241話 東からの賢者
ホーウッド=ミル=ソキホロは、生まれて初めて南部最辺境の地に足を踏み入れた。
人の住めない土地。敵国との最前線。過酷な自然環境。そんな噂が聞こえていた、おおよそ自分とは縁の遠い場所のはずだった。
「ここがモルテールン領!!」
「中々賑やかですね」
ホーウッドの傍には、彼の後輩研究員だったデジデリオ=ミル=ハーボンチがいる。彼らは揃って現在無職。勤めていた研究所に辞表を叩きつけ、辞めたばかりなのだ。しかし、彼らの顔には明るいものがある。次の仕事のあてが、モルテールン領にあるからだ。
二人は一ヶ月近くを掛けて馬車を使った旅をし、先日ようやくモルテールン領にやってきたのだった。長旅に体は疲れているはずなのだが、新天地に踏み入れた高揚感からか無駄に元気が溢れている。まだ若いデジデリオはともかく、中年というべきホーウッドまで活動的なのは驚くべきことだ。
そんな二人の視線の先に、手を大きく振る人影が見える。
人影に近づくと、それはモルテールン家のお迎えだった。
「ようこそ、モルテールン領へ。ホーウッドさん、デジデリオ、二人とも歓迎するよ」
「プローホル!! む、迎えに来てくれたのか」
「勿論。ここからは自分が案内するから、安心してくれ」
元研究員の二人を領境で迎えたのは、プローホル=アガーポフ。デジデリオとは同期の桜というやつで、寄宿士官学校の同期生にして、同じ教官に師事した同窓生だ。お互い、かつては劣等生と名指しで蔑まれていたが、ペイスに師事したことで才能が開花。プローホルは、卒業時には首席で卒業するという偉業を成し遂げている。
「君がプローホル君か、後輩君から話は聞いているよ」
「どうも、ホーウッドさん。いえ、ソキホロ先生とお呼びした方が良いですか?」
「研究職を辞めた身だ。先生と呼ばれるのもこそばゆい。名前で呼んでくれればいい。これからは、同僚になるわけだし」
「そうでしたね」
ホーウッドがわざわざモルテールン領まで足を運んだ理由は、モルテールン家に一本釣りされたからだ。汎用魔法研究室で燻っていた彼のもとにペイスが現れ、デジデリオの機転もあって画期的な発見をし、誰でも魔法が使えるようになる飴を発明した。
この技術は当然ながら機密指定になり、モルテールン家以外には口外出来ないものとなったわけだ。このまま汎用研で研究を続けても、成果を発表できない状況が続く。ならば、モルテールン家に完全に軸足を移し、モルテールン家の庇護のもとで研究を続ける方が良い。そう説得されたのだ。提示された給金の額も、汎用研所属時の八倍を提示された。一般人の基準でも高給取りといわれる王立研究所研究員の給与の、更に八倍だ。転職すれば、楽勝で大金持ちになれる。これで心動かされない人間は居まい。
転職後、研究内容の対外的な発表が出来ないことは変わらないが、少なくとも研究内容を隠すために上司や同僚たちと軋轢を生むこともなくなるし、成果が出ないと見下されることもない。研究予算も潤沢に貰えるようになるからと、決断した結果が今である。
「辞める時にトラブルはありませんでしたか?」
「そりゃあったよ。引き留めようとしてくる話もあったがね。こっちは年間四十クラウンの報酬。プラス百クラウンの研究費。住居費タダ。向こうは年給四クラウン半と、年間研究費が五シロット。もうね、話にならんよ。むしろ、残る連中が可哀そうに感じたほどでね」
「わ、笑いを堪える主任を見て、泣いていると勘違いしたらしいです」
「それはそれは」
王立研究所のエリートはプライドも高いし、給料という面でも、決して安い給料ではない。むしろ、高給取りの部類だ。普通ならば、この待遇を蹴ることは考えにくい。
王立研究所という国家組織を上回る給料をポンと出すモルテールン家がおかしいのだ。
今まで散々に冷遇されてきたホーウッドにしてみれば、自分をどこまでも高く評価してくれるモルテールン家を選ぶのは、当然と言えた。
「それで、ここからはどれぐらい掛かるのかな?」
「まだしばらく掛かります。途中で泊まりもありますが、最上級のもてなしをするよう手配していますので、快適な旅をお約束します」
「嬉しいねえ。今更だが、ここら辺はモルテールン領ってことでいいんだよね?」
「ええ。東部地域になります」
モルテールン領は、元々モルテールン地域と呼ばれる、山に囲まれた半乾燥地帯全体を指す。そこに、リプタウアー騎士爵領を併呑することで、現在のモルテールン領がある。比較的雨量に恵まれた、旧リプタウアー領の地域一帯を指して、東部地域と呼称している。彼らが今いる場所がそうだ。王都から主要な街道を通って来たなら、東部地域の端から入領することになる。
「割と、家畜が多いねえ」
ホーウッドは、以前に聞きかじっていた話から想像していたものより、家畜の数が多いと感じた。今まで通ってきた他の領地と比べての話では無いので、ごくごく標準的な牧歌的風景ともいえるのだが。
「その辺は、農業指導の一環ですね」
「農業指導?」
「三圃制と呼ぶそうです。家畜を育てながら、麦や根菜類を育て、完全な休耕地を作ることなく農業を行うことで、生産性を上げる試みだとか」
三圃制は、現代では学校でも習う古い農業のやり方だが、この世界では最先端の技術ということになる。
元々、農業というものは同じ土地で同じ作物を育て続けると、土中の栄養や成分がどんどん偏っていき、農作物の生産量が落ちていく。連作障害といわれるものだ。南大陸でもこの連作による弊害自体は昔からよく知られており、土地を一年ごとに休ませるのが一般的だった。
それが西部あたりで、家畜を飼いながら、具体的には馬を飼いながら土地を休ませる方法が模索されたことから、不完全ながら三圃制の農業が生まれた。遊牧式農業ともいわれる。ここから発展し、三圃制農業が誕生したのだ。その背景には、王立研究所の農学研究者の活躍が有ったりもするのだが、ホーウッドなどは専門外な為単純に驚いていた。
今現在モルテールン領では、三圃制の更に先を模索して試行錯誤の途中にあるのだが、ここら辺は今のところ下っ端に知らされることは無い。
「上手くいってるのかい?」
「始めてまだ数年ですが、今のところ上手くいっているそうです。先輩の話だと、牛や山羊を増やしたいペイス様と、豚や羊を増やしたいシイツ従士長達で意見の相違があるとか」
「それはまた何故?」
「グラサージュさんが、乳と酒の戦いって言ってました」
モルテールン領に比較的マシな農業が出来る土地が編入されたとき、家畜を殖やすことは満場一致で決まった。しかし、どんな家畜を増やすかで意見は割れた。
ペイスはミルクを生産できる家畜、特に牛を強く推した。チーズやヨーグルトなどの派生品を思えば、乳業の育成はペイスとしては譲れない一線だったのだ。
一方、シイツを始めとする大人達は、ソーセージやベーコンの生産を目論んで、特に豚を強く推した。豚は成育が早く、また肉の生産量も多い。単純に農業の効率や、土地利用の効率だけを考えた場合、養豚が優れているというのは、ペイスでさえ認める事実だった。
牛を育てて乳製品を作るべきと主張するペイス派と、豚を育てて肉加工品を作るべきと主張するシイツ派。
この違いが何によって生じたかといえば、ミルクでお菓子作りをしたいペイスと、自分好みの酒のあてを作りたがった飲兵衛の違いである。
内情を知れば実にくだらない話ではあるのだが、ことが趣味嗜好の話なので、絶対に折り合いがつくことは無い。妥協できない、仁義なき戦いである。
結局、どちらの意見も折衷するということで現在は小康状態のこの争い。水面下では、徐々に牛を増やそうとする動きをペイスが見せていることから、暗闘が続いている。
「結構みんな生き生きと働いてるね」
「ええ。そりゃもう」
中年男の見るところ、今までずっと旅してきた途中で見てきた人たちより、モルテールン領で働く農民たちは笑顔が多いように見られる。仕事の内容自体は大きく違いが無さそうなのに、どこに違いがあるのだろうか。
疑問を持つとしつこいのは、研究者の性である。
「研究者としては、理由を知っておきたいところだが。結果だけ見えて、過程が見えないのは気持ちが悪い」
「自分も詳しくはないですが、聞いたところでよければ」
「勿論。教えてくれ」
「一つは、単純に税が安いです。モルテールン領では教会の税がありませんし、理不尽な賦役もやらない。動員するときは農閑期になるよう気を使い、対価も弾むらしいです」
「へえ」
信心深い領主が治める土地などは、土地を所有している領主に対する税と、教会に対する税の両方を強要される。これがこの世界の常識だし、そういう土地の方が圧倒的に多い。
領主の税も、モルテールン家は自分で商売をして金を稼ぐため少なめにしてあるが、他のところであれば絞れるだけ絞ろうとする領主も多い。
かまど税、水車税、地税、道路税、森林使用税などなど。結婚税などという税金を取る領地もある。
モルテールン領は辺境であり、常に人手不足であり、移住を積極的に受け入れる方針を取っている。そのため、税金はシンプルかつ低めにするのが大方針なのだ。
「もう一つは、移住者が多いこと」
「ん? それに意味があるのかい?」
「勿論、だそうです」
元々人の住めない土地を何とか開墾してきたモルテールン領。住人は、ほぼ全てが移住者だ。これが、意外なことに幸福感の増大に繋がっていると上層部は見ている。
人間、幸福というのは絶対値だ。自分が幸せに感じるかどうかは、外から見た数字ではない。金を稼いでいても不幸に思う人間もいるし、温かい家族に囲まれていても不幸だと感じるやつも居る。
しかし、幸福の物差し自体は、相対的に判断する人間が多い。
年収の高い人間でも収入に不満があるとき、より稼いでいる人間を見てそう思っている。或いは、極普通の自分の子供に不満を持つ親は、もっと優れた他所の子供と比較して、不満を持つ。
自分が恵まれていると感じる時、自分の中に評価の物差しがあるのは希少な人間。多くの場合は、自分より下の人間がいることで、自分が恵まれているのだと実感する。
褒められたことではないのだろうが、現実としてそういう人間が多いのがこの世界の話だ。
だからこそ、他所の領地などでは、奴隷だの反抗者だのをあえて劣悪な環境に置き、それを晒すことで民衆の不満を逸らすような政策も行われる。
モルテールン領では他人の不幸を放置して慰めにするようなことはしていないが、移住者を常に受け入れることで、図らずも同じような“比較対象”の情報を、一般大衆が得てしまう。他所の領地の酷い話を、経験者たちが語るのだ。モルテールン領に来て良かったと、彼ら彼女らが心の底から実感を込めて語る。
それを聞いて、自分たちがとても恵まれた環境なのだと、モルテールン領の住民は実感するという。これが幸福感の増大に寄与しているらしいのだ。
善政を敷き、かつ情報の行き来が自由なモルテールンならではと言えるだろう。
「ふむふむ、実に興味深いね」
きっと自分も、かつての境遇について悪しざまに言い、新しい境遇の素晴らしさを声高に語るだろう。それは、ホーウッドにも簡単に予想できた。
「他にも色々とありますが……あ、とりあえず、今日はあそこで一泊です。話の続きは夜にでも」
「楽しみだねえ」
一行の宿泊先は、東部地域の中心。元々リプタウアー領の領都と定められていたところだ。ここも近年の活況を受け、大規模な開発が進んでいる。特に整備が進んだのが、ナータ商会の出資する宿屋だ。
貴族向け高級旅館が一棟十四室、一般富豪向け中級旅館が二棟六十室、大衆向け旅館が五棟二百三十室。食堂並びに酒場併設で、大規模な商隊が来た時などは一旦これらの宿に宿泊ののち、目ぼしい人間だけがモルテールン領都ザースデンに出向く。
ザースデンも旅館や酒場は整備されているのだが、この土地は井戸が掘れない。故に、大量の客や馬を宿泊させるのには、東部地域の方が適しているのだ。馬などは人間の何倍も水を飲むので、過去に商隊クラスの集団がやってきた時、ザースデン内の井戸の水位が恐ろしく低下し、領民に取水制限を掛けた経験から、このような形になっている。
明けて次の日、研究者の一行は、いよいよモルテールン領の主要部に入る。
山を越える道であり、馬車がなんとかすれ違える程度の幅しかないところもある、一番の難所だろう。
峠を越えたとき、そこに広がっているのは、広大な農地だった。
「凄いな……」
ホーウッドの驚きは、見渡す限りというべき広大な農地ではない。それを支えるだけの、整備された水路や道路だ。碁盤の目状というのか、実に奇麗に区切られている畑は、幾何学的な美しささえある。
元々何もなかったところを整備していったからこそ生まれる、整い切った美しさというのか。人工的であるが故の機能美というのか。他所のように複雑に小分けにされている農地ではなく、几帳面さを感じる風景には感嘆の言葉が漏れる。
「ここから新村に行き、休憩を挟んでからザースデンに行きます。そこからは、ペイス様が案内してくれるそうですよ」
「え? ペイストリー様が直々に?」
「はい」
ホーウッドは、貴族である。しかし、傍系の更に傍系という立ち位置であり、なまじ実家の厳しい身分差を知っているだけに、モルテールン家の“軽さ“に驚く。
ペイスといえばモルテールン家の次期後継。嫡子である。いずれ、この荘厳な風景全てを受け継ぐ立場。軽々しく動く立場ではないはずなのだが、自分たちを自ら案内してくれるという。これは素直にうれしい話だ。
「では行きましょう」
宣言通り、新村を通過したのち、ザースデンではペイスと合流する。
少年は、ホーウッド達の姿を見るなり、両手を広げて歓迎して見せた。
「ようこそ。お二人とも歓迎しますよ」
「わざわざのお出迎え痛み入ります」
堅苦しい敬礼を見せるホーウッドだったが、そんなものは無用とペイスは笑う。
「これから貴方達は我々の仲間。同胞です。後ほど歓迎会もやりますが、まずは急ぎで、新しい建物をお見せしましょう」
「新しい建物?」
「機密保持を徹底した建物を、拡張したのです。貴方達に気兼ねなく過ごしてもらうためにね。そこの場所は、今のところ秘密なので、僕の魔法で移動します。万が一尾行があっても、それなら付いてきようがないので」
「なるほど」
今、なんか凄いことをサラッと言ったよな、とプローホルなどは思ったが、賢明な彼は口には出さない。
その場から、早速とばかりにペイスと他二人が【瞬間移動】で移動する。
やってきた場所は、設備の整った建物だった。高さは三階建てぐらいだろうか。外から見た限りでは何の変哲もない、ただの箱にしか見えない。
この建物には魔法対策が為されているため、中には直接移動できない。ペイスの魔法であっても例外ではないのだ。その為、外観を見上げるデジデリオをせかしながら全員で建物に入る。
建物の中には、主要な生産物たる飴を作る設備もあり、勿論個室も用意されている。シャワーや宿泊設備まであるのだから、その気になればここで引きこもって暮らせる。どれほど金を掛けたのか。外来組は驚くこと頻りである。
「ここが貴方達の城ですよ」
甘い香りのする一室に、四部屋用意された研究所。
これが、モルテールン領立研究所の全てであった。