262話 ドラゴン
不穏な影がよぎる。
最初に気が付いたのは、上層部の話し合いに飽いていた傭兵の一人だった。
ボンビーノ・モルテールン連合軍が、任務を果たしたとしてルンスバッジ男爵軍と合流しようと移動していた途上のこと。
遠目に男爵軍がギリギリ見えるかどうかという距離まで、つまりは森の見えるところまで戻ってきていたところで、ことは起きる。
「な、何だあれは!?」
傭兵は、あくびをかみ殺す為に顔を上に向けたことで、図らずも上空のあるモノに気付いた。
一人が気づけば、他の人間も気づきだす。
空にある何かは、恐ろしい勢いで此方に、より正確にはルンスバッジ男爵軍の方向に近づいているらしく、その大きさを示すシルエットもどんどんどんどん大きくなる。
更に大きくなる。どこまで大きくなるのか。最初は小さな点であったモノが、夏の入道雲の如く空いっぱいに広がり出しているのだ。
普通のことではない。
「鳥か?」
「馬鹿、あんな形の鳥が居てたまるか!!」
空にあって動きのあるものといえば、まず鳥だろう。世の中には、翼を広げれば数メートルにもなる大型の猛禽類が存在する。過去をさかのぼれば、十メートルを超える大型の鳥も居たという記録があるほど。
ならば、空を行く正体不明の飛行物体は、鳥ではないか。
誰も見たことのないような鳥も、魔の森から出てきたとなれば納得も出来る。森の中は前人未到の地、人跡未踏のアルカディアだ。何が居てもおかしくない。
超大型の新種の鳥が、今回の害獣パニックのオオトリとしてお出ましになったとして、何の不思議が有ろうか。
しかし、鳥だとするなら不思議なシルエットが一つ。
明らかに鳥の物とは思えない、尻尾が生えている。
くゆらせる尻尾の生物的な動きは、鳥の物としては明らかに不自然。
「じゃあ何だよ」
「トカゲじゃないか?」
「トカゲが空を飛ぶわけないだろうが」
「でも、あんな鱗が有るのは……って!!」
鳥ではない。ならば蜥蜴ではないかと誰かが言った。
未確認飛行物体が大きくなるにつれ、その様子も見えてきたからだ。見るからに爬虫類を思わせる鱗が、見える限りびっしりと生えている。
世の中には、人の背丈ほどもあるオオトカゲが存在するのだ。魔の森の中に、その二百倍ぐらいの大きさの蜥蜴が居ても、まだギリギリ常識の範疇。
酒場で語って、大多数に大法螺だと笑われながらも、一部の人間は信じてしまいそうなレベルのもの。
しかし、幾ら何でも蜥蜴が空を飛ぶというのは非常識に過ぎる。
鳥でも蜥蜴でもない何かが、ぐんぐんと迫って来る。
「おいおいおいおい」
「こっちに来るぞ!!」
自分たちのすぐ傍に来た、と錯覚したのも無理はない。
未確認物体であったものが、遠くに固まっていたルンスバッジ軍の傍に降り立ったらしいのだが、大きさが異常だった。
デカい。
遠目に見ても、遠近感が狂う大きさ。男爵軍の兵士をアリの大きさに例えるなら、UFOモドキは象ぐらいの大きさだ。
つまり、人の目から見るなら、山である。何キロも離れているはずなのに、すぐ目の前に居るような気がしてくる大きさ。
羽が生え、鱗を持ち、空を飛び回る巨大生物。
伝説で聞く、ドラゴンである。
その龍が、頭を持ち上げたかと思うと息を吸い、大きな叫び声をあげる。
鼓膜が破れそうなほどの大きな音がして、生臭さと共に突風が吹き荒れる。何キロも離れているはずの連合軍の兵士でさえ、思わずよろけるものも居た。
ましてや龍の足元に居るルンスバッジ軍の兵士は、たったひと吠えでバタバタと倒れていく。
「なるほど、これが魔の森パニックの原因でしたか」
遠目に龍を見るペイスが、しみじみとつぶやいた。
目の前の現実に納得もしよう。あんな規格外の生物がいたのなら、森の生き物が逃げ出しても不思議はない。
むしろよく今まであんな化け物の傍に住んでいたものだと不思議なぐらいだ。
何か理由があって、極最近になってあのドラゴンが縄張りを移したのだろうか。魔の森に影響を与えるほどの環境変化があったとしたなら、可能性はある。
ペイスとしては“元凶”の心当たりが微かに感じられるだけに、むむむと考え込んでしまう。
じっと龍を見つめ、沈思黙考するペイス。傍から見れば、何やら落ち着いているようにも見えるわけで、ウランタなどは動揺も露わにペイスに話しかける。
「よよよよく落ち着いていられますね」
ウランタは、既に慌てっぷりが半端ではない。まだ十代の青年。少年と言っても通りそうな年頃の人間だ。
動物園に行って、いきなりライオンや熊の柵の中に放り込まれれば、焦って逃げようとするのが普通なように、目の前にドラゴンという絶対の捕食者が居るのに落ち着き払っている方が頭がおかしい。
狼狽しているウランタは、むしろごく普通の反応である。
「あれほど大きいと、現実感が無いので」
「現実感って……ドラゴンですよ!?」
「あれがドラゴンさん。いやあ、本当に大きい」
どこかのほほんとした口調のペイス。
彼にしてみれば、ドラゴンなどというのはファンタジーの世界の話。目の前にデンと現れたとしても、現実感が無いのだ。いや、現実感はあるにしても、むしろ生のドラゴンを見た喜びが生まれる。
対し、ウランタにとってみればドラゴンとはおとぎ話の存在ではない。昔話の存在だ。
昔実際に戦った人間が居たという話を聞いていた、歴史上の存在。その恐ろしさもまた、現実感をもって襲い来る。
「仕方ない……ウランタ殿、緊急事態です。義兄の貴方を信頼して、当家の秘密を教えます」
「秘密?」
「当家の主、我が父カセロールの【瞬間移動】の魔法は、血縁の魔法使いには“貸せる“のです。当家の機密中の機密ですが、ことがアレだけに出し惜しみできる状況ではないと判断しました」
「それはどういう……はっ!!」
流石に、伝説級の怪物を目の前にし、走って逃げろなどというのは死ねというのと同義である。アレがゆっくりと歩くだけで、人の全力疾走など何ほどのことがあろうか。まして空を飛べるのだ。人が抗うことは不可能であり、唯一の切り札は人知を超えた人外の能力、魔法である。
もしもペイスが【瞬間移動】を使えるとするなら、とウランタは考え、すぐにもその利点に気付く。
安全に、龍の前から逃げ出せるということだ。
「とりあえず、ウランタ殿はナイリエにお送りしますね」
「私ですか?」
「そうです。ウランタ殿は、やらねばならないこともあるでしょう」
まず、連合軍で第一に逃がすべきはウランタだ。
彼が全体の頭であり、何より子爵家当主という、最も高貴な立場。
階級社会の常識として、命の重さは平等ではない。まず何よりも守るべきは大将の命だと、その場の誰もが感じていた。
「姉様はじめ、非戦闘員の避難、宜しく願います」
ウランタが逃げる、と言ってしまえば語弊がある。
彼は、先んじてボンビーノ領に転進し、率先して行うべきことがあるのだ。数多くの非戦闘員を、あの怪物の手から守れるように避難させねばならない。
少なくとも、いつでも避難できるよう準備させておくべきだろう。危険の正体が明らかになっているのに、放置するのは愚策中の愚策だ。
「任せてください。ペイストリー殿はどうするのですか?」
ウランタは戻る。
しかし、ペイスはそうはいかない。仮に魔法で兵士たちを全て運ぶとするのなら、運べるのがペイスだけという役割上、最後まで残る必要がある。
殿はモルテールン家の得意分野だと、胸を張った。
「あのどでかいのを出来るだけ離れて観察します。あんなのにお目に掛かれる機会などレアですから」
「そうですか」
ペイスが残り、ウランタは戻った。
残されたのは、モルテールン家の兵士のみである。ペイスの傍には、プローホルが補佐として付いた。
龍から離れるため、若干の移動を指示するペイス。何故か都合よく見つかった、“綺麗に整った窪み”に兵士たちが身を隠し、ペイスは目視と魔法で龍を観察し始める。
この化け物が、モルテールンに飛来するかもしれないし、ことによれば近場のボンビーノ領にやってくるかもしれない。何にせよ、情報を集めておかねば話にならないのだ。
図らずも、斥候任務の軍事演習をぶっつけ本番で試すことになってしまった。やはり、備えはしておくべきだ。
「うわぁ、ドラゴンって人も食べるんですね」
「そんな悠長な」
ペイス達がウランタを逃がそうと決断した理由が一つある。
それは、遠目からでもわかる龍の食事風景。
遠くからでは分かりづらいが、“地面に顔を近づけ”て、何かをがぶりとやっている。しかも地面ごとだ。飲み込んでいるのは、龍の喉が蠢くところで察する。
ルンスバッジ軍の傍に降り立ち、吠えた叫び声で人をなぎ倒し、その上で地面ごとパクパクやっているとしたら。何を食べているかなど、明らかなことだ。
地面の穴に伏せて隠れている兵士たちも、顔を青くして震えている。熟練の傭兵と言えど、明らかに異常な怪物に、食われることは想像だにしていなかった死にざまなのだろう。
「折角、北に追いやった獣を追っかけていたドラゴンさん。多分逃げる獣を追っかけて飛んでいたのでしょうが、ルンスバッジ男爵の兵を獲物に定めてしまったので、拙いことになってますね」
通常、損耗率が二割もあれば全滅判定される軍隊が、二割どころか半分以上食われている。これはもう軍隊として機能しない。ただの人の群れであり、龍にとってはご馳走が積まれている状況ということなのだろう。
時折嬉しそうに鳴きながら、旺盛な食欲を見せる龍。現状は、どこまで行っても絶望的である。
「我々はどうしますか?」
「心苦しいですが、撤退です。どうやら、大勢で集まると獲物認定されるようなので、班ごとに分かれてください。ボンビーノ領ナイリエまで、僕が送ります。その後、ナイリエでは班ごとにまとまって行動してください」
「了解」
魔法で逃げられるとなれば現金なもので、嬉々として逃げ出すモルテールン軍。このまま龍の見えるところに居れば、いつ食われるかもしれないという恐怖がある。
逃げ出せるというなら我先だ。
次々に魔法で送られていく兵士たち。結局最後に残ったのは、ペイス近習と精鋭部隊一班のみである。
「ペイストリー様、俺らはどうしますかね?」
最後に残ったうちの一人。暁の始まりの頭パイロンだ。
どうするのかと聞く言葉の裏には、自分もさっさと逃げたいという気持ちが見え隠れする。
しかし、ペイスは残った人員に非情を告げた。
「観察を続けます。情報は多い方が良い」
逃げるというのなら、少人数であれば一回の【瞬間移動】で逃げ出せる。ギリのギリギリまで粘り、出来得る限りの情報収集こそ今為すべきことであると、ペイスが告げたのだ。
理屈は分かるだけに反対も出来ないが、さりとて何も自分たちでなくてもという気持ちになった面々。ぐっと文句を押し殺し、絞り出すように命令承諾を口にした。
「分かりました」
腹を括ってしまえば、後はなるようにしかならない。
パイロン始め暁の精鋭も、或いはモルテールン家の従士も、肝が据わっているという意味では十分ふてぶてしい。
開き直れば、死の権化であっても観察するぐらいはマシな任務と積極的に動く。
「ふむ、なるほど」
「何か分かったんですか?」
しばらく観察を続けていたモルテールン家の有志一同。
その結果、幾つかのことが判明する。
「ドラゴンの食欲にも限界があるようです。ルンスバッジ軍を九割がた平らげた後は、食欲を無くして座り込んでます。動く気配が無い」
「そりゃ朗報だ」
どれほどの頻度で食事をするのかは不明ながら、満腹中枢の無い動物の様に、無尽蔵に食うというわけではなさそうだった。
これは間違いなく朗報だ。最悪の最悪を想定しても、“生贄”さえいれば重要な人材を逃がせるということだからだ。
この情報は、万が一龍が王都辺りに向かった時に役に立つ。
王家を守るという意味であれば、その手段を確実に提供できるからだ。正直気持ちのいい情報ではないが、全く為すがままに蹂躙されるよりはマシといったところか。
しかし、情報とは状況を好転させるものばかりではない。
「……そしてルンスバッジ軍は、反撃してます」
「はあ?! 馬鹿じゃねえですかい?」
パイロンが思わず声を荒げた。
散々に食われまくっている状況で、ようやく大人しくなってくれた相手に対し、わざわざ怒りを買うような真似をして何になるのか。
「男爵の気持ちも分からなくもないですが、悪手ですよね」
いきなり襲われたところでパニックになった。龍が大人しくなったところでようやく落ち着いた。ならば、やられた分だけやり返せ。
気持ちは分からなくもない。ルンスバッジ軍の面々とて、長く同じ釜の飯を食った戦友や、或いは家族親族だっているかもしれない。今まで共に苦労をし、共に笑いあってきた仲間が、何もできずにただ食われた。殺された。ならば、仇をうちたい。せめて一矢報いてやりたいと思う気持ちは当然のものだろう。
だが、よりにもよって相手が悪すぎる。
案の定、剣も槍も矢も、あらゆるものが巨大な鱗に弾かれている様が見て取れた。目に矢が当たっても弾かれた上、平然としている時点で察するべきだ。怪物に攻撃が通じないと。
「そりゃあ、あんな怪物に立ち向かうのは無謀ってもんでさあ。逃げるが勝ちってね」
長年戦場を歩いたパイロンからしても、ここは逃げ時だった。
もしも自分がルンスバッジ軍の中に居たら、とっくの昔に尻尾撒いて逃げ出している。それを恥とも思わないし、おかしいとも思わない。逃げずに食われる方がおかしい。
「そうですね。流石に……げっ」
「何すか若大将、嫌な声出して」
「男爵たちの軍から、離脱者続出」
ずっと観察していたペイスが、奇妙な声を上げつつ腰を浮かした。
これは雰囲気がおかしいと、全員が伏せていた恰好からいつでも起き上がれるように態勢を変える。
ペイスは、観察した結果男爵軍から離脱者が続出しているという。当たり前といえば当たり前の状況。ここに来て逃げないわけがない。
「ま、そりゃそうでしょうぜ」
「大量の離脱者は、てんでバラバラに逃げてますが……逃げる方向が皆一緒です」
「は?」
「このままなら、大量の逃亡兵がボンビーノ領方面に行くだけでなく、ドラゴンがおまけでくっついてきますね」
「……そりゃ大変だ」
しかし、逃げるにしても逃げ方がある。
実に不味いことに、逃げる連中はボンビーノ領の方向に逃げ始めた。
彼らからすれば、まともな友軍が居るであろう所に逃げたがるのは分からなくもないし、ただ単純に森から少しでも離れたいという思いで逃げているのかもしれない。だが、ボンビーノ家、そしてモルテールン家としてはひたすら迷惑である。
どうせ逃げるなら北へ逃げろと言いたいが、今はそんなことを言っている場合ではない。
“餌”が逃げ出したことで、また盛んに攻撃していた阿呆がいたせいで、龍も行動を始めた。
「拙い事態です。我々も後退しましょう」
ペイス達は、出来るだけ龍の目に触れないよう、時に魔法を使いつつも、つかず離れずで逃げ始める。
逃げる時であっても情報収集を忘れない。生きるか死ぬかのチキンレースをやっている中で情報収集をするのだから、このクソ度胸だけはパイロンも感心するほかない。
「更に拙い事態が起きたようですね」
「何です?」
しばらく遠巻きに龍を観察しつつ、進行方向を見定めていたモルテールン一行。
とある地点に来たところで、状況が悪化した。
「逃げていた村人が、ルンスバッジ軍の逃げ道を遮ったようで」
害獣に村を荒らされ、避難の為に移動していた平民の集団が、逃げ惑うルンスバッジ軍の残党と鉢合わせたのだ。
のっしのっしとマイペースなくせに、異常に大きな歩幅のせいで引き離せない龍も、“餌”を追うのを止めていない。
ここで残党と村人が合流すればどうなるか。
「混乱していますか」
「いえ、囮にされてます」
「……なんてことを」
兵士としても、生きるか死ぬかの瀬戸際。自分が逃げるためだけに村人を切りつけ、動けなくしたところで自分たちだけ逃げ出す。
何も分からないまま、生餌として龍の目の前に放り出される村人たちは阿鼻叫喚である。
怒号が飛び交い、悲鳴が上がる。
「兵士は死ぬのも仕事の内ですが、非戦闘員を守るのも兵士の仕事。総員、村人を保護しつつ、撤退!!」
これは見過ごせない。
ペイスは思わず村人たちの救助に動く。
「若大将はどうするんで?」
「ドラゴンの気を惹きます。幸い魔法が有るので、何とかなるでしょう」
「気を付けてくだせえ」
「ええ」
村人たちの傍にとび、龍と人々の間に割り込んだ形のモルテールン軍。
遥かに見上げる巨体を前に、ペイスは不遜に笑う。
「さあ、僕と一緒にダンスでもしましょうか」