296話 朝駆けの帰還
船が揺れる。
風任せののんびりとした航海は、乗組員たちの心持ちそのもののようだった。
「疲れたな……」
「はい」
乗員の一人、イサル=リィヴェートは哀愁と共にいた。
酷く草臥れた様子の男に、部下のかける声は労いの色合いを帯びる。
「お前も、よく頑張ってくれた」
多分に気遣いの含まれた部下からの声に、イサルは改めて上司として感謝の気持ちを伝えた。
「いえ。素潜りは得意ですので。この寒さで寒中水泳は堪えましたが、これも神の与え賜うた試練と思えば何ほどのこともありません」
イサルが労った部下は、卵を持って海中に身を沈めていた者。
年も明けて早々。下手をすれば水が氷る季節に海に居たのだ。よくぞ耐えきったと賞賛すること頻りである。
「素晴らしい信仰心だな。枢機卿にはその働きを必ず伝えておこう」
「ありがとうございます」
「しかし、そのおかげであのモルテールンとボンビーノを欺けた。これは大きい」
「はい」
部下の働きもあり、またイサル自身の頑張りもあって、モルテールン家、並びにボンビーノ家との交渉はまとまった。
交渉内容には、例えば犯人に繋がる新たな証拠が見つかった場合の対応など、後日の懸案として残るものもあったが、おおむねイサルとしては満足いく結果である。
何せ、今の時点で“お宝”はイサル達の手元にあるのだから。
今まで散々してやられてきたモルテールン家に対して、或いは過去の戦いで苦い思いをしたボンビーノ家に対して、一矢報いることが出来たかと思えば満足もひとしおである。
「だが、まさか船の中身を殆ど持っていくとは思わなかった」
「金庫というからてっきり手提げのアレだけかと思えば……」
勿論、交渉相手はあのモルテールン家の異端児だ。ここぞとばかりに悪辣なことをしてきた。
船の中に置いてあった数々の卵。それなりに苦労して集めていたそれを、全て奪っていったのだ。万が一のことを考えて、龍の卵を紛れさせる可能性を考えて用意していたものが役に立ったといえばその通りだが、丸ごと奪われるのは予想外だった。
当初の想定では、例えば万が一船に乗り込まれてきても、大量の、そして多種多様な卵を見せ、混乱させるようなことを考えていたのだ。まさか、全部持っていくとは、モルテールンの強欲は計り知れない。
何より、金庫を持っていくという条文にサインした後、モルテールン家の金庫以外に、船の中の鍵付きの箱を軒並み漁り出したのだから驚きだ。
確かに、どの金庫かは言っていなかったが、それにしたところで船長室まで漁られるとは予想外にもほどがある。
「仕方がない。条文に穴があったとしても、それは見落とした方が悪い。……だろう?」
「そうですね。あっはっは」
イサル達は大いに笑った。
船の中にあった全ての卵のみならず、船長室の金庫や、果ては船員個人用の備え付けの鍵付き箱の中まで総ざらいで没収されたのだ。条文に金庫とだけあったことを逆手に取られた形。
本来、このような曖昧な部分で揉めたのなら、再交渉なり武力による解決なりをするのが南大陸の流儀。だが、イサルはモルテールンの屁理屈を受け入れた。
ただし、条文に穴があったとしても、それは見落とした側が悪いのだ、という理屈を受け入れさせたうえで。
イサル達が何故そんなことをしたかといえば、ひとえに龍の卵を守る為だ。
船団の持つ卵を返還する。
つまりは、船団外に居た部下が持つ卵は対象外だ。
これこそ真に賢い条文の利用というものである。
正々堂々、公式にイサル達は龍の卵を手にしたことになるのだ。
既に、盗品の返還は終わっている。つまり、その卵は盗品だから返せ、などと言われても胸を張って拒否できる。あれはもう終わった話だ、と。
条文にあった窃盗の犯人として、仮にイサルの身柄が要求されたとして、その頃には卵自体は既にイサルの手には無い。
喜んで捕まってやろうとイサルは笑った。
「改めて、よくやってくれた」
「恐縮です」
部下の方を軽く叩き、功績を称えるイサル。
「しばらくは船旅だ。ゆっくりと体を休めてくれ。風邪をひいて寝込まれでもしたら、俺の責任になる」
「ははは」
一仕事終えたからだろうか。
急に体の強張りが抜けた気がする。
イサル自身がそう感じているのだ。寒中水泳をやらされた人間は、尚更体の不調に気を遣うべきだろう。
船の上で火を使うのは限定的だから、美味しいものをたらふく食わせてやりたいものだ。そう考えたところで、イサルはあることを思い出す。
「そうそう、確かレーテシュバルでしこたまフルーツを買い込んでいるらしい」
「へえ、それは良い」
船乗りにとって、フルーツは貴重品である。
冷蔵庫もない世界、生鮮食料品は早ければ一日二日で悪くなるのだ。物が腐りにくい季節とはいえ、新鮮な食材を補給しているというのは朗報だ。
行きにも長期間船旅で、そこから先は時間との勝負で碌に食事を楽しむ時間も無かった。ただただ駆け足で走り抜けた幾日か。甘いフルーツというのはご馳走であり、甘美な誘惑だ。
ここ最近、レーテシュバルやナイリエといった神王国の港町ではフルーツが手に入りやすくなったらしい。それを目ざとく買い込んでいたというなら、この船の船員は実に優秀である。
優秀な船員によるとっておきの贅沢。頑張った部下に対する褒美としては、まず喜ばれるものだろうと、イサルは笑顔で部下に話す。
「好きなだけ食っていいぞ。後は、温かいものを用意させよう。スープなんてどうだ?」
フルーツ他にも、美味しいものはある。
船の上では、温かいスープなどがご馳走だ。
揺れる船の上で、しかも木造船。火を使う行為は、何よりも細心の注意をもって行われるのが船の常識。
故に、お湯を沸かすのにも物凄く神経を使わねばならない。
大勢いる船員の料理を作る料理人が、火を通さずに作れる料理を多用するのは至極当然であった。
例えば、カルパッチョのような調味料と生の魚を和えたものであるとか、保存食を多少水で戻して食べやすくしたものであるとか。
逆に言えば、火を長時間使う料理は船では一番の贅沢、ご馳走である。
「肉入りですか?」
「無論だ。最大の功労者に敬意を払い、最高級のハムを使って料理させる」
「あ、ありがとうございます」
保存食の中でもハムやソーセージは人気だ。
味が美味しいというのもあるが、元々が高級品というのもある。
今からよだれが出そうな話だ。
「それじゃあ、部屋に戻るか」
今晩の食事に期待を膨らませ、イサル達は気疲れを癒すのだった。
◇◇◇◇◇
何日間かの船旅を終え、聖国公船は麗しき港町に戻ってきた。
「ようやく懐かしのボーハンに帰ってこられたな。見慣れた海だ」
いつぞやの気疲れも晴れ、その分だけ望郷の念を篤くしていた聖国人達は、帰るべき故郷が見えてきたことに喜びもひとしおである。
元々今回の任務は、最悪の場合を想定してあった。つまりは、神王国でそのまま一生を終えるという想定だ。事実、ボンビーノ家の船に捕まった後、モルテールン家が出張ってきた辺りの対応では、少し間違っていれば虜囚の憂き目にあっていただろう。何なら、戦闘の際に命を落としていたかもしれない。
無事に帰ってこられた。
それだけで、歓喜の感情が湧き上がってくるではないか。
「もう海に潜るのは御免ですよ?」
寒中水泳をやらされた部下が、チクリとイサルを揶揄する。
勿論、不満があるわけでもなく、揶揄い半分だ。
長い船旅の間ずっと一緒だったし、何よりも困難を共に乗り越えた達成感を共有する間柄。いわば戦友である。気の置けない関係となるにも不思議は無い。
特に彼の部下は、寒中水泳後には体調を崩したこともある。冬の真っただ中に海で泳いだのだから当然といえば当然かもしれない。
暖かい環境と周囲の熱心な看病があったため大事には至らなかったが、これで肺炎にでもなって拗らせて亡くなっていれば、イサルの寝覚めは最悪だったに違いない。
夢見の悪くなる思いをせずに済んだことを思えば、多少の皮肉や揶揄いは笑って許せる。
軽く目を見張り、少々大げさな態度で両手を挙げてリアクションを取るイサル。
「ははは。お前のおかげで上手くいったんだ。ここまでくればもう大丈夫だ」
港が見えている時点で既に聖国の管轄内。
ここであれば、何かあっても聖国の要人であるイサルは強い。権力を存分に行使できるし、味方だってごまんといるのだから。神王国なにするものぞと強気にもなる。
「船が着くぞ!! 揺れるから気を付けろ!!」
船長の声がする。
「お、着くぞ。お前たち、最後まで気を抜くなよ」
「「はい!!」」
ここまで来て、お宝を奪い返されでもしたら目も当てられない。
イサルは、自分の懐に入れているブツを再確認しながら、船の着岸に備えた。
船が港に着き、荷物を下す船員たちが慌ただしく作業する中、下船の手続き云々の雑事を一人の部下に任せ、イサル達は大教会に向かう。
勿論、迎えに来ていた馬車に乗ってだ。最高級の馬車での出迎えに気後れすることも無く、国家の要人として威風堂々帰還の途に就くイサル達。
教会で何十人もの司祭や司教に出迎えられつつ、聖国の誇る序列五位の魔法使いは、チャフラン枢機卿に謁見する。
「猊下、イサル=リィヴェート以下、全員帰参いたしました」
畏まった挨拶をする魔法使いに、豪奢な恰好をした聖職者が歓迎の態度を露わにして迎える。
「無事で戻ったか。遠路長躯の旅、ご苦労だった」
「いえ。神のご加護がありますれば、何ほどのこともございません」
帰還の報告に際し、神へ祈るイサル。
勿論枢機卿も、同じく神への感謝の祈りを捧げる。
イサルの任務の内容は秘密であり、知る人間は少ない。しかし、何かしら重要な任務であったことはある程度知られており、大変な任務が無事に終わったとするのなら、それは神の加護があったからだと皆が考える。
その場にいた全員が、一つになって祈るのだ。
心から神を信じる彼らは、自らの信仰に基づいて神に感謝をし、無事を喜ぶ。
祈りが済めば、公的な帰還報告は終わりだ。
枢機卿は私室にイサルを招き、厳重に確認をしたのち、おもむろに詰め寄る。
「して、首尾は?」
「ここに」
低い声で期待に満ちた雰囲気の枢機卿に、イサルは自信満々で卵を取り出す。
用意されていた豪華な台座に置かれたそれは、室内の明かりを鈍く反射して輝いている。
「よくやった!!」
枢機卿は、喜びを堪えきらずに、イサルの肩を強めに叩く。
「はっ」
慇懃に頭を下げるイサルの顔にも、自信と笑顔が浮かぶ。
「詳しく話してくれ。どうやってこれを手に入れたのだ」
「では、まずは王都のところから……」
嬉し気に、そして楽し気に、嬉々として手柄話を話し出すイサル。聞き役として時折相槌をうつ枢機卿も、何とも愉快な雰囲気ではないか。
情報を仕入れて王都で待ち伏せたこと。機を見計らい、一気呵成に行動に出たこと。部下たちと手際よく分担して、まんまとモルテールン家の屋敷から金庫を盗み出したこと。そしてそのまま部下と共に一目散に港へ向かったこと。船に乗って逃げようとしたところで捕まってしまったこと。
「何!? 捕まった!?」
「ええ。しかしご安心を。実に上手く切り抜けられました」
モルテールン家の麒麟児と言えど、所詮は子供でした、とイサルは笑った。
交渉の経緯からやり取りを話し、実際に妥結した内容と共にサインした書類を見せる。
しばらく内容を確認していた枢機卿は、この内容であれば、折角確保した卵が取り返されたのではないかと不審がる。
「さにあらず。実は、部下に卵を持たせ逃がしていたのです」
「ほほう! 詳しく聞きたい」
イサルとしても、今回の任務の一番苦労した部分が卵持ち逃げの下りだ。
自分が足止めしている間に部下を隠し、そして逃がし、モルテールン家やボンビーノ家を見事欺いて窮地を脱した。
聞けば聞くほど、実に見事なやり取りである。
「あのモルテールン家を出し抜き、ボンビーノ家の裏をかいたとは天晴れ」
「ありがとうございます」
「それで、これが龍の卵か……変わった色だな?」
聖職者は、卵を割らないように容器ごと持ち上げ、観察する。
見れば見るほど不思議な色合いで、心惹かれる光沢がある。
表面には“幾何学模様が描かれ”ているし、その色は金属光沢だ。銅のような、銀のような、金のような、色々な金属が混ざったような色合いで、見た感じは重たそうに見えるにも関わらず、持ってみた感じは意外と軽い。大きさ的には“ガチョウの卵”ぐらいのものなのだが、重さもガチョウの卵と同じような物。
後は、この卵が生きているかどうか。
もしも卵が生きていて、龍を孵すことが出来たなら。聖国は、龍素材に困ることが無くなるのだ。生きている龍が飼いならせたなら、鱗も爪も、もしかしたら牙も、生え変わる度に採取が出来るだろう。
聖国の最高機密を知る立場にある男は、龍素材がもつ価値を知る。魔法研究の盛んな聖国において、軽金を始めとする魔法素材は値千金。それが量産できるとなれば、国益に与える影響は計り知れない。
功績というなら、並び立つ者が居ないほどの特大の功績だろう。ある意味で、国を一つ奪い取るよりも利益は大きい。
つまりは、志尊の地位がすぐ目の前に、手の届くところに降りてくる。
「これで私は次期教皇だ!!」
コリン=エスト=チャフラン枢機卿の高笑いはしばらく続いた。