212話 モルテールン教官の指導
「はぁはぁ」
「はぁ、ふぅ、はぁ、もうダメ」
荒い息遣いの男女が居た。男は仰向けに寝転がり、汗で濡れた髪を顔に張り付けつつ呼吸を整えんとする。頬は上気し顔は赤らみ、身体からは熱気が立ち上る。
無造作に横たわる彼の傍には、女性の姿もあった。彼女もまた、息を荒げている。男に比べればまだ息遣いは整っているようだが、上着はとっくに投げ捨てて、肌も露わな格好のまま、目の毒を振り撒く無差別テロリズムを行っていた。このまま町中を歩けば、卑猥とも煽情的とも言われそうな格好。
「私の勝ちだな」
「クソ~、勝ったと思ったのに」
上着を脱ぎ棄て、タンクトップもどきのラフな服装で息を整えるのは、筋肉オタク予備軍のフリーダ。そして、寝転がって悔しそうにしているのは、馬マニアのルイゾである。
彼ら彼女らが何故息を荒げているのかと問うならば、原因は銀髪の少年教官だろう。
「ふむ、持久力ではフリーダ=ディーステル卿が一番っと……。これで、大体皆の今の能力は掴めましたね」
ペイスは、手元の黒板に何やら書き込んでいた。黒っぽいボードに石蝋でカリカリと書き込んだ、数字や文字が並ぶ。
どうやら一覧表になっているようで、縦に五つの名前、横に幾つかの種目が並ぶ。交差点にはペイスの書き込み。
垂直跳び、重量挙げ、短距離走などなど。そして最後の種目が持久走だったようで、記録を付け終わったペイスは満足そうに頷いた。
「教官、質問をしても宜しいでしょうか」
未だにぜいはあと荒い息をしている二人を脇に置き、自分は早々に倒れた為に、既に息を整え終えているプローホルが、おずおずと手を上げた。教官に質問するのに何の遠慮も要らないはずなのだが、相も変わらず気弱そうな様子である。
「はいどうぞ」
「こんなことをして、何の意味があるのでしょう……」
プローホルの言葉に、ペイスがジロリと目線をやる。それだけで、青年は挙動不審さを増した。
「あ、いや、別に不満があるわけでは無く、理由を知りたいだけですが、えっと、その、すいません。ごめんなさい」
プローホルには、ペイスのやっていること、正確にはやらせようとしていることの意味が分からなかった。
跳んだり跳ねたり走ったり持ち上げたりとやらされて、記録を付けることに、どんな意味があるのかと。
「良い質問です。言われたことをただ漫然とこなすのではなく、何故やらねばならないのか、どういう効果があるのかと、常に考えて動くのは良いことですよ」
「はあ」
怒られると身構えて居たところに、褒め言葉がやって来た。プローホルの困惑は度合いを深めるばかりである。
「質問の件ですが、これは皆の現状を知る為に行っています。訓練メニューを作るのにも、元となる情報が必要ですからね」
「……それなら、走る速さを調べるより、お互いで模擬戦でもした方が良いのではありませんか?」
ペイスの言う“現状を知る”という点に、更に疑問を持ったのはアベイルだった。彼は、巨漢な体躯からは誤解されがちだが、割と思慮深いところがある。
彼は元々別の教官に師事しており、その指導の下でそこそこな成績をあげてきた。彼なりに考えるところの“実力”とは、白兵戦技であったり奇襲戦技であったり、或いは偵察技能である。特に、白兵戦の技能は、重視する教官が多い。故に、手っ取り早く実力が知りたいなら、学生同士で模擬戦をやらせるのが一般的なやり方だ。アベイルは、あくまで常識論として質問した。
ペイスも、学生たちの自分なりの意見というものを嬉し気に受け止める。
「僕が知りたいのは、皆の技術ではありません。肉体的な基礎がどれだけ出来ているかを知りたかったのです。個人戦闘の技術など、指揮官には本来必要のないものですから」
戦う力が必要ないとは、士官学校の教育を全否定しかねない暴論だ。学生達はそう思ったが、ペイスは更に補足を加える。
「個人の戦闘能力が高いに越したことはありません。そして、歴史上でも個人の武勇で戦局を打開した例も多い。しかし、士官の本来の仕事は、兵を指揮することにあります。指揮官が個人的な武勇を誇る場面に陥らないようにするのが本道であって、単騎で活躍するなど邪道も良いところです」
モルテールン家の人間として、いや、だからこそ個人に頼り切った軍事行動の危険性を熟知するペイス。一騎当千の父親が居て、当人も単騎で活躍できるペイスだからこそ、そこに限界があることも良く分かっていた。
他の誰かが言えば負け惜しみに聞こえかねない話も、ペイスが言えば説得力も生まれる。或いは、お前が言うなと非難されるか。
「美味しいお菓子は、小手先の技術よりも良い素材から生まれる……だったかな」
プローホルは、昨日言われた言葉を思い出す。
◇◇◇◇◇
「怪我しても、恨まないでください、教官」
「お手並み拝見!!」
学生五人が、少年一人に襲い掛かる。
一斉に飛び掛かるのは、少年自身がそうしろと言ったからだ。
学生であるとはいえ、軍人を志す五人。あからさまに挑発され、舐められたことに対して憤りを覚えていた。
多勢に無勢。幾ら武術の腕が凄かろうと、人間には物理的に不可能なことがある。二本しかない手で五つの剣を受け止めることもそうだし、後ろに目があるわけでもない以上死角はどんな達人にも存在する。
数による飽和攻撃。一の戦力に対して五の戦力による包囲攻撃を行った場合、圧倒的に有利なのは包囲した側である。そんなことは、子供にだって分かる理屈。
しかし、彼らはあくまで“常識人”だった。
「一つ忠告しておきますが、僕は魔法を使えます」
少年教官ことペイスの言葉に、反応がはっきり分かれた。
魔法だろうが何だろうが関係ないと突っ込む者と、警戒心から攻撃の手を緩める者と。
ペイスが使ったのは、地面に“穴”を転写すること。勿論、本当に穴を作ったわけでは無い。本当の穴と見まがうほどの精巧な絵でしかない。実際に穴を掘ることも、やろうと思えばできなくは無いが、ペイスの魔法の“公式設定”は【絵描き】である。
単なる精巧な穴の絵。しかし、初見の人間はまず戸惑う。足を竦ませるのは普通の反応で、咄嗟に“穴”を飛び越えて見せた、或いは絵と気付けた人間と、そうでない人間に別れたということだ。
「折角の包囲なら、足並みぐらいは揃えなさい!!」
ペイスの言葉は、真っ先に突っ込んで来た紅一点、フリーダに対して向けられる。勿論、訓練用の木剣と共に。彼女は、魔法にも一切躊躇せず飛び込み、本物の穴でないと真っ先に気付いたのだ。
ペイスは、物心ついた時から剣の稽古をしている。それも、国内でも指折りの武芸者である父や、数々の戦場を潜り抜けてきた歴戦の猛者たちから指導を受けて。
成熟した精神と知性を持ちつつ、かつ子供特有の高い成長性をフルに活かした訓練。更に、本物の戦場で幾たびも修羅場を潜ってきた環境。お菓子の為にはどんな犠牲も苦労も厭わない異常性。
結果として生まれるのが“並みの騎士なら軽く捻る”という実力を持った子供である。不条理もここに極まる。
「ぐべほっ」
淑女ならば出してはいけないような声を出し、腹に受けた一撃で嗚咽を堪えきれないフリーダ。
そんな彼女の陰から、木剣が振り下ろされる。
「隙ありぁあああ!!」
「隙をつくなら、声を張り上げてどうしますか」
大声をあげながら剣を振り下ろしたのは、馬術バカのルイゾである。
彼も幼い時から剣術の訓練は受けているわけで、振り下ろしは中々に鋭かった。
しかし、馬術の稽古の片手間に習っていたような剣が、歴戦の戦士に簡単に通用するはずもなく、あっさり躱される。そしてそのまま背中を叩かれて地面と接吻する羽目になる。まずまずですね、というペイスの言葉を、うつ伏せで聞いたルイゾ。
「せいありゃあ!!」
一拍二拍遅れて、今度はかなり高い位置から。木剣がペイスを襲う。
巨漢のアベイルが持ち前の膂力を活かせば、半端ではない威力が産まれる。風切り音が普通ではなく、たとえ木剣であっても、まともに当たればどんな人間でも死ぬと断言できる豪剣の一打。岩を砕かんという勢いで、振り下ろされる強打だ。
「力任せでは、折角の力も持ち腐れですよ」
しかし、ペイスは平気な顔で捌く。
本物の真剣同士で、命のやり取りさえこなしてきた規格外に、“当たれば死ぬ”程度のことは今更なのだ。そんな経験なら、何度もあったと涼しい顔である。
渾身の一撃を躱されて身体が泳いだアベイルは、そのまま腕を叩かれて木剣を取り落とし、更には勢い余って自分でスッ転んだ。常人以上のパワーが空回りすれば、転がる勢いも中々に派手である。
「さて……慎重さと、臆病さは違いますよ。掛かってきなさい」
「ひっ、ひいぃぃ」
自分よりも明らかに格上で、武術に堪能なはずの三人が簡単に倒されたことで、腰が引けているのはデジデリオだ。元より体もひ弱で、剣術の訓練も人より遅れている身。へっぴり腰の剣など、当たるはずもない。標準以上にひょろひょろとした剣がペイスに向かうが、これはあっさり躱される。
デジデリオはがつんと頭を木剣で叩かれ、痛みに涙目になりつつ蹲った。
「……降参です」
最後まで無傷だったプローホルは、手に持っていた武器を投げ捨て、自分から膝をついて降参と言い放った。自分では無理と悟ったからだ。
これにはペイスも意表を突かれた。
士官学校の風潮としては、最後の一人になっても正々堂々戦うのが正しいとされている。騎士であることが貴族として最低限の条件である神王国において、戦いから目を背け、逃げ出すことが何よりも忌避されることがその根底にあった。
あっさりと降参したプローホルは、士官学校の主流派からすれば、最低な人間ということになる。
降参宣言をした青年は、強い叱責を覚悟した。
「ふむ、良い判断ですね」
だが、意外にもペイスはプローホルの判断を褒めた。
勿論、油断することなくプローホルに一撃を加え、涙目にはさせた。しかし、嫌悪する様子は見せない。
これで全員、ペイスから一撃を貰ったことになる。それも、自分たちの攻撃は掠らせることさえ出来ずに。
「さて……全員そこに並びなさい」
ペイスの言葉に、全員が素直に従った。転がっていた連中も、飛び起きる勢いだ。
流石にここまでやられて、それでもペイスを舐めるような者はいない。軍人らしく、綺麗にペイスの前に並び、姿勢を正していた。
「まず、フリーダ=ディーステル卿」
「はっ!!」
声を掛けられて、淑女(?)は背筋を伸ばす。
「鍛錬を積んでいることは伺えました。武術の腕という意味では、申し分ないでしょう。しかし、視野が狭いです。周りをよく見て、常に冷静であることが指揮官には求められます。心の一部は、常に冷めた状態で居るように」
「はっ、ご教授ありがとうございます!!」
ペイスによる的確な指導に、彼女は最敬礼で応えた。元々、筋肉至上主義に被れている脳筋一族の出身だ。強い者の言葉に素直に従うのは美点ともいえる。
「ルイゾ=ドヴィエンヌ卿」
「はい」
「武術の腕は及第点でしょう。フリーダさんと動きを合わせようとしていた点も評価出来ますし、彼女が行動不能になった時も動じずに行動出来たことは素晴らしい。しかし、貴方も冷静さに欠ける。当初の想定が崩れた時、無理に何とかしようと足掻くより、一旦引いて態勢を整えることも必要です。不利と無理の違いを見極めなさい」
「はい」
ルイゾも、ペイスの指摘には素直に感謝して見せた。馬術筋とも言われる足の内側の筋肉が発達した体躯は、姿勢を正しても人とは違った立ち姿に見えた。
「アベイル=バレリアノ卿」
「はっ」
巨躯の青年の前にペイスが立った。大人と子供と言うにも不足するぐらいの身長差。ペイス二人分ぐらいはありそうな背の高さの人間が姿勢を正すと、ペイスからは顔の表情が見えないほどである。
「力強さには目を見張るものが有りました。それだけを評価すれば、恐らく父様の……いえ、中央軍の精鋭にも引けを取らないと断言できます。僕も本気で驚きましたし、素晴らしい才能だと思いますよ」
「え? ありがとうございます?」
「しかし、それに頼り切ってはいけません。軍人とは、人を殺せる強力な力を、常に制御せねばならないのです。力のままに暴れるのは、野獣であって軍人ではない。力を振るう時、制御しきってこそ意味がある。それは、自分の身一つの時でも、或いは万人を指揮するときでも変わりません。強大な力こそ、繊細に扱いなさい。貴方ならそれが出来る」
「お、おお、はい、ありがとうございます!!」
アベイルは、心の底から嬉しくなった。自分のことをしっかりと評価してくれたことに、そして、長所を活かす道筋をはっきりと教えて貰えたことに、目の前が拓けたような気がしたからだ。
もっとも、慌てて敬礼したことで、隣のひょろこい男が風圧だけでよろけていたが。
「デジデリオ=ハーボンチ卿」
そのよろけた男が、ペイスに名前を呼ばれた。
「じ、じ、自分でありますか?」
「ええ。貴方です。僕が魔法を使った時、冷静に対処した点は評価に値します。状況を把握し、むやみに攻撃をしてこなかった点も良い判断でした。しかし、それならば最後まで自分の判断を信じるべきでした。腰が引けたまま攻撃するぐらいなら、いっそ逃げる方が良いぐらいです」
「す、すいません」
デジデリオは、にこやかな笑顔を崩さないペイスに、敬礼を行った。隣と比べてしまうと尚のこと細身が際立ち、ぽきっと折れてしまいそうな雰囲気がするものの、姿勢自体は軍人だけにピシッと整っている。
「そして、最後にプローホル=アガーポフ」
「はい、申し訳ありません」
プローホルは、開口一番謝罪した。
勿論、自分の不甲斐なさを承知しているからだ。他の四人と比べると、あまりに酷い。
勇猛さも無く、咄嗟の判断力も無く、他人に合わせるでなく、怪力があるわけでなく、最後まで立ち向かったわけでもない。いいとこ無し。そう、自己評価した故の謝罪だ。
「何を謝っているのです?」
しかし、謝られた当のペイスはきょとんとする。
「戦いもしなかったので、怒られるのではと……」
「降伏の判断は正しかったと思いますよ? まず、勝てると思って戦いに臨んだのは、五対一でしたから当然の判断だったでしょう。包囲戦術の選択も妥当です。その後、他の四人の様子から勝ち目が無いと思ったのも分かります。どれにしたところで普通の判断ですし、常識的に的確だと思います。これで、勝ち目が無いと分かっていながら突っ込むのなら反省すべきでしょうが……そうですね、一つ言っておくならば、指揮官は時に負けを覚悟せねばならないことがあります。どうしても負けるが、戦わねばならない、という場面。避難民の時間稼ぎ、撤退戦の殿、囮。などなど。軍人である以上、必敗でも戦うべき時は、必ず有る。その時、如何に負けを小さく、被害を少なく出来るのかという視点も重要になるでしょう。降伏を選べるのも、勇気です。僕は、貴方の決断を評価します」
「……はい」
「しかし……降伏の判断をしたのなら、そしてそれが正しいと思ったのなら、友軍を制止するのも大事です。今回の場合なら、ハーボンチ卿を止めるべきでした。何故止めなかったのです?」
気弱な青年は、隣を見る。デジデリオと目が合うが、それで何か意思疎通をするわけでは無い。
「それは……僕なんかが言うのも変かなと思って……」
「指揮官になるのなら、決断力や指導力も大事です。貴方は人に従うことには慣れていても、人を従わせる意識が低いようです」
「すいません」
プローホルは、また謝罪の言葉を口にした。しかし、今度は先の謝罪とは意味が違う。ペイスの言った意味を理解し、自分の行動ではなく、自分にそもそも足りない点に気付いたのだ。未熟な自分の、未熟な点を指摘された。未熟で申し訳ない、という意味での謝罪。
「卓越した技能、冷静な判断力、豊富な知識、優れた智謀を持つものがいたとして、それだけでは優秀な指揮官にはなれない。幾ら鋭い刃があろうと、鋼が脆ければ名剣にはなり得ないのです。美味しいお菓子を作るには、小手先の技術よりも良い素材から。貴方はまず、強い心を育てるべきですね」
どこかの教官と似たような精神論を語りながら、何かが違うペイスの指摘。
どこが違うのだろうかと考えるプローホルだったが、彼の思考は、教官の非情な一言で霧散する。
「では、もう一度。今度は順番に掛かってきなさい。個人指導でみっちりやりますから、多少の怪我は覚悟しておいてくださいね。倒れたら交代です」
学生たちの、悲痛な声が響き渡った。
以上、三分クッキングでした。