489話 急報
のどかな一日。
モルテールン領の日常は、平穏そのものであった。
朝から厨房には甘い匂いを充満させる領主代行が居て、さっさと仕事を始めろと小言を言いに来る従士長が居て、やれやれまたやってると呆れる若手が居る。
そんな、ごくごく平凡な日常。
「まったく、坊はちょっと目を離すとすぐに仕事をさぼって菓子作りだ」
「仕事を怠けている訳ではありませんよ。趣味と実益を兼ねた研究活動です」
ペイスは堂々と胸を張って、これも仕事の一環だと言い張る。
製菓産業とその裾野産業がモルテールン領にとって主要な収益源となっている現状、お菓子作りは領地の為になると言って憚らないのがペイスだ。
そもそも領内の産業で製菓産業を一から育ててきたのもペイスなので、自作自演感は半端ないが、嘘を言っている訳では無い。
ペイスの開き直りには、従士長もあきれるほかない。
「仕事が溜まってねえなら好きにすりゃいいですがね。ただでさえ忙しいってのに、トップが居なきゃ進まねえでしょうが」
「シイツが居れば何とかなるでしょう」
「なら、領地の全部を酒造りの為に動員しちまいますぜ。あとは、前々から女っ気が少ねえと思ってたんで、色街を拡充して」
「おっと、やはり仕事はしないといけませんね」
お互い冗談だと分かり切っているからだろう。軽口のたたき合いで雰囲気は軽い。
ただし、シイツも抜け目のない要領のいい人間なので、本当にペイスがさぼり始めたら、自分好みに領地の中を改革するぐらいはやりかねない。
ペイスとしても、仕事に手は抜けないということだ。
シイツもシイツで大概な曲者である。
執務室にペイスが連行され、いつもと変わらない日常の続きの一幕が始まる。
戦う相手がかまどの火加減と微妙な材料の配合から、利害調整の匙加減と微妙な予算の配分に変わった。
「さて、例の建物の為の土地確保の予算……が、予定額を二割以上超過しそうだと。ふむ、どうしますか」
「ああ、あのプローホルの件ですかい」
「ええ。建物を建てる土地の目星は付いたようですが、一部に難色を示す土地があると」
新しく領主家主導で建てようとしているとある施設。
それなりに大き目の土地を確保する必要が有るのだが、ザースデンもそれなりに人が増えてきて、空いている土地が殆ど無くなってきている。
特に、領主館に近い土地や、新村と繋がるメイン通りの両脇など、人の集まりやすい一等地の土地は競い合いが発生していた。
金貨で殴り合うような地上げも起きており、地価の高騰がそろそろ問題になりつつある。
もっとも、土地の権利は領主家がその気になればいつでも没収できるものなので、モルテールン家にはあまり影響がない。
「そりゃまた。ごねてる理由は何ですかい?」
そんな土地確保で、モルテールン家が動いても尚土地の確保が難しい事情とは何か。
シイツの問いに、ペイスが応える。
「……リリアナ姉様が抑えている土地です」
「ああ、なるほど。あそこですかい」
シイツは、言われて納得した。
リリアナは、他所に嫁いだペイスの姉であり、モルテールン家出身。元々ザースデンに住んでいたので、愛着のある場所というのも存在する。
今回も、井戸の傍に綺麗な花壇のある土地だ。元々ハーブを育てていたりもした。
井戸端会議として女性が集まる場所であり、リリアナ始めモルテールン姉妹は皆好んでいた場所である。
土地の権利自体は住民の一人が持っているのだが、その人の妻がリリアナととても仲の良かった幼馴染。
ここで無理に土地を取り上げてしまうと、リリアナに苦情が飛んでいき、回り回ってモルテールン姉妹の連合軍がペイスを襲うかもしれない。
「説得を続けるか、或いは別の場所にするか。坊の判断次第ってとこですね。菓子作ってる場合じゃねえです。さっさと決めて下せえ」
「説得をするのに、どうしますかね。替えの土地をって話でも無いでしょうし。思い出の場所だから残してほしいと言われると、感情論になってしまう。別の土地を探すことを、説得と並行させておくのが正解ですかね」
「おうおう、また金が掛かる」
「仕方ありません。必要経費と割り切って、予算を付け直し……」
仕事をしていたペイス達だったが、突然剣を持った。
魔力的な感覚が、気配を感じたからだ。
「若様!!」
まったりとした空気をぶち壊したのは、モルテールン家の従士。古参の一人である、コアントローだった。
日頃は王都に駐在して、情報機関の取りまとめやカセロールの補佐をしているはずの重鎮。
それが、モルテールン領の執務室にやってくるということは、モルテールン子爵カセロールの【瞬間移動】しかあり得ない。
つまり、それだけ急ぎの重要案件ということだ。
「コアン!!」
魔法で直接飛んできただけあって、コアントローが来ていることを知る人間は執務室に居る人間だけだろう。
「……少し待ってください。シイツ」
「あいよ」
阿吽の呼吸というのだろう。
防諜体制の整った執務室ではあるが、聞き耳を立てている人間が出ないよう、シイツが外で見張る。
執務室の中は、コアントローとペイスの二人きり。
「それで、何がありました?」
ペイスの問いに、コアントローはカセロールからの伝言を話す。
内容を聞いたペイスは瞠目し、しばらくの間考え込むことになった。
◇◇◇◇◇
コアントローがペイスの【瞬間移動】によって王都のに送り返されてから。
ペイスは、シイツに声を掛けて部屋の中に入れた。
開口一番、シイツは従士長として説明を求めた。
「詳しく聞かせて下せえ」
シイツの要求は、至極もっとも。従士一同を代表する立場として、何が有ったのかを知るべき地位にある。
「僕も、コアンから聞いたこと以上のことは言えませんが……」
「それでも構わねえんで、話して下せえ」
ペイスはしばらく頭の中で情報を整理し、ややあって口を開く。
「父様からの連絡です」
「大将の? 軍と家、どっちの?」
王都からの大至急の連絡など、あまり考えたくない悪い知らせであることが思いつく。
例えば王族を始めとして国家の主要人物が死んだであるとか、モルテールン家の身内。より正確には王都に居るペイスの母アニエスに何か不幸があったとか。
或いは、政変に繋がるようなテロ事件やクーデターでも起きたか。
何にしても慶事ならばわざわざコアントローを派遣してまで機密を守ることも無い。漏れると拙い情報だから、絶対の信頼が置ける腹心中の腹心を伝言につかったはずなのだ。
漏れては困る機密には、幾つか種類が有る。
国家機密、軍事機密、或いは貴族のプライベートに関わる秘密。
特に国家機密ともなれば、秘密裏にカセロールを介してペイスに用事を伝えることも有り得る。悲しいかな、ペイスは今までの行いで国家の中枢部と深く繋がり過ぎているのだから。
国王や王子、カドレチェク公爵やスクヮーレ=カドレチェク中央軍大隊長あたりはこっそりペイスに頼みごとを持ち込んでもおかしくない。或いは、リコリス夫人の姉ペトラあたりが、他人には話せない秘密でペイスを頼むことも有り得るだろう。
それを想ってのシイツ懸念を、ペイスはとりあえず払拭した。
父親からの連絡だと確認が取れた時点で、シイツの不安は杞憂に消える。
だが、この上なく厄介そうな事案では無いことは分かっても、厄介そうな事案である事実は消えない。
カセロールからの用事が、どの立場からのものだったのかを聞くのは、従士長としての確認だ。
領地貴族モルテールン子爵としての問題なのか、中央軍第二大隊長カセロールとしての問題なのか、もしくはカセロール個人としての問題なのか。
「両方ですが、あえて言えば軍でしょうか」
「軍の用事でコアントローを飛ばす? そりゃ、ただ事じゃねえですね」
「ええ」
コアントローは、言うまでも無くモルテールン家の家臣。モルテールン家からすれば最上級に信頼できる腹心中の腹心だが、国として見ればなんの役職も持たない部外者。
公私を混同しないように気を付ける立場なら、軍の機密をコアントローに持たせるというのは少々頂けない。
会社の仕事を自分の子供に手伝わせるようなものだ。法には触れないにしても、機密を守るという点に関しては批判されてもおかしくない。
それをおしても、軍の用事なのにコアントローを使った。つまり、軍人を使うと情報が洩れるかもしれないとカセロールが懸念したということである。
超弩級の軍事機密確定だ。
「ついに戦争が始まったそうです。それも、北の大国が動いたと」
「そりゃ大ごとじゃねえですかい」
「我々にも、備えよとの父様からの命令が有りました」
モルテールン領は、南部辺境。本来なら、北のゴタゴタに巻き込まれる可能性は低い。
国力と国力をぶつけ合うような総力戦の概念が乏しい世界、戦争というのは局所的に起きて一部の人間の間で解決する。
国が亡びるかどうかの瀬戸際まで戦う全力の戦争など、早々あることではない。
モルテールン家はともかくモルテールン領だけならば関係ないにも拘らず、カセロールは領主代行の息子に対して、機密情報を腹心に預けてでも備えよと言って来た。
他ならぬモルテールン子爵が。大戦の英雄にして歴戦の勇士が、リスクを覚悟で命じたこと。
「嫌な予感がしてきましたぜ。うちにも何かありそうな」
「シイツの勘、ですか?」
ペイスの言葉に、シイツは深く頷く。
「ええ。勘でさぁ。昔はよく嗅いだきな臭さって奴でさぁ」
若かりし頃は戦場に生きていた男の勘。
これまでも幾度となくモルテールン家を支えてきた、頼れる男の直感だ。ペイスと手、無下にはしない。
「シイツの直感は本当によく当たりますからね。こちらも、父様に言われるまでも無く備えておくべきでしょう」
「備えるっても、何をするんだか」
「物資を蓄えること、武器を集めておくこと、兵士の訓練を行っておくこと、情報収集を強化すること。それと、仕事をいつでもシイツにぶん投げられるようにしておくこと、でしょうね。僕が動くことになるでしょうから」
シイツは、思わず顔を顰めるのだった。