160話 病気
「まさかここまで手こずるとは……」
プラウリッヒ神王国王太子ルニキスは、独り言のように小さな声で呟いた。
その言葉を聞いたのは、側近たち。二十代から四十代の働き盛りの者達。
将来の国王の側近であるからエリートではあるのだが、皆が皆沈痛な顔をしている。その様子はまるで判をついたかのように同じ。
理由はと問えば、簡単に勝てると思っていた聖王国相手の戦いにおいて、思わぬ苦戦を強いられているからだ。
「やはり戦術が拙かったのか?」
今度ははっきりと王子が問うた。答えづらい質問であり、部下たちは皆言い辛そうにして、互いに顔を見合わせる。
ややあって、おもむろに答えたのは、末席に居たドンディーズ=ミル=ハップホルン。代々有能な人材を輩出してきたハップホルン家の次男坊。小柄で存在感は希薄だったが、ここにきて眉間に皺を寄せつつも、補佐の務めを忘れずに一歩前に進み出た。
「殿下、敵の動きを見まするに、どう見ても奇策の類です。戦術的に大が小を包むは常道です。間違っていたとは思えません。また、風上を取るのも悪手とは思えません。此方が地の利を得ようと動くのを見透かしたような動きを見ても、余程の知恵者が居るか、でなければ……」
続きを言おうとして、ドンディーズは言いよどんだ。
ここから先の言葉は、多分に政治的配慮の要る言葉だったからだ。少なくとも、思い付きの憶測で語ってよい言葉ではない。
「何だ、最後まで言ってくれ」
「殿下の周りか、或いはセルジャン=レーテシュ卿の周りの情報が敵方に漏れているかと」
王子の命とあれば、言わずにはおけない。
補佐として示唆するのは、自分たちの味方を疑うような発言だ。なるほど、言いよどんだのも分かると、周りは理解を示した。
少なくとも王子の周りに、この発言をもって足を引っ張ろうという人間が居ないのは、人材の質の良さだろう。もっとも、良い意味でも悪い意味でも積極性に欠けるということなのだが。
「間諜か?」
「その可能性はあると。単なるスパイでは情報のやり取りに間に合いませんから、情報を詳しく、それでいて迅速に運ぶ手段もあると。無論、憶測に憶測を重ねていますので、私の想像の域を出ませんが」
「ふむ……」
王子は少し考え込んだ。
確かに、今回の聖国の動きは妙だった。
こちらの動きを見透かし、予め軍団を分けることを知っていたかのような準備。地の利を取る行動に合わせるかのような作戦。戦力配分を見越したかのような対応。
これを全て予測で行ったのだとするならば、相当な知恵者が参謀役に居る。少なくとも、王子の側近には出来ない芸当。非常識に過ぎる。
王子は極々常識的にそう考えた。
しかし、世の中には常識の枠からはみ出た異常者というものがある。どんな集団にだって例外があるのだ。
神王国の異端児と言えば誰あろうペイストリーだが、その存在を知り、研究してきたビターなども大概に常識的思考から足を踏み外している。非常識を深く知ろうとすればするほど、自らもそれに染まっていく。深淵を覗くものは深淵からもまた覗かれているというのは世の道理。
もしかすれば、他国にも同じように常識をゴミ箱に捨てた者が居るかもしれない。
世の中は広いのだ。
だが、頭のおかしい連中の存在を知らない人間からすれば、自分たちのたてた作戦が事前に漏れていたのだと考える方が、辻褄が合うように思える。常識人の限界だ。
「事前に情報が洩れている懸念は理解しよう。しかし、運ぶ手段とはどういうことだ。魔法か?」
「見晴らしの良さが陸とは違いますから、必ずしもそうとも限りません。技術的なものが何かあるのかも。運ぶ手段なのか、伝える手段なのか。勿論、魔法の可能性はあると」
神王国でも、ある程度の距離ならば船同士で旗を使った通信は行っている。また、陸の世界では狼煙などの情報伝達手段も良く知られていた。
夜中に高台で火を焚いて遠目に情報を伝える方法などは、五山の送り火を知らずとも常識的な範疇だ。
障害物など何もない海上ならば、視覚情報も伝えやすい。聖国も伊達に一国を治めているわけでは無いのだ。もしかすれば、海上で情報伝達を迅速に行える技術があるかもしれないという予想は、そう的外れでもない。今回は見当はずれであるというだけで。
「情報を盗み、瞬時に運ぶ……モルテールンの裏切りはあり得ないとして、他には?」
「ボンビーノ家が鳥使いを手に入れたと聞きます。上手く使えばやり様は有るでしょう。そもそも魔法使いの質に関しては聖国に一日の長があります故、隠し玉も多いかと」
聖国の魔法使いは、情報を隠匿されている人間とそうでない人間の差が激しい。情報を知られても不利にならない。或いは、対外的に有利に働く魔法使いの場合、情報は積極的に公開されて流布される。癒しの聖女などが筆頭だろう。自分たちが神の恩寵を受けた聖人であるとアピールする意味も強い。
逆に、魔法使いであることは知られていても魔法の内容を徹底して隠す場合がある。或いは、魔法使いであることすら隠す。秘密主義という点では、宗教国家の国体は極めて都合がいい。神王国であれば大抵の人間が利益や命と引き換えに情報を売る。家族の命や自分の命、目のくらむような大金を秤に掛けられれば、口を噤ぎ続けるのも限度があるというもの。
しかし、聖国ならば狂信者などは自分が拷問を受けても口を割らない。例え自分が死のうが、神の為と信じて秘密を守り続ける人間が居るのだ。中には薬物すら精神力と理性で抑え込んでしまう輩まで居る。組織力や団結力という点で、聖国の力は恐ろしい物が有った。
そうまでして隠される魔法使いというものは、ほぼ間違いなく有用な魔法使いである。有用であればこそ、切り札足り得るのだ。
神王国の王子たちの知らない魔法使いが、今回の戦いに投入されているはずと、彼らは予想した。これに関しては、事実その通りだ。
「厄介な連中だ。戦いとは本当に面倒なことだな」
「向こうも必死です故」
やれやれ、と溜息をつく面々。その中心人物は勿論王子だが、心中察して余りある。
今回の戦いは王子を含めて、若手に箔をつける戦いでもある。多少手間取る程度であれば若い連中のいい経験と笑い話にしてもらえるが、負けは将来に響く。
絶対に負けられない戦い。それだけに、緒戦で手痛い被害を被ったことは痛恨事。
「御用談中失礼いたします」
若さに似合わぬ渋面を並べていた時、幕舎の外から声が掛かった。全員が思わず声のした方に目をやる。
「何だ」
王子の声は、多分に不機嫌な要素をはらんでいる。
外にいる人間も、思わず身を固まらせるような声。
「レーテシュ伯の名で、連絡が届きました」
「どれ」
王子と側近が悩んでいるところに、また新たな連絡が届いたわけだ。外に居た伝令から連絡事項を聞き取るのは、側近の役目。
側近が受け取った内容は、顔色を青ざめさせるのには十分な内容だった。
「殿下……」
「何だ?」
側近の血色の悪い顔に、良からぬ気配を感じる王子だったが、報告を聞かないわけにもいかない。
「……船の中で、伝染病らしきものが発生したそうです」
◇◇◇◇◇
船内は、血の匂いがしていた。
神王国海軍の旗艦の中もまた例外でなく、鉄が饐えたような臭いの中で、責任者のセルジャンは顔を顰めた。
「原因は分らんか?」
「不明です」
聖国との戦いにおいて、緒戦に手痛い被害を受けた神王国軍。
彼らは態勢を整える為に防戦の形を取り、敵船団と睨み合いを続けていた。
本来であれば楽勝と思われていた中で、止む無く膠着状態となった戦線。不本意の極みであったが、敵の動きの巧みさから内通者の存在を疑ったのは後方にいる面々と同じ。
じっと睨み合っている中でも、戦場の激しさは変わらない。
内部の調査や、あえて欺瞞情報を船舶別に変えて流すなど、色々な策を講じては、敵の思惑と能力を見極めようとした。
小競り合いも幾度かあり、戦力では優勢な神王国側は内部統制の為に積極的に出れず、戦力で劣勢の聖国も博打をするような真似をせず。一進一退の神経戦のような状況が、既に一月は続いていた。
勿論、スクヮーレやセルジャンも無能ではない。戦いをこなしつつ、軍内の内偵を積極的に進め、密通者を洗い出す作業を同時並行で行った。
その結果、内通者は居ないであろうということがほぼ確定。少なくとも船団の中には居ないと、ある程度の確信を持つに至る。
凡そ一ヶ月の確認作業と虚々実々の小競り合いを経て体制も整い、再度の決戦に及ぼうかという時だった。
船の中で、奇妙な病気が流行り始めたのだ。
最初は、気持ちが落ち込んでいる兵士や、気だるげな人間が増えた。当初は戦時による精神的な影響かと思われたものが、数人程、大腿部や腕部にシミのようなものが出来始めるに至って、海に詳しいものから伝染病の危惧が伝えられた。
「ボンビーノ家の者が、この病気に心当たりがあるそうですが」
「心当たり?」
「はい。病気の症状としては、航海病なる伝染病が極めて疑わしいと」
元々は陸の軍人だったセルジャンは、海戦指揮の経験が浅い。まして、船特有の病気などは初耳であり、思わず聞き返した。
「それはどういう病気だ?」
「長く航海すると罹りやすい病気だそうで、一度罹ると周りの船員も同じ症状を見せる伝染病とのことです」
この世界でも、伝染病という存在は広く知られている。とりわけ軍人は、仕事の度に集団行動と重度の肉体的疲労が標準装備されているわけで、そのまま少数が病気になった場合、周囲に同じ病気が伝播していくことがあると経験則で知っている。
身体が疲労している時に、大勢で密集し、かつ不衛生な環境にあることが多いのだ。体系的な知識でなくとも、軍家ならば皆それなりに親兄弟から注意されて育つ。
「治せるのか?」
「治すには、陸に上げて療養する他にこれといった治療法が無いそうです」
だが、周囲に伝播する病気があると知っていることと、それを治せることは別問題だ。伝染病が流行った時、軍人であれば罹患者を捨てて行軍するというようなケースもあるほど。
治せるものなら治したいのは、どんな病気でも同じ。だが、船の病気についてはレーテシュ家といえど限界がある。
「……つまり、敵前から撤退しろと?」
セルジャンの抑揚を抑えた声に、報告していた部下はヒっと小さく息をのんだ。醸し出す雰囲気が、猛々しい猛獣のようなものだったからだ。
今回の戦い、誰よりも負けを許されない立場にあるセルジャン。痛撃を受けたまでは良い。初手を取られたところで、決定的な敗北にまではならずに済んだ。だが、このまま撤退となれば、誰の目にも明らかな敗北となる。
一介の武人として、敵の戦術に負けるならまだしも、病気でリタイアなどという不名誉は、死ぬより辛い屈辱だ。
「閣下、しかし、このままでは戦闘する前に全滅してしまいます」
「……くっ」
部下の意見は道理だ。
病気の蔓延は運。或いは、もしかして本当に神の加護とやらで聖国が守られているのかもしれないと、そんな意見がセルジャンの周りでも出始めているのだ。病気の半死人で戦っていては、勝てる戦いも勝てない。
病気が治せない。すなわち、勝ち目が無い。どうしても勝てないというのなら、無駄死にをさせないのは指揮官としての最低限の務めである。
上司として、不本意極まりない状況。グッと手を強く握りしめ、手に爪が食い込むほど。
セルジャンが、血を吐く思いで撤退を指示しようとしていた時だった。
「どうも、セルジャン殿。何やら大変なことになっていると聞きましたが、助けは必要ですか?」
やって来たのは、美味しそうな香りのバスケットをぶら下げた少年だった。





