484話 空転直下
人類がいつから始まったか。
これには諸説あり、はっきりとしたことを断言できる人間はいない。
何をもって人類とするかの定義も曖昧であるし、猿から進化したであろう人間と、猿の境界線をくっきりと区切ることも難しいのだ。
二足歩行すれば人間なのか。道具を使えば人間なのか。抽象的概念を理解すれば人間なのか。言葉を理解すれば人間なのか。
何を基準にヒトとするかは、学問を行う人間にとっても大いに議論の余地が有る部分。もしかすれば、遠い将来には今を生きる我々でさえヒトに進化する途中であったと言われるかもしれない。
だがしかし、人類がいつから始まったかは分からずとも、その瞬間から間違いなく存在していたであろう事実がある。
子供を出産していたという事実だ。
ヒトが生物であ以上、生物の大原則として子孫を残さねばならない。自己複製としての繁殖行為は生物の生物たる最も根源的な定義だ。
神王国のある南大陸でも宗教は複数存在する。その全ての宗教で共通して貴ばれるのは子供を産み育てるということ。子供というのは未来そのものであり、赤ん坊というのは常に庇護されて然るべき存在である。
医療の未熟な世界では、子供を産むというのは女性にとって命がけの行為。また、生まれたての赤ん坊も些細なことですぐに死んでしまう。だからこその貴さというのもあるのだろう。しかし、当事者としては命を懸けることに重大な不安を覚えるもの。
母体の危険性を出来る限り減らし、この世界に生れ落ちる赤ちゃんの命を守る。
これは、伴侶たるものの仕事。
ウランタ=ミル=ボンビーノは自分の愛する妻の出産が間近になってきていることで、自ら果たすべき役割を熟さんと気合の上にも気合を入れていた。生まれてこのかたこれ以上は無いと断言できるほどのやる気の高ぶりと、テンションの高さ。
何が何でも愛妻と子供を守ってやるという覚悟を決めていた。
そして、から回っていた。
「どうしよう、どうしよう」
「ウランタ様、落ち着かれますように」
「そうだね。落ち着かなきゃ」
ああ、どうしよう、どうしようと、うろうろと部屋を歩き回りながら、落ち着かなきゃいけないと思いつつ、やることがあれもこれもと浮かんできて、どれから手を付けるべきかに悩み、ああどうしようと考え込む。
誰がどう見ても、混乱している。
やる気だけは間違いなくあるのだろうが、やることをどれから手を付けるべきかで思考が空転し、実に滑稽な状況になっていた。
ここ最近は頼もしくなってきていると部下たちの誰もが評価していただけに、ある意味で懐かしさを覚える空回りに対して補佐のケラウスも苦笑いである。
「出産予定日まではまだ幾ばくか余裕が有ります。今からそのようにされていては、いざという時に動けなくなりますぞ」
「頭では分かってるんだけど……」
神王国において貴族と平民の違いで大きい違いは、出産に関わるサポートの手厚さだろう。
まず、技術や知識が飯のタネになる人間は、その知識や技術を出来るだけ秘匿したがる。人に教えて商売敵を増やすことは自分の利益の喪失につながるのだから、当たり前の自己防衛として知識の隠匿を行う。知的財産の保護という概念も無く、公的補助の整備も未熟で、最後に頼れるのは自分だけだとなれば誰だって自分の価値を高いまま保とうとする。
教えるのは、自分の弟子として囲っている者のように、極々限られた相手にだけにするのが普通だ。
つまり、技術や知識を持つものは、そもそも貴重な存在。
貴族にとって子供を増やすというのはお家の安泰に繋がる。
出産に関する知識や技術は当然最優先で確保する訳で、産婆や助産師や産科医のような人間は貴族が大金をはたいてでも自分たちの手元に置く。また、彼ら彼女らが持っている知識も保護し、権力を使ってでも守る。安全を守るのもタダではないし、秘密を守るのにもコストがかかる。自分が金を掛けているものを、無償で分け与えるなどというのはあり得ない。
下々の人間が出産する時には、貴族の抱える高度な出産サポートなどは受けられないということ。
つまり、安全に出産出来る環境というのは、貴族にとって財産なのだ。
では、ボンビーノ家の現状はどうか。
残念ながら、ボンビーノ家はウランタが生まれた十数年前から出産とは縁遠い家になってしまった。
本来であれば、次世代のことも考えて産婆を雇っておくのが貴族家としては常識なのだが、悲しいかなボンビーノ家は一時期大変に貧しかった。没落に没落を重ね、爵位喪失の寸前までいっていたのだ。
出産の専門家のような高給取りを抱える余裕はなく、またウランタが成人するまでは必要ないということで、産婆を全て手放していた。
何処とは言わないが、最近三つ子を出産した金満貴族が謝礼金をたんまり払ってボンビーノ家から助産師を引き取っていたりもする。ここなどは近隣から腕のいい助産師を金に物を言わせて根こそぎ掻っ攫っていった。
早い話が、ボンビーノ家には助産師が不足している。
目下、ウランタは頑張っていた。
ジョゼの妊娠が判明して以降、あらゆる伝手を動員し、大貴族とも面と向かって交渉をし、頑張って助産師を集めるように動き、安心して出産できる体制を作ろうと四苦八苦していたのだ。
南に助産師を囲い込んでいる銭ゲバ狐が居れば、行ってうちに返してくれと頼みこみ、北に腕のいい助産師が居ると聞けば、行って金なら欲しいだけあげるから一年だけでも来てくれと懇願し、東に出産の専門家が居ると聞けば、それが馬の出産であっても知識を譲ってくれと交渉する。
結果として、最低限貴族として満足できる程度には、体制を整えられた。そこまでの苦労は推して知るべしだろう。ウランタは頑張った。誰が見ても拍手を贈るぐらいに汗をかいて頑張った。
産婆も四人抱えて、交代制で四六時中誰かが動けるようにしてあるし、二十四時間いつだってお湯を沸かしてある。薪の消費など知ったことでは無いとばかりに、清潔なお湯がお風呂のサイズで湧きっぱなし。布に関してもちょっとした小部屋が埋まるぐらい用意してあるし、薬の類も解熱剤から止血剤から、果ては下痢止めまで揃えて備えてある。
乳母の手配も既に十分整えてあり、身元の確かな出産直後の女性を何人も手元に雇い入れていた。
大丈夫、これで安心。
そう思えるならばウランタも気楽なのだろうが、根っからの真面目な性分が邪魔をする。
心の底から惚れ切っている愛妻のことだ。どれだけ準備していても、まだ足りていないものが有るんじゃないかと不安になる。
普通の家であれば、出産経験の豊富な身内が居て、どこまで準備すれば安心なのかを線引きして教えてくれるもの。
ボンビーノ家に姑はおらず、翻って出産に伴うアドバイザーも不在。
「奥様が居られたら、また違ったのでしょうが」
「母様は居ない。死んだ人が生きかえることは無いから、仕方がないよ」
「それはそうでしょうが、おられればどれだけ心強いかと。いえ、これは余計なことでしたな。失礼を」
「いいさ。僕だってそう思わなくもない」
ウランタの母親がもし今この場に居てくれれば。
それはそれは心強かったことだろう。
ウランタの狼狽を諫めてくれただろうし、落ち着く為に昔話もしてくれたはず。ウランタとて木の股から生まれた訳では無く、母親から生まれてきたのだ。自分が生まれた時の話を聞けば、少しは落ち着けただろう。
「側の方様を追放したのも、少々勿体なかったですな。今居られれば、役に立ったでしょう」
「それはそうかもしれないけど……代わりに、生まれてくる子を殺しかねないよ」
「まあ、確かに」
ケラウスのいう側の方様とは、ウランタの父が非公式に側室としていた女性。早い話が先代の愛人だ。
どうやら隣領の息が掛かっていた工作員のようなものだったらしいと今では判明しているが、子供を産んでいる。
本当に先代の子供だったのか怪しいものだが、彼女は自分が生んだ子を先代の子だと主張し、先代もそれを黙認していた。
先代が無くなり、さらにはウランタの母まで亡くなった時。ボンビーノ家の次代はウランタではなく自分の子にするべきだと主張して、ボンビーノ家の内部を大きく乱してくれた女性である。
出産経験者としてのアドバイスが有れば大いに役立ちそうなのは確かだが、この場に居れば物騒なことを考えていたはず。
補佐役としても、ウランタが落ち着く為の雑談なのだろう。本気でこの場に居て欲しいとは思っていまい。
「でも、どうしよう」
どこまでも、不安拭うには不十分。
どうすれば、自分の不安を晴らせるのだろうか。
ウランタは考える。
かつて、自分の尊敬する同い年の青年はどうであったか。いつも冷静沈着であり、常に先手を読み、堂々としていたでは無いか。どんな時であっても狼狽えるということは無く、不測の事態であっても落ち着き払って、普通では思いつかないような素晴らしい手を考え、最善の一手を打つ。
ああいう風に自分もなりたいと、憧れたのでは無かったか。
彼の義弟ならば、今のような時はどうするだろうか。
「……モルテールン卿なら」
「は?」
「いや、ペイストリー殿なら、こういう時にどうするかと、ふと思ってね」
「そうですなぁ、私のような凡人では測れないお方ですが。私が思いますに、自分に使えるであろう手札は全て検討しそうですな」
「ふむふむ」
ウランタは、ケラウスの言うことに大きく頷く。
確かに、用意周到を絵に描いたような彼であれば、今回のような場合でも自分に出来ることは全てやっているはず。
モルテールン家は、使える人脈も多かろう。羨ましい話ではあるが、無いものを強請っても仕方がない。
ウランタには、ウランタにしか無いものもある。ボンビーノ家ならではの人脈もある。使えそうな手札というものを、改めて考える。
北南東。今更少々の手間暇を掛けるなど何ほどのことも無い。そして西に魔法の使えるお菓子馬鹿が居るならば、行って……。
「そうだ!!」
ウランタは、とっておきのアイデアを思い付いた。その瞳には、英知の輝きがきらめいていた。