022話 油断
「気が付いたか」
そう声を発したのは一人の男。
「いいえ」
返事をしたのは一人の少年。
傍らには少女が一人、目を閉じたまま縛られている。
「おお、起きてるじゃねえか。結構結構。それで、坊やには現状の説明が必要か?」
「僕らが誘拐されたのでないのなら説明が欲しいですね」
「なら不要だな。これでも紳士でよ。子供に立場を無理矢理分からせてやる必要が無くて嬉しいね。子供を殴りつけるってのは、あれで結構嫌なもんだ。そのまま良い子で大人しくしていれば、坊やはそのうち解放してやる。いいな」
陰険そうな顔をして、片頬のみで笑うのはストルーデル。家名はとうの昔に捨てた、ただのストルーデル。傭兵団を率いてきた団長だ。
僅かに身じろぎし、傍の女性を庇うようなそぶりを見せた少年はペイストリー=ミル=モルテールン。今回辺境伯家令嬢の護衛を担っていた。
今は何重にも巻きつけられた縄で体を縛られ、芋虫のようになっている。
「お前はそこの女を大人しくさせる為の道具だから、とりあえずの安全は保障してやろう。後で飯でも持ってきてやる。悪いことは言わん。それまでは大人しくしておけ。言っておくが逃げようとは考えるな。もしそんな真似しやがったら……殺す」
目の前の男の言葉に、少年は沈黙で答えた。
◇◇◇◇◇
カセロール=ミル=モルテールンは落ち着いていた。
「あの穴は間違いなく魔法使いの手によるものだった。魔力の残滓がこびりついていた」
「何処に繋がっていたんで?」
「教会の隣の屋敷の一室に繋がっていた。誰がやったか知らんが、地面の下とは流石に予想の域を越えていたな」
「普通はそんなことが出来るとは考えませんぜ。普通でないからこその魔法使いですしね。大将みたいに」
「お前がそれを言うなよ」
モルテールン騎士爵は、眼前の腹心兼親友兼魔法使いに、そう零した。
護衛の任に当たる時、仮想敵に魔法使いが居ることを想定していたとしても、どんな魔法を使うのかまでは分からない。
千差万別、十人十色。こうなる可能性もあるかもしれないと予想していたうちの、最悪のケースになってしまった。
いや、最悪は無差別に大量殺人を行う事であったのだから、それに比べればまだ最悪は免れているだろうか。
「それで、辺境伯は何と?」
「姉の方の婚約披露が最優先とおっしゃっておられたな。これがお披露目を潰すためであるのは明らかだからこそ、本命の方の警備を疎かには出来んと。それでも娘の事であるからと、手勢を幾人か借りられた」
「そいつらは今何処に?」
「足取りを追っている」
「無駄足になるものをご苦労なことで」
救いがあるとするならば、手がかりがまだ残っている事だろうか。
正しく言うならば、手がかりや合図を何としてでも寄越すであろう少年が傍についているのだ。
それが分かった時点で、カセロールは既に解決を確信した。
「お館様、若の居場所が分かりました」
「早いな」
「いやね、さっきの部屋にもう一度行ってみたら、こんなものが落ちていましてね。それまでには無かったものですから、間違いなく坊っちゃん……じゃない、若様が“送って”来たものだと」
案の定、早速手がかりを寄越してきたことに、ペイストリーを知る大人たちは納得顔になり、良く知らない人間は不思議そうな顔をした。
手がかりを見つけてきたのはグラサージュ。モルテールン領でも指折りの弓の名手であり、従士としてはまだ三十そこそこで働き盛りの男だ。
彼の手から手渡されたものは、布の切れ端。
焼かれたような文字が、まるで清書の如く綺麗な形で“転写”されていた。
「犯人はアーマイア元公爵家の人間。旧アーマイア邸の地下に監禁されているらしい。シイツ」
「へい」
「すぐにフバーレク辺境伯とカドレチェク公爵に連絡。人手を借りられるだけ借りて来てくれ。私は手勢をまとめて向かう。現場の邸宅で落ち合おう」
「大将に送って貰えば早いですが?」
「ならば今から送る。任せたぞ」
「坊も世話が掛かりますね」
軽く肩を竦めるにとどめた腹心に、モルテールン騎士爵は無言で魔法を掛けた。
魔法の発動条件であるため触れていた騎士爵の手。そこにぐっと力が入ったのをシイツは覚悟の現れであると受け取った。
一瞬で教会の一室から消えた男に唖然とする何人かに向かって、カセロールは父親の甘さを捨てた勇士の顔で向き合う。
「諸君、事は一刻を争う。全員私の指揮の下、急いで向かって欲しい。向かう先は旧アーマイア邸。狙うは首謀者の身柄確保、並びにリコリス嬢の身の安全確保である。我が息子ペイストリーもその場に居るが、最優先はかの御令嬢の安全である。フバーレク家の御家人は私の指揮の下、全員御同道願う。行くぞ」
「「おう!!」」
従士、家人、傭兵。そしてその場にたむろっていた採用希望者たちは、あっという間に一団を形成した。
その数は三十人を超える。
有事の際、機に臨んで変に応じるが如きは称賛されるべき対応と言える。
野合ともいえる連中を、即座に手勢として加えた騎士爵の行動は、まさに臨機応変と言えるものだった。
金や利権の香りに誘われて集まっていた連中のうち、今もって教会に未だ屯っていた連中は二通り。仕官を狙っていてそれが適わなかった者と、顔つなぎに失敗した者とである。
カセロールは、咄嗟にこの仕官にあぶれた連中を糾合した。その際にぶら下げた餌の効果は絶大だった。
「諸君らに告げる。フバーレク家の御令嬢が誘拐された。令嬢の救出或いは犯人の捕縛は大手柄となる。どちらかを為した者には、神王国騎士爵カセロール=ミル=モルテールンの名を持って必ず取り立てることを約束する。それ以外にも功績をあげたものには口添えの一筆を認める事を約束しよう。場所は旧アーマイア邸。内部は罠や防備が考えられる為、周囲を囲む。裏表いずれかの出入り口より、首謀者の脱出ないしは御令嬢の移送がされるものと予想される。裏表のどちらが該当するかは不明。諸君らの幸運に期待するや切である。事は一刻を争う。各人、功を求めんと欲すれば急がれたし」
この口上を聞いた仕官希望者は、我先にとアーマイア邸に駆けだした。
「そんな約束をして大丈夫なんですか?」
「構わんよ。どうせ無理に決まっているからな」
ニヤリと笑ったカセロールの顔。傍に居たグラサージュは、そこに親子共々に共通した悪戯好きの面影を見る。
次期領主の悪知恵は、絶対に父親譲りだと確信を持つ。
「駆けて行った連中がもし本当に首謀者を捕えたり、或いはリコリス嬢を奪還したりすれば何としますか」
「それが出来るほど有能なら、うちで雇うにもやぶさかではない。丁度村も増やして人手が欲しかったところだしな。だが、そうはなるまいよ」
「何故です。あの人数で屋敷を囲めば、もしかすれば逃げようとした者を捕まえることはあるかもしれませんよ?」
「地面を掘って人を攫える者が居るのに、わざわざ囲まれた敵中を突破する必要は無いだろうよ。しかし、あれだけの穴掘りの後だ。魔力がペイス並みでも無い限り、そう遠くまでは掘れまい。囲みを抜けた所で、魔力切れの賊を捕える。連中はその為の猟犬だ」
狩猟の仕方は幾つもあれ、その内の一つのやり方として囲み猟がある。誘い猟や追跡猟とは違い、逃がす心配が比較的少ない猟法として知られる。
欠点としては人手が要る事であるが、それを今回臨時に動員したのだ。
「事前に逃げ道を用意していたら?」
「囲みで騒がしくなればペイスが気付く。事前の逃げ道から逃げようとすれば、あいつから報せの一つも来る。私が来ている事を知れば、上手く呼吸を合わせられるぐらいの機転は効く息子だ。いっそバラけて逃げてくれれば、シイツの【遠見】とペイスの内応で、うちだけは圧倒的に有利。恐らく手強いだろう敵方の戦力とは戦わず、首謀者の身柄とリコリス嬢の安全確保だけを狙えるかもしれん。そうなれば、苦労もせずに手柄はうちで総取りだな。くくく」
悪い顔の面影は、一層その色を濃くする。
グラサージュは、従士として仕える主の悪巧みに、頼もしいと喜ぶべきか、はたまた嘆かわしいと悲しむべきかを逡巡したのだった。
◇◇◇◇◇
「ん、ぅん……」
リコリス=ミル=フバーレクは、微睡みの中から目を覚ます。
確か、教会に居たはず。そして、突然の揺れと浮遊感を覚えたあとの記憶を思い出そうと、ゆっくりと目を開ける。
「気付きましたか?」
穏やかな声。
ふわりと頬を撫でる春風のように、どこか優しげであり、それでいて涼やかだ。
少女は、それの聞こえた方に目を向ける。
「ペイストリー様?」
「ええ。ここが何処で、今がどういう状況か分かりますか?」
「ごめんなさい、分かりません」
「ここは誘拐犯の根城で、我々は誘拐されているんです。まあ、力ずくでしたから、誘拐というよりは拉致でしょうか」
拉致、という言葉に、リコリスの身が強張る。
日頃は屋敷で蝶よ花よと育てられたお嬢様にとって、明確に向けられる他者の悪意は恐怖にしかならないのだ。
「大丈夫、僕が居ます。安心してください」
少年の優しい言葉に、ぐっと気持ちを持って行かれそうになる。
今日だけで何度この少年に頼もしさを感じただろうか。
出来る事ならば、その言葉に身を委ねたい。全てを任せたうえで、守って貰えるのならそうして欲しい。
なまじ激しく状況が変わるからこそ、慣れぬ心が弱さになるのだ。
しかし、自分にその資格があるのかという疑問に彼女は思い至った。
いつもいつも、考えてきた悩み。聡明で美しく頼れる姉と比べて、自分に守られるだけの価値があるのだろうかと。
今回の話が決まり、姉に同道して、尚更その思いを強くした。皆が見ているのは姉であって、自分では無いという悩み。道中、無愛想であったのもそれが理由だった。
「おぅおぅ、一丁前に騎士気取りか? 格好良いねえ。おじさん惚れちゃいそうだよ」
「無駄口は止めろ。女の方も目を覚ましたなら話が早い。大人しくしてれば“俺たち”は手を出さん。飯を持ってきてやったから、食え」
与えられたのは、木の器に入った水と、固くなったパン。
監禁が長引く場合、次にいつ食べられるかは分からない為、食べておくという選択肢もあるが、相手が相手だけに何を盛られているかもしれず食べたふりでごまかす。
「おい、お前見張っておけよ。下手に自殺でもされればあの阿呆に金を貰えなくなる」
「うぃっす」
リコリスが目覚めたことが分かったからだろう。
頭目が手下に見張りを言いつけていった。
彼らの懸念はただ一つ。婚約披露をするはずの少女が、身の境遇を儚んで自裁すること。
少女が実は妹の方で、人違いであることも。或いは本当に警戒しなければならないのは、おまけでついてきたはずの少年の方であることも。彼らはまだこの時点で気づいてはいなかった。
目敏さに関して、悪戯っ子の悪名も高き少年はそれ相応に鍛えられている。
それ故、自らと少女を攫った連中の意識が自分から外れて油断しきっているのを見て悟る。
さも何も物を知らず、怖いもの知らずの少年を装って、見張りの男に声を掛けた。
「ねえお兄さん、僕たちこれからどうなるの?」
「あん? まあそこの女はともかく、お前は殺されるかもな。けけけ」
裏稼業に従事する者は、大抵加虐心がある。
自分が痛めつけられるぐらいなら、他人を痛めつける側に立ちたいと思う連中の集まりなので、当たり前と言えば当たり前だ。
青銀の少年のあどけなさは、その加虐心を大いに刺激する。
見張りの退屈も手伝って、男は少年と会話する。
「僕はまだ死にたくないなぁ。ところで、ここってどこなの?」
「言うわけねえだろボケ」
「僕たちを攫えって言ったのは誰?」
「いい加減うるせえぞ。今すぐ殺すぞガキ」
「僕を殺すと、金貨200枚がふいになるよ?」
「ぶっ殺……何?」
金貨二百枚。
それは、傭兵団の下っ端として、法のグレーと黒の間を歩く男にとっては一生縁のないほどの大金。
具体的な金額が出たことで、男は思わず少年の話術に嵌ってしまった。
「僕はこれでも貴族の嫡男。身代金を要求するなら、それぐらいは十分請求できると思うのですよ」
「てめえ、吹かし入れてんならその首絞め落とすぞ」
「嘘じゃないですって。僕も死ぬのは嫌ですし」
貴族。或いはその子弟が戦場などで身柄を押さえられ、解放するのに身代金を使うというのは割とありふれている。
男は傭兵であるから、貴族の子が金になることをよく知悉していた。
そうしてみれば、なるほど確かに貴族の子弟らしい雰囲気がある。口調の丁寧さや、身に着けているものの質の良さ。顔かたちの造りの良さ。どれを見ても貴族と言われて納得できるものだ。
そうしてみれば、少年の銀髪もまた金貨の輝きに見えてくるから不思議なものである。
「もし僕らをここに招待した人物が貴族であれば、もっと金額は上がるはずです」
身代金を要求する場合、交渉する当事者が貴族同士である場合と、片方が非貴族階級である場合では金額がまるで違う。
貴族同士であればお互いに最後の手段として紛争に訴えることも出来る為、それが抑止力になってほぼ対等の交渉になる。
だが、単なる傭兵などであれば、いざとなれば権力を盾に足元を見られる。
故に、誘拐の主犯が貴族であれば身代金が上がる、という言葉は素直に頷けるものだった。
200枚より多い金貨の山。よだれが出そうなご馳走である。
流石に全て自分の懐に入ると思うほど、男は知恵無しではなかった。が、おこぼれの大きさを見過ごせるほどの欲なしでもなかった。
上手くこの話を持っていきさえすれば、身代金の話を最初に見繕った者として、手柄は勲一等。200枚の幾ばくかは男の物になる。
ならばこのガキから弱みや付け込める隙を聞き出しておいて、金額が増えるほどに自分の取り分も大きくなるではないか。男はそう考えた。
それが少年の企みであるとも気づかず。
「坊主、助かりたくて必死なのは分かるがな、残念ながら俺たちの雇い主は貴族じゃねえ」
「しかし、お兄さんたちみたいな手練れを用意するのは、相当お金が掛かるでしょう。そこら辺の人間に雇えるとも思えません」
手練れと呼ばれた男は、鼻を大きくする。
裏稼業に半身を入れる自身にとって、賞賛と尊敬は縁の遠い話である。依頼主から蔑まれることも日常茶飯事の中にあって、慣れない賛辞はことのほか男の気を大きくした。まして腕に覚えがあるのは事実であったから、そこをくすぐられて悪い気がするはずもない。彼らにとって、実力こそプライドなのだ。
「っふ、確かに俺たちほどの傭兵を雇うのはそこいらの人間には出来ねえな」
「そこら辺の商人ならば利にならない誘拐などしないでしょうから……となると、お兄さんの雇い主は元貴族って所でしょうか?」
「それはどうかな」
当たりだ、とペイスは確信した。
明確に否定しないのがその根拠になり得る。
欲に目がくらんで、少しでも情報を引き出したいが為に迷いが生じているのだ。
悪童は、心の中でしめしめとニヤつく。
「そうですか……元貴族であれば、相当に名前が通った所なのでしょうね。落ちぶれた子爵や男爵ぐらいではお兄さん達は雇えないでしょうし」
「ん? まあ俺たちを雇おうって連中はそれなりだな。お前の父親は貴族っていってもどれぐらいなんだ?」
「僕の父ですか。まあ公爵家の当主と差し向かいで話が出来る程度ですよ。それなりです」
ペイスの言ったそれなりと言う言葉。そこに男はニヤついた。
男が、自分自身で言った“それなり”と言う言葉に含まれる意味から、目の前の少年の身柄がそれ相応に高位のものだと勘違いしたからだ。
それを冷静に観察していた少年は、誘拐犯の主犯を推理した。
男が、それなりと言う言葉にニヤついた所を見れば、少なくとも元子爵よりも上。それも相当に上であることを察した。
魔法使いを含めて、相応の戦力を揃えられる財力と、公爵家或いは辺境伯家に恨みを持つ没落貴族。
そして少なくとも元の階位は伯爵以上、となると当てはまる家は一つしかない。
アーマイア家。元公爵家。
更には、ここが何処であるかも察した。
腹具合から計算した時間から考えて、場所はそんなに遠くない。少なくとも王都の外へは出ていない。立派な部屋の造りから、スラムのような場所では無いので、間違いなく貴族街の家の何処か。それでいて没落したはずのアーマイア家が使えるような場所となると、縁故のあった貴族の家か、元アーマイア邸かのどちらかになる。
アーマイア家は一族粛清と共に、縁のあった所も縁切りされているはずである。よりにもよって王都の中で、中央軍を統括する公爵家を敵に回すような計画に協力する貴族家は居ない。
であるなら、監禁場所は元アーマイア邸。
そこで、こっそりとペイスは魔法を使った。
後ろ手に服の飾り布を引きちぎって隠し持っていたのだ。見張りから見えぬよう、背に隠しながらの発動。
頼れる父とそのゆかいな仲間へ、場所を知らせる為に。
「うちの父はそれなりに稼ぎもありますし、僕を大切にしてくれていますから、きっと金惜しみはしないです」
「ほう、そうかい。幾らぐらい稼ぐんだ?」
「この間はとある臨時稼ぎで五百レットは軽く稼ぎましたね」
「レーテシュ金貨五百枚たあデカい稼ぎだ。いいねえ、貴族様は。こちとら毎日働いても、そんな大金拝んだこともねえ」
後は、適当な話でのらりくらりと時間を稼げばいい。
少年のその判断は、正しかった。
しばらく雑談のようにして時間を稼いでいると、ドヤドヤと騒がしくなってきた。
足音からして十人程度の人間が、右往左往と走り回っている音。
きな臭い雰囲気が漂ってきたことで、ペイストリーは状況を察した。トラブルの予感である。
人は、怒りを通り越すと無表情になる。
まさにその表情で、男が少年少女の部屋に入ってきた。
ずかずかと、肩をいからせながら憤怒も露わにリコリス嬢に近づいていく。
ペイスは、それに嫌な予感を覚える。
「糞がっ!!」
「ぐはっ」
「ペイストリー様?!」
傭兵団の頭目であるストルーデルは、不機嫌さと怒りをそのままに少女を蹴り飛ばそうとした。
それを咄嗟にペイスが身を挺して庇ったのだ。ミノムシのままであったが為に碌な防御姿勢も受け身も取れず、ただただ蹴られた玉の如く転がる羽目になった。
「大丈夫です。ゲホッ」
「でも……」
「言ったでしょう。貴女は僕が守ります」
癇癪を起したように、もう一度少年を蹴り飛ばした男は、もう一度下劣な罵りをあげる。
「頭、一体……」
「あの馬鹿が、ふざけた事を抜かしやがったんだ。この女は妹の方だから、金は払えんだと。俺たちがどれだけ苦労したと思ってやがるんだ。何もしてねえくせに偉そうに!!」
アーマイア家といえば、つい十何年か前までは名門中の名門と言われた家。没落したとはいえ、伝手を頼りに張り巡らせる耳はそこそこに広い。まして乾坤一擲のこの作戦に、隠してきた財も惜しみなく使っている。故に耳の質もそこそこにある。
だが、伝わってきたのは、娘を攫われたはずなのに予定通り行われるという婚約披露の情報であった。
それを知った、傭兵団の雇い主たるルハインゴ=アーマイアは話を信じられず、何度となく裏を取る羽目になったのだ。
結果、自分達が攫ってきたのはフバーレク辺境伯の娘には違いないし、今日聖別の儀を受ける子供であることも間違いは無かったが、目的の人物とは別人の妹の方であることが分かった。
この衝撃は大きく、錯乱したルハインゴと、傭兵団の頭目ストルーデルは反目。無事に娘を攫えたのは事実なのだから金を払えと言うストルーデルと、目的の人物でなかったのだから払えないという主犯で、揉めに揉めた。
「こうなったら裏切られる前に逃げるしかねえ」
「かしらぁ……」
裏稼業を働く者の常として、依頼人からの裏切りは付き物。
自分たちとの関係が知られただけでも、依頼人としては不都合である場合も多々ある為、最後は決まって口封じの裏切りが付いて回る。
計画の失敗が明らかになった以上、態勢を立て直そうとするだろう。それに必要なのは、依頼人からすれば元貴族家としてのなけなしの立場。
であれば、関係が邪魔になりそうな手足は早々に切り捨てられる。
ストルーデルのここら辺の見極めの速さと思い切りの良さは、傭兵団を今まで率いてきただけあって流石である。
「悪く思うな、嬢ちゃん」
スラリと抜かれた剣。
よく磨かれていて、手入れが行き届いているのはこの場合悪いニュースだ。
柄を握った手を軽く内にひねり、剣刃を立てる頭目の男。その目がか弱い羊を見据える。
幾ら裏稼業の傭兵団とはいえ、犯罪の証拠を残してしまっては盗賊団として扱われてしまう。
依頼で攫ったという建前があれば、罪を依頼者に押し付けてしらを切り通せるが、このままただ逃げては単なる犯罪者。
これからも傭兵家業を続けるためにも、目撃者と証拠は始末せねばならない。
そんな覚悟の目を向けられては、箱入り娘のリコリスはたまらない。
蛇に睨まれた蛙のように、体をただ強張らせる。
「い、嫌っ」
目には薄らと涙を浮かべ、身じろぎしつつ少しでも逃げようと後ろに下がるが、手足を縛られている以上、動けたのは毛筋ほどに僅かな距離。
そんな距離など、男がたった一歩進むだけでゼロになる。
「誰か、助けてっ」
悲痛な少女の叫び。心の底からの救いの願い。
だが、その言葉を聞くほどの余裕は、既に傭兵たちには無い。
「死ねっ!!」
ビュンと風切音がする。
思わずリコリスは目をつぶった。死を覚悟した。理不尽を嘆いた。
死神の鎌が自らの魂の尾を刈り取る様を幻視した少女であったが、しかしてその瞬間は訪れなかった。
「っ!!」
「いけませんね。ここにもう一人居るのに、目を離しては。それに言ったでしょう。リコリス嬢は僕が守ると」
恐る恐る目を開けた少女が見たもの。
それは、見張りに立っていたはずの手下が倒れ、賊の頭目であろう男の手から血が流れている様であった。
「後ろから不意打ちったあ、やってくれるじゃねえか」
「この間、僕も友達に二人がかりでやられたばかりでしてね」
傭兵団長ストルーデルは、歯噛みをする思いだった。
狡猾さをこの年で身に着けている末恐ろしいガキに。簡単に倒され、短剣まで奪われた間抜けな部下に。
そして何より、子犬だと思っていた少年が狼であったことを、今更ながら気付く自分の愚かしさに。
戦場では、油断をしたものから死んでいく。自分だけはそんな油断はしないと思っていたのだが、子供に油断してしまった迂闊さ。
取り落とし、足元に転がしてしまった剣にちらりと目をやる。それを取ろうとする隙を見逃すほど、目の前の少年は甘くないだろう。
「降参しませんか?」
「馬鹿言え。ここからだろう」
「そうですか。では、王手です」
ペイスが剣を握り直したと同時に、音が聞こえてきた。
がやがやとした、大勢の人が生み出す喧噪。
「ペイス、無事か!!」
にらみ合う頭目と少年の居る部屋に、駆け込んできたのは、少年の父親だった。