456話 嵐
「大きいのが来るぞ!! 右からだ!!」
「おおう!!」
強風吹きすさぶ中、船の高さを軽々と超えそうな大きなうねりが、ジョゼフィーネ号を襲う。
船の中はさながら絶叫アトラクションである。
遊園地のジェットコースターと違いが有るとするなら、絶叫マシンは安全が確保されているが、ペイス達の船は安全の保障など微塵も無いことだろう。
ぐらりと船体が右に傾いたかと思うと、すぐ後に大きく船が持ち上げられながら左に傾く。
横波を受けた上での激しい上下動。前後はともかく、上下左右にミックスジューサー並みの勢いで揺れまくる。
慣れた船員でも船酔いしそうな恐ろしい動きであるが、ペイスはじっと船長室で立っていた。
勿論手近なものに掴まっているが、それでも立っていられるだけたいしたものだ。
伊達に虐待紛いの特訓を受けてきた訳ではない。
体幹の強さはそこらの人間の比ではないのだ。
「ぎぼぢわ゛る゛い……」
対して、船に慣れていないプローホルは、既にグロッキー。
胃の中のものを全て外に出しきってしまった上で、気持ち悪さに苦しんで倒れている。
吐く物などとうになくなっているはずなのに、嘔吐感の気持ち悪さが続く地獄。
船酔いの最上級。至高の嗚咽。究極の吐き気がプローホルを拷問していた。
「全員掴まれ!! 飛ぶよ!!」
ニルダの叫びの中、船が大きく上に持ち上げられたところで、浮遊感が生まれる。
巨大な波を斜行で乗り越えたことで生まれる僅かな飛翔だ。ニルダの目測でも船体の倍はある高さからの落下。
地に足のつかない無重力のような感覚。
一瞬生まれた宇宙空間は、すぐに強烈な叩きつけられる衝撃で搔き消された。
ガツン、と水の上に船が叩きつけられた衝撃だ。
とんでもない衝撃で、床に転がっていた生ごみもどきが、天井付近まで飛び上がるほどである。
「姐さん!!」
衝撃が有ったあと、船の下部から男が上がってきた。
外に出るのは命取りで有る為、船内のはしごを使った移動だ。大きく揺れる船内ではしごを使えるだけでも、大した練度である。
上がってきた男は、かなり焦っていた。ニルダを呼ぶ声にも、必死な様子が窺える。
「何だい!! 今取り込み中だよ!!」
非常事態に際し、他人に任せる訳にはいかないと舵を握っていたニルダ。
間違いを起こすことが出来ないだけに、真剣な表情で集中していた。
取り込み中に言うのは、文字通りの意味だ。
「船底に罅入った!!」
「畜生が!! そこら辺の役立たずのケツでも詰めときな!!」
凶報である。
先ほどの衝撃が有ったせいか、船の底に亀裂が起きたという。
この荒れた海の中で船が沈みでもしたらどうなるか。まず間違いなく全員揃って魚か鮫の餌になる。
とはいえ、ニルダは今のところ手が離せない。
船底の罅は放置も出来ないが、かといって今は離れる訳にもいかないと、ニルダは難しい選択を迫られる。
助け舟を出したのは、誰でも無い。非常識の塊である船長ペイスだ。
「僕が行きましょう」
「へい、案内します」
船の底は、既に浸水が起きていた。
亀裂と思しき場所からは、勢いよく水が噴き出している。
ペイスが見る限り、水道に繋いだホースの口先を潰して、水の勢いを強くするような状態だろう。細い亀裂に水圧が掛かっていることで、かなり強い勢いで水が船内に侵入している。
「亀裂はあそこだけですか?」
「うっす!! そうっす!!」
一生懸命に手で浸水を防ごうとしていたり、服を当てて水を止めようとしていたり。大勢の水夫が右往左往している中。
一人冷静な船長が、水の漏れている場所に目を向け、そしてすっと指をさす。
「こういう場面なら、僕の出番です。船長命令!! 全員離れなさい!! 転写」
ペイスは、転写と口にしつつ【凍結】の魔法を使う。
外国のお姫様の留学でトラブルが有った際に、何故かペイスが使えるようになった魔法である。
単にお姫様が体調不良であり、何も起きていなかったはずの日に、どういう訳かペイスが学校に居て、いつの間にか手にしていたという不思議。真実は、限られたものしか知らない。
物を凍らせる魔法というのは、戦場においては一騎当千の活躍が出来る。そして今は、船体の応急手当に使えるのだ。
魔力がぶわりと辺りに広がり、一瞬で亀裂ごと氷で固まった。
パキパキパキと、見ている方が気持ちいいほどに白いもので船底が覆われていく。
「うぉぉおおお!! 水が止まった!!」
「流石は龍殺し!!」
「半端ねえ!! こんなん有りかよ!!」
誰が叫び出したのか。氷で浸水が止まった瞬間。船内が別の意味で揺れた。
何とか浸水を止めようと布やら何やらを突っ込もうと奮闘していた船員たちが、瞬きする間に止まった浸水と、それを為した氷の芸術に歓喜の声を上げたのだ。
これで沈没の危機は去った。
足元のふくらはぎ辺りまで溜まった海水の中、大騒ぎの水兵たち。
「僕が浸水を止めている間に、補修を行いましょう。一旦、補修用の空間を作るので待っていてくださいね」
ペイスがさっと魔法を使うと、氷の範囲が広がる。
外側にも氷のドームが出来たのだ。
内側からどれだけ板を打ち付けても、外からの圧力を防ぐのは難しいのだが、外から板張りしなおせば、外からの圧力には強くなるのが道理。
「よっしゃ、今のうちに直せ直せ!!」
「板もありったけもってこい!! 足りねえなら、ワイン樽を潰しちまえ!!」
「中身が入ってたらどうすんだ?」
「捨てちまえ」
「勿体ねえよ、飲んじまおうぜ!!」
「バカ野郎。酔っぱらって嵐が越えられるか。ニルダに殺されてえのか!!」
やいのやいの、騒がしくなる。
元々が傭兵団の出身という連中ばかりなので、ガラが実に悪い。
罵倒語がそこら中に飛び交い、下品で乱暴なことこの上ない。
上品な貴族を自認し、平和主義者を自称するペイスとしては、自分の仕事は既に終わったとばかりに船長室に戻る。
「おう若大将、魔法で上手く浸水を止めたって?」
「ええ。割と簡単でした」
ニルダの問いに、何でもないように答えるペイス。
尚、粗大ごみはまだ横になって唸っている。
「言ってくれるねえ。船が沈むことを覚悟してたってのに」
船の舵を握ったまま、ニルダはペイスに謝意を示す。
船に乗る以上一蓮托生ではあるのだが、ペイスが居なければ最悪の場合船が沈んでいた。
よく船を救ってくれたと、ニルダは感謝すること頻りである。
「修理も出来そうでしたから、このまま行きましょう」
魔法の効果も有って、船は十分航海に耐えうる程度に修復できそうであった。
船が無事だというのなら、航海はそのまま続ける。
ペイスの決断には、ニルダも頷く。頼もしき魔法使いが居るなら、何の問題も無かろうと。
「あいよ。さっきみてえな馬鹿でかい波がもう来ねえよう、祈っておいてくれ」
「ニルダさんが祈った方が良いのでは? 神様も美女の方が嬉しいでしょう」
「生憎と、神様とは喧嘩中でね。煩い坊主を海に投げ込んだ時から、そりが合わないのさ」
昔、傲慢な聖職者を船から海に放り出したという、豪快なエピソードを語りながらも、操船の冴えを鈍らせないニルダ。
嵐の中、操船の達人と応急処置の達人が、タッグを組んだまま進むのだった。
◇◇◇◇◇
朝。
「くああぁ、晴れたなあ」
水兵の一人が、徹夜のまま甲板に出た。
朝日の中で輝く空には、昨夜の嵐の面影はない。どこまでも透き通るような素晴らしい青空である。
雨過天晴な一日の始まり。
男は、自分の仕事の為に見張り場所に行く。
船の高い場所に設けられた、監視のための場所だ。
一望千頃の見晴らしのよさ。
水平線の彼方まで見渡せそうな状態だ。
「お~い、朝飯だぜ」
「お、ご苦労。早起きだな」
「昨日の嵐は俺何もすることが無くて、さっさと寝てたから」
水兵に朝食を届けに来たのは、雑用の下働きとしてこき使われているクーだ。
子供故の寝つきの良さだろうか。嵐でシェイカーになっていた船内でも、ハンモックを使ってぐっすり寝ていた。
風雨のなかで一歩間違えればあの世行きという状況で眠りこけるのだから、クーの神経も中々に図太い。
「いい景色じゃん。俺、こんな景色見たの初めてだ」
「おうそうか。折角だからしっかり見とけよ。こんな見晴らしのいい日は滅多にねえからな」
海の上というのは、遠くまで見ようとすると歪んで見えることが意外と多い。
寒暖差であったり、蒸発する水蒸気であったりが影響して、遠くであるほど光が屈折するのだ。
時にそれは蜃気楼などと呼ばれる現象になったりもするのだが、今日は嵐の後のせいか、綺麗に遠くまで見渡せる。
こんなに遠くまで視線が通るのは、それこそ年に一度あるかどうかといった感じだ。天候というなら、とても恵まれた状態。
「しっかし、あの海蛇が、嵐を読み間違えるたあねえ」
「読み間違い? 嵐がくることって、分かるものなの?」
「絶対って訳じゃねえが、海と空をずっと見てりゃ、何となく分かるようになるのさ。姐さんは船の上で育った生粋の船乗りだからな。今まで嵐になる前には船を適当なとこに停めてやり過ごしてたんだが……やっぱり、遠くまで来て、海が違うと読みが外れるってのがあるのかね?」
海蛇ニルダの海洋航海術には、水兵諸氏の信頼も篤い。
普段であれば百発百中で当てていた天候を、何故か寄りにも寄って今回の嵐では“不自然なほどの大外し”をした。
船がひっくり返りそうな嵐など、普通は前兆も分かりやすく起きるはずなのだ。
にも拘らず、まるで“突然嵐が湧いて出た”ような状況に陥った。
準備をする間もなく嵐に突入したのだ。
最新鋭の大型外洋船、卓越した乗組員の操船技能、ペイスの魔法。それらのどれかが欠けていれば、恐らく今頃は海の底である。
「俺は分かんないけど、ペイス兄ちゃんまで読めなかったってのも面白いよね」
「あん? 魔法使いの坊ちゃんか? ありゃ海に関しちゃ素人だろう」
「でもさ、空からの絵が描けるなら、風を読むぐらいはやりそうじゃない?」
「あの坊ちゃんなら、何をやっても驚かねえな、確かに」
食事をしながらの無駄話。
穏やかな風に暖かい日差し。順風満帆世はことも無し。
「おっちゃん、おっちゃん」
「バカ、お兄さんと言え」
「どうでもいいって。それよりも、あっち、何か見えねえ?」
「あん? ……俺にはなんも見えねえぞ」
子供が指さす方をじっと見る男であったが、流石に何十キロと離れたところまで見える程視力は良くない。
「見えるって。あ!!」
目が良いのか。或いは“何かしらの手段“を使ったのか。
クーは、自分が見たものに確信を持った。
慌てて船内に戻り、船長室に飛び込む。
「兄ちゃ……ペイス様、俺、見つけたかもしれねえ。変なの見つけた!!」
「何ですって!?」
朝食中だったペイスは、クーの言葉に急いで甲板に出た。
見張り場所に上ると、クーはあれ、あれと指さす。
ペイスは、クーの言った方向に目を向ける。
じっと目を凝らしつつ【遠見】の魔法を使ってみた。
すると、その姿がはっきりと見えてくる。
間違いなく、探し求めていたものだろう。
「なるほど、これは……クー、ニルダさんを呼んできて下さい」
ペイスは、見つけた“島”に驚きを隠せない。
急いで駆けつけたニルダは、徹夜仕事で眠そうにしている。
「ニルダさん、この方向に進んでください。速度次第では、方角が変わるかもしれないので注意を」
「方角が変わる? 何言ってんだい?」
「お願いします。僕が見張り台から指示します。言われた通りの方向に進んでください」
「……なんだか知らないが、それぐらいなら良いさ」
船の動きは、ニルダの部下が担当することになった。
ニルダは仮眠をとることになり、それだけでも危険なことへの備えになろう。
やがて、クーの見つけた“島”が目視できる距離までやってくる。
ぺイス達の目の前には、島と見まがうばかりの巨大な海亀の姿が有った。