442話 酒造り
モルテールン領の西ノ村。
ごくごくありふれた農村といった外観と風貌であるこの村は、昔から村人の質が違う。勤勉であり、領主に対する忠誠心が篤いのだ。理由はと言えば、この村の特異性にある。
常日頃から隠し事の多いモルテールン領では、重要なものは大抵コッヒェンにあるのだ。
隠していると言って良い。
行こうとすれば必ず本村を通らねばいけない場所にあり、神王国各領へ通じるメインの道路からは直接行けないし、何より存在そのものが口外法度である。
モルテールンに昔から住んでいる地元民でなければそんな村が有ることも知らないし、分からない。最近は移住してきた人間も増えているのだが、知らなければそもそも漏れることも無いという判断だ。
従士の中でも新人たちには知らされておらず、先輩格でも知るものは限られるという、本当に隠された村。
モルテールン領の中でも、地図にすら載せない村。空から偵察でもしない限りは、まず知られることは無い。
このコッヒェンでは、他の村で採れたサトウモロコシから作られるモロコシ糖の製糖や、新作物の栽培試験などが行われている。
モルテールン領のメイン事業の根幹と、将来の為の知識の結晶が、ここにあると言って良い。今では製糖は他の村でもされているが、これはコッヒェンで得られた知見を他の村に広げたからだ。隠して細々とやる段階は過ぎたと判断された結果、他の村でも砂糖が作られるようになった。
製糖の効率化や品種改良などもこの村で行われていたりするのだが、これはペイスとカセロール、そしてシイツ他三人ほどしか知らない事業である。
開拓村としての歴史はかなり古いのだが、水場の都合上で開拓当初から本村からやや離れた場所に位置していた。故に元々本村と一体運用されていた過去が有り、領地経営が黒字化して以降は本村の運営と切り離して秘匿を主眼にしだしたというのがこの村の成り立ち。
大事な大事な、モルテールン領の宝箱と言って良い。
そして、特別な酒造所もある。
モロコシ酒はそれなりに醸造所も幾つか作られていて、本村でも作っていたりするのだが、酒の改良や製造法の研究などは他にバレて盗まれる訳にもいかず、こうしてコッヒェンに隠している訳だ。
知的財産の保護という概念も無く、技術や知識は奪われたなら泣き寝入りしかない世界。情報防衛や職人の保護にはどれだけ気を使っても気遣い過ぎるということは無い。
知識は財産であるが、力無きものの財産は力づくで奪われてしまう世界なのだ。世知辛い話である。
新しい酒造方法を試す、醸造所。
毎日絶えることなく酒の匂いをさせる場所。
香りだけで酔っぱらってしまいそうな酒の聖地に、ペイスは足を運んでいた。
勿論、一杯飲みに来たなどと寝ぼけた話ではない。
「親方、酒造りの調子はどうですか?」
「こりゃ、若様。呼んでいただければ儂の方から出向きましたものを、失礼致しました」
「いえ、様子伺いですから、そこまで堅苦しいものではありませんよ」
ペイスの声掛けに反応したのは、五十も幾つか越えたであろう男性。
この世界では既に老人と言われる年の、浅黒い肌をした職人である。腰も幾分か曲がり始めているし、顔には幾つもの皺があった。髪も白いものが多く雑じっているし、片目には白い濁りも見えた。
手にも黒くくすんだ汚れが定着していて、長い年月を技術者として生きてきた年輪を感じさせる。
元々はとある男爵領でワインを製造していた職人であったのだが、諸般の事情から酒造りを出来なくなったところ、モルテールン家に拾われた経歴を持つ。酒造り一筋に生きてきた、生粋の技術屋。
ワイン造りの腕は一流と言ってよく、醸造の知識も持っていた。細菌学などの知識は知らなかったが、経験則と師匠からの教えで、目に見えない何かの存在が酒造りに大きな役割を果たしていると理解していた人物である。
モロコシ酒の製造販売が軌道に乗ったのも、彼の力がかなり大きな部分を占める。ペイスが幾ら酒の作り方を分かっていたとしても、味の改良や南大陸に適した醸造法の模索などは、地道に経験を積んだ人間に敵うはずも無い。
しかし、幾ら熟練のワイン職人と言えども、モロコシ酒などというものはモルテールン領に来てから初めて作ったもの。ワイン造りとは勝手の違う部分も多く、未だに試行錯誤の毎日。
コツコツと仮説を立てては条件を試し、結果が出ればそれを検証し、また仮説を立てていく。地味と言えば地味な、美味しい酒造りへの拘りと情熱を持つ男だ。
職人精神に通じるものが有ったのか、ペイスと彼は大変に親密に付き合っている。
ツーと言えばカーと答えるぐらいには以心伝心であり、職人もペイスのことは信頼していた。そこらの金儲けしか考えていないような貴族とは違う。酒の味も、酒造りの何たるかも知らずに、ちょっと齧っただけの知識で訳知り顔に蘊蓄を語ったりもしない。結果を焦って急かせることも無ければ、無駄に予算を削ることも無い。
物作りをする人間にとっては、理解のある支援者ほどありがたいものは無いのである。
「大分、体制が整ってきましたね」
「ありがたいことです。ここまで自由にやらせてもらえるたあ、職人冥利に尽きます」
人手不足甚だしいモルテールン領ではあるが、酒造りは他ならぬ領主カセロールの肝いり事業。
他にも従士長シイツを筆頭に、酒造りを重視する者は多い。飲兵衛集団が自分たちの酒の為に助力を惜しむことは無い。
故に、人手も出来る限り融通を付け、親方の下に集めていた。
足りぬ足りぬと人手不足を嘆きながら、酒造りには手を抜かないのだ。シイツに曰く、カセロールは、やはりペイスの父親だとのこと。
若手や未経験者もどんどん配属し、人材育成も行ってきた現状。
最近になり、ようやくまともな酒造体制、研究体制が完成したとは、親方の弁である。
落ち着いて酒造りに邁進し、いずれは世界一の酒と呼ばれるものを作って見せると豪語する。
ペイスと通じるものとは、ここら辺にあるのかもしれない。
「酒造りは順調ですか?」
「ええ、勿論。従士長が時折様子を見に来て下さいますし、その都度相談しておりますので」
親方の言葉に、ペイスはピクリと反応を見せる。
「シイツも公私混同が酷いですね」
従士長として忙しいはずなのに、暇を見ては酒造りの様子を見に来る。
勿論、ただ見て終わりというはずも無いだろう。状況確認の建前の元、ちょっと一杯とやらかしているに違いないのだ。
ペイスの顔が険しくなった辺りで、親方は慌ててシイツのフォローを口にする。
「お陰様で風通しの良さを感じとります。儂らも堅苦しいのは苦手なもんで」
「シイツは話しやすいと?」
「まあ。若様が話しづらいという訳じゃあないんですが、やはり年の近い方が話しやすいもんで」
「元傭兵ですしね」
「それもあります」
上手くフォローが出来たと思ったのだろう。明らかにほっとした安堵の表情を見せる職人。
ペイスとしても、シイツがきちんと仕事をした上で要領よく余禄を頂いていると分かっているので、怒ることも無い。
気楽な会話で、親方はペイスと雑談に花を咲かせる。
そのまま、酒造りの話をしつつ貯蔵室に足を運ぶ。
本格的な保管場所ではないが、そこそこの広さの有る場所だ。
「こっちが、今年の新作です」
「ほう」
ペイスは、自分の背丈より大きい樽をポンと叩く。
「今年は三つばかり新しいことを試そうとしているところでして」
「具体的には?」
「麦が豊作だっちゅう話なもんで、新しい麦酒を試そうとしているのが一つ。モロコシ酒の味について、醸造の温度を色々と変えて試そうっちゅうのが一つ。……若様もご存じの“アレ”で、温度管理しとります」
「アレですね」
ペイスと親方の言うアレとは、魔法のことである。
モルテールン家の強みとは魔法にあると感じているペイスは、研究所の努力で得られた魔法技術を、諸々の生産に活かす試みをしていた。
具体的には、職人に【発火】などの魔法を使わせている。
職人としての温度管理の知識と、手軽に温度を調整できる魔法の組み合わせは、上手くいきそうだと親方も手ごたえを感じていた。
世界広しと言えど、魔法を使って酒造りをしているところなど、モルテールン領だけであると断言できる。
魔法の無駄遣いと言うなかれ。美味しいものを作ることこそモルテールンの有り方であるというペイスの意見で、積極的に研究されているのだ。
親方や職人衆の魔法の知見は研究所に還元され、また新たな生産技術の研究開発に活かされることになる。
知識こそ力。知識こそ財産。知識こそ更なる知識の源。
モルテールン家は、順調に知識というパワーを領内に蓄えつつある。
「それで、もう一つは?」
「材料のブレンドっちゅうやつを試そうとしとります。発酵の時は糖分が多いほど酒精が強くなるもんで、それなら純粋な砂糖をぶちこんで、葡萄酒作ったらどうなるんだと」
「面白い試みですね」
「上手くいけば、極めつけに強いワインが出来ます。酒精が強いもんは熟成も長い間耐えるってんで、ひょっとすりゃこれまでに無い超長期熟成ワインになるんじゃねえか、なんてえ話を」
「分かりました。そのまま試行錯誤を続けてください。美味しいお酒が出来れば、僕も嬉しい」
主にスイーツに使えるから、とはペイスは言わなかった。
心の中で思っただけだ。
しばらく、醸造所の中を見回るペイス。
一応は領主代行なので、問題が無いかを自分の眼で確認することは大事な仕事だ。
「ところで親方、折り入ってご相談なのですが」
「何でしょう」
見回りも一通り終わった頃。
ペイスは職人に相談を持ち掛ける。
「有望な若手を一人か二人。長期で借りられませんか?」
「若様の相談とありゃ、何とか都合を付けてみせますが……今は、ようやく人が育ってきたばかりのとこでして。若手でも、動かすと今の酒造りに支障が出ますが」
「構いません。その為に、僕が動いたのですから。シイツや父様あたりだと、今の酒造りが僅かでも縮小するのを厭うでしょう」
酒が好きな連中が、酒造りの停滞を許容するはずも無いが、やろうとしていることは今後のモルテールン領に必要なことであるとペイスは確信している。
故に、自分が率先して動く。
「それで、若いのを連れて、何をなさるんです?」
「蒸留酒づくり。チョコレート村で、ウィスキーを作ろうと思いまして」
ペイスの鼻先を、アルコールの香りが擽っていった。