448話 出航準備
レーテシュ伯爵領の港。
大型船舶が幾つも停泊できるように整備された国際貿易港の一角に、ペイスは笑顔で立っていた。
「壮観ですね」
少年期を過ぎ、青年と呼ばれてもおかしくない年頃となっているペイスではあるが、好奇心の強さは少年の時から変わらない。
キュリオシティ溢れる彼の目の前には、巨大な船が浮かぶ。
つい今しがたついたばかりの最新鋭の帆船。更にはつい先ごろ就航したばかりの新造船で、名前をジョゼフィーネ号という。
船の名前を聞けば敏い人間ならばすぐにも気づくことではあるが、この船はボンビーノ船籍。
ボンビーノ子爵家が一年半の時間と、三千クラウンという大金をかけて作ったばかりの、最新鋭の外洋船である。
名前の由来は言わずもがな、ボンビーノ子爵ウランタの愛妻であり、ペイストリーにとって一番下の姉であるジョゼフィーネ=ミル=ボンビーノ子爵夫人から取られた。
愛する妻の名前を船に冠するなどというのは、家族愛の強いモルテールン家の影響を、ウランタが強く受けているというアピールでもある。
社交の場において、機会があればモルテールン家の人間は家族の親密さをアピールしてきた。身内の結束の強さと、近親者への信義の篤さを喧伝することで、モルテールン家に対するイメージを固めるという狙いも有るからだ。
貴族同士の交流において、特に交渉相手において、相対する者の価値観を知るというのは重要なことだ。相手にとって何が重要で、何が大事か。重きを置くものをしっかりと把握しておかねば、余計なところで虎の尾を踏む。
礼儀作法を重んじる相手に挨拶をしなかったら相当な悪印象を与えるだろうし、或いは長幼の序を重んじる相手であれば年下から馴れ馴れしく接すれば怒りを買う。男尊女卑の意識が強い相手であれば、女性から声を掛けるのは余りよろしくない。
勿論、価値観を知るのは悪影響を避ける為だけではない。
礼儀作法をさほど重視しない相手であれば、初対面から作法を崩した方が好印象だ。フランクに接することを喜ぶ価値観も有り得る。或いは、年功序列を因習だと軽蔑しているような相手であれば、年上だから、年下だからといった部分に拘るより、年齢を気にせず実力や成果といった部分で対応の差をつける方が喜んでもらえる。
モルテールン家の場合、親しい人間への偏愛が価値観の基本。
常日頃から家族同士が仲の良いことをアピールしておくことで、モルテールン家の人間のご機嫌を取ろうと考える人間は、周りの人間も大切にしようとしてくれる。
駆け落ち紛いに結婚した当主カセロールが、妻アニエスを守る為に始めたことだ。家族に手を出すとタダでは済まさない、という威嚇も含めて、モルテールンの家族愛アピールは有名である。
八割がたは天然の家族愛でもあるが。親馬鹿の異名は狙っていた訳では無く自然に生まれた二つ名だったりする。
つまり、ボンビーノ子爵家の船に、モルテールン家出身の妻の名を冠するというのは、モルテールンの流儀を模したものと言える。
モルテールン家とボンビーノ家が、極めて強い繋がりが有るのだ、という宣伝を兼ねているということ。
家族愛をアピールしておけば、社交の場においてボンビーノ家所縁の人間はお互いがお互いの結束を外交的なカードとして使える。
ボンビーノ家を敵にしたら、モルテールン家が黙っていないぞ、という訳だ。勿論、逆も同じ。
無論、無能な身内でも見捨てられずに足を引っ張られるデメリットも有るが、身内が少ない家であれば相当に有効な手段だ。
「あの船が、乗り込む船ですか?」
「ええ。プローホルも船酔いには気を付けることです」
では、この船が何故、レーテシュ領の港に有るのかと言えば、勿論ペイスが借り受けたからだ。
船員付きのレンタルで、一ヶ月千二百レット。レーテシュ金貨千二百枚で一ヶ月という“特別価格”で借り受けた。プラウ金貨換算なら六百クラウンから六百五十クラウンといったところだろうか。船の建造費のおよそ五分の一。レンタル料として考えるなら、破格だ。金に物を言わせたともいえる。
しかも、金銭的に不自由しないモルテールン家であるから、現金一括払いである。ボンビーノ家の会計役が、揉み手でペイスに感謝したとか、しなかったとか。
どこの家でも、決算時期に現金を纏めて用意できるのはこの上なく心強いものだ。
「よう、モルテールンの坊ちゃん、わざわざ出迎えかい?」
「ええ。ニルダさんもお変わりなく。お元気そうで嬉しく思います」
船から、船員がぞろぞろ降りてくる。
最後に降りてきたのが、今回のジョゼフィーネ号の操船を任された人物。
ペイスとも顔なじみであり、元は無頼の傭兵であった海蛇のニルダことニルディア女史だ。
海賊討伐をきっかけにペイスやウランタの知己を得て、海賊騒動終結後にボンビーノ家に雇われて従士となった。
今は隊長として一隊を預かって海の治安を守っており、ボンビーノ家の海蛇として近隣には名の通った立志伝中の女性である。
威風堂々。
音に聞こえた龍殺しの英雄に相対していても、決して卑屈になるでもなく堂々としている彼女の姿は、実に頼もしいものである。
「必要なものは揃いましたか?」
レーテシュ領の飛び地である、ゴンゴイ島を経由地として補給を行い、聖国の港には寄港せずに一気にサーディル諸島を目指す航路になる。
普通の航路とは違う為、どれだけ準備してもし過ぎということは無い。
ましてや今の時期は海の水も冷たい。
南にあるケレスーパ海は温暖な海とはいえ、そこから更に外洋へ出れば水も冷たく、また波も荒くなる。
はっきり、危険だ。
故に、ニルダはその旨をはっきり口にする。
「正直、不安はある」
「ほう」
海蛇との異名をとる、海のエキスパート。操船に関しては界隈でも指折りの達人集団が、不安を口にするのだ。
それだけで、相当に危険な香りがしてくる。
「あたいらも、操船に関しちゃ自信もある。新しい船の癖も掴んでるし、何よりこの船は出来がいい。普通の船に比べりゃ、雲泥の差だ」
「それでも、不安が有りますか」
「ああ。何せ、航路の無い海に出ようってんだからね。海の怖さは、あたいらは嫌というほど知ってる。坊ちゃんが只者じゃないことはよく知ってるが、それでも何が有るか分からないってのは覚悟しといてもらいたい」
「分かりました。覚悟しておきます」
海の怖さをよく知る人間からの意見は、ペイスも神妙な姿勢で拝聴する。
彼とて、決して海を舐めている訳では無いのだ。
外洋の怖さは十二分に知悉している。
その上で、リスクを許容してでも得られるリターンに魅力を感じているのだ。
欲望と言ってしまえばそれまでだが、ペイスのペイスたる根幹がお菓子に対する偏執的な愛情であり、行動原理の全て。
むしろ、ここで危険にビビってお菓子作りを諦めるようでは最高のお菓子など夢のまた夢である。
ペイスは、覚悟を改めて決める。
依頼人の決意が固いことを察したのか。
ニルダは、それ以上の脅しはしない。
「ああ。分かってくれたのなら結構だ。それで“伝統行事”は必要かい?」
「……今更、ですか?」
海蛇ニルダの言う伝統行事とは、陸での顔見せである。
船の中では些細なことが大事故に繋がりかねないし、ちょっとしたことが人の生き死にに直結する。
何せ、甲板一枚、板一枚隔てた下は、底すら分からない深い海。他に何もない外洋で、仮に船から落ちでもしたら。時速何キロ、何十キロという速度で動く船が、“落とし物”を見つけられる可能性は限りなく低い。
自動車で移動中に、窓からポロリと落としたキーホルダーを、探しに戻って見つける難しさを思えば分かりやすい。更に、道路という目印も無いから、同じ道を引き返すわけでも無いのだ。難易度的には上手く見つかる可能性は奇跡と呼ぶに近しい。
つまり、人が船から落ちてしまえば、それはもう死である。
初めて言葉を交わすのが船の中、海の上になると、もしもそりが合わないとなった時、要らぬトラブルになりかねない。トラブルが起きれば、船から人を落とす奴もいるだろう。何せ、証拠はどこにも残らない、確実な殺人である。
船の中は、陸とは違った強い結束と信頼関係が無ければ、簡単に人が“行方不明”になってしまう。
故に、陸に居るときに、ある程度顔を見せ、交流を持っておくのが伝統とされている。
この“交流”のやり方は、荒っぽいものも含めてのこと。
時には腕試しで拳を交わしておくというケースもある。実に物騒な伝統だ。
今回は流石に殴り合いは許容されないだろうが、それでも顔見せぐらいはしておいた方が良いと、ニルダは言う。
「ああ。一応、初顔になる奴もいるし、あたいらもそっちのひょろいのは初顔だ。伝統行事は早いこと済ませておきたいね」
「では、船員を集めて貰えますか」
「あいよ」
ニルディア女史の統率の元、ボンビーノ子爵家の精鋭たる海兵たちが集まる。
ぱっと見た感じでは海賊と間違えそうな者も居るのだが、ペイスとしては見知った顔も多かった。
何故か無性に海の男たちからは慕われているのがペイスという男だ。
よう久しぶりじゃねえか、元気そうだな、何だ背が伸びたじゃねえか、酒は飲めるようになったのかなどと、荒くれ者どもの言葉を受け取る。
更に、ざっと集まった連中の、新顔に名前を尋ねていくペイス。新しい人間が分かるというのも、それだけニルダ一派の連中と親しいということでもある。
一通りの確認が終われば、次はペイス達の番。
「既に承知の方も多いと思いますが、モルテールン子爵カセロールが子、ペイストリー=ミル=モルテールンです」
「プローホルと言います。よろしくどうぞ」
今回のペイスの船旅のお供は、プローホルだ。
他にも何人か居るが、従士は彼だけ。
まだ年若く細身で有るが、寄宿士官学校の首席卒業生であり、ペイスが直々に鍛え上げた俊英でもある。
武術の腕も人並み以上であると紹介されたことで、ボンビーノ家側も安堵した様子だった。
やはり、同じ船に乗るのなら頼もしい方が良い。
童貞臭いだのニルダに喰われねえよう気を付けろだのイイ男だからあたしが食べてあげましょうかだの、下品な野次が飛んだが、プローホルもモルテールンで鍛えられた精神力でポーカーフェイスを貫く。
これにはこっそり、ニルダあたりが感心していたりするのだが。
そして、挨拶も一通り終わった後。
最後に一言と、ペイスが皆の注目を集める。
「尚、船長は僕が相努めます」
「えええ!!」
皆は、一様に驚くのだった。