259話 ボンビーノ家の現状
港町の朝は早い。
日も昇らぬ時間から船を出し、日の出を見ながら水揚げを競い合うのが漁師の日常。
明るくなると同時に生まれる街の喧騒は、領主の住まう城にも届き、住人の目を覚まさせる。
「ジョゼ、お早う」
「ウランタ、もう起きてたの? 早いわね」
十代の若夫婦が、お互いに声を掛ける。
「偶々目が覚めたんだ。君の素敵な顔を少しでも早く見たかったからかもしれない」
「ありがとう」
妻に声を掛けたのは、ウランタ=ミル=ボンビーノ子爵。
爵位を持った、歴とした貴族家当主である。それも、長い歴史を持つ伝統貴族であり、他の伝統貴族が新興貴族に押される中でも興隆を保つ、伝統派の中核を為す重要人物でもある。
幼い時から聡明で知られていたが、まだ年端もいかぬ年頃にも関わらず、家の事情で爵位を継いだ。今でも十二歳と年若く、決して威厳があるわけでは無い。
しかし、立場が人を作るとの言葉の通り、遊びたい盛りにも関わらず勉学に励み、貴族家当主としての経験を実地で積んだウランタ。彼は今や若手貴族の実力派ホープとして社交界でも話題の人物である。
優し気な顔立ちで、柔和な雰囲気。家は交易や漁業を生業とするお金持ちであり、また近年豊かな土地を併合したこともあって将来性は指折り。おまけに鬱陶しい舅姑も居ないとなれば、婚活市場では大人気商品だ。ベストセラーランキングがあるなら間違いなくトップページに載っている。
当然、引く手数多。高位貴族も入り乱れてウランタの心を射止めようと色々な女性がアプローチを掛けていたのだが、彼の心を射止めた女性は男爵令嬢だった。
ジョゼフィーネ=ミル=ボンビーノ。旧姓はモルテールン。誰あろうペイスにとって、一番下の姉である。
ウランタ自身は早くに母を亡くしていた。それ故、活発で聡明な、早い話頼りがいがあるジョゼに、甘えたかったのではないか、という下世話な噂話が有ったりする。それは一面では真実であるが、勿論それだけでもない。
感情面でウランタがジョゼにベタベタに惚れたというのもあるが、優秀なジョゼがウランタの良き助言役となれるという実利もあるし、何より実家がモルテールン家だ。
ボンビーノ子爵は、かつてペイスと共に海賊と戦った経験がある。実際は海賊を装った他家の陰謀であったのだが、モルテールン家と連合してこれを撃破。一躍、ボンビーノ子爵ウランタの名が国中に轟いた。前線に立って戦い、そして勝てる貴族というのはそれだけで大いに求心力を高めるのだ。ボンビーノ家は、そしてウランタは、飛躍の道を歩み始める。
勿論、成功の裏には同い年とは思えない英才の尽力があった。そのことは、誰よりもウランタ自身が分かっている。モルテールン家の存在感は、ボンビーノ家にとって極めて高まったわけだ。
そして、海賊討伐をきっかけに、ボンビーノ家はかなり注力してモルテールン家を調べた。お手本とするべき、良い教材になるという判断があったからだが、調べてみれば出るわ出るわ。驚くことが次から次に出てきて、そのどれもが信じがたいものでもあった。
結果、当時はまだ貧乏所帯であったモルテールン家が必ず伸びると確信し、最優先で手を組むことを決断したのだ。守旧派の多い家中には、新興貴族でかつ下級貴族のモルテールン家と組むことに反対の意見も多かったが、ウランタは海賊討伐で高まった求心力を背景に押し切る。
若すぎるが故、大胆な決断が出来たといえばそれまでであるが、今からすれば大英断であったと家中の評判は高い。
しかし、優秀すぎるほどに優秀なウランタであるが、欠点というものもある。
それは、やはり惚れた弱みだろう。
ジョゼに対しては初恋であったウランタは、ジョゼ以外の女性には目もくれない。しかも、結婚してからは治るどころか悪化の一途をたどっている。
家臣たちが揃って糖尿病になりそうなほど、ダダ甘な雰囲気を毎日まき散らすのだ。
勘弁してほしいというのが、部下たちの正直なところである。
ジョゼも、ジョゼだ。弟を可愛がっていた経験からか、ペイスと同い年のウランタに対して、とにかく可愛がる。頑張って仕事をしていたと言われればよしよしと頭を撫でてやるし、疲れたと弱音を言えば抱擁して癒してやる。モルテールン家で生まれ育ったジョゼにしてみれば、身内とスキンシップを取るのは当たり前なのだが、ウランタにしてみれば物心ついて初めて与えられた温かさだ。
ウランタは、精神的にジョゼに溺れきっていた。病名を付けるならジョゼフィーネ依存症である。
「今日もこれから会議があるんだ」
ウランタは、ジョゼの腕の中でその日の予定を言うことにしていた。
そうすることで頭が冴え、明確に予定が整理できるからだと当人は主張するが、傍に居る従士長などは既に明後日の方向を向いて諦めの境地である。
「いつも頑張ってるのは偉いわね」
「ジョゼの為にも頑張るんだ。僕は君をもっと幸せにしたいから」
「今でも十分幸せよ。美味しいものを食べられるし、温かいベッドで安心して寝られるし、綺麗な服は着られるし」
実際、モルテールン家の貧しい時代に生まれ育ったジョゼは、今与えられている境遇に何の不満も無い。食事は美味しいものが好きなだけ食べられるし、時にはモルテールン産のお菓子が届けられることもある。寝る時は暖かなベッドに抱き枕、もといウランタが居るし、服などは既に何十着と贈られている。
正直、これ以上は持て余すほどであり、今の自分を幸せだと断言できる程度には、ジョゼも境遇に満足していた。
「……それでも、君の弟ほどじゃない」
「ペイスはペイスよ。ウランタはウランタ。私の旦那様は貴方よ。それでいいの」
時折、ウランタが見せる弱気。
これは、原因を言い出すならペイスが悪い。同い年にも関わらず、全ての面で自分以上に素晴らしい功績を挙げている人間を見ると、どうしたって劣等感が生まれてしまうからだ。
ジョゼは、何度もアレは別格だと言い含めているのだが、なまじ同年代では遥かに優秀なだけに、ウランタはペイスに追いつこうとしてしまう。
それがボンビーノ家の発展を生んでいると思えば良いことなのだろうが、ジョゼがフォローしていなければ、ウランタの性格はもっと卑屈になっていたはずである。その点、ジョゼの聡明さにボンビーノ家が救われていることになるのだろうか。
デメリットも極めて大きいが、メリットはもっと大きいという、モルテールン家そのもののような話である。
波乱万丈の乱高下は、モルテールンの血脈には付き物なのだろうか。
「今日の仕事は何なの?」
「貿易交渉の枠組み作りと、来年度の漁獲枠についての取り決めだったはず」
相も変わらずジョゼの腕の中で、ウランタは今日の予定を整理する。
ボンビーノ家は海沿いの土地が本領であり、貿易と漁業は初代からの家業。蔑ろにすることなど出来ようはずもない。
「貿易交渉か。じゃあ、うちの実家も関係するかな」
モルテールン家は、紆余曲折の末にボンビーノ家の持つ港での一定の交易権を有している。
そもそも、港と言ってもどんな船でも入出港出来るわけでは無い。例えばある日突然に船がやってきて、物資を補給したいから水と食料を三十人の五十日分、延べ千五百人分を用意しろと言われて、今日明日ですぐに用意できるかという話だ。水だけでも大きなワイン樽で二十は揃えねばなるまい。
そんなのがしょっちゅう現れれば、幾らナイリエが大きな港町とはいえ、物資が不足することは目に見えている。
水、食料、資材、燃料、人材、全ては有限だ。
だからこそ、嵐などでの緊急事態を除いて、事前に許可を受けた船しか港には接岸できない。
この限られた入出港の権利は、ボンビーノ家が管理する利権でもある。モルテールン家は一枠を確保し、船を持つ貴族に枠を貸しているのだ。
いずれはモルテールン家で船を手に入れ、独自に交易を行いたいという野望はあるらしいのだが、如何せん船の方にまで手が回らないお家の事情から、交易権の確保のみを抑えている。
ジョゼは、そのことを知っているからこそ、自分たちにも影響があるかを気にした。
「ジョゼが望むなら、精いっぱいの優遇措置をするよ?」
「駄目。貴方はボンビーノ家の利益を最大限に考えないと。実家への配慮は最低限で良いわ。妻がないがしろにされている、と思われない程度なら十分よ」
ジョゼへの配慮からか、もっとモルテールン家に優遇してもいいというウランタだが、ジョゼは嫁としてぴしゃりと嗜める。ここら辺の厳しさも持ち合わせている賢さが、モルテールン姉妹は才色兼備と言われる所以でもあった。
実家の援助を受けられなかった母アニエスを見て育ったことで、知らずと培った、実家を当てにしない嫁の立ち居振る舞いというものだ。
「それでいいの?」
「良いのよ。ペイスなら、それでも十分やっていけるでしょう。優遇してもらわないと利益を出せませんっていうのは、普通にしてると駄目ですって言ってるようなものでしょう? そんな軟派な弟じゃないわ」
ジョゼは、ペイスのことを良く知っている。
あの異端児の弟であれば、極普通に平等な条件さえ整えてやれば、後は自力で勝手に利益を生み出してみせるだろうという、強い信頼があった。
むしろ、不利すぎるほどに不利な、ババ札を掴んでも何とかしてしまっているのがペイスなのだ。普通にすることすら、むしろ与えすぎかもしれないと危惧する程度にはとびぬけている。足を引っ張る連中がダース単位でいてようやく普通になりそうな、ある種の怖さがある。
「分かった。それでも最低限の配慮はするよ。僕が妻を蔑ろにしているって思われるのは嫌だから」
「ありがと。やっぱりウランタは頼りになるわね」
ジョゼに褒められたことで、でへへへ、とだらしない顔を見せるウランタ。最早処置無しである。
仕事の出来る男が、家庭内でも頼りがいのあるナイスガイとは限らないのは、いつの時代も変わらないのだ。
「ウランタ様、お時間です」
「え? もう?」
「はい」
見かねて、なのだろうか。傍に居た従士長が、ウランタを仕事に引っ張る。
楽しい時間程すぐに過ぎるわけで、ウランタにとっては毎日の朝のスキンシップが、とても短く感じられるのだが、それは勿論言うまでもなく主観であり、実際には相当な時間が経過していた。
「……仕方ない。行ってくるよジョゼ」
「行ってらっしゃい」
ジョゼの元から執務に向かったウランタ。
その顔つきは引き締まり、キリっとしている。いかにも賢い男という雰囲気が漂う、ボンビーノ家当主らしい顔つきだ。
この顔をジョゼの前でも見せられるなら惚れ直してもらえるのだろうが、それが出来れば部下たちも胸やけはしないという話だ。
「それで、貿易交渉から片付けるんだったよね」
「はい。ルンスバッジ男爵の使者が先ほどから」
「呼んでくれる」
今日のメインの仕事は貿易交渉。
ボンビーノ家としては最も重要な分野でもある。
執務室の横に繋がっている応接室の中、ウランタの元を訪れたのは中年の男性だった。
髪は油できっちりとオールバックにされていて、目つきは狐目で細い。それでいて口元には張り付けたような笑みが浮かぶ、如何にも外交官といった雰囲気のある人物。
「ご無沙汰をいたしております。ルンスバッジ男爵家従士カーバンク=エースドット、ボンビーノ子爵ウランタ様の御前にまかり越しました。子爵閣下のご尊顔を拝する機会を得、我が身の幸運に感謝する所存です。我が主より、御家と友誼の契りを交わした往年の約を確かめてまいれとの命を受け、はせ参じた次第でござりますれば、旧年来のご厚情に篤く感謝いたしますとともに、格別のご配慮をもって迎え入れていただけましたこと、肌寒い中にあって心温まる想いでございます。主に成り代わり、重ねて御礼申し上げます」
長々とした口上を一切閊えさせることなく、淀みなく言い切ったカーバンクと名乗る男。
立ち居振る舞いは洗練されていて、礼を尽くして挨拶する姿勢にも慣れを感じさせる。付け焼刃ではなく、何十何百と繰り返した動きなのだろう。隙というものが一切見当たらない。礼儀作法が体に染みついている動きだ。
「御大層な挨拶痛み入ります。どうぞ、肩の力を抜いていただきますよう願います。何分多忙な身故、この度は率直に意見を交換できればと思っておりますので、ご配慮いただければ嬉しく存じます」
そんな熟達を感じさせる外交官に対し、ウランタは答礼を返す。
貿易交渉などは所詮エゴとエゴのぶつかり合い。これから厳しい交渉が予想されるわけで、率直な意見交換という言葉には、自分も言いたいことを言うぞという脅しが含まれていた。
勿論ウランタの思惑などは、この手の会話に慣れっこのカーバンクも承知しており、外交官として笑顔を崩すことは無い。
「そうですか。それではお気遣い有難く頂戴いたします。早速ですが、先般より申し伝えておりました通り、来年度以降の農業産品について、関税の大幅引き下げを要請いたします」
開口一番、初手から一番重要な内容をぶっこんできた。
これには少々意表を突かれたウランタ。若干の間があってのち、考えながら返答を返す。
「……実に率直なご意見ですが、理由をうかがってもよろしいでしょうか」
「勿論でございます。遡れば五年以上。ウランタ様が爵位を御継ぎになられましてより、当家は積極的に関わってまいりました。しかし昨年来、両家との間に不穏な動きが有るのではないかと懸念する声が上がってまいりました」
ルンスバッジ男爵家は南部でも北寄りに領地を持つ領地貴族。中央とも距離的に近く、比較的お金持ちの家だった。
伝統貴族の一員に数えられることもあり、政治的にはボンビーノ家と同じ立場に立つことも多く、どちらかといえば友好寄りの中立といった立ち位置。
不穏と言われても、ウランタには思い当たることが無い。
「心当たりがございませんが」
「当家の杞憂であればそれはそれで良いのですが、代々の長きにわたり友誼を結んでまいりました我々は、今後とも代えがたい友として手を携えていきたいと考えております」
「それは当家としても同じことです」
「さすれば、昨年、当家からの農作物に対し、関税が据え置かれました」
「それが何か?」
元々、ルンスバッジ男爵領からの農産物は、王都に向けて輸出される量の方が多い。ボンビーノ領を経由する農産物が無いとは言わないが、その量はさほど特筆するようなものでも無い。
少なくともボンビーノ領内での麦の流通を見れば、近年増えた旧リハジック領からの収穫の方が圧倒的に多い。元々神王国南部は穀倉地帯なので、農作物というなら大抵どこの領地でも作っているのだ。
自分の土地の産業を守る為、また他家がボンビーノ家に対して課す関税と相殺するため、一定の関税を課すのはむしろ当たり前。別に税率を引き上げたわけでもない関税に、何が問題あるのかとウランタは首をひねる。
「さすれば近年、麦を始めとして農作物の単価が下落傾向にありまする。昨年は一時的なものかと思っておりましたところ、今年は更に傾向が強まった実態がございます」
「存じております」
神王国では、ここ数年ずっと農作物の、特に麦の価格が下落傾向にある。
ウランタは知っている。その原因が、数年間ずっと倍々ゲームで収穫量を逓増させているとある領地にあることを。
更に言えば、その領地ではここ最近環境が激変しているとの報告があり、収穫量を更に倍増させる見込みであり、市場に対する相場の下落圧力は強まる可能性が極めて高いことを。
言わぬが花というべきか。秘するが吉とウランタは軽く相手に対して頷くにとどめる。
「然らば、当家としては輸出額に対しての関税比率が、看過できない水準まで高騰してきたのです。当家の農産品はナイリエを通し諸領に輸出されているのが実情。閣下には是非とも実情をご理解いただき、賢明なる判断の元、友誼の約を違えることなく果たしていただきたいと、願っておる次第です」
何のことは無い。要は関税を下げろとの要請だった。
自分たちの主力産品が値下がりしている。全国的に豊作で値段が下がっているのなら、単価は下がっても収穫量は増えているからやり様もあるのだが、収穫量は豊作というわけでもないのに、何故か市場価格だけがずるずると下がっているという。ウランタは、そうだろうなと内心で頷く。
収穫量が変わらない、或いは減っている状態で、単価がどんどん下がる。収益が下がるのは当然といえば当然。収益が減るのだから、固定費である関税の負担もどんどん重く感じるようになるのもまた当然だ。
関税の負担がきつくなってきたから関税を下げろという要求。男爵側としてみれば切実な問題なのかもしれないが、ボンビーノ家からしてみれば、知ったことではない。むしろ、都合の良さに嫌悪すら抱く。
かつて、全国的な冷害が起きて麦の値段が爆上がりしたことがあった。その時は、ルンスバッジ男爵は麦の輸出で儲けている。ボンビーノ家を始め、ルンスバッジ領周辺で関税を上げたという話も聞かない。むしろどの領地も、関税を引き下げてでも麦を欲しいという状況になり、売り手有利の交渉でルンスバッジ男爵はかなり強気に交渉していたはずだ。
これまでの経緯を考えるに、今までに麦の値段が上がったことを理由に関税を上げていないのだから、麦の値段が下がったからと言って関税を下げる理由にはならない。
ボンビーノ家当主として、ルンスバッジ家側の要求は論外のことである。
「御家のご事情は理解いたしますが、麦の値が下がったから、関税をそれに合わせろというのは無理筋ではありませんか?」
「勿論、関税と麦の価格には何の関連も無いのは事実。しかし、どうも来年も同じ傾向が続きそうなのです。このままであれば、麦の輸出が出来なくなる事態も考えられます。そうなれば、御家としても不利益となりましょう」
「ははあ、なるほど」
どうやらルンスバッジ家は、食料の安定供給をカードにして、貿易交渉を有利にしたいという思惑がある様子だった。
ボンビーノ家は海寄りの領地。麦を始めとする基礎食料は、諸領からの輸入の比重が他領に比べて高い。という前提の元、交渉しに来たのだろう。
この前提、三年前ならば成り立っていた。どうやらルンスバッジ家の情報収集能力は、ボンビーノ家に対してはさほど振り向けていないらしいとウランタは喜ぶ。
「当家としましても、両家の友誼の原則に立ち返り、今後も長らく手を携えんがため、のどに刺さった小骨を抜こうではないか、というのが提案であります」
「その小骨が関税である、とおっしゃるのですね」
「然り」
お互い、今後とも“仲良く”していくために、ボンビーノ家側で譲歩してくれないかという話。これは実に分かりやすい話であり、ウランタとしても遠慮なく蹴っ飛ばすことが出来る。
「ならば、当家から輸出される漁業産品や交易品についてはどうお考えか?」
「と、おっしゃいますと」
「私が爵位を継いで後、御家は当家から輸出される漁業産品や交易品に対し、関税を引き上げましたね。その関税は、今もって引き下げられておりません」
「……承知しております」
ルンスバッジ男爵は、ウランタが爵位を継いだ当初、幼い子供が当主になったということで完全に舐めてかかった。関税に関しても然り。当主就任のゴタゴタの際、先代と口約束があったと適当なことを言って関税を引き上げ、ボンビーノ家にそれなりに被害を与えている。
ボンビーノ家と敵対していたリハジック家と裏で繋がっていたのではないかという推察がされているが、証拠が無いことでボンビーノ家としては抗議も出来ずに放置されてきた。
今までは、そうだった。
「友誼をもって関税を引き下げよと仰るのであれば、当家もまた同じく要請いたします。友誼の原則をもって、漁業産品と交易品について、関税を撤廃せよ、と」
「撤廃でございますか!?」
「そうです。取引量から考えるならば、御家の麦輸出量を十とした場合、当家産品の輸出量は二から三。更に、友誼の原則に立ち返るならば、交渉の原点は関税引き上げ前の水準を基本とし、そこから引き下げを話し合うべきでしょう。そちらが言うように、麦の価格の下落幅に合わせると要求されるのであれば、当家としては当然の権利として、関税撤廃を求めます」
お互いが“仲良く”しようというのであれば、ボンビーノ家に対して不義理を働いたことをまず正常に戻すのが先。それが交渉のスタートラインに立つ条件である。
更にその上で、ボンビーノ家側が課す関税を下げろというのであれば、下げて減収になるのと同程度の増収を、ルンスバッジ家側の関税引き下げによって生み出すのが道理、とウランタは主張する。
こちらの関税を下げろというのであれば、そちらの関税は撤廃せよ。
友好を建前にした相互主義というのであれば、至極真っ当な意見だ。
「……一度、持ち帰って検討してもよろしいでしょうか」
「構いません。よい返事があることを期待いたします」
思わぬ反撃を食らったカーバンク外交官は、自分の権限ではこれ以上の交渉は不可能と判断する。
一度持ち帰り、男爵に相談してから改めて交渉に来ると、引き下がっていった。
肩を落として部屋を出る中年男を見送り、ウランタはふうと一息をつく。
「中々、良い交渉でしたな」
一連の交渉の経緯を見守っていた従士長は、若き主君の仕事ぶりを評価する。
「向こうが関税を下げろというなら、少なくとも勝手に上げていた関税を元の水準まで下げるのは当たり前でしょう。今までうちが、舐められてたってことでもあるけど」
「最近は、舐められることも減りましたな」
「ジョゼのおかげだね」
若いというよりは幼いと呼ぶような少年が領主に就任。実戦経験は皆無で、政務経験も無い。有力な後ろ盾は無く、両親を亡くした為に親族とも縁が浅い。お隣とは小競り合いと政争を続けていて劣勢で、日に日に凋落していく様が誰の目にも明らかだったボンビーノ家。
軽んじられるのは当たり前といえば当たり前。
それが好転したのは、モルテールン家と縁を持つようになってからだ。今の活況とて、モルテールン家と縁故を持ったからだと言えなくもない。
つまり、ジョゼのおかげと言えなくもないのだが、それを全面的にアピールする色惚けも、そろそろ落ち着いて欲しいと願うのもまた家中の総意である。
「奥様の影響があることは否定いたしませんが、そこはウランタ様ご自身の威光の賜物と思っていただきたいものです」
「自分の実力ぐらい分かっているからね。まだまだ力不足。頼れるなら、何でも頼るよ」
「……ご成長為されましたことは喜ばしいですな」
使えるものは何でも利用して目的を達成するのが政治家というものだ。何処まで行っても領地の為、お家の為に尽力し、使える手段をえり好みするのは間抜けと言える。嫁の実家の威光であろうと、使えるのなら使ってなんぼ。
理想論を振りかざして夢見がちになる人間が多い年ごろで、既に現実的な思考が出来ているのは優秀な証拠だろう。
少なくとも、惚れた腫れたで恋愛を語るより、貴族同士での結婚の効用を理解しているだけ大したものだ。
そんな若き領主が、さて次の仕事をと執務室に戻ろうとした時。
急に部下が駆け込んできて、先ほどの外交官がもう一度緊急に話がしたいと言い出していると報告してきた。
幾ら何でも、先ほどの件にしては対応が早すぎる。緊急というのであれば、ただ事ではない。
そう判断したウランタは即座に元居た場所に戻る。
ややあって、さっき別れたばかりの顔が改めてウランタの前に座った。
「カーバンク殿、どうされました?」
さっきまで色々と言い合っていた間柄だ。余計な社交辞令は省き、用件をずばり聞く。
「……先ほど、当家より連絡がありまして」
「ほう、素早い対応ですね。問い合わせたのは先ほどでしょう」
「いえ、その件とは別件でございまして」
「別件?」
やはり、交易交渉の続きでは無かった。
これでさっきの続きをと言われていたら、男爵家には迅速に情報をやり取りできる手段があるということになる。恐らくは魔法使いだろうが、そんな奥の手を、こんな貿易交渉如きで晒してしまうはずもないのだ。
別件と言われても、ウランタに驚きはなかった。
だがしかし、続く外交官の言葉には、流石のウランタも驚くことになる。
「はい。当家存亡の危機故、是非とも援軍を願いたいとのことでございます」
「援軍?」
「ええ。ことは緊急を要します。我が領が蹂躙されております」
完全に不意を突かれた形の会話。
貿易交渉から、一気にきな臭くなってくるのだった。