179話 ファーストキスはチーズ味
エルザは、かつて孤児だった。
雪の降る中、小さなバスケットに入れられて、路地裏に捨てられていたのだ。生後半年程度だったというのは、後で聞かされた話である。
もしも、養父が拾ってくれなければ、そして拾われた家族が暖かく迎えてくれなければ、今頃は碌な結末を迎えていなかったであろうことは想像に容易い。
エルザが五歳の頃、自分の肌が周囲の人々よりも黒いことを不思議に思い、父に訊ねた。何故、自分は父や皆と違うのか、と。
その時の養父の顔は今でも忘れられない。辛そうな、それでいてエルザを労わるような表情で、自分が拾われた子供であることを教えられたのだ。
それからエルザは、養父に付きまとうようになった。心のどこかで、捨てられることを恐れていたのかもしれない。
父親について、仕事場にくる幼児。団員達はエルザを邪険にすることは無かったが、仕事の手を休めることも出来ない。大人たちの中に居た少女にとっては疎外感があったのだろう。彼女が舞台に立つと言い出すまでに、さほど時間は必要なかった。
稽古をしている時、舞台に立つとき、仲間と笑う時。疎外感を忘れることが出来た。
少女が十歳程になる頃、転機が訪れる。
しがない旅芸人の一座でしかなかった劇団が、王都のとある子爵夫人の目に留まったのだ。何でも政変があったらしく、今まで幅を利かせていた劇団が後援者を失って分解。代わりを探していたという。
それから一座はブーラン劇団を名乗り、王都に居を構える。近隣の大都市などで定期公演を持つようになり、ファンも付くようになった。念願の市民権も手に入れることが出来た。
客の多い日も、少ない日も、エルザは劇団の為に一生懸命だった。自分に出来ることは、何だってやって来た。団長の娘という立場でありながら、買い出しや洗濯といった雑用もする。大道具作りも手伝う。勿論、どんな端役でも喜んで舞台に立った。
そして気付けば、劇団でも人気の女優となっていた。
そんな時、劇団にとある依頼が舞い込む。戦争の勝利を華々しく描いた活劇を、演じてもらいたいという依頼。依頼主は、レーテシュ伯爵という大物貴族だった。
無論、劇団員達は喜んだ。自分たちが一流と認められたということであり、大金が舞い込む大仕事なのだから。劇団始まって以来の、晴れ舞台。
前祝い、などと気の早い連中が陽気に騒ぐ中、依頼主からヒロインに指名されたエルザの気持ちは晴れない。
自分は、女優に向いていない。捨てられたくなくて、仕方なくやってきただけだ。そんないい加減な気持ちで、こんな大役を引き受けても良いのか。そんな気持ちが拭えない。
今までは、劇団員がエルザに似合った役を選んでくれていた。役の方をエルザに合わせていたと言っていい。だが、今回は生まれて初めて“役柄に演技を合わせる”ことになる。
体形に合わせた服を着ることと、着る服に合わせた体形になることは、まるで意味が違う。それと同じで、役者に合わせた役柄を与えられることと、与えられた役柄に合わせた役者になることは、似ているようで全然違う。
エルザに与えられたのは後者。不安で不安で仕方がない。
レーテシュ伯は、かつて美貌を謳われた麗人。才色兼備の誉れも高く、数々の男を手玉に取って来たと評判の美女。気高く、才気溢れ、生まれながらの貴人。そんな評判の女性だ。
才媛と名高い彼女を、肌も黒く、育ちも粗野で、才能もない自分が演じてもいいのだろうか。いや、そもそも演じられるのだろうか。
悩みに悩んだ。夜も眠れないほど、苦悩した。食も細り、普段ならあり得ないようなミスを繰り返し、それでまた自信を無くすという悪循環。
気付けば、ふらりと路地裏を歩いていた。
いっそこのままだと、どうなるだろうか、などと考えながら。原点を探したかったのかもしれない。今思えば、馬鹿な話だ。
「そして、アルやヤントと出会った……と。なるほど、貴女の事情はよく分かりました」
ペイスは、目の前の少女、エルザに笑顔で話しかける。話しかけられた方は、笑顔ではない。
彼女の前には温かいお茶が用意されており、ふかふかのソファーに座ってそれを飲みつつ、シフォンケーキを食べている。勿論、用意したのはペイスだ。
食事ものどを通らないと聞いた辺りで、お菓子ならば食べられるに違いないという謎の別腹理論でペイスが用意して、半ば無理やり食べさせたものだ。
甘いものは、気持ちを落ち着かせる。美味しいものを食べて、気持ちが多少は和らいだのだろう。エルザの顔色も若干良くなった。
それでも、どん底から少し這い上がった程度であり、睡眠が必要そうな雰囲気は変わらない。
「私には、レーテシュ伯爵様を演じる自信がありません。せめて、他の役にしてもらえないかと先方に頼んだんですが……」
「結果は? 聞くまでも無いですか」
「ええ。レーテシュ伯爵様を演じるなら、最も若く、人気のある女優で無ければならない、とおっしゃっていました」
「それは、伯爵本人が?」
「いいえ。男の方で、伯爵家に仕える方だとのことでした。でも、多分伯爵様がそうおっしゃったんだろうと思います。そんな口ぶりでしたから」
「ふむ……」
ペイスは、目の前の少女を見る。
どうやら、彼女はプレッシャーと戦って、自己否定のループに落ち込んでいるようだった。
ネガティブな思考が、更にネガティブな思考を呼ぶという、終わりの見えない螺旋階段。放置しておけば、時間が経つごとに深く沈んでいく。行きつく先は、また路地裏か、舞台を去るか、でなければ最悪は教会の棺の中か。何にせよ、よい傾向とは思えない。
「貴女は、それほど自分を卑下する必要はないでしょう?」
「でも、私はレーテシュ伯爵様のように賢くないです」
「こうして話をするだけでも、貴女の知性は疑いようもない。そもそも役者は知性を“演じる”のであって、当人の知力をそのまま必要とするものではないでしょう。学者の役を演じるのに研究者になる必要はなく、あくまで役者らしく演じればいい」
「年も全然違いますし」
「向こうが若い人に演じて欲しいと言っているのです。貴女はそれでいいではないですか」
ペイスは、精いっぱい少女を励まそうとする。
「それに……それに、私は美人ではありません」
「そうでしょうか? 僕の目には、貴女も十分魅力的な女性であるように見えますよ?」
「だって、だって……」
どうにも、少女の自己否定の根は深そうである。
「だって……肌もこんなだし。みんなとは全然違ってて……」
ペイスには、少女の自己否定の根本が見えた気がした。
恐らく、孤児であったことを、貴人を演じるようになって強く意識してしまったのだろう。生まれながらに富も権力も美貌も持っていた女性。演じようとすればするほど、近づこうとすればするほど、今の自分自身がみじめに思えてきたのではないか。
演劇の世界、例えば宝塚歌劇団の男役は、男性の仕草や感情を深く学ぶという。それこそ男性以上に。そして、男性を学ぶということは、裏返せば“女性的なもの”を見つめて対比し、排除する過程に他ならない。男性を深く学ぶ過程は、女性を見つめ直すということ。男性よりも男性らしいと言われる演技には、女性というものはどういうものかを知る過程があるものだ。
違いを知る為には比べねばならず、比べる為には片一方だけを見ていては意味がない。演技とはそういうものだ。
今、エルザがレーテシュ伯を演じるという。生まれつき美人だった女性とはどういうものか。最初から家族や友人に恵まれていた環境とは何か。裕福な生活とはどんなものか。華やかな世界の住人の気持ちとはどんな風だろうか。
考えれば考えるほど、今の自分がそれらから程遠いところにあると自覚せざるを得ない。その最大にして根本の問題は、自分が孤児であったことだ。
そして、彼女にとって自分が孤児であった証拠の一つが、父親や団員と違う生まれつき茶褐色な肌なのだろう。コンプレックスの原因と言って良い。目に見える、自分の欠点、と彼女には思えるのだろう。
神王国では日焼けのキツイ肌は、肉体労働者を想起させるものだ。毎日日差しの下で長時間働く人間でも無ければ、茶色い肌にはならない。逆に、日銭を稼ぐような下層労働者には、肌黒い人間が多数いる。
人権思想など無い社会。肌の色で差別しない良識などあるはずもなく、下層民を、ひいては焦げた肌色を見下す蔑視の風潮は、少なからず存在していた。
まして、エルザが演じるべきは女伯爵。生まれながらの上流階級。貴族の中の貴族だ。一般的に、貴族女性は高位であるほど日焼けと縁遠い。
エルザが自分の手を見る時、否応なく貴族ではない自分を自覚させられる。下手をすれば、自分が劣っているものの証拠にも思えてしまう。これは中々つらいことだろう。
ぽたり、とエルザの顔から涙がこぼれる。頬を伝い、顎の先から雫となって落ちた。
それは、一つ、二つと増えていき、止まる気配を見せない。今まで堪えていたものが、溢れているのだろう。無言であるにも関わらず、その涙が何よりも雄弁に心中を語っている。
「ヤント、少しこの場を預けます」
「え?」
「彼女が落ち着くまで、傍にいてあげなさい。これは命令です」
ペイスが、女性の涙を見て動く。
泣いている女性を慰めるのは、甲斐性の内だとヤントを残し、何処かへ消えた。
残されたヤントは、ただ困惑する。
「えっと……元気出せって」
「えっぐ、わたし、こんなだから、みんなに迷惑かけて、ひっく」
エルザの涙は、尚も止まらない。しゃっくりが止まらず、袖で涙を拭う。既に袖口はぐっしょりとなっていた。
「俺さ、劇とかよく分かんねえけど……親父さんのことは少しわかる」
ヤントは、エルザに向けて一生懸命に気持ちを伝えようとする。
「あの親父さんはさ、あんたのことを大切にしてた。それだけは間違いない。だから、きっと、大丈夫だって!!」
根拠も何もなく、ただただ大丈夫だという。何が大丈夫なのかも支離滅裂で、饒舌さも無く、雄弁さも無い。不器用な励ましではあったが、エルザを励まそうとしていることだけは、彼女にも感じ取れた。
「ぐすっ、ひっぐ」
「俺も付いていてやる。だから大丈夫だ」
「うん、あり、がとう」
まだ途切れ途切れでしかなかったが、御礼を言えただけ、少しはヤントの励ましも効果的だったのかもしれない。
そのまま涙が落ち着くまで小一時間ほど。ずっとヤントはエルザの傍に居た。そう、ずっとだ。気の利いたことを言うでもなく、傍に居るだけ。
心の中がぐちゃぐちゃだったエルザにとっては、それがとてもありがたかった。
「ん?」
どれほどの時間が経っただろうか。ヤントが、ふと気付いた。厨房の方から漂ってくる、美味しそうな匂いに。香ばしい香り。腹の虫が騒ぐような、良い香りだ。
「お待たせです」
案の定、ペイスが焼きたてのスイーツを持って戻って来た。
手に持っている皿の上には、当然のようにお菓子が載る。日頃使っている食器ほどの大きさのそれは、異様なものだった。
「これは……」
ヤントは、まず驚いた。ペイスが持って来たものは、真っ黒に焦げた炭の塊のようなものだったからだ。
いや、匂いからすれば、間違いなく焦げている。
どう見ても失敗作。食べ物とは思えない何か。
ヘルメットのような形をしていて、色は黒一色。炭で玉を作って半分にかち割れば、こんな風になるのかもしれない。
「さあ、食べてみて下さい」
これには流石に、ヤントも怒りを見せた。
「ペイス!! こんなもんを持って来るって、何考えてんだよ!!」
最早、感情的になって口調も崩れている。声を荒げ、傍に居るエルザを気遣う気持ちでペイスに詰め寄った。
それもそうだろう。肌が黒っぽいことや、自分が劣っていることを苦にして泣いている女性の前に、『真っ黒な失敗作』を持って来たのだから。お前は失敗作だ、お前は醜い、そう目の前に突き付けるかのような所業。
どういう了見だと怒るのも、ヤントの義憤からだった。彼の行動は、人間的には正しいのかもしれない。
ペイスは、部下の失礼極まりない口調も気にせず“焦げの塊”を切り分ける。
「このお菓子はね、最初から“焦げるよう”に作るんですよ」
「え?」
「名をトゥルトー・フロマジェといいます」
トゥルトー・フロマジェ。トゥルトーとは甲羅のようにずんぐりむっくりした見た目を指し、フロマジェとはチーズを指す。フランス西部の小さな町ルフィニ-で産まれたと言われるスイーツで、山羊のチーズを使い、“焦がして”作るタルトである。
そう、このスイーツは世にも珍しい焦げたお菓子なのだ。
「さあ、食べてみて下さい」
ペイスの差し出す一切れ。
エルザは、それを皿ごと受け取り、じっと見る。表面の焦げの下にある、美味しそうなタルト。ふんわりと香るのは、何かのハーブだろうか。
さくり。
小気味のいい音と共に口に入れれば、思っていた以上に美味しい。チーズの味がぱっと広がり、焦げが全く気にならない。鼻に抜ける香ばしさが、程よい甘みと、タルト生地の塩気を同時に運ぶ。
気持ちがいい。食べていてそう思う。
さくさくとした音、乳製品の深みのある旨味、生地から感じる塩気、中から染み出すような甘み。全てが揃って、いつの間にか、草原で寝ころんだ時のような心地よい感覚を覚える。
美味しい。エルザは、久しぶりにまともにものを食べた気がした。
「世の中には、色々な人がいます。背の高い人、低い人、鼻の高い人、低い人、肌の黒い人も居れば、白い人も居る。黄色い人も居るでしょう。顔がすぐに赤くなる人も居れば、毎日青白い顔をした人もいる。太った人も居れば、痩せた人もいる。しかし、どんな特徴であっても、それは欠点ではなく、その人の個性なのです」
「個性……」
「焦げても美味しいお菓子があるように、日に焼けた肌を好ましく思う人も居るでしょう。大事なのは、個性をどう活かすか、ですよ」
「どう活かすか……」
エルザは、そこでようやくペイスを真正面から見つめた。
「山羊のチーズは癖がある。匂いが嫌いだという人もいるでしょう。そして、焦げた料理なんて食えない、という人も居る事でしょうね。でも、そんな批判をいちいち気にしていたなら、このトゥルトー・フロマジェは生まれなかった」
「……」
「さて、エルザ。貴女は今、素材の塊です。チーズに癖があるかもしれない。小麦粉が他より黒いものかもしれない。砂糖は黒砂糖かもしれない。でも、それをちゃんと料理してあげれば、美味しいスイーツになる。それは、この僕が保証しましょう」
エルザの涙は、いつの間にか止まっていた。
「貴女という素材を、あなた自身の手で、立派に料理してみて下さい」
「はいっ!」
美味しいお菓子を食べ、ペイスに励まされ、かなり元気を取り戻した少女。自分の励ましよりもかなり効果的だったことに、ヤントは若干むくれ気味である。
タルトは勿論頬張るが。
「演技、頑張ってください。……あ、そうそう。そういえば、一つアドバイスがあるんでした」
「アドバイス?」
「ええ。レーテシュ伯を演じるなら、僕が知るレーテシュ伯について、詳しく教えて差し上げましょう。その通り演じれば、きっと大成功です」
ニコニコ顔のペイスの腹の内。ヤントは、幼馴染のよからぬ企てを察しつつ、積極的に協力しようと思うのだった。
◇◇◇◇◇
王都、王立劇場。晴天。
数々の名優を産みだし、感動を作り、笑いを巻き起こしてきたこの劇場に、本日、新たな壱頁が加わろうとしていた。
「ほほほ、どんな劇に仕上がったのか、実に楽しみね」
「ふむ、昨日練習を確認させた部下の話では、注文通りの仕上がりだったと聞いている。少なくとも、うちの要望は全て通ったと」
「なら問題ないわ。今日、お披露目と同時にモルテールン家は内容を知ることになるはずだけど、内容に苦情を言う前に周知してしまえばこっちのものよね。お~ほっほっほ」
夫婦揃って劇場に姿を見せたのは、レーテシュ伯爵夫妻。妻の方は中々に目立つ格好だ。薄紫色のスカートドレスを着こみ、ドレスに合わせた水色のストールを肩にかけた装い。頭はソフトクリームの如く高く盛られ、胸元には大粒のアメジストをあしらったネックレスが輝き、指には眩しいほどに大きな金剛石の指輪。足元の赤い靴は、絹を何重にも重ねて装飾した特注品で光沢すら見える。
夫の方は、伯爵家を表す五連ボタンの軍服。光物は精々が勲章の略綬程度であり、横に並べば、どうみても妻の添え物だ。
この二人は、日頃は王都に来ること自体が稀なのだが、地方の大貴族が自ら足を運ぶことで劇的に進む交渉事は数多く、それらを片づける為に、また新たな人脈形成や王家へのご機嫌伺いの為に、珍しくもやって来た、という“建前”になっている。
そして、王都に居て忙しい仕事の合間の“息抜き”として、“親しい友人”や世話になっている者達も誘って観劇に訪れた、ということになっていた。誰の目を欺こうとしていたのかは言うまでもない。
あくまで偶然にも今日、劇の内容をたまたま、幸運にも、知ることになる、という筋書き。
これは偏に、レーテシュ家がモルテールン家と極めて親しく、先の海戦での功績もレーテシュ家の陰の助力があったからこそだ、という印象を、各方面に与える為の策謀である。
レーテシュ伯ほどの知恵があれば、またレーテシュ家ほどに人材が揃っていれば、虚偽を弄さずとも、真実だけで印象のみを捻じ曲げることが出来る。
嘘偽りを喧伝すれば、流石にモルテールン家を明確に敵にするし、参戦していた故に真実を知るカドレチェク家やボンビーノ家などに、要らぬ隙を晒すことにもなろう。誹謗中傷で他家の名誉を損ねたなどと、政敵に批判材料を与える事にもなる。往々にして、虚偽情報は根拠を持った真実に弱い。嘘は、いずれしっぺ返しを受ける。
嘘はつかない。しかし、真実しか述べていないとしても、演出次第では黒も白と出来る。いや、して見せると、レーテシュ伯は気勢をあげていた。
劇場の中には、今日の為に予約席が用意されている。高いところから見下ろす、貴族用の特別席。
そして劇が始まれば、夫妻は観客となる。幕が上がれば、舞台の上は既に別世界。
まずは、オーソドックスな独唱から。物語に観客を引き込み、目と耳を舞台に向ける為の伝統的な流れ。歌うのは、劇の主役。つまりは、セルジャン役の人気俳優だ。
低いが良く通る声で、高らかに劇の背景を歌い上げる。聖国と神王国の戦いが始まり、レーテシュ家が参戦することになった、という内容だ。
「気恥ずかしいな」
セルジャンが、劇の邪魔にならない程度の囁き声で呟いた。自分の役柄を目の前で演じられるというのは、かなり羞恥心を刺激する。まともな人間ならば、だが。
おまけに、これでもかという程に美化されているのだから尚更だ。舞台上の演出であると分かっていても、とても自分とは思えない英雄に、顔を背けたくなったセルジャン。彼はまだまともな神経をしていたらしい。
やがて、舞台上で海戦が勃発した。如何にも憎々し気な聖国の敵役を相手に、セルジャン役を始めとするメインキャスト達が切った張ったの大活躍をする、というシーン。中々のアクションだ。主役がバク転を決めるところなどは、見せ場と言ってもいいだろう。勿論、セルジャンが船の上でバク転をしたという事実は無いが、こんなものは演出の内だ。
そして、恐らくボンビーノ子爵か、或いはそれに類する役どころと思われる貴族役が、セルジャン役を諫め始めた。指揮官が前線に出るとは何事か、というのがその主張。これは歌いながらのシーンとなる。主役との掛け合いを入れながらの歌劇。観客のご婦人の中には、うっとりと聞きほれる者が出る程度には上手い。
更に、まるでセルジャンが船上で剣を振るえば全て解決する、とでも言いたげな演出が入り、戦争自体は貴族役の妨害で苦戦したかのような流れとなる。レーテシュ家のイメージアップを図る演出に違いない。
一旦幕が下り、休憩を挟む。
「……疲れるな」
「そう? わたしは面白いと思うけど」
「勝手に英雄像を語られてしまうのが辛いと言っていたカセロール殿の気持ち。以前は話を聞いてもよくわからなかったが、今ならば心から理解できる気がする」
「あら。でも、そのモルテールンはこれから出てくるのよ?」
休憩が終わって幕があがる。ここでいよいよタイトルロールであるモルテールンの倅が登場。これは子役が演じているのだが、子役ならではの未熟な演技が目に付いた。セリフを頑張って覚えて喋ってます、という感じの演技。中々に微笑ましいが、これもレーテシュ家が指定した配役であることは夫婦の秘密。劇の題名こそモルテールンが全面に出ているが、劇の内容はレーテシュ家が主役でなくてはならないのだから。
劇は滞りなく進む。ペイスの子どもらしく可愛い思い付きを、大人なセルジャンが何とか形にしてみせました、と受け取れるような劇の流れを経て、いよいよ戦いはクライマックス。
ペイス役の子役の殺陣が若干入るが、それ以上に長くセルジャン役の殺陣があったのは御愛嬌。モルテールン家とレーテシュ家の活躍で、戦争には大勝利。というストーリーは予定調和の内。
モルテールン家とレーテシュ家が共に並び立つ勝利。これこそが、一番重要な骨子だ。レーテシュ家を目立たせ過ぎては嘘になる。
モルテールン家の活躍で勝てた、という事実を消さず、それと同じぐらいにレーテシュ家も頑張っていた、という“印象”を観客に与えるのが狙い。事前に念入りに注文を付けていたが、満足のいく内容だったようで、しきりにレーテシュ伯は頷いている。
「いよいよ、私が出るのね」
戦後処理には、レーテシュ伯自身が関わっていたこともあり、劇の後半では彼女がメインになる予定。というより、そんな劇にしろという指定を入れたところだ。
若く、一番人気の、実力派女優。件のエルザのことだが、その女優が居ることを調べさせていたレーテシュ伯が、絶対にこの役者に演じさせろ、と強く要望した部分。
きっと自分に相応しい、美を称えるような素晴らしい評判を勝ち取れるに違いない。
レーテシュ伯は、期待に胸を膨らませる。
そして、待ちに待った女優が登場。瞬間、レーテシュ伯ブリオシュの顔がぴきりと固まった。
まず、女優の開口一番のセリフがとんでもない。
「お~っほっほっほ、これで南の海はわたくしの物になりましてよ。お~っほっほっほ」
やり過ぎなほどの高笑いと共に、ど派手な衣装を着てふんぞり返るエルザの姿がそこにあった。セリフの内容も、がめつく欲深い人間が口走りそうなセリフである。
何処までも胸がそり返りそうな様子で舞台を、そして客席を睥睨する女優。目立つどころの話ではない。そして、続くセリフもまた凄い。
「セルジャン、よくやったわ。このあたくしが、わざわざ褒めて差し上げてよ。喜びなさいな」
高慢で高飛車。そんな言葉がぴったりに思える、居丈高なレーテシュ伯役。こうなっては、本人は冷静で居られない。どうみても、悪役令嬢か性悪夫人にしか見えないではないか、と。
セルジャンが気恥ずかしさを覚えていた時の比ではなく、当人の顔が真っ赤になっている。羞恥からなのか、怒りからなのか。
だが、レーテシュ夫妻以外の人間には、大うけする。もう、スタンディングオベーションでも起きそうなほどの雰囲気。
レーテシュ伯は気付かない。“レーテシュ伯の本性”を知る貴族たちを引き連れて、レーテシュ伯が観劇するであろうことを、ペイスが正確に予測していたことに。そして、そんな貴族達には、既に広まっているレーテシュ伯の“悪名”を利用して演技した方が受けるであろうことも。
「セルジャン、控室に行くわよ!!」
護衛の従士を数人引きつれ、怒り心頭というのを隠しもせずに、舞台の脇の控室に乗り込みに行く伯爵。一言、いや、百言ぐらい言ってやらねば気が済まない。自分を笑いものにして、只では済まさない。そんな気持ちで、控室に入った瞬間。
そこで見たのは、堂々と待ち構えていたペイスの姿。
「おや、スポンサーの登場ですか。如何ですか、今回の劇は?」
レーテシュ伯の怒りは、そのまま驚きの感情に代わる。
「なっ!? なんで貴方がここに居るの!!」
「これはおかしなことを言いますね。モルテールン家の名を冠した劇です。当事者が居て、何の不思議があるのです?」
ペイスの様子を見て、賢明なレーテシュ伯は大よその事情を察した。あのえげつないほどに誇張されたレーテシュ伯役の演技は、このガキンチョが裏で動いていたからだと。
「だから、やめておこうと言っただろうに……」
セルジャンは、やれやれと溜息をついた。
「あの、ふざけた演技、貴方がやらせたのね?」
レーテシュ伯がペイスに聞く。答えを期待してのことではない。単なる確認事項だ。
「ふざけた、というのが何を指すのか分かりませんが……閣下、演劇は演劇。元より虚構であり物語であり、作り話であります。登場人物が、仮に実在の人物の名前を名乗ったとしても、本人とは違うというのは言うまでもないことです。作り話に、大の大人がいちいち目くじらを立ててどうします?」
「くっ!!」
フィクションだから、気にしてはいけない。この言葉は、レーテシュ伯が、モルテールン家が怒鳴り込んできた時に使うつもりで用意していた言葉だ。作り話なのだから、そう深刻に取ることも無い。相手にそう言われてしまえば、レーテシュ伯としても言い返す言葉が無い。いや、有ったとしても、自分が色々と画策していたという言質を与えずに、モルテールン家のみに反撃する糸口が無いというべきか。
誇張しすぎだ、と一言でも言ってしまえばどうなるか。それはそのまま、ブーメランのように自分に帰って来るのだ。何を言っても、自分で自分の墓穴を掘るようなもの。
「……いい劇だったわ。とてもね」
だから、皮肉げな捨て台詞を置いて、去るしかなかった。
◇◇◇◇◇
万雷の拍手が鳴りやまぬ中、カーテンコールも終えて役者が控室に戻って来る。
ペイス達の元に駆け寄ってきたのは、最も好演だったと誰もが認めるエルザだった。
「ありがとうございました。おかげで、劇は大成功です」
「いえいえ。それは貴女が頑張ったからですよ」
「それでも、御礼を言わせてください。本当にありがとうございました。これからは、自分に自信を持って、演劇を続けられそうです」
褐色肌の少女が、きらきらと輝くような笑顔でペイスに礼を言う。大きな壁を、自分の力で乗り越えたからこそ生まれる自信が、この笑顔を作っているのだろう。
「そうそう、先ほどレーテシュ伯も来られていましたよ。とても良い劇であったと褒めておられました。このまま良い役者になってくださいね」
「はい、頑張ります」
ではこれで、とペイスが控室を去ろうとする。
その後ろにはヤントが付き従っていたのだが、二人が廊下に出たタイミングで、エルザが従者の方を引き留めた。察しの良いペイスは、何故か急に控室内に忘れ物を思い出したらしく、自分で取りに戻るからヤントに待っているよう言い残して戻っていった。
「えっと、ヤント、さん」
「……ああ」
廊下にぽつん。若い女性と、急に二人っきりになったヤントは、ものの見事に狼狽えている。多少は冷静に見えるよう取り繕えているのは、慌てそうな時こそ冷静になれという鬼教官の怒声が、頭の端っこから聞こえてきたせいだろう。
「色々と、助けてもらってありがとうございました」
「……ああ」
相も変わらず、不器用なことである。
気の利いた言葉の一つも言えばいいのにと、何故か劇団員達が劇場の壁の傍で呟いた。劇場の控室は、廊下側の壁が薄いのだ。
「また、私たちの劇を、見に来てくれますか?」
「どうかな。俺、いつもは王都に居ないし」
「そう、ですか……」
実に馬鹿である。絶対にまた来ると、たった一言いえば、エルザも安心するだろう。別れる時まで不安がらせてどうするのか。不良行為が治っても、根っこの部分で未成熟な思春期なのだろう。“聞いている”連中からすればじれったくて仕方がない。
「じゃ、じゃあ、今のうちに御礼をしとかないと駄目ですよねっ」
「御礼?」
「はい。ちょっと、目を瞑ってください」
「こうか?」
「絶対、絶対目を開けちゃ駄目ですよ!!」
一体、何があるのだろうと、ヤントは不審がりながらも目を閉じた。真っ暗な視界の慣れなさは言うまでもないが、何故か香ばしい、美味しそうな香りがした。そういえば休憩中、ペイスの差し入れを皆で食ったんだったよな、等とどうでもいいことを考えていたその時。
――チュッ
何か柔らかいものがヤントの口に触れた。
一体、何だ、とヤントが目を開けた瞬間。その目の前にあったのは、顔を真っ赤にしたエルザの姿。それも鼻と鼻がくっつきそうなほどの至近距離で。
「そ、それじゃあ、またいつか。今度王都に来たら、絶対に会いに来てね!!」
一方的に言い捨ててその場から走り去ったエルザを、ただ見送るしかないヤント。
彼は、その一部始終を新作の恋愛劇にされるとは、つゆほども考えていなかった。
此れにて19章結。
次章「片思いにはラズベリーを」
お楽しみに。