033話 蜜月
春の風は冷たい。
頬を撫でる精霊の御業も、少女にとっては悲しい気持ちにさせられるものでしかない。
「リコリス」
「ペイストリーさん……ごめんなさい、急に駆けだしたりして」
「それは別にいいさ」
招待者に開放されている中庭。夜会などでは、酔い覚ましや立食会場に使われる場であっても、今は少女と少年の二人しかいない。
正確に言うのならば、先ほどまでもう二人ほど従士と侍女が居たのだが、それでは流石に話がし辛いと、席を外して貰ったのだ。
護衛のこともあるので、しばらく間をあけてから改めて迎えに来る手筈になっている。
「ぐすっ」
「ほら、泣かないで。折角の可愛い顔が台無しですよ」
ペイストリーは、婚約者の涙を拭く。そこにあるのは慈しみであり、思いやりであり、そして愛情である。
そんな少年の心が分かるだけに、尚更少女の涙は止まらない。
「何でそんなに泣いているのか。僕に教えて貰えないかな」
少年には、少女の涙の訳が分からない。
いや、原因を言うのであれば、レーテシュ伯に抱き付かれたところを見られたからだろうというのは分かる。分からないのは、それでどうしてここまで婚約者が動揺しているのかだ。
男にとって、女性の涙とは無条件で自分の責任になるもの。ましてや、その原因の一端が間違いなく自分の行動にあるとするのなら、笑顔にする努力を惜しんではならない。
「あの人に抱き付かれたのは、深い意味のある事ではないんですよ。おふざけみたいなものです」
「それは分かっているのです。分かっているのですけど……」
ペイスは誠意を込めて説明しようとする。その気持ち自体は少女にも伝わった。しかし、それで気持ちが晴れるものでは無かった。
リコリス自身、あまり理屈があって泣いている訳ではない。ただ、胸が苦しい。無性に胸が詰まるが故に涙があふれてくる。止めようにも、自分で自分が分からないのだ。
だからこそ、ひと言づつ、己に言い聞かせるようにしてしゃべる。
「わたし……わたしとても嫌な想像をしてしまったのです」
「どんな想像ですか?」
「これからもし、ペイストリーさんに婚約者が増えたらって想像して。そしたら、わたしは相手にされなくなるんじゃないかって。いつか、あなたに嫌われてしまうんじゃないかって。そんな想像をしてしまったんです」
十代の少女の豊かな想像力。
それが困ったほどに悪いことばかりを想像させている。
そう感じたペイストリーは、少女の目元をもう一度拭いながら、更にはそっと手を重ねる。
少年が重ねたリコリスの手。体温が高いはずの十代の少女にしては、びっくりするほど冷たくなっていた。ペイストリーはあらためて、女の子の手を温めるように優しく包む。
顔を上げ、濡れそぼった目を向ける婚約者に対し、銀髪の少年は出来る限りの真心を伝えようとした。
「僕は、リコリスの事が好きです。きっと、これからもっともっと好きになると思います。この僕を、そして今の言葉を、信じて貰えませんか?」
「ええ……」
嫉妬の心は、未熟な少女が御せる感情では無い。理性とは別の所で、どうしても湧き上がってきてしまう感情なのだ。言葉だけで、信じろと言ってもらったところで抑え込めるようなものでも無い。
信じたい。でも、どうしてもモヤモヤとしたものが残ってしまう心。
婚約者の心。それを遅まきながら理解したペイストリーは、彼女の為にどうしても言いたいことが出来た。
スッと立ち上がって、握っていた手を離す。それでも目だけは互いに合わせて離れない。
「リコリス。ちょっとだけ、ここで待っていてもらえますか?」
「え?」
「ちょっと渡したいものがあるんです。すぐに戻ります」
そう言って、ペイスはその場を離れる。誰からも見えなくなったところで、【瞬間移動】を使うために。
愛しい少女の為であれば、魔法の自重などは天秤にすら掛からない。誰かに見られたところで、かまうものかと魔法を使った。
中庭から消えたのも一瞬であれば、現れるのもまた突然。
時間にして、ものの数分も経たないうちに、ペイストリーは伴侶の元に舞い戻る。手には、少女へのプレゼントを持って。
「リコリス、これを受け取って貰えませんか?」
「これって……」
渡されたプレゼント。それは、少女にとっては見覚えのあるものだった。
僅かな赤みを帯びた果実。それを包み込む甘い飴。
そう、リンゴ飴だった。
「リコリスも、これ好きでしょ?」
「ええ……でも」
「良いから、受け取ってください。僕は、どうしてもこれをリコリスに食べて欲しいんです」
何故今更この飴菓子なのか。不思議に思う気持ちはあったが、それでも好物は好物。少女は、ちまちまと小さく飴を舐めはじめる。
作り置きだったものなのだろうか。芳醇な果実の香りが飴に移っている。それもまた、初めて食べた時とは違う美味しさにも思えた。
「美味しいですか?」
「はい、美味しいです」
気持ちが揺れている時であっても、美味しいものは美味しい。
そして、美味しいものを食べれば、多少は気持ちも落ち着きを取り戻す。甘い物なら尚のこと。
いまだリコリスの目は赤くなってはいたものの、それでもようやく涙が止まった。
「食べてもらえてよかった。ねえ、リコリス。この飴は、僕の知る名前ではリンゴ飴というんですけど……別名もあることを知っていますか?」
「いいえ、知らないです」
リコリスにとっては、このあいだ初めて食べた菓子だ。ペイストリーの言うリンゴ飴という名前も初めてであれば、別名など思いもつかない。それは極々当たり前のことだ。
「この飴は、作り方も単純なので色々な所で作られ、そして色々な名前が付けられてきました。タフィーアップル、天国のリンゴ、楽園のリンゴ。そして……愛の林檎」
「愛の林檎……」
リコリスは、食べていた飴を見つめる。
愛、という言葉の意味が分からないほど子供でも無い。そして、キザとも思える言葉を、何も感じずに受け取れるほど大人でも無い。
面と向かって好きと言われた時と同じぐらいの気恥ずかしさを覚える。
カリっと食べた飴の甘さ。それが少年の想いそのもののように感じられた。
「僕の気持ちは一つ。それをこの飴に込めたつもりです。あらためて、僕を信じてくれませんか?」
「はいっ」
信じる。少女は、その気持ちが、自分自身の中に確かに感じられた。
こんなたった一つの飴でと、自分でも思いはするものの、そこに込められた愛情を確かに受け取る事が出来たのだ。
今ならば、心からペイストリーを信じられる。
リンゴ飴を食べ終わる頃には涙もあがり、その場に残されたのは二人だけ。
お互い、何も言わずにただ見つめ合う。手はお互いに重ねたままで。
「リコリス」
「ペイストリーさん」
名前を呼び合う気恥ずかしさ。それでも距離は縮まっていく。
二人の顔が、自然と引き寄せられ、そして……
「ゴホンッ。お嬢様、お迎えにあがりました」
いつの間にか、迎えが来ていたらしい。わざとらしい咳をしたのは、他ならぬ侍女のキャエラ女史。
バッと勢いよく婚約者から離れたリコリスではあったが、顔はもちろん、首まで真っ赤になっている。
その動きは突然で忙しないものの、ペイストリーからすれば良いところで邪魔をされた気分であった。
事実、キャエラ女史はかなり前から二人の様子を伺っていたのだ。乱入したタイミングは、まさしく狙ってのことである。たまたま邪魔をされたわけでは無く、わざわざ邪魔になるように見計らって声を掛けたのだから。
「若様、見ていましたよ。いや、流石です」
当然、護衛としてニコロも居る。彼もまた、相当前から次期領主とその婚約者を離れた所から見ていた。護衛である以上それは当然の職務ではあるのだが、悪趣味が混じっていた点は否めない。ペイストリーとしては文句の一つも付けたくなる。
「ニコロ、いつから見ていました?」
「若様が、何でしたっけ……そう、愛の林檎。あれを持って戻られたあたりからですよ。いや、取りに戻られる前ぐらいからですか。いやぁ、噂にたがわぬ色男っぷり。よっ、このスケコマシ」
「そうですか……貴方はよほど仕事を増やしたいようですね。何なら、戻った時に仕事量を倍にしてみましょうか?」
「おっとと、それは困ります。飴を持ってきたところあたりは、お館様には黙ってますんで、そこは穏便に」
キャエラ女史は、無事リコリスが気持ちを持ちなおしたことに安堵しつつも厳しい顔をし、ニコロは野次馬根性丸出しでニコニコと笑顔を見せている。
リコリスは顔が茹ダコのように真っ赤になったまま戻っておらず、ペイストリーは見られていたことに顔を赤らめつつもいつも通り。
そんな和やかさを取り戻したところで、お茶会を辞することと相成ったのだった。
◆◆◆◆◆
モルテールン領に戻ったペイストリーとリコリス。とその他二人。
仲良く談笑しながら帰った所で、待ち受けていたものがあった。
リコリスを泣かせたレーテシュ伯爵よりも別の意味で泣かされ、ある意味では襲ってくる盗賊よりも怖い存在。
「お帰りなさい、ペイスちゃん」
世の男性諸氏にとって、世界最恐とされる生き物。その名を「母親」と呼ぶ。
流石に婚約者がいる手前抱き上げはしないものの、軽いハグで息子を迎える。もっとも、それをリコリスは落ち着いた気持ちで見ることが出来たのだが。
帰還時の強襲も終わり、解放されたところで改めてペイストリーは帰宅の挨拶をする。そして、それに倣うようにリコリスも続けて“帰宅”の挨拶をする。それの意味するところは一つである。
「ただ今戻りました、母様」
「た、ただいま戻りました」
ペイスが母親を苦手とするのは仕方がないものではあるが、リコリスにとっても苦手な相手である。何せ、順調にいけば将来の義母となるのだから。
嫌われてはならじと、不必要に緊張してしまう相手という意味で、苦手な相手だ。
「うふふふふ、なんだか仲良くなっちゃって。それに、揃って『ただいま戻りました』なんて。二人ともお茶会で何があったのか。た~っぷり聞かせてもらうわよぉ」
母親は息子の行状を監督する責任がある。
という建前のもと、明らかに出かける前より仲が深まった様子の、二人に対する事情聴取を行う。それは母親たるアニエスの中では決定事項だ。
根掘り葉掘り聞かねばならないのだ。細大漏らさず探らねばならないのだ。そして、徹底的に暴かねばならないのだ。
息子“夫婦”が出かける前から、既に決めていた確定事項。崇高な義務。とアニエスは鼻息を荒げる。
遠慮の欠片も無く、自分の興味を満たすためには他人の迷惑などお構いなしなあたりは、誰が見ても親子である。
「えっと、お手柔らかに」
無論、お手柔らかに済むはずも無し。
二時間近くにも及ぶ尋問。もとい、興味本位の質問攻めが終わったころには、ペイストリーは疲労困憊であった。
「お、坊、戻っていたんですかい」
「シイツ、ただいま」
よれよれになって食堂に入ったペイストリーは、そこに居た見慣れた顔をみて心底ホッとした。
産まれた時から知っている従士長の傍に座り、豆茶を啜る。
「あ゛ぁ、美味しい」
「坊がそこまで疲れるなんざ、相当タフな交渉だったんですかい?」
「いや、交渉自体は上手くいったんだけどね……母様が……」
「ああ、それで」
シイツは、少年の一言で全てを察する。
彼にとって自身が仕える騎士爵家当主夫妻は、滅多にないほどの親馬鹿夫婦。溺愛する息子と、そしてその婚約者との蜜月関係を放っておくはずもないのだ。
「災難でしたね。ところで坊、その紙は何です?」
「ああ、これですか。飴の包み紙に使った残りです」
シイツが指摘したのは、羊皮紙の切れ端のような物。同じぐらいの大きさになったものが、何枚か重ねてあった。
社交の場で、何時でもお見合い写真のアルバイトが出来るよう、ペイストリーが常から持っていたものだろうと察しは付いたが、それにしては歪な形になっているのが気になったのだ。
「その割に……なんですか、こりゃ?」
「見ればわかるとおり、僕とレーテシュ伯のツーショットですよ」
「こんなものを包み紙にして、何を考えているんです」
「僕の大事なリコリスを泣かせた、お仕置きをちょっとね」
そう言って、ペイストリーはニヤリと笑った。
◇◆◇◆◇◆
新茶の試飲会から数日後のことだった。
「やってくれたわね、あの坊や!!」
「おち、落ち着いてください。ものを投げないで」
試飲会に参加した面子へ、後から渡されたペイストリー謹製の飴菓子。上品さと高級さを兼ね備えた菓子は大人気で、配る先々で持て囃される。
そしてその包み紙には、ペイスに抱き着くレーテシュ伯の絵姿があったのだ。絵姿が広まったことで、一つの噂が流れた。
「よりにもよって、私が少年趣味だなんて!!」
誰が流したのか、レーテシュ伯が重度の少年偏愛趣味であるという噂が流れたのだ。
震源地が誰であるかなど、明らかである。何せ伯爵家にここ数日届けられているのが、年の頃は五歳から十歳位までの少年たちの“見合い写真”なのだから。
おかげで、噂の鎮静化に奔走する羽目になり、ただでさえ遅れている婚期がより一層後ろ倒しになるのは誰の目にも明らかだった。
「坊や、覚えてらっしゃい!!」
ブリオシュ=サルグレット=ミル=レーテシュ女伯爵。自称28歳。独身。
彼女の蜜月の夢は未だ遠い。
3章〆
ここまでのお付き合いに感謝です。
備考:
【蜜月】みつ‐げつ
1 結婚して間もないころ。ハネムーン。
2 親密な関係にあること。「両派の―時代」
出典:デジタル大辞泉
蜜月の語源については、いずれ機会があれば活動報告ででも。
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次章「失敗の味」(仮称)。乞うご期待