250話 Pie in the sky.
その日、ペイスは父親の元を訪ねていた。
モルテールン領の最大の問題を解決したという吉報と共に。雨が降ったという知らせをもって。
「ペイス、よくやった」
事前に概要だけ報告を受けていたカセロールは、息子を出迎える時に滅多に見ないほどの喜びようを見せていた。日頃は冷静沈着で知られる国の英雄が、喜色を露わにして息子を抱え上げ、ぐるぐると振り回しながら褒めたたえるという、物凄い浮かれっぷりだ。
これは偏に、今までどれほど我慢と忍耐を強いられてきたかという証左でもあった。
「領主代行として、仕事をしただけです父様」
「領主である私でも、雨はどうにもならなかった。長年悩み続けてきた、モルテールン領最大の問題を根本解決した功績は大きい。改めて、よくやってくれた」
「はい」
カセロールは、成人したときに魔法を使えるとなって以降、波乱万丈の人生を送ってきた。多くの難問を前に逃げ出したくなることもあったし、絶体絶命の窮地に陥って九死に一生を得るようなことも経験している。
頼れる仲間、愛する家族、信頼できる戦友に、誇りある自分。大抵の問題は、周りと力を合わせ、根気強く頑張れば何とかなってきたものだった。
しかし、魔法でも金でも仲間の協力でも愛でも解決できない問題はある。その一つが天候の問題だった。カセロールがどれほど優秀で、魔法が如何に便利で、沢山の仲間が助けてくれようとも、天候だけは自由に出来ない。
そう思って諦めていた。
何故モルテールン領で雨が降らないのか。山に囲まれているからだという理由を知った時、希望が生まれた。
そして今日、愛する息子の素晴らしい働きにより、晴れてモルテールン領は最悪最大の懸念を払拭した。これを喜ばずにいられようか。
スキップでもしかねない浮かれっぷりで、息子の頭を撫でまくるカセロール。既にペイスの髪の毛はモップと見間違えるほどにぐしゃぐしゃである。
「これだけの功績だ。ご褒美の一つも考えねばならんな」
鼻歌が飛び出しそうな上機嫌の中、軍人らしい発想が飛び出す。信賞必罰は武門の拠って立つところであり、罪あるを罰し功あるを賞するは軍人の基本だ。
自分では不可能だった、とんでもなく大きな功績を立てたというのだ。領主代行としての任を十分以上に果たした。これは勿論褒めるべきことだからして、何か具体的なご褒美を上げるべきだ。
カセロールは、息子に何が欲しいか尋ねてみた。
「なら、是非ともお菓子作りの時間を下さい!! 具体的には一週間ほど!! あとお菓子の材料を買うお小遣いを!!」
勿論、ペイスが欲しいのはスイーツだ。
もっとも、スイーツを作るのが大好きな人間なので、趣味の時間が欲しいと訴える。また、如何に領主代行といえど公私混同は出来ないわけで、好き勝手にお菓子を作るためにも、領政の予算とは違った、まとまった金を頂戴と両手をお椀の様にして前に出す。
「一週間? 小遣い?」
てっきり、もっと凄いものを要求される覚悟をしていただけに、ある意味拍子抜けだった。前人未到の偉業の対価としては、あまりにささやかすぎる気がしたのだ。
「最近、全然お菓子作りを出来ていないんです。腕が錆びついてしまいます。ギブミーチョコレート!!」
しかし、ペイスにとってはこれ以上ないほど重要なことだ。目の前にカカオがあり、時間を掛けて試すことさえできれば、チョコレートが作れるようになるはずなのだ。
如何にペイスといえども、カカオ豆からチョコレートを作った経験はほとんど無い。これはお菓子職人というより、チョコレートメーカーの仕事だろう。例えばバレンタインの時期、チョコを湯煎したりブレンドしたりはあっても、カカオ豆を潰す奴は居ない。
チョコレートの良し悪しについて見極める自信はあっても、カカオから望みのチョコを即座に作り上げる自信はない。今のところは。
だからこそ、時間と、カカオを手に入れるための金だ。
チョコレートに必要なものの知識はある。カカオ豆から作れることも知っている。試行錯誤の時間と材料が欲しい。欲しい。欲しい。
既にペイスは禁断症状に近いフラストレーションが溜まっているのだ。ギブミーチョコレートの叫びは魂の叫び。
熱く滾る心の求むるままに、父親へお金と時間を求めた。
「……よく分からんが、特別休暇と一時金と思えばいいのか?」
「はい、是非」
高揚し、興奮した気勢というものも、自分以上に興奮している人間を見ると案外落ち着いてしまうものらしい。
急に冷静になったカセロールが、ペイスの望みを自分なりに咀嚼して解釈する。
「分かった。私も休暇を取るつもりだったし、年に一度ぐらいは領地に帰っておくべきだろうな。その間、お前は好きにすると良い」
「ありがとうございます!!」
ビバチョコレート!!
と叫びながら跳ね回る息子を見て、相変わらずだと溜息をつくカセロールだった。
◇◇◇◇◇
レーテシュ領領都の海賊城で、領主ブリオシュは政務を行っていた。
「リオ、モルテールンから連絡と、荷物が届いた」
彼女の執務室は、入室できる人間が限られる。身分の低い者や役職の低い者は入れない。当主が女性である以上、厳格な運用ルールがあるのだ。
荷物の受け取りも、直接執務室に届けたりはしない。一旦別の場所で受け取り、然るべき人間がレーテシュ伯の元に届けるというシステムである。
夫が運んでくれた荷物。しかもその送り主はモルテールンだという。先ごろひと悶着あった相手。何を贈って来たのかと政務の手を止めて、贈り物を確認しようとする。
「あら、珍しいわね。例の件かしら」
例の件とは、魔法の飴に付随する魔法汎用化と、その隠蔽についてだ。モルテールン家はレーテシュ家のみに情報を公開し、レーテシュ家はモルテールン家に対価を払い、更に情報隠匿に積極的に協力する、というのが大枠の基本合意。
細かいところを詰めるのはこれからだが、その一環として何か送ってきたのかもしれないと、箱を開けさせた。
「荷物の方はお菓子だな。パイだろうか」
中身を見たセルジャンは、内容物が見るからにお菓子であったことに意表を突かれた。
「甘くて良い匂いがするわね。出来立てなのかしら」
少し嗅ぎなれない匂いと共に、甘い匂いがする。香ばしく焼き上げられたパイ生地らしき匂いもする。何とも食欲を刺激する匂いで、おなかがぐうと鳴る。
「そのようだな。これを運んできたってことは、最早あそこはうちに対して【瞬間移動】が使えることを隠すつもりが無いのか?」
何のためにこんなものを贈って来たのか。その意図はどこにあるのか。色々と疑問は尽きない。モルテールンが普通の貴族であれば、これは単なるご機嫌取りだろうと考えるところだが、そう思えないだけの因縁があるのが彼の少年。油断だけは出来ないと、訝しげだ。
第一、こんな焼き立てホカホカのパイを、モルテールン領から運んできたというのがおかしい。
どうやったのか。恐らく【瞬間移動】を使ったのだろうとは思われるが、だとしたら“誰が”魔法を使ったのだろう。運んできた人間はモルテールン男爵では無かった。ここが意味することは何か。
何とも、意味深なやり方であろう。
「あの話をした時点で、銀髪の坊やが魔法の一つ二つ余計に使える事なんて些事よね」
「確かに。私たちでも同じように【瞬間移動】が出来るようになるというのだから」
魔法の汎用化に成功した。勿論、全ての魔法というわけではないし、今のところ【瞬間移動】だけだ、という話だった。この話を額面通り受け取るレーテシュ伯ではなく、何か更に隠している情報があるとにらんでいる。モルテールン領に行ったときに見かけた、あの貯水池もそもそも怪しいではないか。あんなものを魔法なしに作ったという方が不合理。
ペイスが魔法を複数使える可能性に思い至る。レーテシュ伯ならばそれは難しいことではなかった。
もっとも、一個人が複数の魔法を使えるという情報の価値。今までであれば値千金であったろう。
しかし魔法の汎用化が事実になった今、魔法を複数使える人間が量産できてしまうわけで、情報の価値は下がった。モルテールン家としても必死になって否定し、隠匿するものではなくなったことなのだろう。
「情報を確定させられただけでも大きな成果よね」
「ああ。向こうの得たのは豆だけか?」
今回の件の交渉内容を見れば、レーテシュ家が得たものは大きい。世界の技術革新の肝となるべき重要技術を独占入手出来るようになったのだ。
例えるなら、産業革命での内燃機関技術を独占するに近しい。冗談抜きに、世界の覇権を狙える。
対し、モルテールン家が得たものは何か。元々重要技術を開発したという点はさておいて、それの隠匿にレーテシュ家が協力することと、良く分からない豆を欲したことだ。
セルジャンの感覚からすれば、豆が特産品になる云々といっても、ことの重大性からすれば誤差のレベルに思える。なら、実質的にモルテールン家が手に入れたのは、レーテシュ家の協力だろう。
勿論、これがモルテールン家に利益とならない、とは思わない。しかし、どちらかといえば防衛的な思考に思える。レーテシュ家が攻めに攻めてどでかいプラスを得たのに比べ、モルテールン家は守りをガチガチに固めて、何とかマイナスを防ごうとしている様に見える。
マイナスを避けるための防備と、僅かにプラスになった実質的利益の豆。交渉でモルテールン家が得たのはこれだけではないだろうか。
「うちの協力も明言こそしなかったけど、当て込んでいるはずよ。癪だけど、うちとしてはモルテールンの情報秘匿には全力で協力するしかないし」
一応、交渉の詳細は後日ということになっていて、協力もどこまでやるかは詰め切れていない部分。情報を得てしまった現在、モルテールン家の信頼を裏切ることを覚悟すれば、隠匿への協力なんて放置して、広めまくることも可能だ。
しかし、それはやらない、いや出来ないとレーテシュ伯は言う。
「何故だ。とてつもない利益を産むだろう情報だ。他所に流せば、利益も出るだろう」
セルジャンから見ても大きな情報だ。欲しがらない貴族は居ないだろう。交渉材料の一つとして流用してしまえば、更に他家からどでかい利益を掻っ攫えるはずである。
「それで得られる利益より、情報秘匿に積極的に協力した方が大きい利益を得られるからよ。例の技術、モルテールンは根幹を握っている。うちはあくまで優先的に卸してもらう立場。うちで同じ物を複製できない限りね」
「ふむ」
今回の情報は、実はモルテールン家が生産技術を確立しているというところに肝がある。
ただ単に“こんなことが可能”という知識のことであれば、横流しもいずれはやむを得ない。未来永劫隠し通せるものではないからだ。
しかし、実際にブツが存在するのなら、代替品が出来るまでは相手がオンリーワン。売り手絶対優位の体制にならざるを得ない。ここで売り手の機嫌を損ねるのは愚策と、伯爵は考える。
「向こうが主であり、うちが従である以上、向こうは幾らでも従の替えは利くのよ。例の豆を何故欲しがったのか謎だけど、それだって例えばボンビーノ経由で手に入れることも出来る」
「確かに」
外国産の豆だ。入手がとても難しいものであるし、レーテシュ家の力があればこそ手に入ったともいえるものだが、レーテシュ家以外が手に入れることが出来ないわけでもない。
つまり、代替品がある。
「うちが利益を得ようと思えば、うちが独占して取引できる方が良い。なら、この情報は徹底的に秘匿した方が、うちの独占が続く。本当に憎らしいわ。結局手の上で転がされている気がするもの」
「それでも、他家に先んじてモノが得られるようになったのはデカいだろう」
「それはそうだけど……」
何か、釈然としないものが残る取引だった。
明言していないにも関わらず、相手の意図した協力をせざるを得ず、此方が一方的に得したはずなのに、どこかしら引っかかるものが残る。
「とりあえず、折角の貰い物だ。美味しいうちに食べてしまおう。誰か!!」
パイ菓子は、焼き立ての方が美味い。冷めたパイにしてしまうのも惜しいわけで、セルジャンは使用人を呼んだ。
別室に控えていた侍女が、即座にやってくる。
「はい、旦那様」
「お茶の用意を頼む。甘いお菓子に合うようにしてくれるか」
「畏まりました」
レーテシュ家の侍女は、一流である。さほどの時間をおかず、お茶の用意が整った。
「へえ、美味しいお菓子ね」
「チョコレート、というお菓子だそうだ。自信作なのでご賞味あれとのことだ」
伯爵もお茶の香りや味を楽しみつつ、ふと贈り物に添えてあった手紙に目を向ける。
中身を読むにつれ、彼女の顔つきが険しくなっていく。
「なるほど、これは大問題ね」
手紙を読み終えたところで、レーテシュ伯は凝り固まった眉間を揉み解す。
「何が書いてあった?」
「モルテールン領が、魔の森と繋がったわ」
夫の問いかけに、ボソっと呟く妻。
「どういうことだ? あそこは山脈が魔の森との間にあっただろう。わざわざ森まで道路でも作ったのか?」
「それならどれだけ良かったか」
「どういうことだ」
「山を移動させたらしいわ」
「何?」
セルジャンは、自分の耳を疑った。
「山を移動させたんですって。相も変わらず、信じられないことをするのね」
「そんな……そんなことが出来るのか?」
例えるなら、富士山がある日、伊豆に引っ越していました、というようなレベルの話。荒唐無稽と切って捨てる方が常識的な話だろう。
常識ではありえない、人知を超えたものが魔法という存在であるが、それにしたって限度があるだろうと、セルジャンは驚愕を隠せない。
「普通ならば、絵空事と切って捨てるでしょうけど。あの坊やが、わざわざ知らせてきたのですから、嘘ではないのよ」
「凄いな、それ以外に言いようがない」
破格、規格外、非常識、何というのかわからないが、どの言葉でも不足のような気がする。地形を変えてしまうような真似を、妄想ではなく本気で実現してしまう人間が存在したことが驚きだ。
「これは尚更、情報隠匿には協力しないと。うちが隠していた魔法使いがやらかしたことにしてくれとあるけど」
モルテールン家からの要請、交渉の詳細条件の一つとして、レーテシュ家に凄腕の魔法使いが匿われていたことにしようという提案があった。
確かに、誰もが魔法を使える技術を新規開発、というインパクトよりは、凄い魔法使いが居る、という方が納得されやすいし、信じられやすい。
よくもまあ思いついたものだと、レーテシュ伯も感心する。
「協力するのか?」
「勿論。抑止力があるのは良いことだわ」
レーテシュ家ほどの大家となれば、敵も多い。ここで“隠された凄腕魔法使い”という存在が噂になれば、敵は必ず委縮する。少なくともことの正体が知れるまで、首を引っ込めて大人しくなるはずだ。
山一つ動かした魔法。正体不明でありながら、事実のみ存在するそれは、敵対する人間にとっては恐怖に他ならない。外交の場で、軽く匂わせるだけでも、譲歩が引き出せるかもしれない。
レーテシュ家にもメリットは多い。
「問題は、何でそんなことをしたのかってことだけど……」
気になるのは、何故山をどうこうするような、目立つ真似をしでかしたのか。考えなしにやらかしたとは思えないが、意図が何処にあるのかはっきりしない。レーテシュ家に土産をくれただけとも思えないのだが、何で派手にしたのか。
「ふむ、やはり例の豆に関係があるのか?」
「そうかもしれない」
ペイスの思考を読み切れていない感覚がある。レーテシュ伯としては、霞がかった両家の思惑に、落とし穴が隠されていないことを祈るばかりである。
そんな彼女の目の前に、チョコレートのパイが映る。
「このお菓子、初めて食べるお菓子だけど、どうやって作ってい……」
ガチャン、と大きな音を立て、乱暴に茶器が置かれる。
「どうした?」
「やられたわ!!」
慌てた様子のレーテシュ伯にセルジャンは心配そうな声を掛けた。
「一体なんだ? 何がやられたんだ?」
「このお菓子、あの豆から出来てるのよ!!」
レーテシュ伯は、気づいた。カカオなる豆の正体。加工の先にある、チョコレートというものに。
「はあ? そんな昨日今日でこんな美味しいお菓子に出来るものなのか?」
「それが出来る……いえ、きっと最初から価値が分かっていたのよっ!!」
カカオ豆からチョコレートとかいう、これほどに美味しいお菓子が出来る。それを知っていたからこそ、ペイスがあれほど欲した。情報を差し出してまで欲しがった。カカオ豆の為に、山一つ消して見せた。そう考えると、全ての辻褄が合うではないか。
「そうすると……あの取引は、もしかして、とんでもない裏があるのか?」
「すぐに対策よ!! セルジャン、急いで!!」
「お、おう」
どたばたと、緊急会議の為に動き出したレーテシュ伯。
残されたのは、食べかけのチョコレートパイである。
放置され、宙に浮く形となってしまったチョコレートパイ。
そのあまりの美味しさが噂となり、これからひと騒動起きるのだが、それは別のお話。
これにて25章結
これまでのお付き合いに感謝いたします。
それでは次章「ドラゴンはフルーツがお好き」でお会いしましょう。
乞うご期待。