビヨン枢機卿は、聖国に居ながら諸外国の情報を事細かに入手できる。
聖国にとって最重要とも呼べる、神王国と向き合う要地を任されるのも諜報の能力を買われてのこと。
「何? あの聖本の行方が掴めたと?」
「はい」
アドビヨン枢機卿は、報告者の言葉に驚く。
その報告とは、聖国から流出し、長らく行方不明となっていた稀覯本の行方が分かったという報告だったからだ。
見つかるとは思っていなかったというのが正直なところ。
「ふむ、それは……いい知らせではある」
かつて、聖国は南大陸で幾つもの保護国を従えていた。
早い話が植民地。或いは属国。
宗教的に布教をしている地域は、聖国の支配下にあるとされていた。南大陸全土を、遍く聖国の威光が覆った時期というものがあったのだ。
しかし、遠方であり、更にはケレス―パ海という大きな海を間に挟む土地を完全に支配することは難しかった。
現地の聖職者が私腹を肥やすことも多く、腐敗した末端組織が腐り落ちていくことは自明のこと。そして、腐敗している統治者に対しての反発が産まれるのもまた極々当たり前の歴史的必然だった。
やがて南大陸の北方には反聖国を掲げる幾つもの国が勃興し、聖国はどんどんと影響力を縮小させ、今や南大陸の南方に追いやられた。神王国などは反聖国の急先鋒として勢力を拡大させた過去が有る。
新興国が勃興していく中、聖国から失われたものも多い。
歴史的建造物、文化的な宝物、伝承されていた技術、などなど。
多くのものが聖国から持ち去られ、そして返ってこなくなった。
かつて失われた宝物。
その中には、貴重な書物の類も含まれる。
魔法研究などでも顕著だが、過去の事例を索引としてひも解いて調べられる知識の集積というのは極めて大きい。
昔に存在していた魔法使いの魔法が、現代に再び現れることもあるのだから。
蓄積された知識というのは、それだけで十分にお宝だ。
失われてしまった、過去には存在した書籍。
中でも、聖国のトップにのみ口伝されている本があった。
聖本とも言われる貴重な本で、作られたのは今から千年以上前になるという話だ。この本には、とてつもない力があるとも、世界を揺るがす知識があるとも言われている。
「詳しく話してくれ」
「はい」
アドビヨン枢機卿は、極秘とされた理由を知る人物。
詳細を聞こうと、報告者に続きを促す。
「さすれば、そもそも聖本は、ナヌーテックの王族が極秘裏に保持していた模様」
「あの野蛮人共が、隠し持っていたのか。なるほど、探しても見つからぬわけだな」
「はい」
稀覯本の所在の捜索は、長らく続けられていた。
しかし、長い時間と数多くの戦乱や政変もあって極めて難航していたのも事実。
聖国からすれば、隣の隣、或いは隣の隣の隣にある国の内情などは、中々に調べられなかった。
しかも、ナヌーテックは聖国の威光が一切通じない国である。
強さこそ正義とする価値観を持つ国に、宗教的正しさを掲げる聖国の道理が通じるはずも無いのだ。
何なら聖国人とみるや捕まえて、奴隷のようにしてしまう国である。報復を受ける危険性も無いのだから、やりたい放題にしていいというのがナヌーテック人の常識。
聖国人はナヌーテックを野蛮人の集落と蔑み、ナヌーテック人は聖国人を無駄で仰々しいだけの虚飾虚礼に満ちた弱者と蔑む。お互いにお互いが相いれない価値観を有する、仮想敵国である。
唯一、神王国が共通の敵であることは利害が一致しており、その点で外交的に繋がりは有るのだが、アドビヨン枢機卿としてはナヌーテック人を好きにはなれない。
弱者から奪うことに罪悪感を覚えるどころか、誇らしげにする連中が、まさか貴重な古文書を後生大事に抱え込んでいるとは信じがたいというのが正直なところ。
「手にした経緯の詳細は未だに不明ですが、ナヌーテックの王城の奥深く。宝物庫にしまわれていた模様です」
「それなら尚更、調べられなかったはずだな」
聖国は魔法強国であるが、ナヌーテックは陸軍強国。距離が有る上に海を挟んでいるために現実的では無かろうが、実際にナヌーテックと聖国が共に総力をあげて戦争になった場合、勝算は五分五分であろう。
兵の強さや数はナヌーテックが上、魔法使いの数や質は聖国が上。あとは、お互いの駒をどれだけ上手く動かし、相手の手筋を防げるかの読み合いだ。
ナヌーテックは魔法技術が低い。しかし、ナヌーテックも魔法を軽視している訳では無い。むしろ、自分たちの弱点であるとしっかりと自覚している。魔法による被害を防げるよう、特に王の住まう所には聖国の魔法使いでも手が出せない、強固な防護が為されている。
アドビヨン枢機卿も諜報機関を束ねる身ゆえに、魔法使いを使って暗躍しようと試みたのは一度や二度では無かったのだが、その度に手厚い対魔法防護によって防がれてきた。
聖国の魔法技術は世界一と自負するのが聖国人であるが、その評価は決して過大評価とは言えない。それほどに、聖国の魔法技術は他国に比して秀でている。
世界一の聖国の魔法部隊が軒並み跳ね返されているのだ。ナヌーテックの魔法防護を突破するのは、他の国でも無理だとアドビヨン枢機卿は考える。
正攻法でも王城を攻め落とすのは相当に難しいだろうし、忍び込むのも魔法を使うのも無理となれば、ナヌーテックの王城の中に隠されたものを見つけるのは、世界中どんな人間であっても不可能であったに違いない。
「それがまた何で表に出てきたんだ? 王の代替わりでもあったのか」
「いえ。先ごろの神王国との戦争が影響しています」
「なに?」
聖国としても、目下のところ一番の仮想敵国とみなす神王国のことは、多大なるコストをかけて注視している。
先だって起きたナヌーテックと神王国の戦争など、実際に始まる前から知っていたぐらいだ。
結局、経緯は不明ながら神王国が一部部隊でナヌーテックを引かせることに成功したらしく、講和はどうやら神王国有利で結ばれたはず。
その戦争に、何かあったのか。アドビヨン枢機卿は、険しい顔を更に険しくする。
「実は両者の争いの際、どうやらモルテールンがナヌーテックの王城を奇襲したようなのです」
「なに!? どうやってだ!!」
アドビヨン枢機卿は、本気で驚いた。
ナヌーテック王城の防備の手厚さは、自分も良く知っていたからだ。
弱肉強食適者生存を旨とするナヌーテックは、貧富の格差もえげつない。王ともなれば、とてつもない金持ちだ。何なら神王国の王家よりも裕福とも聞く。その分庶民は大いに絞られているとは聞いているが、王家に限れば南大陸でも一といって二と下らない富貴を誇る。
巨額の資産を抱えるナヌーテックの王家であるから、魔法対策も万全であったはず。何より、神王国に攻め込むならば首狩りの悪魔は警戒していて当然。いきなり本陣に精鋭部隊が【瞬間移動】してくる可能性などは、最初から織り込み済みで対策していたはずだ。
大金を注ぎ込んで最先端の防備をしていたであろうところを、モルテールンの部隊が襲った。
これは、詳細を知っておかねば聖国としても首筋の寒くなる話だ。
「どうやら、大龍を使ったらしいと」
「……詳しく調べておくように。本当に魔法防備を越えたとするなら、我が国でも対策は急務だ」
「はい」
「それで、王城に首狩りどもが乗り込んだのが、何故聖本の発見に繋がるのだ?」
「どうやら、王城にモルテールンが乗り込んだ際、宝物庫の中身を根こそぎ奪ったようなのです」
「……戦時中に敵から略奪したというのなら、罪にはならんか。それはナヌーテックとしても災難でしかなかろう」
「はい。そしてモルテールンが奪ったものの中に、件の本がありました。モルテールン領に運ばれたことを、我々の手のものが確認しました故」
「よく分かった。それで、聖本の行方が判明したということか」
「御意」
稀覯本の発見された経緯はとてもよく分かった。
探索困難な場所から強盗よろしく奪って来たモルテールンが、価値も分からずに適当なところに置いていたから、モルテールン領に潜入している諜報員が情報を送ってきたのだろう。
何とも、モルテールンに感謝すべきか、或いは怒るべきかに悩む話であろう。
「聖本は、我が国の宝。大いなる力の源。見つけた以上、何としても取り戻さねば。何としても。モルテールンが本当の価値に気づく前に」
枢機卿の目には、執念にも似た熾火の如き熱があった。