219話 卒業
人間が生きる上で必須となる、五大栄養素がある。
タンパク質、脂質、炭水化物(糖質)、そしてビタミンとミネラルだ。
タンパク質は身体の材料として使われる。人間の身体を家に例えるならば、壁と屋根と床の材料がタンパク質だ。柱に当たる骨はミネラルの一つ、カルシウムが主成分。
ビタミンやミネラルは身体の調子を整えるのに使われる。ビタミンが不足すれば欠乏症を引き起こしたりもする。壊血病などはその最たるものだろう。
どれも生きていくうえで必須となるものだが、脂質と炭水化物はといえば、人間が活動する燃料になる。車で言うところのガソリン、蒸気機関車で言うところの石炭、ドラえもんで言うところのどら焼きだ。
脂質と炭水化物を比べた時、炭水化物には脂質には無い大きな特徴がある。それが、即効性。
元々、人間の脳は糖質が無ければ動けない。脂質で代替も出来ないので、糖質は直接的に脳のエネルギーになる。更に、消化してからエネルギーとして置換されるまでが早い。
マラソンランナーなどは、走る前や走行中には炭水化物を補給する。これがあるのと無いのとでは、運動能力に相当な違いが産まれる。長距離走の強い味方。それが炭水化物。
炭水化物といえばうどんやバナナを思い浮かべるだろうが、走りながら口にするとするなら、飴も炭水化物である。
「ぜえ、はあ、あれが、ゴールだ」
「長かった……」
三日を想定してある行軍訓練。これは、遅いチームが居るとしても、全員ゴールするのが三日という想定だ。早いチームであれば、二日程度で森を抜けることは、教官達の想定の内にあった。
しかし、夜駆けの上にほぼ一日で踏破する者が居るとは、想定外のことだった。
教官達が待つ、最後のチェックポイント。
多くの学生たちをぶっちぎりで突き放し、最初にゴールしたのは、大方の予想を覆して、ペイスの教え子たちだった。
劣等生と言われたプローホルを先頭にして、一目散にゴールへ駆ける。
苦しかった試練の終わり。あと少しで、辛かった訓練の日々も報われる。ゴールを示す旗も、はためいているのがすぐそこに見えている。
あと少し、もうすぐゴールだと思われたその時。
「待て!!」
全員を止めたのは、プローホルだった。
彼の視線は、ゴールではなくその手前の地面に向けられている。
「最後の最後に罠とか、性格悪すぎる……」
青年は、教官達の様子や周囲の様子から、ゴール寸前に罠が仕掛けられてあると気付いたのだ。非常に見え辛いが、ピンと張った糸がある。実にえげつない罠だ。人の心理の隙間を狙ったような罠。
プローホルも、ペイスから教わっていなければまず間違いなく引っかかっただろう。
奇襲の心得。人は、油断している時が最も襲いやすい。油断とは即ち想定を怠るということであり、意識していない想定外が多い状態ということ。
地震が起きると思っても居ないのは、地震が来た時には油断となる。まさか子供が飛び出してくるとは想定していなかった、というのは馬に騎乗するときの油断でしかない。油断しない状態とは、常に起こりうるリスクを想定しておくことを指す。
そして、意図して敵の想定外を産みだそうとするなら、視野狭窄になるような囮を使ってやればいい。何かに集中している状態とは、それ以外に目を向ける余裕をなくすことであり、人は集中と分散を同時にやってのけることは出来ない。
「人が油断している時、安心している時こそ、絶好の仕掛け時。ホント、教官の話、真面目に聞いておいてよかった」
罠を避け、本当にゴールしたところで、学生たちは倒れこんだ。本当に、精も根も尽き果てたのだ。
「ご苦労様です。思っていた以上に早かったですね」
そんな学生を労うのは、やはり彼らの教官たるペイスの仕事だろう。
「モルテールン教官」
「…そして、残心が出来ているのはプローホルだけ。ここで説教はしませんし、採点外ですから大目に見ますか。僕が敵なら、ここで襲うところです」
「厳しすぎますよ、教官」
「そうでしょうか。油断大敵という言葉もあります。その辺の講義は、また今度ですね」
どの学生よりも早くゴールし、ありったけを振り絞った学生に対し、更に高度なことを要求するペイスは鬼である。
一息ついたところで、プローホルはペイスにおずおずと声を掛けた。
「ところで教官。ご報告したいことが」
ペイスは、プローホルが報告を口にしようとしたところで手を上げて止めた。
「妨害の件ですか?」
「ご存じだったのですか?」
学生たちは、驚いた。自分たちが必死に、夜を徹して持ち帰った情報を、森に入ることも無くゴールで待っていたペイスが既に把握していたことに。
ペイスの非常識さは、この一年弱の間に嫌という程叩き込まれたはずだが、自分たちが思っていた以上に高みに居るらしいと分かったところで、改めて尊崇の念を強める。どこまで実力があるのか。本気で底が見えない。これで自分達より年下というのだから、天才というものはいるものだと、学生たちは心底思い知った。
「やり方は秘密ですが、僕も魔法使いの端くれ。人よりも早く情報を得る手段を持っているのです」
「そうですか。それで、橋が無かったり、木が道を塞いでいたり、食事にいつの間にか毒が盛られていた……というのは、何処から何処までが試験だったんでしょう?」
「……全て妨害です」
ペイスは、断言した。
「え?」
「本来なら、橋の傍に知恵を試す問題が置かれていたはずです。それをヒントに橋を渡る。道を塞いでいた木というのも、木の上に弓兵を模した人形を置いて、気付くかどうか試すというものでした。食事に毒などは、大事な学生に対してはあり得ないことです」
他にも幾つか関門があったが、学生たちはちゃんとクリアしていた。野営の時などがそれだ。事前にしっかりと準備しておいて、きちんと野営できることも、行軍には必要なスキル。彼らはしっかりとこなした。
地図の読み方や、死角の多い森の中での警戒方法なども採点項目。他の幾つかの採点項目も、満点に近いというのが現時点でのペイスの大よその採点だ。
しかし、先に挙げた、明らかに学生を害するような項目は存在しない。貴族の子弟に万が一もあってはならないわけで、毒などはあり得ないのだ。
さらに言えば、林道を外れるような試験もしていない。手入れされている森とはいえ、林道の外は多くの危険が伴う場所。本物の軍人でも時に危険を感じる場所だ。学生を試すにしても、本物の危険が存在する場所では採点も糞も無い。もしそんな採点項目があれば、採点ゼロという学生が居た時、その学生は最悪死ぬ。行軍を模しているとはいえ、あくまで試験。リスクは最大限管理されているべきだし、不確定要素は極力排除して試すべきだ。
第一、本物の危険があるということは、その危険に直面する者とそうでない者とが出てしまうということ。例えば林道から外れた森の奥には野生の狼なども居るが、出会うかどうかは運の良し悪しになる。出会わなければ満点。出会えば減点。こんなことになりかねない。運の要素で採点が変わるとすれば、試験としては不公平だろう。
「つまり、元々の試験を準備するときに、細工をされた?」
「そうなります。そして、それが出来たのは……」
ペイスが、くいっと顎でとある方向を指す。
そこには、本物の騎士団が一人の教官を取り押さえていた。
「離せ!! 違う、私じゃない!! 学生が勝手にやったことだ」
「当該の学生からは事情を既に聴取してある。貴様が特定の学生を狙って妨害させるように唆したと。そうすることで、来年度以降に学生の望む教官へ推薦すると言っていたらしいな。何がより厳しい試験にした方が喜ばれるだ。学生を危ない目に合わせて、それでも教官か!!」
騎士団の騎士は、寄宿士官学校の卒業生も多い。彼らからすれば、自分の母校が下らない陰謀の舞台にされたことを不快に感じていた。しかも、その動機が嫉妬とくれば、呆れてしまう。おまけに、証拠があがっているにも関わらず、責任を転嫁した上で言い逃れようとする。誇りある貴族の態度ではないと、怒りを覚える騎士も居た。
校長の指示の元、両脇を引きずられるランディアン教官。周りがそれを見つめる目線は、冷たく冷ややかなものだった。
何とも言えない微妙な空気感。パンとペイスが手を叩いたことで、学生たちの気持ちが切り替わる。実に良い調教、もとい行き届いた訓練である。
「貴方方は、不測の事態にも見事に対応し、そして最高の結果を出した。評価はこれから随伴や監視の報告を踏まえて協議しますが、十分に良い結果となることは間違いないでしょう」
ペイスのお褒めの言葉。それが学生達にとっては何よりも嬉しかった。尊敬すべき先生からの確かな称賛は、何よりも自分たちが頑張ってきた努力が実ったと実感できるものだったからだ。
言葉の意味を理解した瞬間、皆は疲れも忘れて喜びを表現した。
「やった!!」
お互いにハイタッチを交わす者、仰向けに寝転がって手を思いっきり伸ばす者、泣き出す者と、それぞれだ。
そんな教え子たちに向け、ペイスは一つの言葉を発した。
「そして……皆は、この瞬間から、僕の手を離れます」
「え?」
ペイスはいつもと変わらない笑顔のままだ。
しかし、彼の今の立場は士官学校の教官。学生たちがついさっきまでやっていたのは、卒業の為の試験である。
卒業、つまりはペイスの元から巣立つことを意味する。
「一年弱。辛い思いをしながら、よく頑張りました。能力を持ちながら不遇に三年を過ごした者。周囲から蔑まれるような環境に居たもの。生まれ持ってのどうしようもないことで、能力以前に不当な評価をされたもの。本当に色々でした。しかし、今日から皆さんは、一人の戦士です。新しい騎士です。立派な軍人です。そして、僕の同僚です。皆は、僕が背中を預けるに足る、頼もしい仲間です。僕は、貴方達を教えていたことを、誇らしく思います」
「教官……」
いつの間にか皆立ち上がり、涙を流していた。辛かったことは多かったが、自分たちは確かなものを手に入れたのだと。
ペイスが敬礼する。そして、学生達も答礼する。
「みんな、本当によく頑張りました」
◇◇◇◇◇
学校生活の終わりは、一つの行事で締めくくられる。
異例づくめであった今年度の、最後の行事は、卒業式典だ。
「在校生、送辞」
校長を始めとする偉い人の挨拶が終われば、在校生による送辞を行うのが伝統。送辞とは、送る言葉。今まで先輩として多くを教わった人たちに、在校生が感謝を込めて贈るもの。
伝統ある寄宿士官学校では、式典で辞を読むのは必ず首席と決まっている。送辞ならば在校生最高学年の首席。つまりは三年次の学生の内、期末の昇格試験で最優秀の成績を修めた学生が行う。今年は試験内容が去年と変わったこともあり、地力の高い高位貴族の子弟がその栄誉を勝ち取っている。
実に堂々たる振舞いで行った送辞に対し、惜しみない拍手が送られた。
「卒業生、答辞」
そして、送辞の後の答辞。これも、勿論首席の役割である。
在校生が、先輩たちに感謝の言葉を贈った送辞。これに答えるのは、卒業する者の仕事だ。今年度の卒業生の中で、最優秀に選ばれた学生とは、名誉であり、栄誉でもある。卒業時の席次は学生の将来に生涯付いて回る。寄宿士官学校首席卒業の金看板は、その者の栄達を確実に保証してくれるわけで、誰しもが欲しがる肩書。
今年の首席は一体誰なのか。来賓などは興味津々だった。
そして、一人の名前が読み上げられる。
「卒業生代表プローホル=アガーポフ」
呼ばれたのは貴族でもない、元劣等生だった。