245話 餡子と交渉
「……やってくれますね」
レーテシュ伯から、先ぶれがあってから出迎えの準備をしていたペイス達。隠蔽工作も抜かりなく、出来得る限りの対策をした上での出迎えであったが、その歓迎の鼻先を叩くが如く、先手を打ってきたレーテシュ伯。兵は神速を貴ぶとばかりに、モルテールン家の機先を制する形で軍を入れた。その数三千余。モルテールン領を蹂躙するには十分な数だ。
勿論、高位貴族の移動であるから、移動についても丸腰というのはあり得ないわけで、若干の護衛は想定していた。
しかし、まさかモルテールン領を制圧できそうなほどの軍を動かすとはペイスも予想外であった。
「おうおう、殺気立ってらあ。ありゃ、うちを攻める気ですかい?」
「そうでは無いでしょう。もしその気が有るなら、東部地域で止め置いたりしません。脅しでしょう」
貴族の交渉事で、ぶん殴って言うことを聞かせる外交というものも存在する。力無きものの訴えなど、聞いてもらえないというのが世の常である。だからこそ、弱い貴族は派閥の庇護を受けてみたり、同盟を組んでみたり、婚姻外交をしてみたり、色々と苦労するのだ。
しかし、一応は同じ王に仕える仲間同士。軍を持ち出すのは、出来るだけ控えるというのが常識である。
この常識を無視して軍隊を動かした。この意図が何処にあるのか。モルテールン領を武力制圧して支配下に置き、技術や知識や財産をそのまま奪おうというのだろうか。
そんなことをしてくるようであれば、モルテールン家は手段を選ばず報復する。夜まともに寝かせるつもりなどないし、ゲリラ上等で徹底的にレーテシュ家の活動を妨害する所存である。レーテシュ伯とて、モルテールン家に手を出せば、恐ろしい報復があることぐらいは分かっているはずだ。
つまり、攻めるぞ、という威嚇。脅しであるとペイスは言う。
「脅しったって、三千からの軍を動かしますかい?」
「それだけうちは脅し甲斐があるということですね。一応、住民には夜間外出禁止令と、自警団には巡回を命じましたから、あとは向こうの出方次第でしょう」
一時期急に軍隊がやってきたことで住人は騒いだが、ペイスの指示で夜間に出歩くことを禁止する通達と、自警団の巡回を始めたことで落ち着きを取り戻した。あくまで友好的な友軍が来ているだけであるという立場を説明して回ったことで、民衆は日常を取り戻している。
夜間に出歩くのは、酔っぱらってレーテシュ軍の軍人と不本意で偶発的な衝突を起こしたり、向こうの軍人が夜の闇に乗じて、住民に不埒なことを行うことを防ぐため。友軍を明るい間は監視し、暗くなったら大人しくしてもらう目的だ。
ことがことなら、宣戦布告なしに一気に武力衝突というリスクが見えている。出来ることならば、ただご近所さんがちょっと物々しく遊びに来てました、というぐらいで終わらせたいものである。
「万が一にも攻めて来たら?」
「うちの庭の中なら何処だって【瞬間移動】出来ます。レーテシュ伯直々に来たというなら、直接狙うか……当家の目ぼしい人間だけ逃がしたうえで、他所から援軍を連れてきますかね。どのみち、向こうにヤる気が有るなら、此方は必ず後手になります。開き直るしかない」
事前通告なしに大軍を引き連れてきた。ここだけ見れば非は明らかに向こうにある。恐らく何がしかの言い訳は用意しているだろうが、ことに及べばタダで済ます気は無い。来るならいつでも来い。
ペイスの度胸の据わりっぷりは、既に歴戦を思わせる堂々たるものだ。
「坊のそういう度胸の良さは、頼もしいですぜ。親譲りだ」
「なら、母親譲りですかね」
「大将が泣きますぜ」
こ揺るぎもしない度胸の良さは、両親から受け継いだものに違いない。シイツはそう感じた。何せ、この神童の父親も、クソ度胸の逸話に事欠かない英雄なのだ。単身で敵陣に乗り込む話が幾つもあるし、失礼かました外国の要人相手に面と向かって喧嘩をうったこともある。恋人と結婚するために親兄弟と関係各所を全部敵にしたこともあった。シイツには、若かりし頃のカセロールと、今のペイスがダブって見える。
もっとも、ペイスの母親も母親で根性のある女性だ。何もないド貧乏な領地に、身一つで嫁いできて平然としていた。子供を産んでのち、忙しく飛び回る旦那を支えながら肝っ玉母さんとして子育てを行う。娘たちには、貧しさの中でも淑女としてしっかりと教育し、それでいて伸び伸びとして明るい子に育てた。
どちらに似たにせよ、肝っ玉の太さは間違いなく親譲りだ。シイツはうんうんと自分で勝手に納得して頷いている。
「来ましたね」
やがて、軍の方に動きがあった。僅かな護衛と共にやってくる女性の姿がある。間違いなくレーテシュ伯だ。
ここからは、楽しい楽しいお話合いの時間である。
「ようこそ、モルテールン領へ、レーテシュ伯。わざわざお越しいただきましたこと、光栄に存じ上げます。大したものもない田舎ではありますが、精いっぱい歓迎させていただきます」
「お久しぶりですペイストリー=モルテールン卿。突然押しかけてしまって、ご迷惑だったかしら」
「ご迷惑などと、そのようなことはありませんよ。閣下であれば、当家はいつでも大歓迎です。ここで立ち話も無粋ですので、当家の屋敷まで案内いたします」
ペイスは、背後から感じる数千からの軍集団の、あからさまに攻撃的な圧力を受け流しつつ、数人のレーテシュ家使節団を屋敷まで誘導する。その間、交わされる会話はゼロに近しい。無言のプレッシャーを掛けるのも、交渉のカードの一つということだろう。無言でいる方が圧力になることもあると、レーテシュ伯は良く分かっている。
屋敷の中に伯爵を通し、応接室に出迎えれば、ここから先は話し合いの時間。軍が脅しであろうという推測が確かめられた瞬間でもある。まずは一安心するモルテールン家一同。
「改めまして、良くおいでくださいました、ブリオシュ=レーテシュ卿。女伯爵御自らとは、心から驚いております」
お茶で軽く口を湿らせてから、口火を切ったのはペイスの方だった。
「他ならぬモルテールン卿と、大事なお話がありましたから。大勢で押しかけてしまって申し訳ないわね」
「いえ、さほどのことは。しかし、あれほど大勢で動かれるとなると、色々と邪推もされましょう。何故あれほどの軍を?」
「最近、特に物騒でしょう。何処とは言わないけど、領内の治安維持すらままならないところもあって。私もか弱い女ですから、旦那がどうしても護衛はしっかりしておけと言い張って」
「セルジャン殿が?」
「ええ。どうもうちの人は過保護なところがあるみたい」
まずは、レーテシュ伯の言い分だ。ここ最近、治安維持が上手く出来ていない領地が有るのではないかという疑いは、モルテールン家も持っていた。特にレーテシュ‐モルテールン間で時折そういった話が聞かれる。お互いの近隣にある二つほどの小さい他家領地が、治安騒乱の根源地ではないかとの疑惑はあるのだが、他領に押し入ってまで治安回復を優先させるわけにもいかない。
だからこそモルテールン家としては街道を増やし、リスクの分散を図ろうとしているのだが、言い訳に使われると対応も難しい。伯爵は治安悪化を理由に、あくまで伯爵自身の身を案じるが故の措置であり、主人の愛情の深さから来たものだと臆面もなく言ってのける。
まさかレーテシュ伯ともあろう人間が、夫婦間の情でもって軍隊を動かすという重大な決断を左右させるはずもない。どう見ても建前だ。
「家族想いなのですね」
しかし、ペイスはしばらく考えたのち、その建前を受け入れる。ここで反論してもいいのだが、実害が無いなら構わないと開き直った。実際、三千からの武力集団に恐怖を感じない鉄面皮があれば、何のことは無い、ただの団体旅行客だ。
ヤクザの集団が旅行に来たと思えば手っ取り早い。必要以上に怖がらず、当たり前のことを当たり前にして、難癖さえ付けられなければ大金を落としていく良いお客だ。
心臓に毛の生えたような不良少年なら、大丈夫だろうとモルテールン家一同は平常心を保っている。
「家族想いなのはその通りかしら。娘も溺愛していて、嫁にはやらんと言い出す始末よ。早めに相手を見つけてあげないと、可哀想だって言ってるのだけど」
家族の話題にかこつけて、娘の話をしだすレーテシュ伯。
以前、ペイスの取り込みを謀った女狐の言葉だ。ここは気をつけねばならないところ。嫁は一人で十分というのがモルテールン家の男たちの共通意見である。
「閣下とセルジャン殿の娘です。間違いなく美しくなられるでしょうから、相手探しに困ることはないと思いますが」
「第一志望には振られてしまっているから、他を探すのも大変なのよ?」
第一志望とは誰か。そんなことは、この場にいる全員に分かっている。同じ南部閥の領地貴族であり、非外務閥であり、優秀であり、未成年と呼べるほど若く、顔も整っていて、武術の腕前も一流であり、領地経営の手腕は秀逸で、レーテシュ伯とためを張る謀略センスを持つ男。
そんなものは一人しかいない。
皆の目がペイスに注がれるが、当の本人はカエルの面に小便である。
「縁は何処にあるか分からないものです。焦ることも無いでしょう」
案の定、軽いそよ風のように受け流す。
他ならぬレーテシュ伯自身、三十を超えてから初婚と出産を経験している。十代で結婚するのが常識の神王国では、晩婚も晩婚。嫁ぎ遅れの行かず後家と笑われていたのが、伯爵家の次男坊という良物件を婿入りさせたのだ。その裏で動いたのはモルテールン家であり、ペイスは、彼の夫婦の出会いと結婚までの経緯を全て知る、数少ない人間だ。
縁はどこにあるかわからない。この言葉の共通認識を持てるのは、両家だけだろう。
「なら良いのだけれど……優秀な人間がどこかに居ないかしら。そうね、例えば優秀な研究者のような」
ふっと、女伯爵が話題を変える。グイグイ力押しだったのがすっと脇に逸れたような力加減の上手さは流石だろう。並みならここでついうっかりボロを出しそうなものだが、ペイスは素知らぬ顔ですっと呆ける。
「優秀な研究者であれば、王立研究所に行けばより取り見取りでは?」
「そう思って、この間行ってみたの。色々な研究室を見せてもらったけど、やっぱりピンとくるものが無くて」
「閣下の理想は中々高いようですね」
研究職というのは、領地貴族の婿としては不向きだ。大体貧乏な人間が多いし、引きこもりがちだし、政治的なメリットもない。
知的であり、収入が一応安定はしていることから、下級宮廷貴族家の娘辺りが狙う対象にしたりするのだが、基本的にレーテシュ伯家ほどの格と釣り合うことは無い。それこそ、余程の大発見でもしていれば話は別だが。
つまりは、それを匂わせている。
お互いのやり取りで、徐々に攻め込みつつあるレーテシュ伯。ここからが本番と、モルテールン家の面々は知らずと体の力が入る。
「そんな中に、一つだけ気になる研究室があったのだけれど」
「ほう」
「汎用魔法研究室……ってご存知よね」
ペイス達には、やはり、という思いがあった。
色々と他の可能性も考えていたのだが、どうやら“魔法の飴”がバレたようだ。
物がどういうものか。完成に近しいところまで出来ていると知っているのか。そこら辺を確かめに来ていたとしたら、ここからはカマ掛けや推論の断定といった、“確証を得るテクニック”に気をつけねばならない。
「勿論存じております。一時期顔を出していたことがありますので」
故にペイスは、顔や態度に不自然さが出ないよう、気を付けながら会話する。
嘘はいけない。すぐにバレる。だから、研究所に顔を出していた事実については認める。恐らく、この程度のことまではレーテシュ家としても確証を得ているという予測のもとに。仮にこれがカマ掛けだったらペイスの失点だが、事実を確信した上での発言ならば嘘をついて攻め口を与えるのもペイスの失点となる。何処までが確証でどこからが推論なのか。見極めが求められる。
ジリジリと、いよいよもって鞘当ての様相を呈してきた。
「そこの研究者が素敵な方だと聞いていてね。是非お会いしたいと思っていたら、どうも最近、辞めて他所に行ったと言われたのよ」
「ほう、そうですか」
「……ここに居るわよね」
レーテシュ伯が切り込む。ずばりと聞くことで、ペイスの反応を寸分見逃すことなく観察しようとしている。
「さて、最近、元研究員という者を雇い入れましたが、彼らの前職が汎用研であったかどうかは……」
どうだったかなあ、覚えてないなあ。といった雰囲気を、実に見事に演技するペイス。
勿論本当は汎用研出身と知っている。何せ引き抜いた張本人なのだから。秘密を守るために、あくまでシラを切る構えだ。
「顔を出していたんじゃないの?」
「人の顔を覚えるのは苦手なのです。教え子が居て、僕を慕ってくれていましてね。そんな彼がうちに来るというので雇い入れ、その縁故で元研究員だった方が当家に来てくれたというのが経緯です。元々どこの研究室だったかは、調べてみないとはっきり分かりませんね。多分、仰るように汎用研だった気もするのですが、あまりそこを気にしていなかったのでうろ覚えです」
ペイスは、断言しない。そうだった気もするし、違った気もすると、あくまで惚ける。のらりくらり。暖簾に腕押し、糠に釘、プリンにかすがいである。
レーテシュ伯としても、モルテールン家に雇われたらしい研究員のうち一人が、ペイスの教え子であったと知っている。ここを突っ込んでみても、教え子だったからという建前を崩すのは難しいと見切りをつけた。そこで、攻め方を変える。
「研究員を雇い入れて、何を研究させるつもりなの?」
普通の領地貴族であれば、研究員を直接雇い入れることは珍しい。それも、中央から引き抜くというのはよっぽどだ。無論、無いわけではないいが、当たるかどうかわからない研究に金を出すのは博打のようなもので、網羅的に研究のできる、つまりは宝くじを買い占める、金銭的なゆとりのある貴族がやることだ。当たりがあると分かっていても、当たるまでやり続ける余裕が要る。
それならば、研究所で出た成果を買い取ってしまう方が確実な投資だ。研究設備が既に整っているし、王家からの援助もあるし、他の貴族からも投資が集まる。自分が全部をおぜん立てして独自に研究させるより、王立研究所の研究室に金を出して知識を買うのが一般的。
実際、農業技術などの多くはそのようにして広まっている。
元々王立で研究機関が作られた理由が、人的資源や労力を集中することで効率的に研究を行い、王家が知識と技術を管理し、国家全体の国力の増大のために普及するのが目的。
頭脳を結集し、資源と予算を集めて、効率的に研究開発する。成果は王家が管理し、適切に広める。幾つもの貴族がそれぞれ個別に、同じような研究を重複させるより、国家としてみれば遥かに効率的というわけだ。
自前で研究員を雇い、研究させ、成果を独占するという考え方も無いではないし、過去に実際挑戦した例はある。技術の独占というメリットがあるのは事実なのだ。しかし、成功したのは極一部である。大抵は、研究費をドブに捨てるような羽目になり、失敗している。
つまり、研究員を雇って研究させている時点で怪しい、とレーテシュ伯は言う。
「当家の機密事項ですが」
「私にも言えないと?」
「如何に閣下といえども、言えぬことはあります。日頃お世話になっていることは重々承知しておりますが、機密についてはご了承頂きたいものです」
研究開発は、内容が何であれ他家に話すものではない。秘密にするのが当たり前。ペイスの常識論に、レーテシュ伯は更に踏み込む。
「魔法の汎用化……いえ、その実用化ではなくて?」
「それが出来ると素晴らしいことですが、当家の目下の課題は別のものです」
「別?」
必殺のつもりでクリティカルな急所に斬り込んだつもりのレーテシュ伯だったが、ペイスは勿論この手のツッコミは予期していた。最悪、魔法汎用化について聞いてくるであろうと予想していたわけだから、焦ることなく研究員を雇った建前を説明する。さも、観念した、秘密を話しましょう、という感じで。殊勝な態度を装うことに関しては、悪童の名も高き少年からすれば、何年もやって来た筋金入りである。
「当家の機密事項ではあるのですが、分かりました。他ならぬ閣下に隠し事は致しますまい。くれぐれも他言無用に願いたいのですが、実は鉱物資源を調査しようと思っているのです。その為に鉱物資源の鑑定の出来そうな人材を探していたわけです」
「それが雇った研究員だと? 偶然にしては出来すぎね」
「教え子の知人に偶々詳しい人間が居まして。研究者だったらしいとは聞きましたが、そちらの方は副次です」
「……そう来るわけね」
汎用研で、長らく鉱物の魔力蓄積効果の検証が行われていたことはレーテシュ伯も調べがついている。まさかそちらで堂々と言い訳を用意しているとは思わず、伯爵も攻め手を欠いてしまった。元々、モルテールン家が魔法の汎用化に成功したという証拠があるわけでもないのだ。ここまで徹底して惚けられ、おまけに言い訳も準備されていては、女伯爵としても中々次の手が見つけられない。
「研究者に会わせて貰うことは出来るかしら」
こうなっては、攻める相手を変えるしかない。レーテシュ伯は、本丸が落とせないなら、せめて何がしかのとっかかりが欲しいと、手掛かりになりそうな人物に会いたいと依頼する。
「まことに申し訳ないのですが、今彼らはあの山の調査をしています。帰って来るのは一ヶ月は先になりますね」
「【瞬間移動】で運んでくれば一瞬ではなくて?」
「父がそうそう都合よく帰って来てくれるとも思えませんし、急ぎで連絡するとしてもここから王都となりますと、やはりひと月は見て頂かないと」
ペイスの魔法は【転写】であり、お絵かき魔法というのが公式な発表内容。父親の【瞬間移動】をコピーしていて、自由に使えるというのは機密事項だ。
もっとも、レーテシュ家にはとっくにバレていて、モルテールン家としてもバレているであろうことは承知している。しかし、あくまで公式な立場は崩さない。崩せるものでもない。
「貴方の魔法で何とか出来ないのかしら」
暗に、ペイスの秘密を匂わすレーテシュ伯の揺さぶりである。ペイスの魔法が何処まで出来るのか、父親が魔法を“貸している”とされる情報の真偽も探ろうとしているのだろう。
「僕の魔法はお絵かきの魔法ですから。大きな布に伝言を書いて旗揚げでもしますか? 運が良ければ向こうの山に居る人間が気づくかもしれません」
「そういうことではないのだけれど……ふぅ」
「お疲れのようですね」
「糠に釘を打ってる大工は、今の私のような気分でしょうね。無性に疲れるわ」
真実を暴こうとするレーテシュ伯。兵を引き連れて脅しても効果なし。カマ掛けにも乗らない。情報を探ろうとすれば惚けられる。そもそも話している内容が何処まで本当か分からない。ここまで徹底しているのだから、何かあるのは確かだろう。レーテシュ伯の確信は深まる一方だ。
しかし、肝心の“何を隠しているか”が掴めない。
敏腕ネゴシエーターたる女史であっても、頭をフル回転させながらも長引く交渉に、疲れを見せ始める。
「そうですか……ああ、折角ですから、とっておきのものを閣下にお見せいたしましょう。これはまだ当家の中でも限られたものしか知らないものです」
「それは期待しちゃうわね」
ここにきて、モルテールン側からの新情報だ。
疲れきったところを見計らっての攪乱と思われる。人間、疲労が溜まると正常な判断を行うことが難しくなる。勿論、半日交渉した程度で判断を間違えるレーテシュ伯ではないが、こうやって意図して混乱させて来るテクニックとは、分かっていても厄介だ。
新しい情報をインプットされる時、賢い人ほど頭を使う。既存の情報についての関連性や、整合性を気にしてしまうからだ。頭のいい人間が、論旨や論点がコロコロ変わるディスカッションや会話に疲れるのもこれが理由。
いっそ無関係なもので論点をずらそうと狙っているのか。或いは、関係ありそうなもので交渉相手の思考を乱そうとしているのか。はたまた他に深謀遠慮が隠されているのか。気を抜けないまま、レーテシュ伯はペイスの次の手を待つ。
「どうぞ」
ペイスが次の手として出したのは、供応のお茶とお菓子だった。
何とも拍子抜けではあるが、レーテシュ伯としてはだからこそ改めて気を引き締める。目の前の少年は、少しでも気を抜けばそこからガバッと噛みついてくる猛獣のような存在だと知っているからだ。事実、過去に僅かな手間を惜しんだが故に金貨を万単位で損をし、貧困に喘ぐ羽目になった貴族も居るのだ。
「これは?」
レーテシュ伯は、出されたものを見る。一見すると、ただのパンに思える。小麦パンを焼き上げた時のような香ばしく美味しそうな香りが鼻をくすぐり、僅かに乗せられたゴマらしきものが独特のフレーバーで食欲を刺激してきた。
これは、パンだけでも相当に上等なものを使っている。恐らくモルテールン産の小麦なのだろうが、だとしたら、何を狙っているのか。
「餡子という豆のペーストを使った、アンパンです。非常に甘くて美味しいパンですよ」
「あら、本当、美味しいわね」
一口だけ、口にしたところでぶわっと広がる甘味。一見暴力的にも思えるのに、それでいてさらさらと唾液に溶けていくペースト状のものが、パンの塩味と合わさったときの素晴らしさ。まるでこれが世界開闢以来の真理であるように、過不足なく互いを補い合っている。
何より、疲労した頭にはとても心地よい味なのだ。カラカラに乾いたタオルに水を滴らせた時のように、張り詰めた緊張の中で酷使した頭脳に染み渡る甘さが何とも言えない幸福感をもたらす。
一口、また一口と、ついつい食べ進めてしまう美味しさ。これは凄いと、レーテシュ伯も思わず驚いた。
「そうでしょう。……細かい手順は省略しますが、豆と砂糖が材料です。パンは別口で」
「へえ、どんな豆でも良いのかしら」
「そうですね、豆の違いによって味は変わりますが、基本的には大抵の豆でいけます」
明らかに、話題を逸らされている。汎用魔法の結果について言質を取りに来たのに、気が付けば新しい甘味について話し込んでいる有様。
分かっているのに、逆らえないだけの魅力が、餡子なるものには存在する。
「それなら、あの豆はどうかしら」
ふと、レーテシュ伯は閃くものがあった。
今までに無い、豆ペーストの甘味という新商品。これをモルテールン家が今後広めていくというのであれば、自分の所にも是非取り込みたい。
恐らく、交渉についてもすっ惚けられると確信したペイスが、レーテシュ伯の顔を立てるためにあえて用意していた“土産”なのではないか。そう思えてさえくる。
ならば、ここで意趣返しの意味でも、ペイスの知らないであろう情報をぶつけてみる。それでこそ、新たに何かしらの反応を、ペイスが見せてくれるかもしれない。
「あの豆?」
「この間、ちょっと遠くから交易しに来た商船から買い上げた豆があるの。とても苦い豆で、フルーツの種のようなものらしいのだけれど、独特の風味があるって言っていたわね」
「苦い豆……」
「フルーツについて色々と取り寄せてるから、今持っているのは我が家だけでしょう。珍しい豆ですから、もしかしたら興味がおありかもしれないと、持って来ているのよ」
一応、使うかもしれないと思っていた交渉材料。
ペイスが、航海病(壊血病)の治療として広めたフルーツ治療が頭にあったからだ。自分がフルーツを欲しいがために、大問題となっていた病気の治療法を無償公開するというあり得ない施策。きっちりと自分たちの分のフルーツは確保しやがったわけだが、それを踏まえ、新しいフルーツであれば、もしかしたら取引に使えるかもしれないと考え、持ってきていたのだ。
部下から渡され、すっと取り出した豆“らしき”もの。
ペイスがそれを見た時、そして独特の香りを鋭敏な嗅覚で感じ取った瞬間。今まで冷静で狡猾な仮面を被っていたペイスが、仮面を捨て去る。
「……閣下、この豆について改めてお話をしませんか? 閣下のお知りになりたいことをお教えしますので」
ペイスの頭の上には、カカオという文字が浮かんでいた。
〇餡子
×餃子
全く関係ない話ですが……
アンパンって美味しいですよね。
香ばしく、ゴマを擦ったものが乗っていて。
見た目は丸っこっくて可愛いのに、中身は真っ黒で。
え?
パンの話ですよ?





