210話 戸惑いと不安
王都にある寄宿士官学校。
歴史と伝統を誇り、数多くの能吏・名将を輩出してきた名門学校である。
その一室。教官室として割り当てられたとある部屋の中、まだ若い教官と、それよりも更に若い青年が向き合っていた。
「え? 今何と言われたのですか?」
「お前は本当に人の話を聞かん奴だな。もう一度だけ言ってやるから良く聞け。私は、お前をモルテールン教官に師事できるよう、推薦しておいた。今後はもう私のところに来なくてよい。分かったか?」
「そんな……」
プローホル=アガーポフは、自分を教えてくれている教官の言葉に、強い負の衝撃を受けた。顔面から、さっと血の気が引く。自分の将来を悲観してだ。
痩身で色白。顔つきも線が細く、赤みののった頬が幼さを感じさせる。全体的にほっそりとした印象を受ける青年。背もさほど高くはなく、俯き加減ですぐに下を向く様子から、おどおどとした雰囲気がする。
世が世なら美少年と言えなくも無いだろうが、顔色が悪くなっている現状、ともすれば病気ではないかと疑ってしまいそうなほどに、見栄えが悪い。
それもこれも、全ては教官の言葉の影響である。
そもそも、プローホルの実家はとある伯爵家に仕える従士家であったのだが、最近になって急に主家が傾きだしたことから、手に職を付けろとばかりに寄宿士官学校に放り込まれた経緯がある。家の将来の為にも、是が非でも卒業せねばならない。そして、有力者との縁故を繋ぎ、より良い仕官先を見つけねばならないという使命があった。
主家繋がりの縁故からランディアン教官に師事できるようになったのは僥倖だった。寄宿士官学校の教官の中には、非貴族階級であるプローホルのような人間を露骨に蔑む者もいるからだ。というよりも、元々が貴族子弟の為の学校である為、ありとあらゆる制度や施設が貴族家の人間であることを前提として用意されており、プローホルは大なり小なり“異物”として扱われるのだ。
どの教官も少なからず、“貴族の為の教育”を受ける非貴族階級に対して、場違いだと感じているらしく、言葉にこそされずとも、奇異の目で見られることも多かった。
それに比べると、ランディアン教官は公平だった。少なくとも、貴族か否かで教育内容に差をつけることはしなかったし、貴族子弟を露骨に贔屓することも無い。
ただ、優秀か否かによって差別される。
プローホルは、士官学校の入学試験を合格したことから分かるように、バカではない。頭は良い方だ。しかし、精神的に弱さがあると、自他ともに認める。これが、ランディアン教官をしてプローホルを劣等生と断じる理由である。気弱な人間に、多くの命を預かる責任と重圧を背負えるのか。そう問われれば、一理あると言わざるを得ない。
しかし、それは仕方のない面もある。従士家の人間として、生まれてからずっと人に仕えてきた人生だったし、生涯ずっと主家に奉仕することになると思っていた矢先に、主家以上に格の高い連中がゴロゴロ居る場所に放り込まれたのだから。猛獣達の居る檻に放り込まれた草食獣のようなもの。
場違いさを一番感じているのは、他ならぬ当人である。貴族という者に対して、畏敬と畏怖の念を刷り込まれて来たわけで、それだけで心と体が畏縮するのは当たり前の話だ。
だが、そうと分かっていたとしても、やはり事実を突きつけられることにはネガティブな感情を持ってしまう。お前は要らない、教えるに値しない、と言われたようなものだからだ。
プローホルは、唇をぐっと噛みしめつつ言葉を絞り出す。
「……失礼します」
教官室を出た後、プローホルは途方に暮れてしまった。これからどうすれば良いのか、分からなくなったのだ。
自分が一体、何をしたというのか。何で、一生懸命努力してきたのに、見捨てられるような目にあうのか。悔しい。それ以上に悲しい。何故、と何度も問いかける。
いや、本当は分かっている。自分が情けないからだ。貴族のように血統が良いわけでもなく、他の従士階級出身者のように有能でもなく、平民富裕層出身者のように金があるわけでもない。教える方としても、教官としての義務以上のメリットが無いのだから、見捨てられても仕方ない。そう、自分を納得させようとする。
じわり、と目に涙が浮かんだ。やはり、悔しいものは悔しい。
唇をぎゅっと真一文字に結び、彼は、自分がいつも行っている場所へと足を向けた。
貴族向けの士官学校という慣れない環境、落ちこぼれと蔑まれる毎日。何時だって勉強に追われてきたし、自分から話しかけるような積極性も無いから友達も居ない。落ち込むことばかりだ。今日みたいに、泣きたくなることも多い。
そんな時、いつも建物の北側に行く。日当たりの良くない影になる場所。人が寄り付かず、一人で泣くのには丁度いい場所だ。
「あれ?」
しかし、そんな場所には、先客がいた。自分とさほど年も変わらない男が、泣いていた。
プローホルに気付いたのだろう。相手は慌てて涙をふくと、おどおどとした態度で、目を彷徨わせながら声を掛けてきた。
「……な、な、なにか、よ、よ、用?」
人間、悲しい時でも、自分以上に泣いている人間を見ると、ふと冷静になれることがあるらしい。
プローホルは、赤くなっていた自分の目をこする。
「ごめん。人が居るとは思ってなかった」
建物の裏手。湿っぽく、暗く、分かりづらい、陰気な場所。普通の人間なら寄り付かない場所だけに、自分以外にこの場所を使っている人間が居るなど思いもしていなかった。
「……き、き、君も、ぼ、ぼ、僕とおな、同じか?」
「同じ?」
「か、悲しいことがあったと、とか」
悲しい。ああ、そうかも知れない。
悔しさもある。苛立ちもある。怒りだってある。だが、同じぐらい悲しさもある。そう、プローホルは気付いた。
「貴方も?」
プローホルは、つい疑問を口にした。
分かり切っている気もしたが、泣いている以上は何か悲しいことがあったのだろう。
「きょ、教官に、もうく、来るなと言われた。く、く、クビになったんだ」
同じだ。プローホルは、軽く目を瞬いた。驚きもした。自分が教官から見放されている時に、同じような思いをしていた者が居たことに。それと同時に、強い親近感を覚える。辛い気持ちを共有する同志。そんな気がした。
「私も」
どちらから言うでもない。お互い、無言のまま建物の陰に隠れ、ジメっとした地面にしゃがみ込む。そして、人付き合いが苦手なはずのプローホルにしては珍しいことに、自己紹介を始める。
多分、自分のことなど知らない、と思ったからだ。
この学校は貴族子弟の社交場でもある為、貴族でもないプローホルなどは誰も眼中になく、邪魔者扱いされることもザラである。
他の従士家出身者のように、高位貴族に露骨に取り入ってごまをするほど恥を捨てきれず、金で入学資格を買った連中のように裕福でもなく、そして自分から他人に明るく接することが出来るほど社交性が高いわけでもない。
故に、自然と人から逃げるようになった青年にとっては、名前を知っている人間など有名人を除けば数えるほどしかいない。逆に言えば、自分のこともまた、知っている人間は少ないだろう。そう思ったからこその自己紹介。
実際、相手はプローホルのことなど知らなかった。初対面の挨拶を交換する時、相手はデジデリオ=ミル=ハーボンチと名乗る。目つきの悪そうな、陰気そうな雰囲気の有る青年だったが、準男爵家の生まれだという。お互いに初めて名前を知った、初対面に近しい、輩という不思議な関係。
「私も、さっきランディアン教官に、もう来なくていいと言われたんだ」
「……そ、そうか」
プローホルは、まだ少し鼻が赤かったが、鼻をすすりながらぽつぽつと語りだす。
自分が従士家の生まれであること、主家が傾いて給金が減らされたこと、自分は実家の期待を背負っていること、親も無理をして学校に通わせてくれていること、逃げたくても逃げられないこと、毎日頑張って勉強していること、油代が無くて夜は窓の下で勉強していること、中々思うように成果がだせないこと、落第生として白い目で見られていること。
そして、ついには教官に見放されたこと。
デジデリオは、じっと話を聞いていた。何かしら、心に感ずるものがあったのだろう。
赤い鼻のプローホルが落ち着いたところで、自分のことを語りだした。
「じ、じ、自分はむか、むかしからどもりぐ、癖があって……」
会話の所々で吃音の癖が入る聞き取りづらい喋り方ながら、話の筋道自体ははっきりとしていて整理された内容。それを、プローホルはただただ聞く。
デジデリオは、幼い時には体が弱かったそうだ。生まれてから八歳を超えるまで、殆どベッドの上で過ごしたという。おまけに食も細かった為に、熱を出せば何日も長引くようなありさまだったという。
貴族として当たり前の社交も出来ないし、子連れで訪ねて来てくれるほどの知己も無い。おまけに家は貧乏貴族。幼かった彼の友達は、親が境遇を憐れんで買ってくれた、植物図鑑だけ。革張り装丁で丁寧な絵柄の載っている貴重品だが、何度も何度も読むうちに擦り切れ、本が本としての機能を無くすまで読み返し、中身を全て覚えたほどであるらしい。
十歳を超えたあたりで多少は外で遊べるようになり、それからようやく身体を鍛え始め、最低限の体力が身に着いたところで、寄宿士官学校に入学をすることになった。本当に最低ラインだったけど、と当人は自嘲していた。
師事した教官は、かつて戦場で活躍し、勲章を授与されたこともある実践派だったらしい。親のコネのコネという迂遠な繋がりだったこと、生来の身体の弱さ、入学にはギリギリだったという体力や筋力の足りなさ、明らかに劣る鍛錬の量。それらは実技を重んじる教官には不満に思えたらしく、他の学生よりも更に厳しく鍛えられることとなったらしい。
過剰運動や過剰訓練などという言葉も無い世界。最初から十分に下地がある人間には耐えられる訓練が、下地の出来ていない人間には過剰訓練になりかねないなど気付きもしない。
人より倍する訓練をしながら、人並み以下の成果しか出せないことを、教官からは叱責される日々だという。
そしてついに今日、これからは自分が教えることは無いと言い渡された。事実上の放任宣言だ。
「こ、これからは、モ、モル、モルテールン教官に、おし、教えて貰えと言われたんだ」
「私もだ。どんな教官なんだろうか」
プローホルは入学時にコネが薄かったこともあり、目ぼしい教官は全て調べた。一人ぐらいなら、出自を問わず、親身に教えてくれる教官が居るかもしれないと思ったからだ。
その中で、出自に一番寛容な教官がランディアン教官だったわけだが、そこから暇を出された。新たな教官に師事しなければならない以上、どういう人物かを予想しておくのは当然だろう。
だがしかし、と考える。
もしランディアン教官以上に良い教官が居たなら、入学時に気付いていたはず。一番マシな選択肢を選んだはずなのだから、他の選択肢はより悪いものでは無いだろうか。就学時に誰よりも真剣に教官たちを比較検討した者だからこそ、最良を選んだという自負がある。
どんな教官か思い出せないということは、少なくとも入学時には居なかったか、或いは記憶に残るまでもない、選択する気も起きない程酷かったか。何にせよ、悪い方向にしか想像できない。
「あた、新しいき、教官だったはず」
「新しい教官?」
プローホルと違い、デジデリオは貴族だ。鍛え方が薄く、華奢な身体と吃音症気味の喋り方から、交流の場では遠巻きにされがちではあるが、一応は貴族同士の付き合いがある。
情報交換の伝手も多少はあるわけで、新しい教官が急遽やってくるというのも聞いていた。何より噂の主が、話題に事欠かない台風のような家の人間なので、主流から外れた人間でさえも噂を聞くのだ。
「そっか。しかし、モルテールン? どこの家だろう」
「モ、モルテールンとい、いえば、一つしかない」
「え? もしかして、あのモルテールン? 幽霊騎士の?」
気弱な青年の疑問に、デジデリオは首肯した。
モルテールン家といえば、神王国でも有名な家だ。幽霊騎士、首狩り騎士、親バカ魔法使い、駆け落ち騎士、大戦の英雄等々。独身時代にはかなりモテたことから、“夜の豪傑“などとも呼ばれたこともある。呼び方や二つ名は数あれ、指すべきものはモルテールン男爵家当主カセロールである。両人が言うモルテールンというのも、これを指す。
つまり、彼らは教官としてやって来るのがペイストリーということを知らず、モルテールンという家名のみを聞いて、カセロールの虚像を想像したわけだ。
一騎当千を体現する国の守護神。魔法を使い成り上がった立志伝中の人物。戦場で数多の手柄をあげてきた生きる伝説。座り込んだ二人が想像するのは、身の丈三メートル近い、毛むくじゃらの大男が、分厚い筋肉の鎧を駆使して暴れまわる姿である。
「……厳しい訓練になるんだろうな」
「そ、そうだろう。……が、が、学校を辞めるせ、選択肢もある」
不遇な境遇。それに加えて地獄が待っているというなら、辞めるも勇気。或いは、自分から辞めるように仕向けているのかも。
デジデリオは、自分に言い聞かせるように言葉を吐き出す。
「ここで逃げたくはない……かな」
今辞めてしまえば、何も残らない。親の期待も裏切り、金をドブに捨てさせただけで、負け犬の称号が一生付きまとう。
そんなのは嫌だ、とプローホルは言い切る。泣いて赤くなった目の奥には、見た目には不釣り合いな熱と炎が垣間見えた。
「じゃ、じゃあ、新しい教官に挨拶にい、行こう」
独りであったなら、どちらか片方だけであったなら、もしかしたらそのまま泣いて過ごしたかもしれない。逃げてしまったかもしれない。しかし、踏みとどまる決意をする。
同じ境遇で、不幸を語り合った仲間がいるというのは存外に心強いものだった。
新たに友となった二人は、先の見えない崖に飛び込むぐらいの勇気を出し、自分たちの新しい教官に挨拶しに行くことにした。
幸いにして、慣れ親しんだ学校で迷うことは無かった。
つい最近まで空室だった、教官室の一つ。
扉のネームプレートには、モルテールンの名があった。この文字だけでも、ずっしりとした重さを感じてしまう。
「失礼します」
「はい、どうぞ」
勇気を振り絞り、部屋に入った二人を迎えたのは、一人の少年だった。
「あれ?」
教官は留守なのか。プローホルとデジデリオの二人は、どちらも同じことを思った。
見るからに、自分よりも年下の子どもが教官の椅子に座っていれば、迷子か何かかと思って当然。教官の子どもだろうか、等とも思う。お互いに目を合わせ、どういうことかと声に出さずに問い合うものの、答えがわかるはずもない。
二人の困惑が分かるのだろう。奇妙な無言の会話を破ったのは、椅子に座っていた少年だった。
「どうしました?」
「ああ、私たちはモルテールン教官に教えてもらうことになったんだ。挨拶に来たんだが、教官は何処に?」
律儀に答えるプローホル。少年の声は、年相応に可愛らしい声だった。見た目だけは子供で、実は老けている特殊な人種、という訳でもなさそうである。
きょろきょろと見回すが、やはり部屋の中には教官らしい大人の姿は見当たらない。
「目の前に居ますよ」
「え?」
「僕が、新任の教官です。ペイストリー=ミル=モルテールン。表にネームプレートも出していたはずですが?」
言われてよく見てみれば、少年は教官章をぶら下げていた。少年の言う事が本当であるという証左だろう。つまり、目の前の子どもが、自分達がこれから師事する教官ということ。
若い二人は、心の底から驚いた。純度百パーセント混じりけなしのビックリだ。そしてすぐにやって来る困惑と戸惑い。
「本当に? え? 君が? じゃなくて……」
「僕のことは、モルテールン教官と呼ぶように」
「うん、分かった」
「返事はハイです!!」
「はい、教官殿!!」
幾ら劣等生とはいえ、そこは既にある程度の教育を受けた身。ペイスの声に、二人とも思わず背中を伸ばし、足を揃えて大きく返事をした。最早反射の域である。
「僕が、貴方達を教えます。挨拶は明日、学生が全員揃ってから行いましょう。今日はそのまま寮に戻りなさい。明日は、朝の鐘が鳴る前に、訓練場に整列しておくように」
「分かりました」
「返事はハイです!!」
「はい、教官殿!!」
教官室を出ていく青年二人を見送るペイス。
やはり、自分のような子どもであれば舐められてしまう。そう感じた。
甘く見られた教官の言葉など、学生は聞きはしない。どのような名言だろうが、教訓だろうが、話を聞いてもらえないのであればバックミュージックよりも意味が無いのだ。
「さて、どうやって料理してやりましょうか……」
これからのことを思い、ペイスは楽し気に笑うのだった。