487話 闇中
それは、深い深い闇夜の中であった。
明かりも無い森の中。
おおよそまともな人間が居る場所ではない、本能的な恐怖を感じる場所。
手を伸ばせば手のひらが見えなくなるほどの暗さの中で、男が一人立っていた。
ジュジャブ・サミ・ゴビュウ一等爵。
ナヌーテック国において一と言って二と下らない重臣中の重臣であり、国家においては国王の右腕であり、国王にとっては無二の者であり、王家にとっては常に影として存在する一等爵家の当主。
陰に日向に国王を助けるのが本分であり、その最も頼られるのは国の後ろ暗い部分を一手に担っているところ。
強さを貴ぶ国とはいえ、いやだからこそ、力で解決出来ないことも多い。
自分の意見を強固に変えずに国王の心証を害する頑固者や、味方であるにも関わらず兎に角無能であって足を引っ張り続ける者など。特に罪を犯したわけでなくともいなくなって欲しい人間はどうしたって存在する。
ゴビュウ一等爵は、そういった“味方でありながら害となるもの”を秘密裏に消すような仕事を一度ならず行っていた。
彼の手は、真っ赤に染まっている。
そんな彼が配下に置き、手駒として使っているのが“鴉”と呼ばれる組織。
正式に組織の名前として存在するものではないが、呼称が無いと不便ということで使われる隠語である。
この鴉は、ナヌーテック中から色々訳アリの者を集め、教育を受けさせて後ろ暗い仕事に従事させる組織。
親兄弟を全て失って天涯孤独となってしまった孤児であるとか、お家騒動になるからと死んだことにされてしまった子供などを集め、徹底的に洗脳のような教育を施す。
組織の人間は自分の命さえ駒として使い、与えられた命令を順守することに全てを賭すのだ。
「よく来たな」
「お呼びとあらば」
いつの間に、或いはいつからそこに居たのだろうか。
男が虚空に向かってかけた言葉に、返答した者がいた。
鴉の一員であることは明らかであるが、勿論確信がある訳でも無い。
「ナヌーテックの栄光は」
「我らが影より生まれる」
「うむ」
符丁と言うものだろうが、お互いにだけ分かる合言葉を交わし、鴉の人間だと確信を持つジュジャブ。
手間ではあっても、万が一にも他の組織の人間が“振り”をしているかもしれないので身元の確認は怠れない。
「貴様に、重要な任務を与える」
男の言葉に、暗闇の主が畏まったらしい気配を漂わせる。
「神王国に潜入し、ひと働きしてもらう」
「お望みとあれば如何様にも」
元よりどのような命令も命がけで達成するように骨の髄まで教育されている人間だ。ひと働きと言われれば、自分の最善を尽くすまでであると、闇の中から肯定の言葉が返る。まだ内容を話していないのにだ。
忠誠心の高さに、ジュジャブは満足げに頷く。
「まず、貴様には仮の身分を与えることになる。神王国の没落した準男爵家の脇腹の子ということになるだろう」
神王国での任務となれば、神王国人であると身分を偽る方が何かと動きやすい。
準男爵程度の下級貴族ともなれば数も多く、そこで更に愛人に産ませた子供となると本当のことかどうかを把握するのは困難極まることだろう。
身分を装うとすれば、動きやすい身分だ。非公然活動の為に多少の教育を受けている訳で、平民出身ではないというストーリーに説得力を持たせられる。
教育というのもタダでは無いのだ。それなりに貴族の立ち居振る舞いを理解しているだけ、貴族階級出身者というのは疑われにくいだろう。
そして、高位過ぎない上に言い辛い生まれ育ちとなれば、善良な人間ほど過去を突っ込んで聞こうとはしてこない。
今後どう動かすかを考えたことで、二人の間に若干の無言が産まれる。
それを機会と見たのか。闇の中の人物が、雇い主に尋ねる。
「お聞きしてよろしいでしょうか」
「何だ」
「潜入と言うのは何処になりましょうや。王家、カドレチェク、エンツェンスベルガー、モルテールン、レーテシュ……何処にせよ、御命令が有れば入り込んでみせますが」
肝心なことを伝えていなかったと、男は思い至る。
確かに、どこに潜入するかを言っていなかったので、聞かれるのは当然だ。
「流石に神王国の人間も馬鹿ではない。目ぼしい所の警備には気を使っている。身元も入念に洗うことだろうな」
魔法が存在する世界にあって、しかも瞬間移動や超速移動のような現象が存在する社会では、戦場から離れているからと言って安心はできない。
いつ何時寝首をかかれるかもしれないと、戦々恐々とするものだ。
神王国でも貴族は常に暗殺を警戒している。
王族などは出来るだけ魔法に対する防備の整った城から出ようとはしないし、大貴族も似たような理由から護衛を傍に置きっぱなしにするもの。
「王家は最近特に出入りに厳しくなったらしい。諜報によれば、我が国の動きに感づいている気配があるらしいな。ここに潜入するというのは中々に骨が折れる。貴様は我が手駒の中では最も有用な駒だ。分の悪い賭けで無駄に散らすは惜しい」
「はっ。恐縮です」
褒められたからだろう。影の中の方から、喜びに近い感情が漏れる。
「大貴族も駄目だな。どこも警戒を強めている。余所者が入ることを厭う状況だそうだ。忌々しい話だな。少しは可愛げを見せればよいものを」
「はっ」
当代の神王国の四伯や尚書クラスの大物は、皆優秀である。
ナヌーテックとしては面白くない状況なのだが、揃いも揃って付け入る隙を見せない。糞ったれな話だと、男は吐き捨てる。
カドレチェク家は、数年前に代替わりが有ったが、安定この上ない状況。軍務に深く根を張り、統制も行き届いていて派閥の掌握も十分。そもそも、先代がまだ存命で、当代や次代の補佐を熟しているのが厄介だ。
海千山千の貴族社会を何十年も泳いできた先代カドレチェク公は、ナヌーテックが神王国に攻め込んだ時代を知る生き証人。ナヌーテックに対して緩んだところは見せないだろうし、当代や次代に未熟さが有ればさりげなく穴埋めしてやるぐらいはやりそうな人間。
手出しするには、王家に次いで分が悪かろう。
また、四伯もそれぞれの理由で警戒を強めている。
他所の人間が潜入するというのは、難しいはず。
例えばレーテシュ家。
四伯の中では最も富裕と言われる南部の雄だが、聖国に対して警戒を強めていると聞く。
どうやら聖国でも国内改革の機運が盛り上がっているらしく、能動的な組織として改変されれば狙うは神王国。海戦で負けが続いていることもある。レーテシュ伯爵領に手を出す可能性は日に日に高まっていると言える。
当代のレーテシュ伯は、敏い女性だ。女狐とも揶揄される、智謀の人である。
聖国の情勢には逐一目を配っているだろうし、怪しい動きには警戒を怠っていないはず。
そこにのこのこ外国人が神王国人のふりをしてやってきたら。
聖国からで無かったとしても怪しまれて対処される。最悪は何も出来ずに処刑である。
或いはフバーレク家。
四伯の中でつい最近代替わりがあった家だ。ならばそれは付け入る隙かと言えばさにあらず。
元より武闘派で鳴らした軍家の一派だ。主敵であるルトルート辺境伯を打倒したとはいえ、戦いへの備えは怠っていない。
第一、東部は一度領地が綺麗に整理されている。
複雑な土地関係は一旦解消されているので、領地貴族同士としては珍しく相互の関係性が良い。
外交関係に人的資源を割かなくてもいい分、それだけ内側の監視にも人手は十分手当されている。
下手をすれば、王都並みにきつい監視網だろう。
元々国境を守る国防が任務であった以上、人の出入りには特に敏感なお家柄。見知らぬ顔が居れば、すぐに潜入がバレるに決まっている。
モルテールン家なども、決して無防備にはしていない。
領主館は要所要所に魔法防備の備えをしてあるし、何より当主が腕の立つ魔法使い。
万万が一モルテールン家に潜入出来て、暗殺を実行するとしても、相手は首狩り騎士。一対一で戦って、勝てるだけの実力が求められる。それはもう暗殺者ではない。
一対一で戦って勝てるなら、戦場で一騎打ちでもすればいいのだから。
自分は奇襲するのに、相手に奇襲されても大丈夫というのは、モルテールンの奴が未だにのうのうとのさばっている理由でもある。実に忌々しい。
一方的に使える戦略的な武器。自分たちだけ好き放題に奇襲出来るのに、やり返すのは難しい。護国の英雄と持ち上げられていい気になるのも仕方がないのだろう。
「全く、実に腹立たしい。忌々しい。苛立つ話だ。あちらは幾らでも打つ手が有るというのに、此方は手詰まり。いっそ清々しいほどに優秀だな、神王国の奴らは」
男のとげとげしい憤懣を込めた独白を闇の中の者はじっと黙って聞いている。
「しかし、しかしだ。神王国とて万全でも無ければ、全ての貴族が警戒している訳でも無い」
「はっ」
男の語調が変わる。
少しばかり機嫌良さそうな声で、男は自分が、自分だけが持っている情報と分析結果を語る。
今まで神王国は、露骨に北方を警戒していた。前科も有れば意思もある。神王国の警戒を、濡れ衣だとは思わない。もしも警戒を緩めていたら、今頃はもっと早く攻め込んでいただろう。
しかしここ最近、ナヌーテックにとっては朗報があった。
サイリ王国の復調と、聖国の強靭化である。
ナヌーテックからの支援が幾ばくかあったのは男だけが知る裏事情ではあるが、神王国の目が北以外にも向くようになった。
北を警戒したまま、東も南も西も警戒せねばならない。
必然的に、神王国の内部が空洞化する。
「弱い所から攻むるが戦の定石」
戦いにおいて、敵の弱点を攻めるのは常道中の常道。王道オブ王道だ。
神王国の内部が混乱すれば、そして神王国軍備の主要人物たちと縁の深い人物に、その隙が有るとすれば。
ナヌーテックにとっては、狙わない理由が無い。
今の神王国の隙とは何か。
モルテールン家と縁深く、レーテシュ家とも懇意で、フバーレク家とも浅からず縁が有り、エンツェンスベルガー家とは旧知であり、カドレチェク家とも馴染みが有り、何よりその家自体が重要な立ち位置を担っているにも関わらず、警戒が薄い家。
ずばり、ボンビーノ子爵家。
ここを混乱させることで、神王国全体を混乱させる。蟻の一穴を穿つ一手だ。
「ボンビーノ家に生まれてくるであろう子を……殺せ」
「承知」
闇の中の声は、気づけば気配が消えていた。