019話 Welcome
「おお、モルテールン卿。わざわざ当領までよくお越しくださった」
「フバーレク辺境伯。ご当主自らお出迎え頂けるとは光栄ですな」
「なんの。卿のような魔法使いは国家の宝ですからな。事が事ですから、内密にするにも、自分だけ隠れておくわけにもいきませんのでな。おや、今日はご子息も居られるのですな」
月が替わって黒上月。今月から来月位までが、大体年末とか年の暮れと呼ばれる季節になり、寒さも一層厳しくなる月でもある。
この時期になると日が沈むのも早く、故に黒を冠した月で呼ばれる訳だ。
数え年のような風習も残る神王国にあって、再来月が新年であり、年齢が加算される月。
魔法を覚えて一発逆転成り上がり、などと考える博打屋は、適齢期になったと同時に教会に殺到する。つまりは、再来月あたりが聖別の儀の稼ぎ時。
逆に、既にある程度地位を築いている人間の子弟は、そういう混雑を出来るだけ避けようとする。
フバーレク辺境伯は後者であり、既に東部で確固たる地位を築いている大領の主として、こんな糞寒い時期に聖別の儀を行うらしい。
誰も好き好んで寒い時期に出かけようとは思わないので、教会の儀式などは予約をするまでも無く貸切状態になる。
それは今回好都合でもあった。
「ご無沙汰しております閣下」
「こちらこそ。よく来てくれたペイストリー殿。以前に見た時より背が伸びたかな」
「以前お会いしてから、まだ二月とたっておりませんが」
「なんの、子供は三日もあれば大きくなっているもの。活躍の噂は聞いておるよ。今日はまた何故貴殿まで来られたのか」
娘の護衛と送迎が任のカセロールではあったが、その過程にはトラブルが予想されていた。
当然、辺境伯とてそんなことは百も承知。荒事になる可能性もあるわけで、そこに子供連れで現れれば不審にも思われる。
さもあらんと思うカセロールは、それに応える。無論、実は息子も瞬間移動が使えて、今回は息子に任せるからです、などとは口が裂けても言えない。
「今日は御令嬢をお連れ致しますからな。やむを得ずとはいえ、長い時間お待たせすることになるやもしれません。年の近い者が居た方が退屈もせずに済むかと連れてまいった次第です。多少は剣の真似事も教えましたし、魔法も使えますので足手まといにはならぬでしょう」
「はは、卿の家族愛はつとに有名ですからな。それを押してご子息を連れてこられたと言うのなら、腕のほどは信頼しますかな。確かに、成人の儀式は時間が掛かる事もありましょう。御配慮痛み入ります」
事前に連絡済みなので、教会で“時間が掛かる”事は確定である。
しかし、何処に耳があるかも知れず、あえてぼかした形での作戦の確認だ。
教会で保護するが、改めてその手で良いかと確認し、それで構わないと答えた格好になる。
「まあここで立ち話もなんですな。どうぞ馬車の中へ。娘も居りますので挨拶させましょう」
「ほほう、流石にフバーレク家の馬車は大きいですな」
「いやなに、図体が大きいだけですよ。先代の趣味です。私の趣味には合わんのですが、頑丈ではあるので。ささ、どうぞ」
フバーレク辺境伯は当年とって数えで四十になる壮年の男性。
背は170センチ前後と平均よりもやや小さいながら、体つきはカセロールと同じように引き締まっていて、見るからに軍人然としている。
茶髪を短く刈り上げていて、やや角ばった顔立ちと合わせて如何にも歴戦と言った風格を漂わせる。
しかし、その風貌とは似合わないのが馬車だ。
用意されていた馬車は、随所に鉄板やらが仕込んであって頑丈さは折り紙つきである。十人乗りの大きな馬車で、普段は護衛の兵士も乗り込んでいるのだろう。馬などは六頭引きである。良馬の産地として名高いフバーレク辺境伯家ならではの贅沢な馬車。
軍人であれば有事に備え防備の整った馬車を使うのは、似合うと言うより心構えとして納得の出来るものだ。
性能だけでいうなら、高位軍人にはぴったり。何もおかしなところは無いはずである。しかし似合わない。とても不自然。
何故なら、デザインが乙女チックな少女的趣味丸出しだからだ。
全体的に丸みを帯び、曲線を多用したセンスは、軍人と言うより女の子向けのおもちゃといった印象を与える。
色も純白に、やや桃色と水色がかった波模様が描かれていて、とてもこの中に厳つい軍人が居るとは思えない。
ペイスなどは、中に入る時に思わず吹き出しそうになって堪えたぐらいだった。
全員が乗り込んだところで、辺境伯の傍仕えが馭者台に座って馬車は走り出す。
「モルテールン卿。御無沙汰しております。今日はどうぞよろしくお願いいたします」
「これはペトラ嬢。今日は何時にもましてお美しいですな。私も、貴女のような美人を護衛できるとあって、役得と喜んでおった所です」
「うふふ、モルテールン卿もお上手ですね」
馬車の中には、三人の女性が居た。
一人は、世話役の侍女。四十代をとっくに超えているらしいのだが、どう見ても二十代後半ぐらいにしか見えない謎の女性である。
もう一人は、今日の主役。フバーレク辺境伯の三女でペトラ嬢だ。
当然、カセロールもペイスも、真っ先に挨拶する。
「ペトラ様、お変わりないご様子で何よりです」
「ペイストリー様もお元気そうで。この前は美味しい焼き菓子をありがとうございました」
「御気に召して頂けたのなら、作った甲斐があったというもの。何かの折にでもまたお届けいたしましょう」
「是非お願いしたいですわ。あれ以来、頂いたお菓子を夢で見るほどですの」
ここまで喜んで、また期待してもらえるとは職人冥利である。
ペイスは、自分のスイーツを喜んでもらえたことに満足感を覚えていた。
それと同時に、次の機会は友人となった公爵嫡孫に譲るだろうことに、多少の落胆も覚える。
「リコリス様もお久しぶりです」
「ええ」
そしてもう一人。リコリス=ミル=フバーレク嬢。
名前の通り、フバーレク辺境伯家の血縁であり、現当主の四女にあたる。今日の主役でもあるペトラ=ミル=フバーレク嬢とは同腹で同い年の姉妹。即ち双子である。
生まれた瞬間の僅かな差で、姉と妹になった。
当然、成人する年齢も揃いである。成人の儀式であるのに姉だけ受けるのも不自然であるとの理由から、今日は姉と同じように聖別の儀を受ける予定である。
「リコ。わざわざ遠い御領地から来て下さったのに、貴女のその挨拶は何ですか」
「ごめんなさい、お姉様」
「私に謝ってもしかたがないでしょう。全く……ペイストリー様、御気を悪くされませんように。この子は、いつもはこんな風じゃ……」
「大丈夫ですよ」
大丈夫だとペイスが言ったのは、気にしなくても良いと言う意味でもある。が、こういう挨拶をして貰っても構わない、という意味でもある。
菓子職人とは、人を笑顔にする職業。ペイスはそう考えている。
人は美味しいものを食べた時、必ず笑顔になる。何故なら、悲しい時には、どんなものを食べた所で美味しさなど感じないからだ。
最高の菓子を作りたい。その思いを抱く少年にとっては、それは即ち最高の笑顔を作る事と同義である。美味しいスイーツの為には、笑顔を用意するのも下ごしらえのうち。
それが職人としてのペイストリーのプライドである。
人を笑顔にするには、その人が何を欲し、何を喜ぶかを知らねばならないのが道理。
一流の職人とは、一流の人間観察が出来てこそともいえる。
文字通り一流の経験を持つ少年の目には、リコリス嬢が何故不機嫌そうにしているのかが良く分かった。
それ故、大丈夫だとの言葉が出たのだ。
そこでふとペイスが横を見れば、そこでは大の男二人が顔を寄せ合って居た。
何も男同士でその気がある訳でなく、明らかに密談と言った雰囲気だ。
「(カセロール卿。やはり娘を害さんとする者が動いているらしい。くれぐれも頼みますぞ。私の手の者もひそかに王都にやっておりますが、それでも心もとない。今回の婚約披露は、何が何でも成功させねばならんのです)」
「(お任せください。私の部下も向こうで既に準備を終えている所です。万が一もあり得ません)」
小声でヒソヒソと会話している為に、そこから女性陣の気を逸らさねばならない。咄嗟に雑談をふり始めたのは、ペイスの経験の賜物だろうか。盛り上がる話題はやはり恋話。特に、婚約者になる公爵嫡孫の話は食いつきが良い。
しばらく雑談で盛り上がった後、それまで無言を通していた侍女から声が掛かる。
「お嬢様。教会に間もなく着くようです。御準備下さいませ」
流石に辺境伯家ともなれば侍女の教育も素晴らしいものがある。
会話の邪魔にならず、さりとてタイミングはぴったりで、準備の声が掛かった。
馬車を降りる時は、最も狙われやすい瞬間である、という言外の注意喚起だ。
それに気づかない男衆では無い。
侍女の女性がまず降り、次いでペイスが降りて周囲を伺う。
ここで、目敏い者なら、少年がやや不自然な身振りを見せたことに気付く。
モルテールン親子の間には、お互いに取り決めたハンドサインがある。このハンドサインを知るのは他に従士長のシイツ。逃走指示などの一部を従士とペイスの母が知る。
そのハンドサインで、さりげなく辺りに不穏な空気があることを伝えたのだ。
「(人数、右2、後ろ2、左1と離れて1。脅威、中の下より低。弓なし。制圧容易)」
予想通りと言うか、予想以下と言うか。この程度の襲撃であれば事前に想定済みであり、打ち合わせ通りに動く。
襲撃する側が、隠れていることを既に気づかれていると知った場合、不測の事態も起きやすい。飛び道具などがその一例。出来る事なら、気づいていることを気づかせないで待ち構えたい。
故にカセロールも、ハンドサインで指示を出す。
「(右と後ろは我担当。左守れ)」
「(了解)」
今回の作戦では、カセロールの魔法で王都に飛ぶという体裁になっている。実際はペイスがやるのだが、それを知るのは騎士爵家の二人のみ。無論表向きの作戦内容自体も辺境伯のところまでで止められている。秘密裏の作戦であり、本来ならば大身貴族には当然に居るはずの護衛が居ないのはその為だ。護衛の辺境伯家精鋭部隊は今頃王都で待っている。
この場は、男手三人で守るしかない。或いはそれを狙ってここで襲ってきているだろう。手薄になるのはこの機会しかないように計画したのだから。
「寒くなってきたせいか、邪魔な露が多いようですな。出先で露に濡れてしまわぬよう、先に露払いしますか」
「そうですな。他人様の庭でやるより、自分の庭で露を落としてからの方が良い。予定通りですか」
男衆は、何のことかが良く分かっている。
少女二人を最後に降ろす形で、全員が馬車から降りた。
無論全員、表面上は和やかでのほほんとした空気である。
教会に向けて、進みだそうとしたその時。
「うらぁぁぁ」
「ぇいぁあやぁぁ」
よく分からない意味不明な言葉を叫びながら、剣、というより錆びた鉄の棒きれのようなものを振りかざしながら襲い掛かる者があった。
辺境伯家は外敵に備える役目柄、敵などは掃いて捨てるほどいる。カドレチェク公爵家も、中央で諸領各家に睨みを利かせる役目柄、怨みを買いやすい。
両家を憎く思っている者であれば、晴れの舞台などは壊す利こそあれ放置する得は無い。
それに国内でも屈指の重鎮である当主同士、抱える資産と利権は膨大である。領地も豊かで、軍備も精強。
両家が結びつくことを嫌がる人間はかなり多いであろう。
或いは、我こそその益を手にせんと狙うものからすれば、両家の婚姻。それも公爵家跡取りの婚約など壊してしまうに限る。あわよくばの後釜狙いも、両手の指では足りないだろう。
襲い掛かってくる連中は十中八九、その手の縁談をぶち壊したい人間に雇われたものに違いない。
つまりは、遠慮する理由が無い。
「死ねやぁぁぐげっ!!」
「修業が足らん。二百年は修行して出直せ」
「父様、人は二百年も生きられないと思いますが」
「ふむ、なら百年にまけておこう」
武器の整備すら碌にできていないような有象無象。鍛え抜かれた騎士の敵ではない。
その上、たかだか数人で襲うには相手が悪い。間合いのまの字すらも無視できる魔法騎士を襲うつもりなら、この十倍は要る。
こっそり、ペイスも一人と切り結んで無傷ではあったが、それはそれとして父親の活躍が目立ちすぎる。
あっさりと二人ほどを切り捨て、残りを無力化していた。
「カセロール卿、お見事。娘を守っていただき感謝いたしますぞ」
「何の。閣下でもこの程度の相手であれば遅れは取りますまい。さぁ、些事に構うことなく、教会の中へ」
鉄の臭いと血の臭い。剣を布で拭ったペイスとカセロールではあったが、この臭いは慣れることが無い。
ましてや、箱入りで育てられた少女には刺激が強すぎたのだろう。それなりにショックを受けている様子ではあった。
だが、襲われた現場にそのまま居座るわけにもいかない。
少女二人と年齢不詳一人を促して、教会の中に入る。
「モルテールン卿。私は“後始末”をしてから追いかけます。うちの庭を荒らしたモンには、それ相応の償いをして貰わねばならんのでな」
「分かりました。出来るだけお早くに願いますよ」
辺境伯とその御付は、襲ってきた不埒者の処理をしてから合流するらしい。
教会の中、というのは何処の教会も似たようなものだ。
無駄な飾り気などは無く、精霊の絵と祭壇が一番目立つ。
ペイスの知る教会と、唯一違うところがあるとすれば、椅子の数ぐらいだ。
「どちら様ですか?」
教会の中に居た女性が、誰何する。
「私はモルテールン騎士爵家当主、カセロール。フバーレク辺境伯家の方を連れてきた。司祭様は居られるか」
「あ、はいっ、すぐに呼んでまいります!!」
脱兎の如く奥に駆けだす見習いシスターと思しき女性。
カセロールに名乗られて、慌てたのだ。
何せ貴族様。それも、自分たちの領主様一家のご一行と併せてのこと。こういった面識に不慣れな人間であれば、お前らちょっと待っていろ、とはとても言えるものではない。
裁判権を持つ貴族の一行。現代で例えるなら、警察の一団が押しかけてきたようなものだ。
急いで偉い人を呼びに行ったのは当然だろう。
やや慌て気味に、司祭服を着た男が出てきたのは、そのすぐ後だった。
やはり幾らなんでも貴族の一行を待たせるわけにもいかなかったのだろう。
「これはこれは貴族様。このような場所にお越しいただきまして。当職はこの教会で非才ながら司祭を務めておりますウィルイスと申すもの。今日は皆様方、如何様なご用事でありましょうか」
「その話は私の口からは何とも言えない。フバーレク辺境伯閣下が来られてからの話になる。何かご息女の話は聞いて居ないか?」
「さて、どのようなことでございましょうか」
やはり、この司祭を称する男も、相当な狸である。
フバーレク辺境伯本人が居らず、面識のない者ばかり。そうである以上、適当な人間が貴族を名乗って成りすまし、聖別の儀の予定を聞き出そうとしている可能性を考えているのだろう。
そのすっとぼけ具合は、事情を知るカセロールやペイスから見ても見事なものである。
護衛側としてもまた、秘密裏の行動である以上、相手が本当に司祭かどうか確認できないうちから情報は出せない。もしかしたら、賊が司祭になりすまして予定を聞きだそうとしているのかもしれないからだ。
双方、ここはお互いの共通面識待ち。すなわち、フバーレク辺境伯本人待ちであった。
事情が事情だけに、普段から静かな教会がより一層の沈黙に満たされる。
静寂の中、それを破る声がしたのは、すぐのことだった。
「いやあ、何故か“運の良い”ことに、偶々当家の巡察の者が居りました。早々に処理を任せてきました故……おや、モルテールン卿、どうしたのです、こんな場で立ち止まって」
「おお、閣下。お待ちしておりました」
教会に入ってきたのは、四十路の偉丈夫。待ち人来るはフバーレク辺境伯そのひとであった。
「これはこれは辺境伯様。本日はようこそお越しくださいました」
まるで揉み手でもしかねない腰の低さで、司祭が辺境伯を迎え入れる。
それもさも有りなん。フバーレク辺境伯家は軍家。人の生死を、常に間近で見続ける職業柄、代々敬虔な聖教徒として知られていた。
勝敗は兵家の常としても、やはり神のご加護とやらを信じたくなる機会は、最前線で戦う者ほど多い。
必然、フバーレク家が教会に寄付した金額はかなりの金額になる。
早い話が、教会の上得意先なのだ。
寄付金額がイコール営業成績な教会聖職者であるから、揉み手の一つもしようものである。
「うむ、司祭殿も今日は例の件、頼みますぞ。それで、こんなところで立ち話とは何事で?」
フバーレク卿の問いかけに答えたのはカセロールだ。
「いやいや、お互いに面識のない者同士であった為、挨拶をしていた所です」
「さようですな。いや、名高いモルテールン卿とお会いできて、嬉しさのあまりつい無作法を致しました」
お互いのことを辺境伯が仲介する形で確認できた以上、ここからは事情を知る同士である。
くだらない探りあいなどは、お互いに無かったことにする暗黙の了解。
無論、それを察しながらも知らぬふりをするのが、この手の大人のやり取りになれたフバーレク辺境伯だ。
「早速、お部屋にご案内いたしましょう。お嬢様方も、ささ、どうぞうこちらへ」
ようやく、突然襲われたショックからは立ち直ったらしい。さっきから教会の中を興味深げに見まわしていたペトラ嬢。
大人しそうな外見に似合わず、意外に図太い神経をしているらしい。
神父に促される形で、侍女と妹を伴って進みだす。
だがそれでも、襲われて間もないのに、地下の薄暗い所に連れて行かれるのは戸惑っていた。普通の神経をしていれば当たり前である。
とりわけ、妹の方は姉程に図太い神経の持ち合わせがなかったのだろう。
思わずぎゅっと、手近にあったものに捕まろうとする。
「大丈夫ですよ。僕たちが付いていますから」
「え?」
声を掛けたら、そこでようやく、リコリス嬢は自分が捕まったものが少年の袖であることに気付いた。
少し恥ずかしげにしたが、怖さの方が勝ったのだろう。放しもせずに握る力を強めた。
ここまでの経緯で、少なくとも敵ではないと思えたし、姉以外で一番年が近いのもあったからだ。彼女は、自分よりも年下のはずの少年に、奇妙な安心感を覚えたのだった。
「さあどうぞ。お入りください」
手近に頼れるものがあった妹とは違い、部屋に入れられたペトラ嬢は、ここにきて不安を感じていた。
それも当然だろう。明確な殺意で襲われ、その血が乾かぬうちに薄暗い地下に連れて行かれ、窓も無い地下室の中には拘束用と思われる椅子がある。
これで何も感じない人間は、ある意味で図太いを通り越した変態だ。
無論、彼女は至って普通である。むしろ、今まで蝶よ花よと大事に育てられ、屋敷を出ることさえ稀であったのだから、普通よりも繊細かもしれない。
傍に父親や侍女が居なければ、妹と共にこの場から逃げていただろう。
「これからここで聖別の儀を行うのですよね?」
そう少女が尋ねたのは、不安を払拭したい一心だったのだろう。
これから行うことは、普通の事なのだと信じたい。当たり前の儀式なのだと思いたい。だからこそ、彼女は肯定の返事を期待した。
「いいえ」
しかし、返ってきたのは少年からの否定の言葉だった。悲壮な色合いを、より濃くするお嬢様の顔色は、見る間に青ざめる。
不安で押しつぶされそうな少女はしかし、続く少年の言葉に安堵する。
「これから王都に飛びます。父の瞬間移動でね。儀式を行うのはそこに着いてからです。僕らが付いていますから、何も心配は要りませんよ」
心がネガティブな時に、一度底まで叩き落としながらも、爽やかで優しげな笑みを向けて安心させる。疲れた後の甘いものはより美味しく、走った後の水は旨い。持ち上げる前に一度落とすのは、貴族の交渉手段としては常套ではあるが、使いこなすには加減の見極めが難しい。
この年でこれが出来るとは、天然のスケコマシだなと、フバーレク辺境伯は少年をそう評す。
いずれ社交界で浮名を流すことは確実である。貴族としては珍しく恋愛結婚で、側室も持たずに、身持ちの固さでは有名だった父親とは正反対だなと、辺境伯は心の片隅にメモを残すのだった。
「それではお互いに手を握ってください。一本の線で繋がるイメージで」
何故か少年が仕切っているのが不思議だが、言われた指示内容には皆素直に従う。
魔法とは個人の資質による。何が出来て何が出来ないのか。或いはどんな制約があり、どんな性質を持つのか。それは本人のみぞしる。
故に、手を握れと言われたなら、それは必要な事だと信じるしかない。
フバーレク辺境伯右側とモルテールン騎士爵左側の間には、ペイストリーが挟まる。むさ苦しいおっさん同士が手を握るよりは、皆の精神衛生上好ましい。
辺境伯の空いた左側の手には、娘の手がしっかりと握られている。主役である姉の方の手。
そしてペトラ嬢の反対側の空いた手には、妹の手が握られる。
お互いにギュッと握りしめる所に、姉妹の仲の良さが見て取れた。
「私もよろしいのでしょうか。お嬢様と手をお繋ぎするのは畏れ多いのですが」
「うん大丈夫。キャエラも手を」
妹姫のリコリスの小さな手。
それを優しく包み込むように握ったのは、侍女である。キャエラと呼ばれた女性の手には、水仕事や力仕事のせいでゴツゴツと節くれた感触がある。だが、その手は姉妹二人が好んでいる手だ。
キャエラが主人の娘の手を握った時。侍女は違和感を覚えた。
握った手が、余りにも冷たかったのだ。
今日成人するとはいえ、年は十二。体温は大人より高いはずである。
にもかかわらず、自分の手よりも冷たいと感じた。
それは即ち、ここに居る少女が、かなりの緊張と不安を覚えていることに他ならない。
キャエラは、握る手に僅かに力を込めた。
「行きます」
暗い地下室。
お互いが握った手を感じていると、僅かに目の前が歪む。
見間違いか、と瞬きする間に、辺りは見慣れない部屋になっていた。
地下室なのは変わりがない。
暗い部屋で、中央にがっちりと固定された椅子があるのも変わらない。
ただ、全てがさっきまでとは違うものだった。
そこに、いち早くおっさん二人の手を離した銀髪の少年が、笑顔を見せて言う。
「皆さん、ようこそ王都へ」