157話 不吉な予感
「全艦、進撃を開始せよ!!」
海軍総司令セルジャン=レーテシュ卿の号令の下、三百隻以上の船団が動き出す。海の上、全部で二十家ほどの貴族家を従え、三列の縦列陣形を取る様は壮観の一言。
一度の海戦で二十家が参戦というのは、大国神王国としてみても、かなり多い。自前で海軍を持つ家のみならず、聖国との戦いが海戦中心になることを見越し、海兵を雇い、船を調達して即席の海軍をこしらえた家もあるから可能な数だ。
何故そこまで船を集めて駆け付けた人間が多いか。それは、戦後の利益を見越した狡猾な計算があるからだ。
統治を行う上で海沿いの領地は商業的に美味しいので、内陸の山間部等の耕作しづらい土地の人間が、海戦で功績を挙げて海沿いの領地を任せられることを見越しているというのもある。
今回の海戦での主力は、レーテシュ家を含めた既存の海軍というのは衆目の一致するところ。彼らが手柄をあげて、もしも領地替えなどと言う話になったなら、今までの海沿いの領地の領主の座が空く。ここを狙うならば、海戦で手柄を立てておけばかなり心強いし、根回しもし易くなるというわけだ。
「敵はどう動くだろうか」
「そうですなあ……まずは上の取り合いになるでしょうが、そればかりは何処で鉢合わせるかによって違いますからな」
「海の流れもあるからか」
「その通りです。風上を取った方が有利ですが、その為には海流と天気を掴まねばならない。どこまで先を読めるかと……後は運の勝負でしょうな」
セルジャンの問いに答えたのは、オーリヨン伯爵家の従士長。四十そこそこの中年男性で、頬に引っかき傷の痕が目立つ異相の武者。オーリヨン伯爵家を武の面で支える要の人物だ。若かりし頃に海戦を齧ったことがあるらしい。
セルジャンの実家であるオーリヨン伯爵家は、今回の戦いに際して兵は出していない。その分、レーテシュ家の婿となったセルジャンを支える人材を二十人ばかり出していて、脇を固めていた。これは、レーテシュ家が参謀役を出せる余裕が無いというのも一つの理由。
無論レーテシュ家も人材は豊富だが、今回は動員した兵力が兵力だ。海戦に知見があり、ある程度の指揮が出来る人材は、レーテシュ家の海軍の各船で指揮を執っている。こればかりは致し方ない。
海軍と陸軍には色々と違いがあるが、その一つには指揮命令系統。ここに大きな違いがある。特に指揮官の裁量権はかなり差異が見られるのだ。
海戦の場合、通常は数隻同士での戦いである事が多いのだが、戦術の最低単位は船一隻。それ以下に分けられないのだから当然だが、これはつまり一隻一隻の動きがそのまま戦局を左右すると言う事。
しかし、各船毎の動きを、上位の指揮官が全て把握して動かすのも難しい。船の動きとは惰性や慣性が強く働くので、急に動きを変えろと言っても物理的に不可能なことが多いのだ。おまけにいざ戦いが始まれば船毎に連絡が付けづらくなる。
だからこそ、船長格の指揮官に付与される裁量権はかなり大きい。戦場を見渡し、自分たちの船が今どういう状況にあるかを理解できる人間を載せておかねば、船一隻が丸々遊軍となって無力になりかねない。そうなれば、優勢は互角になり、互角は劣勢となるだろう。
だからこそ、優秀な人間から先んじて、艦長の任を与えられる。つまりは、補佐役になれない。
レーテシュ家が先の事情から、セルジャンの傍に優秀な指揮官を置けないとなれば、頼るべきは縁故となるのが貴族社会で、セルジャンにとって最有力かつ最も協力的で信頼できる縁故となれば、実家のオーリヨン伯爵家となるのは当然だった。
「接敵が予想される海域は?」
「ここかここ。敵が意表を突こうとするならば、ここら辺もあり得ますかな」
「とりあえず、敵に出会うまでは待ちか。もどかしいものだな」
「それはお互い様です」
セルジャンも海戦のど素人という訳では無く、レーテシュ家の教育を受け、海上で実戦も経験している。また、元々軍事に際しては高い実力を持っていた人間なので、今回の指揮についても不安要素は少ない。
しかし、経験の差だけはどんな天才でも埋めることは出来ないわけで、それを助けるのが補佐役たる参謀の務め。
従士長が予想したのは、常識的な発想で示した予想。そして、可能性として考え得る予想の二通り。敵がどういう行動を取るのか。こればかりは相手次第。
まずは定石通りに船を進めると決め、号令を出したのがさっきという訳だ。
索敵を行いつつも、聖国に向けて船団を進める神王国軍。
その眼前に、敵が現れたのは出発してから七日後。それも、昼に近い時間だった。
「先頭艦が敵艦視認。距離二十以上、数二百から二百三十と推定」
「敵の旗艦は確認出来たか問え」
「はっ!!」
連絡兵による伝令が、セルジャン達司令部に届けられる。いよいよ神王国軍と聖国軍がぶつかることを覚悟しなければならない。
「数はこちらが有利か…」
「船の数だけで戦力は分かりません」
「それはその通りだ」
大型艦の数や、船毎の戦力によって、戦いのやり方は変わる。
陣形によっても得手不得手があるし、離れての矢戦と近接戦はまた別物。
戦いはこれからだ。
「敵旗艦の位置を確認。縦列の最後方に有る模様」
「そうか」
敵の陣形は、最も一般的な縦陣。三列縦陣で迎え撃つ此方としては、先手有利の体勢。
「右翼と左翼に伝令。包囲を狙うぞ」
「良き思案かと」
相手が縦一列ならば、こちらは中央が敵の鼻先を抑え、左右の艦が挟む形での包囲が狙える。
敵が後ろの艦を前に出してくるまでに体勢を作れるかが勝負という、時間との闘い。
包囲ないしは正側面からの攻撃体勢が出来れば勝ち。ならばと即決するのが戦場の軍人というもの。
「上手くいくと良いが……」
開戦早々の勝負の時。
この時はまだ、神王国人は自分たちの有利を確信していた。
◇◇◇◇◇
モルテールン領は、秋口には商人で賑わう。
最近はモルテールン領でしか手に入らないものも多く、ブランド化しているジンジャークッキーや、独特の風味のあるモルテールン酒、或いは日持ちのするシュトレンなどを仕入れる行商人が目立つ。
しかし、その多くはどちらかと言えばモルテールン領に物を売りに来た、他所の商人である。冬に備えて購買意欲が活発になるシーズンであり、とりわけモルテールン領内の村落では何もかもが良く売れるからだ。
ザースデンを始めとするモルテールン領の村々。数年前まではかなり貧しく、最近になって急に金回りが良くなってきた為、一度買えば長く使うことになる服や鉄製品も他所よりよく売れる。他所では需要の限られる品が、ここでは旺盛な需要があるのだから、余剰在庫を抱えた商人などは揉み手でやって来る。それはもう、揉み過ぎて指紋が無くなりそうな勢いだ。
各家庭にある程度いきわたるまでがチャンス。他の商人に遅れてはならじと、人が集まるわけだ。
そんな中、モルテールン領から仕入れることを商いの基盤にしている商人は一人だけ。いや、既に複数の商人を抱える商会となっているから、正しくは一商会と言うべきか。
押しも押されぬ立派な新興商会として神王国南部でも有名になりつつあるナータ商会。その会頭が、ザースデンに帰ってきたところで少年に見つかった。
「デココ、戻っていたんですか」
「これはペイストリー様、ご無沙汰をしております」
馬車をおりて慇懃に挨拶する男を、領主代行は笑顔で迎える。身分差に煩い世界であり、商人が馬車の上から貴族を見下ろして挨拶など、出来るわけが無い。
「うちの麦や豆は売れましたか?」
「それはもう。飛ぶように売れましたもので、笑いが止まりません。当商会としましてもモルテールン家の方々には足を向けて寝れませんな」
「別にどちらを向いて寝ようと構いませんが、商売が上手くいっているようで良かったですね」
「おかげさまで。お菓子の方も売れ行き好調でして、保存のきくものは相場も青天井でした。うちは適正利益を心がけておりますが、転売の益を得ている商人は相当数いるようです。その辺のご相談をと思い、これから御挨拶に伺おうと思っていたところでした」
デココ=ナータは、モルテールン領に店を構えるナータ商会の会頭である。
三十も半ばを過ぎ、心身ともに充実している働き盛り。今日も今日とて、遠い街まで行商に行った帰りだった。
商会の主たるものが、何故に行商人のようなことをしているのか。それには理由がある。
モルテールン家より大規模な戦争の情報を得ていた為、主力商品であるモルテールン産の農作物を、自分で港町まで売りに行っていたのだ。ナータ商会の収入の大黒柱がモルテールン産農作物の取り扱いの為、ここがこけると商会そのものが危うくなると、トップ直々に出向いて商談した。
その甲斐あってと言うべきか、聖国との戦いに向けて、消耗品や食料品は幾らでも売れるという状況に遭遇。蒸かした芋の如くほくほくで帰って来たので、デココの顔色も明るかった。
「うちに挨拶? 今は父様も王都ですし、挨拶に来ても居るのは僕ぐらいですよ?」
「おお、ならば尚更挨拶が要りますな。今後とも、当商会を是非お引き立て下さい。これはお土産です。ペイストリー様に喜んでいただけるかと思い、無理を言って手に入れてきました」
デココにとって、謹厳実直なカセロールより、口蜜腹剣なペイスの方が恐ろしい。機嫌を取っておきたい相手は、むしろ息子の方である。
自分の店をよろしくと、手土産代わりのボンカも忘れない。この時期のボンカは、非常に甘くて瑞々しく、その分腐りやすい。デココが渡したのは、ボンカの蜂蜜漬け。貴族御用達の一品で、かなりの高級品である。ペイスが何を好むかなど、デココにとっては今更な話。
案の定、貰ったペイスの顔は満更でも無さそうだった。
「嬉しいですね。遠慮なく頂きます。それはそうと、デココに聞きたいことがあったんです。帰って来たなら丁度良い」
「ほう、何でしょう」
さっと雰囲気を変える二人。
モルテールン“姉妹”がアニエスのお腹の中に居る時からモルテールン家と付き合いのあるデココは、ペイスとも付き合いが長い。それこそ、ペイスが生まれてすぐの産着は、デココが手配したのだから、ペイスの年齢とイコールでペイスとの付き合いの長さだ。
お互いに性格も良く知っているわけで、ペイスが聞きたいことなど、デココにとっては言われるまでも無く察することが出来た。
それだけに、ペイスも質問が端的であからさまだ。
「……どうでしたか?」
何が、とは聞かない。聞かずともお互いには分かる。
「戦争の様子、ですな? まだ始まったばかりでしたね」
商人は情報が命であり、南部を基盤とするデココもそれ相応に話を聞ける伝手がある。
戦争の時は物価が乱高下しやすく、中でも食料を始めとする消耗品の値段は高騰しやすい。商人にとっても稼ぎ時とあって、かなりの精度と量の情報が集まっていた。
そのデココの見立てでは、戦争はまだ始まっていないか、始まっていたとしてもまだ緒戦といったところ。この見立てには、ペイスもなるほどと頷く。
「戦況は分かりませんか?」
「まだ何とも言えません。ただ、我々の間では神王国有利との見方が優勢です」
「そうですね。船の数や、海兵の数などを見れば、我が国が有利。それは間違いない」
商人同士であれば、敵方の情報もやり取りの伝手がある。資材や食料の調達状況から、お互いの戦力を読むぐらいは序の口。船の数や兵士の数も、ある程度概算で見積もることも可能。
商人としても負けた方にツケで物を売っていた、などとなれば大損をするので、勝ち負けはかなりシビアに予想される。
そんな商人の間でも、神王国側がはっきりと優勢というのだ。安心しても良いはずである。
しかし、ペイスの言葉におやと疑問を持ったデココ。
商人としての耳が、次期領主の少年の言葉の一部に、違和感を覚えたのだ。それ“は”間違いないという言葉。それ以外に間違いがありそうなニュアンスではないかと。
「何か、不安要素でもありますか?」
「……聖国は、人材が豊富です」
「はあ? 確かにあれほどの大国ですから、人なしとはいかぬでしょう。しかし、それは神王国も同じでは?」
「ええ、それはそうなのですが」
「お味方に不安でもありますか?」
デココの集めた情報によれば、神王国側の将には若い者が多いということだった。世代交代と言う事なのだろうが、その点で不安があるのかもしれない。
「いえ。人材面で不足は有りませんよ。新進気鋭の若手と、歴戦の古強者が協力体制をとっていますし、普段なら足を引っ張りそうな連中も、流石に陛下と王子殿下が上に居る中で大人しい」
「ならば、敵方に不安要素があると?」
「ええ」
ペイスは、軽く首肯した。
「聖国には、切り札ともいうべき魔法使いが居ます。特に厄介なのはハイエンシャン枢機卿の養子……」
「枢機卿の身内ともなれば、情報は隠されているはずですが……もしかして、何か御存じなのですか?」
「少しばかり前に因縁がありましてね。彼は、僕や父の天敵のような存在ですよ」
「天敵?」
「もしも聖国がなりふり構わずに来るなら……もしかするとこの戦争、長引くかもしれません」
ペイスの不吉な予想。
デココは、当たらないでほしいと祈りつつ、無駄な祈りになりそうな予感がしていた。