252話 若夫婦の日常
冬場は、王都であるならば社交のシーズンである。
寒い農閑期に高貴なる人々が集まり、暖かな場所で笑いながら親交を深めつつ、裏では陰謀がどす黒く渦巻く、笑いあり涙ありの楽しいシーズン。
モルテールン家も本来であれば社交に大忙しになるはずだ。世に聞こえた英雄が当主であり、近年稀に見るほどに勢いがあり、金庫が溢れそうになるほどに大金を稼いでいる、今最も話題の家。どの貴族家もこぞって招待状を出し、どれほど些細な縁であっても出来るだけ太くしようと努力を重ねるのが当たり前。カセロールの祖父の友人の息子が世話になった人、などという、完璧に赤の他人である人間であっても、縁が有るのだと言い張って会おうとしてくる。
そんな有様だからこそ、モルテールン家の人間は、毎日毎日さぞや忙しいことだろう。と思われがちではあるが、意外にも本領たるモルテールン領はそうでもなかった。
元より社交の為に王都に貴族が集まる時期。【瞬間移動】でも使えない限りは、わざわざモルテールン領を訪れる人間も居ないわけで、日頃は来客も多い中にあって、閑散期とも呼べる状況が生まれていた。
その分、王都に常駐しているモルテールン男爵カセロールや、その妻アニエスは忙しいのだろうが、親の苦労は子供には関係ないと、モルテールン家の若夫婦はまったりとお茶を楽しんでいた。
「これ、美味しいですね」
ペイスは、お皿に置かれていた焼き菓子を摘まみ、素朴な感想を漏らす。
「ペイスさんに作ってもらった方が美味しいですけど」
夫の言葉が嬉しかったのか、リコリスは軽く笑いながら答えた。
ペイスが美味しいと評した焼き菓子は、リコリス御手製である。お菓子については、元々さほど多くの種類を作れるわけでもないリコリスではあるが、唯一焼き菓子だけは自信を持って作れる。ペイス直伝でもあるし、何より自分が何度となく焼いている得意料理なのだから。
世の中では超が付くほどのプレミア価格になっているリコリスクッキー。ペイスは、夫の特権として食べ放題である。
美味しい美味しいと言いながら、また一つ摘まんで食べるペイス。
リコリスは、ペイスの作る方が美味しいと謙譲の美徳を見せるが、夫にとってはそれこそ過ぎた謙遜というものである。
「そんなことはありません。リコの手作りクッキーは世界一美味しいですから、自信を持ってください」
「世界一は言い過ぎです」
自分の妻の手料理は世界一である。
これだけならばただの惚気だ。この言葉を本心から言えるだけ、ペイスは家族愛の強いモルテールン家の人間である。
にこにことほほ笑むペイスの笑顔に、リコリスも同じような笑顔になっていて、会話が交わされる雰囲気はとても温かい。
「そうですか? 最近では社交界でも、手土産がリコのクッキーというだけで、壮絶な争奪戦になるじゃないですか。ほらこの間もハップホルン子爵に呼ばれてお邪魔した時、手土産がリコの手作り焼き菓子だと言った瞬間大勢に囲まれていましたし」
しかし、ペイスの妻自慢の惚気も、まんざら根拠のないことではない。何せ、レーテシュ家との料理対決において、モルテールン家側が唯一提供した菓子であり、勝利をもぎ取った菓子であり、国王のお墨付きを得た菓子なのだから。
今まで、高級化戦略というものを知らず、ましてやブランドの価値すら分かっていなかった神王国人に、最高峰のブランドの認識を図らずも植え付けてしまったのがリコリス製クッキーなのだ。
紛うことなく、世に唯一にして最高のブランド菓子であると、ペイスはもう一つ焼き菓子を摘まむ。
「あれはビックリしました。ハップホルン子爵家は子沢山だと聞いてはいましたが、実際に大勢に囲まれると、誰が誰なのか……」
「同じような顔が並んでましたからね」
ハップホルン子爵領の特産品は、子供である。
と、世に噂されるほどには子沢山で有名なのがハップホルン家だ。
側室を積極的に受け入れる代々の方針や、子供を作るのは良いことだという家風。子育てに注力する環境や、神王国の中ではかなり高い医療環境など。子沢山になり得る理由は多々ある。
更には子供たちに与える高い教育と、その教育を受けた優秀な人材の輩出。これが、ハップホルン家を子爵家にまで押し上げた力の源。
子爵家としての地位を保っている理由は色々とあるのだが、基本的な部分が代々の当主家の子沢山だという要因は変わらず、そこから出てくるのは、ハップホルン家所縁の人間の数の多さである。
とにかく子供を作りまくって、手間をかけて育て、あちらこちらに送り込み、自分たちの影響力を高めるという、実に変わった代々の生存戦略はつとに有名だ。
子供の数を増やして生存を図る戦略は、動物界では珍しいことではない。特に生態系の下部であればあるほど、子供の数は多くなるもの。
貴族社会の中でも似たような話であり、ハップホルン子爵家の影響力はそれ相応にあるものの、決して一定以上に伸びることも無い。とびぬけた実力を持たない代わりに、数で補うという家風。ある意味、モルテールン家とは真逆の家風である。
モルテールン家も一応は親しく付き合う家の一つであり、何かとパーティーに招待されることもあるのだが、それはそれで大変だ。何せ、関係者一同が殆ど親戚という、実に身内臭の強いパーティーになりがちだからだ。
右を向いても左を向いてもハップホルン家の血筋。それはもう、似たような顔がそこここにあるわけで、さっき挨拶した相手が誰だったか、紛れてしまうと全然分からなくなってしまう。
お面でも被ったかのように似通ったツラの連中が、一斉に同じ方向を向いて一つの手土産に殺到する。パニックホラーのような絵面だ。
リコリスは、話に聞いていたとはいえ、実際の現場を目にしたとき、笑顔を維持することが難しかったほどである。
「他にもハースキヴィ家にお邪魔した時、甥っ子たちに囲まれて……」
ハースキヴィ家は、モルテールン家の身内だ。ペイスの姉の嫁ぎ先であり、実家と縁を切った過去の有るモルテールン家としては、数少ない縁戚の一つ。
リコリスからしてみれば多少縁遠い感じはするので、積極的に自分から関わることは無かった家だ。
しかし、リコリスが一歩引いていたからと言って、周りは気遣ってくれるかといえばそうではない。むしろ、話題の有名人ということで、機会があるたびに人が集まる。手土産が有れば尚更のこと。
元より引っ込み思案な気質の有る彼女からしてみれば、親戚のお姉ちゃん、といった感じでぐいぐい集まって来るチビっ子たちの“お菓子クレクレ攻勢”には、たじろぐしかなかった。
義理とはいえ甥っ子や姪っ子を粗雑に扱うわけにもいかず。かといって、手土産に持ち込んだ自分のクッキーが原因で喧嘩させるわけにもいかず。
ペイスが対応に回ってくれるまで、かなり疲れることになってしまったのは記憶に新しい話だ。
「もう、良いです……」
「僕の奥さんはお菓子作りが上手ということですね。自慢の妻です」
「うぅ……」
ペイスの妻自慢に、リコリスは赤面の至りだ。
別にお菓子作りが嫌いなわけでもないし、作ったものを美味しいと言われるのも嬉しいのだが、それを殊更に持ち上げて、世界一だと褒めちぎられるのは面はゆい。
くすくすと笑いながら、ペイスは妻を揶揄うのをほどほどにしておく。
「そうそう、お菓子作りが上手な奥さんといえば、ジョゼ姉様の評判も、お菓子作りが上手ということで噂になっていますね」
助け舟なのだろうか。ペイスは話題を別のものに切り替える。
リコリスとしてもなじみ深いペイスの姉。ジョゼことジョゼフィーネについてだ。一時期一緒に住んでいたこともあり、リコリスにとってはペイスを除いて最も親しいモルテールン家の人間といえる。
彼女は既にボンビーノ子爵家に嫁ぎ、今はモルテールン領を離れていた。
元々婚約の披露宴は派手に行っていたのだが、結婚式は質素に行ったという。伝聞なのは、若夫婦が結婚式に参列していないからだ。
参列しなかった理由は色々あるのだが、一つは敵対勢力の蠢動。
事前に日時が完璧に漏れている行事へ、モルテールン家全員が集まって、おまけに領地を空にするリスクを避けたことがある。
他には、バランスを取る必要があったこと。新郎であるウランタには、両親も祖父母も居ない。既に鬼籍に入っている。また、お家の継承時のごたごたから縁を切った人間も幾人か居て、ボンビーノ家側に親族と呼べるものが無い状況だった。片一方が沢山親族を呼び、招待客も多いのに、もう一方の招待客が少ない状況。これは明らかに上下関係を意識させる間違ったメッセージとなってしまう。
そこで、バランスを取って貴族的な体面を保つ為に、ペイスという大札をあえて呼ばないようにしようと両家で話し合った。ボンビーノ家側は数が少ないが、モルテールン家側は重要人物がいない。これでバランスがとれるという、多分に政治的な配慮の産物である。
こういった諸事情、ペイス当人やカセロール、或いはボンビーノ家一同やジョゼといった面々は納得してのことだったのだが、割を食ったのはリコだ。
出来れば仲のいい義姉の晴れの式には出たかったと、少し拗ねても居た。
「結婚式で手作りのお菓子を披露したのですよね」
ジョゼは、嫁入りに際して事前に特訓をしている。モルテールン家にとっては初めて自分たちより地位の有る家に嫁がせる結婚。自分の結婚で色々とトラブルのあった母アニエスが心配性を発症し、どうしてもジョゼを素敵なお嫁さんにして見せると張り切り、嫁入り修行の特訓となったのだ。何の特訓かといえば、お菓子作り。女性らしいことの多くが苦手というお転婆娘にとって、唯一付け焼刃でもそれっぽく偽装、もといお化粧出来そうな分野が料理だったのだ。ペイスという強い味方の協力もあり、何とかかんとか、簡単なお菓子の一つを覚えて、作れるようになるまでを特訓した。
実に大変だったとのちにペイスは語るが、これは余談である。
リコが伝え聞く限り、ジョゼの嫁入り前の特訓は功を奏したらしい。最初のお披露目の場で手料理を堂々と振る舞い、お菓子作りの上手な奥さん、という評判を得た。例え一種類の菓子しか作れないとしても、それがバレなければ料理上手で通せる。張りぼても良い所だが、悪評判からスタートするよりは遥かにマシである。少しでも良い結婚生活が出来るようにとの気遣いであり、散々な悪評判の中で社交をしていたアニエスの親心だったのだろう。
嫁入り前の一夜漬けとして、カトルカールの作り方をペイスが伝授したわけだが、リコも現場に立ち会っている。特訓を知るだけに、結果が上々というのは嬉しい知らせだ。
「ええ。ほんの一つ、お菓子の作り方を教えるだけでも苦労はひとしおでしたが、その苦労の甲斐はあったと思います。ボンビーノ家も良い嫁を貰ったということで評価が上がったと聞いています」
「幸せそうで良かったです」
ジョゼとウランタの仲は、とても良好であると報告があった。
貴族家の結婚などは政略結婚が圧倒的に多く、仮面夫婦もごろごろ居るわけだが、モルテールン家の娘たちは皆、旦那とはそれなりに上手くいっているらしい。
とりわけジョゼの場合は、相手に惚れられての結婚である。男女の場合は、惚れさせれば勝ちだ。
「結婚式には父様と母様が出た為に、留守役の我々は顔を出せませんでしたが、近いうちに顔を出さないといけませんね」
「いつぐらいになりそうですか?」
ペイスとしても、ボンビーノ家の領地にはモルテールン家に対して永年貸与された果樹園が有る為、これからも仲良くやっていきたいと思っている。
この果樹園、モルテールン家にとっても数少ない在外権益の一つであるが、ペイスにとってはモルテールン領だけでは賄いきれないフルーツの供給源として、絶対に死守したい利権だ。長く実験を続けてきて、ここ最近でようやく実をつけ始めた宝の山。ビバ果樹園、フルーツ万歳、果物は世界を救う、である。
果樹園、もとい姉の結婚生活の為。折角の祝い事であれば、出来るだけ近いうちに顔を出し、祝いの言葉の一つも掛けてやるのが弟の務めであろう。
しかし、そうもいかない事情が横たわっている。
「せめて、北方防備が整うまでは難しいと思いますから、年を越してからでしょうか」
「年明けですか」
現状、モルテールン家の防衛について急務となっているのが北方戦線。魔の森とモルテールン領を隔てていた山々が綺麗サッパリ無くなったことで、不測の事態が予測されているのだ。少なくとも魔の森からの“お客さん”は増えるだろうことが確実視されている。
魔の森の深部に何が居るのか、詳しく知る人間は世界中探しても居ない。調べようと森に入って、出てきた人間が皆無だからだ。地獄に繋がっているだとか、悪魔が暮らしているだとか、怪物が棲んでいるだとか、色々と言われているが定かなことは不明。
浅い部分に限っても、おおよそ神王国に生息する生き物は、人間以外全て生息しているとされていた。つまり、何が出てきてもおかしくない、ビックリ箱のような存在だ。
対策をしっかりとっておかねば、おちおち出かけることも出来ない。
「それまでは忙しいので、少々寂しい思いをさせてしまうかもしれません」
「……はい」
結婚式にも出られず、その後もしばらく会えないとなると、義妹としては義姉に対して申し訳なささえ感じる。
お祝いしてあげたかったと、少しシュンと気落ちしたリコに対し、元気づけたいと考えるのがペイスだ。
「領内の整備がひと段落したら、ボンビーノ家に行く前に、色々とお買い物に行きませんか?」
「お買い物?」
「ええ。折角ならリコも着飾っていくべきでしょう。幸いなことに今は当家も懐が温かいので、今の内から各商会に連絡しておきましょうか」
ショッピングは大いなる娯楽である。
自分の好きなものを買うというのは実に楽しいものであり、リコリスも勿論お買い物は大好きだ。
日頃はあまり散財することもない慎ましやかな性格をしている彼女ではあるが、夫公認で、しかも義姉に会う為の装いという、大義名分もあるとなれば常以上に張り切って買い物が出来る。
これにはリコリスも笑顔を取り戻した。
「嬉しいです」
「何か希望はありますか?」
「希望と言っても……」
服を買うというのなら、どんな服が有るかは見てみないと分からないし、仕立ててもらうにしても職人を呼んでから決めること。
宝飾品などは、服に合わせて買う方が望ましいわけで、服をどうしようかと考えている段階ではこれと言って欲しくなるものはない。
靴、ヘアアクセサリ、指輪。いずれもピンとくる物はないと、リコリスは少しばかり考え込んだ。黙り込んでしまった妻に対し、夫がさりげなく提案を口にした。
「う~ん、そうですね。最近だと胸元に海を想起させるものを飾るのが流行らしいので、真珠のネックレスを探してみるのはどうでしょう。髪の色が淡いと真珠が目立たないのですが、幸いにしてリコは髪の色が奇麗なので、服と合わせて首飾りを選んでみるのも良いかもしれません」
ペイスは、リコリス以上に流行に詳しい。
これはモルテールン家の情報網が王都に有るからであり、日頃から流行にも耳をそばだてている母が居るからである。
女性のファッションには興味のないカセロールに比べ、職人として美についても多少の見識を持つペイスの方が、アニエスとしても話がしやすい。必然、流行についての会話はペイスが独占する。
時折、ペイスで流行の服を試そうとするからだという困った事情もあるが。
「楽しみにしています」
モルテールン家の若夫婦は、とても仲睦まじく日々を過ごしていた。