209話 ランディアン教官の講義
デオットー=ミル=ランディアンは、自分自身を優秀だと考えていた。
幼いころから優秀だと言われ、兄弟の中でも特に有能だった。小さい頃は、それこそ自分以上に優れたものなど居ないとさえ思っていたこともある。
やがて成長していくにしたがって、自分に出来ないことがあるのだと自覚していく。それでも、やはり優秀であったことには違いなく、物覚えは人一倍良かったし、武術の腕もかなりの腕前まで伸びた。少なくとも両親や家臣は手放しで褒めてくれた。
しかし、有る時現実に直面した。自分は三男坊であるという事実に直面するときがきたのだ。
自分の兄が嫁を娶って、そのまま親から兄が次期当主だと告げられた時だ。
兄は、凡庸な人物だった。兄に劣っていることなど、何一つないと断言できるほどに。それでも、自分は爵位を継げない。たかが騎士爵位と言えど、爵位を継げるのと、継げないのとでは、意味が大きく違う。爵位を継げない自分は、親が死ぬまで“貴族の子”として扱われ、親が死ねば、当主たる兄の気分次第で、貴族号も剥奪される恐れがあった。怒らせて縁を切られでもしたら、家名すら名乗れなくなる。この状況を受け入れたまま、常にご機嫌を窺いながら、劣った兄の下で飼われるなど、自分のプライドが許さなかった。
そこで、成人と共に寄宿士官学校に入学する。爵位を継げない貴族子弟が、自立を求めて入学するというのは良くある話だったし、自分ならば他の連中よりうまく立ち回れると思ったからだ。
だが、デオットーは士官学校で自分がさほど優秀でないと思い知らされる。全国から集まる学生達は、兄弟で一番優秀だった、程度のレベルならごまんといたのだ。
優秀な教育者に幼少期から教えを受け、更に知識を磨かんとする英才。生まれながらに神から愛され、多くを与えられた神童。或いは、才能に驕ることなく、努力を続けてきた秀才。
そんな、選りすぐりのエリートが、国中から集まって来るのだ。
偶々、王子入学前後の入学フィーバーという状況もあって、デオットー程度の人間は、寄宿士官学校という生け簀の中では平凡に溺れた。
それでも劣等生とは呼ばれたくないと歯を食いしばって努力し、甲斐あって卒業。その後、自分の師事していた教官が退官することもあり、また努力を惜しまなかった姿勢が評価され、そのまま士官学校の教職に就かないかとの打診を受ける。
自分よりも遥かに高度な戦術論を交わす連中や、自分程度なら束になっても敵わない程の武術を修めた連中相手に、軍や宮廷で競争し、更には勝てる自信など到底なく、半ば逃げる気持ちでこの打診を受諾した。
自分は、天才と煽てられた凡才だった。
この事実を認めるには、デオットーはまだ若すぎた。自分は、本当はもっと優秀なはず。もっと相応しい地位、相応しい称賛を受けるべきだ。そんな妄想を捨てるには、まだ経験が足りない。
そんな彼の前に、本当の天才が現れた。
ペイストリー=ミル=モルテールン。年齢一桁で初陣を飾り、魔法という、余人が羨む決定的な才能にも恵まれる神童。初陣後もいくつかの戦いに参戦し、その全てで他の追随を許さない功績を重ねた。
家も陞爵を重ねて男爵位となっていて、将来はもっと上に行くのではないかと噂される。いずれはその爵位と領地も継いで貴族家の当主となり、華やかな世界で称賛を浴び続けることだろうし、華やかさが似合うだけの風貌も兼ね備えている。
妬ましい。率直な気持ちを表現するなら、その一言だろう。
貴族としての地位、生まれ持った才能、豊富な人脈と強固な縁故、積み上げた功績、周囲から向けられる称賛、恵まれた容姿、煌めく将来性、万人に一人の魔法。自分が欲しかったものを全て持っている。どれか一つでも羨ましいと思うことなのに、全てを持っているのだ。不平等さを嘆き、神に呪詛を吐き掛け、不機嫌をまき散らすに足る理由だ。
それでも、自分の目の届かないところにいてくれるのならば、まだ良かった。遠目に飾っておくのであれば、自分の知らない世界の話として無視できた。
にもかかわらず、この少年は自分のすぐ傍にやって来た。自分は人並みの楽しみも捨て、青春を犠牲にしてまで努力して、やっと評価されたことで得た教官という地位に、ある日突然並ばれた。これが平静で居られるだろうか。
否、許されるはずもない。
あんな子供が、自分よりも明らかに楽をしているはずの人間が、自分の手にしたささやかな誇りさえ奪おうとしている。デオットーにはそう感じられた。
だからだろう。今日の講義は、ついつい荒ぶってしまう。
「そんなことも分からないのか。一体お前は今まで何を学んで来たんだ!!」
ランディアン教官の大きな声に、気弱そうな学生が肩をすくめて委縮する。
この学生は、一言で言えば劣等生だ。少なくとも、ランディアン教官が現在受け持っている学生の中では、一番出来が悪いと見られている。
他の学生も、機嫌の悪い教官の叱責の矛先が向かないよう、体のいい生贄の羊に憐憫の目を向けるだけだ。
「いいか、もう一度教える」
教官の言葉に、全員が耳を集中させる。聞きそびれれば、もう一度聞くのに叱責を受けるからだ。特に、メモを取りたくても取れない人間は必死である。
神王国のみならず、この世界では筆記用具が貴重品である。特に、紙が高い。パルプから安価に植物紙が作られているわけで無し、紙といえば基本的には羊皮紙などの獣皮紙になる。現代のように、メモ用紙やノートとして使えるのは裕福な上位層だけ。経済格差が学力格差に結びつきがちなのは、こういう細かいところにも理由がある。
木の板などに必死で書き込む者も居なくはないが、年輪があって書きづらいものに悪戦苦闘するよりは、記憶力に任せて必死に聞き取り、後で内容を友人同士で突き合わせるほうが効率がいい。
友人が居ない、或いは少ない状態で、経済的に恵まれていないならばどうなるか。それは、先の叱責が表す通り、学力の差となって現れる。
「戦争で最も重要なことは、指揮官の精神力と、兵の士気である。これは私の師が、戦場で経験したことを基に、口を酸っぱくして教えていたことだ。指揮官が心を弱らせ、優柔不断になっては、勝てるものも勝てない。指揮を執るのであれば、常に、強い気持ちで兵を率いる覚悟を持たねばならない。これは必須の条件であると共に、真理でもある。そして同じように、戦う者は気持ちで負けてはいけない。自分で自分の気持ちを支えられない弱い者が配下に居れば、指揮官がそれを見抜き、鼓舞せねばならん。分かったな。……では、最も優れた戦い方とはどういうものか。おい、答えてみろ」
今度当てられたのは、濃い茶髪の青年。身嗜みからすればそこそこ良いとこのお坊ちゃんのようだが、急に当てられたことに戸惑いながら、必死に答えを口にする。
「は、はい。より早く、より多くを倒す戦いです」
「ふむ、不十分な答えだな。そんなことでは卒業できんぞ」
「申し訳ありません!!」
茶髪の学生の答えは、デオットーにとっては望んでいた答えでは無かった。
何でこんなことも分からないのかと、最近の学生の質の悪さに嘆きつつ、だからこそ自分のように努力を惜しまなかった人間が、こうして教える立場に立っているのだと気を取り直す。
「最も優れた戦いとは、より少ない兵力で、より多くを倒す戦いである。より優れた指揮官に率いられた弱兵は、より劣った指揮官に率いられた強兵を駆逐すると教わった者も居るだろう。ならば最高の指揮官に率いられた強兵は、相対的には常に“より優れた指揮官”になるのだから、負ける要素も無く、常に勝つことになる。常に勝つというなら、被害は少なく、戦果は大きい程良い。費用対効果というのだ、覚えておけ」
「「はい!!」」
「故にこそ、諸君らは優れた指揮官でなければならない。どれほど優秀な兵を率いようと、率いる指揮官が無能であれば、敵が弱兵であっても負けるのだ。私の教え子であれば、卒業席次は首席でもおかしくないと思っている」
デオットーにとっては運の良いことに、教え子の中に首席候補がいる。侯爵家の息子であり、内務閥系の教育を受けていることから、自分とは特に相性のいい教え子だ。
ランディアン騎士爵家も、そしてデオットーが師事した教官も、内務系。知識こそ学生にとって最重要なものと信じる一派だ。入学前に学んだことが基礎にある為、実に教えやすい。
ちなみに去年までは安定的に成績優秀者を送り出してきたのだが、今年から校長が変わったことで風向きが変わった。今年の卒業試験の内容がどうなるかは今後校長や上級の教官たちで決めるのだろうが、出来る事ならば今年も成績優秀者を出して欲しい。あわよくば、首席を輩出したい。
そうなれば、デオットーの教育者としての評価も高まり、もしかすればいずれは副校長、或いは一気に校長ということもあり得ると考えていた。
だからこそ、学生達には自分が学んできたことを全て教えるつもりで厳しく指導する。
「よし、今日はここまで。明日は朝から騎士鎧を身に着けての実践訓練を行う。そのつもりで体調を整えておくように」
うええ、と学生たちから不満そうな声が上がるが、デオットーは一考だにしない。貴族たるもの騎士として最低限の技量があるべきで、その為の訓練をするのが当然だという信念があるからだ。
小さいうちからでも本物の鎧を身に着け、身体に慣らすのは将来にきっと役に立つと確信しているし、師からもそのように教えられたのだ。
確かに自分も学生の時は、この訓練が嫌だった。重たい鎧を着て、日差しが照る暑い中、水も飲めずに剣を振るい、学生同士で戦うのだ。苦行と言って良い。
こういう厳しい訓練が精神力を鍛えることに繋がる。精神がタフな指揮官は、それすなわち優秀な指揮官であり、将来の成績優秀者を育てる最短ルートと信じて疑わない。
「あの……ランディアン教官」
「何だ。質問か?」
劣等生の青年が、おどおどと教官に声を掛ける。
身体もひ弱で、精神的にも頼りないこの青年は、優秀な指揮官にはなれそうもないとデオットーなどは考えているが、それでも職務として学生の質問には答えてやるつもりだった。
「いえ、あの、教官と話がしたいとおっしゃる方が……」
「ん? 誰だ?」
「公爵家の御子息と……」
「何!? それならそうと早く言わんか!!」
寄宿士官学校の中でならば、教官として高位貴族の子弟にも強気に出られるが、一歩学校の外に出れば、所詮はしがない下位貴族の傍流。公爵家の御曹司ともなれば、社交会でも会話することすらない雲の上の人物である。慌てるのも無理はない。
長々と待たせるわけにもいかず、出迎えてみればまだ若く、デオットーともさほど年も変わらない感じだった。
「ランディアン教官、スクヮーレ=ミル=カドレチェクと申します。先ぶれもせずに訪ねましたが、少しご相談してもよろしいですか?」
「勿論です、どうぞこちらへ」
寄宿士官学校は軍人を育てる学校。教官であるデオットーは、当然、国軍の幹部の名前ぐらいは知っていた。中央軍第一大隊の隊長、カドレチェク家嫡子スクヮーレ=カドレチェク卿の名前も、その中の一人。
慌てて椅子の場所に案内し、上座を譲る。
「ランディアン教官とこうしてお話するのは、初めてですね」
「ええ。軍の仕事でカドレチェク卿が来られているのはお見掛けしておりましたから、初めてという気は余りないのですが、こうしてお話出来る機会が出来たのは喜ばしいことです」
スクヮーレとデオットーは、にこやかな雰囲気を作りつつ、雑談で場を温める。初対面でありながら、スクヮーレは落ち着いている。デオットーは、雲上人の来訪に少々浮かれ気味。
「ジーベルト侯爵などともお話したことがあるのですが、確か侯爵の部下に教官の教え子が居るとか。優秀な学生を育てられる教官の力量は、きっと宮廷でも知られているのでしょうね」
そんなはずはない、とデオットーは言いかけたが、口にすることは無かった。
多分、先代の教官の教え子と勘違いしていると思われる。
「ははは、そうなってくれれば嬉しいのですが、まだ若輩ですから。もし教育内容が認められたというのなら、私よりも私の師の功績でしょうな」
「なるほど、素晴らしい方に師事されたのですね」
「ええ。ご自身の経験と、学術的な論理を融合させ、何より学生の努力には惜しみない称賛を贈るお方でした。退官されたのは実に惜しいと思います」
「そうですか。教官を育てられたというのなら、よい教育者だったのでしょう」
「恐縮です。……それで、ご相談というのは?」
「はい、実は私の友人のことなのですが」
いよいよ本題。丁寧な態度で、スクヮーレは話し始める。
「その友人というのが、実はペイストリー=モルテールン卿なのです」
「ほう、左様ですか」
デオットーも一応は貴族社会の一員。幾ら快く思っていない相手の話題とはいえ、公爵家の人間と話している時に、その友人だと紹介されたなら笑顔を見せるぐらいは出来る。
「彼は、今、困っているというのです」
「ほう。名高きモルテールン卿でも困ることがあるのですね。何に困っているのでしょう」
いい気味だ。困るというなら、どんどん困れば良い。デオットーはそう思いつつも、話は続ける。
「学生が集まらないというのです。元々、校長始め多くの方々から期待を向けられて抜擢されたモルテールン卿ですが、そもそも学生が居ないのでは始まらない。かといって、こればかりは学校側の事情ですし、彼の責任という訳でも無い」
「そうですな。既に学生も所属を決めているわけですし、今から集めると言っても難しいでしょう」
「そこで、ご相談なのですが、学生の何人か……いえ、一人でも結構ですので、所属を変更するよう促してもらえませんか?」
「ほほう」
面白いことになった、とデオットーは内心ほくそ笑む。
寄宿士官学校の教育体制が一種の徒弟制度であり、学生が教官を選ぶのが普通だとしても、途中で教官と合わなくなったり、或いは教官が辞めたりといった状況も起こりうる。金銭的に負担をかけて来る教官なども居るし、得手不得手だってある。色々な教官に教わろうとする向上心豊かな学生だっているだろう。
だからこそ、この学校では途中で師事する教官を変更することが認められている。
勿論途中から学びだすことになる為、色々と不都合も起こりうるわけだが、それを享受しても教えてもらう先生を変えるというケースもままあった。
モルテールン教官が求めているのは、この教官の変更を、学生に対して積極的に勧めて欲しいというもの。
「勿論、学生が減ることで、教官の年間研究費等々に影響が出るようなことがないよう、校長には私やモルテールン教官から働きかけますので」
教官は、指導者である。指導方法を模索するにもお金は掛かるし、助手を雇う必要だってある。時には、特殊な技能を持った外部講師を招く必要もあるだろう。
そんなときの為、教官には学生の数に応じて研究費という名の財布が与えられているのだ。
学生を教える労力が減るのに、研究費は変わらない。デオットーにとっては美味しい話だ。それに、学校の予算が一定である以上、恐らく負担は新任教官に行くはずである。
こんな愉快な話は無い。
「……よろしい。正直、どの学生も私にとっては可愛い教え子ではありますが、優秀な学生数名に、それとなく話してみましょう」
「感謝します」
デオットーの頭には、劣等生の幾人かが浮かんだ。自分の評価を高める為にも、優秀な学生はくれてやる気は無い。だが、正直優秀とは思えない人間であれば、カドレチェク家に良い顔をする材料に使うぐらいは許容できた。
それであの銀髪の少年が苦労するなら、いい気味だとも思う。
「では、そういうことで」
自分のところから去っていくスクヮーレの背中を見つつ、デオットーの口は歪に歪んでいた。