486話 スプレンドーレ
深夜。
戦いが始まった。
戦いの最前線に挑むのは、ボンビーノ子爵夫人ジョゼフィーネ。
そしてそれを支えるのは頼もしき血族と仲間たち。つまりは愛する夫と、頼れる愉快でおかしな姉弟たちだ。
助産師、産婆とも呼ばれる出産の専門家がいよいよとばかりに周りを固め、万が一、いや億が一の失敗もさせないとばかりに今や遅しと身構える。
夜も更けたころに始まった陣痛が、子爵邸をひっくり返すような大騒動の始まりであった。
これぞ戦場。
初陣に臨むジョゼに、姉たちがそれぞれに励ましの言葉をかけていく。歴戦の勇士の激励に、気丈に笑顔を見せる妊婦。
「ジョゼ、気持ちを楽にしてね」
「きっと元気な子が産まれるわ」
「私たちが傍に居るから安心してね」
「応援してるからね」
顔かたちに血の繋がりを感じさせる四人と一人。
「姉様たち、ありがと」
額に汗を浮かべつつ、微笑んで見せるジョゼ。
姉妹の確かな絆を感じる一幕。
戦いの前の序章を離れたところで見ているのは妊婦の弟と、その夫ウランタ。
出産の場は男子禁制。女性の聖域となる。
神王国では、例え夫であっても産室に入ってはいけない人間が居る。別に法律で決まっている訳では無いのだが、縁起担ぎというのか、ゲン担ぎと言うのか、ある種の迷信に近しい風習。
軍人のように人の生き死にを身に纏う人間は、出産の場に居ると赤ん坊が怯えて弱るというものだ。
普通は夫の立会も珍しくは無いのだが、軍人は別。
別段科学的根拠が有る訳では無いのだが、乳児死亡率が高い世界のこと。人間というのは、何かトラブルが有った時や、不幸があった時に、分かりやすい“原因”を探してしまうものである。
第一、出産にわざわざ立ち会うほどに愛情深い人間も少数派ということも大きい。貴族社会では割と夫婦間で冷めていることも多い。
身内に対して情愛の深い、モルテールン家やボンビーノ家の方が珍しいのだ。
「ああ、ジョゼ……」
産室が締め切られ、神聖なる戦場が隔離されたときから。
落ち着かない様子でそわそわとし始めるウランタ。
出来る限りの準備をしたという気持ちはあれど、不安という感情は理屈ではない。幼い時に両親が亡くなり、家族というものに飢えていたウランタにとって、ジョゼフィーネは唯一といって良い家族である。
普段から大切に思っているからこそ、精霊の招きで神の身元に召されてしまった時のことを恐怖する。情愛の深さはそのまま喪失の恐怖となってウランタを襲う。
「大丈夫ですよ。ちゃんと生まれてきますし、ジョゼ姉様も無事に出産できます」
「ええ。ええ。ええ。そうですよね。そうですよ、うん。大丈夫ですよね」
どこまでも冷静とは正反対のウランタに対し、ペイスは声を掛け続ける。
大丈夫だと落ち着かせようとし続けているのだが、効果は殆どない。
小一時間。
ペイスの感覚で二時間は経った頃だろうか。
産室の中で動きが有った。
中に詰めていた侍女の二人ほどがドタドタと慌てて部屋を飛び出してきて、お湯やら布やらを運び始めたのだ。
「いよいよ、生まれるのかもしれませんね」
「ああ、神よ。どうか我が子と妻をお救い下さい」
溺れる者は藁をもつかみ、精神的に追い詰められている時ほど信心深くなる。
ましてや、信仰が根深く社会の中心にある神王国で生まれ育った生粋の神王国人ウランタならば、それはもう心の底から一心不乱に祈りを捧げている。
信仰心の篤さを美徳とする価値観から言っても、真摯に祈る姿は周りの人間も好意的にみるだろう。
「あれ?」
ふと、産室の扉から一人の女性が出てきた。
モルテールン姉妹の四女リリアナである。
他の四人と出てくるでなく、一人だけが出てきた。
何が有ったのか。
目を瞑って手を組み、神様にお祈りしまくっているウランタは気づかないまま。
そっとリリアナが、手招きをする。ペイスだけに用事が有るということなのだろう。
トラブルの予感。
何か、嫌な気配がしてきたと、ペイスは気持ちを引き締めながら姉の元に進み出る。
「どうかしましたか、リリ姉様」
「ちょっと、不味いかもしれない」
「ジョゼ姉様に、何かあったんですか?」
「お腹の中の子の様子がおかしいって産婆の人がいうのよ」
ペイスの目がきゅっと細められる。
「……逆子っぽいって。今も難産で……最悪のことを考えておいて欲しいって」
最悪のこととは、赤子の死産。更にはジョゼの予後不良。つまりは、母子ともに亡くなること。現状、全くあり得ないことでは無いことだと、助産師は見立てた。
逆子というのはそれでなくとも産みづらい。生まれてくる赤ん坊の一番大きい部位は頭だが、これが最初に産道から出てくるからこそ無事に生まれる。
逆子の場合、足や身体が外に出てきたとて、手間取れば赤ん坊はお腹の中で息をすることが出来ない状況になる。
産声をあげるのに、窒息死の危険が伴う状況に置かれるということ。死産になる。或いは障害を抱えて生まれてくる可能性が高くなるということだ。
「ウランタ義兄上に、黙っている訳にはいきませんね」
「ええ。……ペイス、頼めるかしら」
「そうですね。この場合、僕が伝えるのが適切でしょう」
今にも必死に祈り続けているウランタに対して。一貴族として既に権力者であるボンビーノ子爵に対して。
明らかに不安を煽る情報を伝えねばならない。
これは、他の女性陣には荷が勝ちすぎるだろう。
どうにか上手に伝えるとなれば、ペイス以外に適任者がいない。
はあ、とため息をつき、ペイスはウランタの傍に戻る。
「ウランタ殿」
真剣に、それこそ命がけと思える必死さで祈っていたウランタに対し、ペイスが声を掛ける。
「落ち着いて聞いてください。現在、ジョゼ姉様は難産に苦しんでいるそうです」
「ええ!!」
「落ち着いて。深呼吸を」
見るからに取り乱したウランタに、ペイスは深呼吸を促す。気持ちを落ち着けて、冷静になってもらう為だ。
これから、ジョゼが難産であること以上に辛いことを伝えねばならないのだから。
「生まれてくる子が、どうやら逆子らしいということです。正常に生まれてくる場合と比べて、非常に難しい出産になるということでした」
「そんな…そんな……ジョゼ!!」
「ウランタ殿、落ち着いてください。今産室に行っても邪魔になるだけです」
バッと産室に飛び込もうと動いたウランタを、ペイスは羽交い絞めにする。
「ウランタ様!!」
「冷静になってくださいませ!!」
現状、ウランタがジョゼの元に行ったとて、役に立てることは無い。むしろ、雑菌を持ち込むことでジョゼに悪影響が出かねないのだ。
思った以上の馬鹿力を出したウランタを、ペイスは周りの人間と一緒になって力づくで押しとどめる。
ふうふうと荒い息をして、ウランタが椅子に座り直す。
「ウランタ殿。厳しいことを言うようですが、貴方が今冷静さを欠いてしまえば、何かあった時にジョゼ姉様は一層危険になります。重ねて申し上げますが、落ち着いてください」
「……はい、そうですね。申し訳ない」
ウランタが領主である以上、子爵領の中のことは最終的にウランタが決定権を持つ。
それは即ち、人的資源や物的資材を動かすのに、ウランタがトップダウンで動かすのが最も早いということである。
難産になった場合、或いはそれで不測の事態が起きた場合。今この場にあるもの、この場に居る人材だけでは対処しきれないかもしれない。他の手立てが至急に必要になるかもしれない。トップか決断せねばならないことが起きるかもしれない。
ウランタが冷静であらねば、問題が問題を呼ぶ悪循環を生みかねないのだ。
「一度、冷静になるためにも顔を洗って来てはどうですか? 冷静になるのに頭を冷やせと、よく言われるでしょう」
お前頭を冷やしてこい、などというのは普通ならば相当に失礼な言葉だろう。
しかし、今のウランタには必要なことにも思える。
「ウランタ様、そうした方がよろしいでしょう」
常は補佐役として侍るケラウスが、ペイスの言葉を肯定する。
いつものウランタを知っている彼からしてみても、ウランタが冷静だとは思えなかったからだ。
「……では、顔だけ洗ってきます」
「ええ。そうしてください。落ち着いたと思ったところで戻ってきてください」
ウランタが、産室からいなくなる。
その瞬間、ペイスがギラっと目つきを変えた。
「総員、傾聴!!」
ペイスが、その場にいたボンビーノ家の侍女や使用人たちに向けて、厳しい顔をする。
「全員下を向いてしゃがみ、耳を塞いで目を瞑りなさい!!。僕が良いと言うまで、目を開けることを許しません!!」
ペイスの言葉に、使用人たちは戸惑う。
何が何だと、訳も分からず、きょろきょろと他の者の様子を伺う。
ペイスの言葉に速攻で動いたのは、モルテールン家の人間だった。
日頃から訓練が行き届いている、精鋭中の精鋭を連れてきたのだ。ペイスの“命令”には、どんな疑問が有っても即座に従う。そう訓練されている。
ざっと十人規模がペイスの言葉通りにしゃがみ、目を瞑ったことで、ボンビーノ家の使用人も訳も分からず同じようにしゃがんで目を瞑った。
全員が目を瞑ったと確認したところで、ペイスは産室に飛び込む。
「ペイス!!」
「男が入ってくるんじゃないわよ、何してるの!!」
「姉様方、お静かに。助産師の皆さんも、そのまま。今から行うことは、一切を忘れるようにしてください。従わない場合は、モルテールン家が敵になります」
「え?」
「天におわする我らが尊父に希う。我が姉たるを救いたまえ。新たに生まれし我らが愛子を救いたまえ。汝が忠実なる僕の願いもて、哀れな信徒を救いたまえ。願いの贄は我が身に代えて……」
戸惑う者たちの視線を受けながら、ペイスは何かしらの呪文らしきものを唱える。
如何にも仰々しい神への祈りの言葉を紡ぎながら、ペイスは魔法を使う。
「おお、神よ、偉大なる御力に感謝いたします。我が祈り聞き届け給うたか!!」
大げさな身振り手振りで神への賛歌を滔々と語らうなか。
“神の力”とやらは劇的な効果をうんだ。
ジョゼの体調は目に見えて回復し、赤子がいよいよ産声をあげたのだ。
「生まれたわよ!!」
ペイスは、おぎゃあおぎゃあと元気に泣く赤ん坊がへそのをを切られるところまで見届け、産室を出る。
「全員、目を開けて良し。そこの貴女、すぐにウランタ殿の元へ走りなさい。産まれましたよ」
「は、はい!!」
ペイスに指名された侍女が、立ち上がって走り出す。
ややあって、ウランタが髪も顔も濡れたままで駆け込んできた。
「元気な男の子ですよ」
ペイスの言葉に、ウランタは文字通り飛び上がった。
あまりの嬉しさに、感情が爆発したのだろう。
産婆の許可を取ってウランタが産室に入った時。
ジョゼの腕の中には小さな命が抱えられていた。
「ジョゼ、お疲れ様」
「疲れたわ。……神に感謝しないと」
「ええ。ええ。本当に、無事に生まれてよかった」
「ウランタ。この子に名前を付けてあげて」
そっと、ウランタに赤ん坊が渡される。
布に包まれた、真っ赤な色をした男の子。
「この子の名前はスプレンドーレ。スプレンドーレ=ミル=ボンビーノです」
ウランタは我が子を腕の中に抱えながら、愛息の名前を初めて呼んだのだった。