142話 母の思い出
「お義母様にそんな過去があったんですか」
「僕も聞いて驚きました」
モルテールン領本村にある、領主館の中庭。
日当たりの良い場所に植えられた広葉樹の下に、白いテーブルとイスのセット。テーブルの上には、良葉のお茶とペイス製のジンジャークッキー。
リコリスとペイスの若夫婦による、団欒のひと時。のどかな昼下がり。
「伯父様というのはどういう方でしたか?」
「話をしている限りでは、普通という印象です。リコの御父上と話した時のような凄みや、スクヮーレ殿と話した時のような優等生風の知的な印象は無いですが、悪い人にも思えなかった。何処にでも居そうな人という印象です」
「ペイスさんでも父には凄みを感じたんですね」
「流石は一派の長という風格で。そういえば、リコから見た前フバーレク辺境伯の印象はどういうものだったんですか?」
「父は私からみても凄い人でした。怒るととても怖い人でしたよ? 仕事の時は私たちも近寄れずに、忙しそうにしていて。小さい時は、お兄様ばかり構うのが不満でした」
「リコはお父さん子だったんですかね」
二人の雰囲気は実に和やか。新婚ならではの、桃色の雰囲気が漂っている。仲睦まじい甘い空間。
リコリスの傍に、キツイ目つきで睨みを利かせるキャエラ女史が居ることを除けば。
「ペイスさんはお父さん子だったんですか?」
「どうでしょう。小さい時から父を尊敬していましたが、物心ついた時には親の仕事に口を出していましたから、父親に甘えるということは無かったです。相対的にあえて言うなら、母親寄りでしょうか?」
「義母様には甘えたりしたんですか? 想像できないですけど」
リコリスは、ペイスがアニエスに甘えるシーンを想像しようとした。どうにも想像できない。アニエスが構いたがるのを嫌がるペイスならば容易に想像できるのだが。
「僕よりも、姉様方が甘えてました。僕は、姉様達や母様におもちゃにされるのが嫌で、逃げていたことぐらいしか記憶にないです」
「そうですか。じゃあ今度お義母様に聞いてみます」
クスリと笑ったリコリスに、ペイスは苦笑いだ。
自分の子供のころなどという物は、あまり人に知られて嬉しい思い出というのは少ないもの。今も子供と言える年であるというのは別にして。
「でも、お義母様は今王都にいらっしゃるので、会うこともありませんね」
「前ほどには、ですね。この間会ってきましたが」
「そうなんですか?」
「ええ。先の伯父の用事で……母様は泣いてましたが」
ペイスの言葉に、リコリスは相応に驚いた。思わず、ペイスの顔をまじまじと見つめる。
あの気丈な義母が泣くというのは、相当のことでは無いのかという思いからだ。
「え!? 何があったんですか」
「話せば長くなるのですが……」
◇◇◇◇◇
王都のモルテールン家別邸に、父と子が対面していた。
「ペイス、お前から訪ねて来るとは珍しいな。元気そうで何よりだ」
「父様、お忙しい中お時間を頂きましてありがとうございます」
「なに、構わんさ。息子の頼みなら部下も理解してくれるだろう」
モルテールン男爵は、現在王都で再編及び訓練中の大隊を預かる人間。軍隊というものはおおよそ、突出した人間の個人プレーではなく、連携と協調のチームプレーで戦う集団である。再編において最も重要なことは、再編後の大隊という新しいチームを如何に協調させ、また連携させるかにあった。
この点、カセロールのワンマンチームだったモルテールン領軍とは趣が違う。どちらかというならばモルテールン領軍の方が異常なのだ。
毎日が訓練、訓練、そしてまた訓練という忙しい日々を過ごす中において、リーダーたるカセロールも悪戦苦闘を続けていた。大隊長ともなれば人事、財務、補給、指導などの責任もある為、常の訓練に加えて机仕事も多々ある。
つまり、忙しいのだ。
カセロールは自信ありげに言うが、別に子供の頼みなら隊長が仕事をほっぽりだしてもいいという訳ではない。
部下が理解を示してくれるというところの本当の意味。カセロールの親馬鹿は王都ではかなり有名なので、今更であると皆が諦めているという点で、かなり理解されているという意味だ。
部下が、やれやれと諦めているともいう。
「それで、用事とは何だ?」
「……母様のご実家についてです」
笑顔のカセロールに対し、ペイスはやや渋い顔。
何かあったのかと、怪訝に思うのは父親の方だ。どうやら、自分だけに用事があったわけでは無さそうだと察する。
「ふむ、それならばアニエスを呼んだ方が良いか」
「はい。ですがその前に、父様にご相談してからの方が良いと思いまして」
妻の実家のことであるとしても、モルテールン家の家長はカセロールだ。まずは家長に話をしてからというのは筋が通っている。父親は息子の言葉に頷いた。
「先日、ノヨルエス=デトモルト卿の招きで、デトモルト男爵達に会ってきました」
「む?」
カセロールはノヨルエスと聞いて、一瞬だけ誰のことだと思ったが、すぐに義兄であると分かった。
意図的に思い出さないように努めていた名前だったのだから、咄嗟に分からなくても仕方がない。
そんな思いが顔に出ていたのだろう。息子の方が若干気遣いながら話をつづけた。
「父様と母様が縁を切っていることは承知していますが、僕はそうでは無い。招待も父様や母様といったモルテールン家の人間に対してでなく、モルテールン領の領主宛てでしたから、領主代行たる代官の僕ならば失礼にもなりません。一応は格好がつくと思い、話だけでも聞こうと考えて僕が出向きました」
「そうか、領地のことでお前がそう判断したのなら、私は反対しない。問題は無いだろう」
「ノヨルエス殿は元気そうでした。お家の事情から父様や母様には顔を見せられないが、僕と会えたことは嬉しいと言っておりました」
「そうか。思えば、私たちの代の問題を、お前に引き継がせることも無いだろうからな。ペイスが会うと決め、問題ないようならば私からは何も……ん? ノヨルエス殿“は”と言ったか?」
さすがにカセロールもいっぱしの貴族。息子の言葉の微妙な表現についても聞き逃さなかった。
「ええ。前男爵のクライエス殿にも会って来たんですが、既に病床の身で、余命もさほど残ってはいないという状況でした。言葉を飾らずに言うなら、死にかけです」
「もうかなりの御年だからな」
前デトモルト男爵は年齢にして七十歳ぐらい。子供の致死率が高く、平均年齢もさほど高くない神王国では、かなりの長寿の部類に入る。
「かつてアーマイア家やリハジック家に歯向かえず、母様と親子の縁を切ってしまったことを、後悔しているとのことでした。先の二家の影響力が無くなった今、出来れば詫びたいと。あの様子からすれば、恐らく本心でしょう」
「今更、だな。せめて十年前ならば、孫の顔も見せてやれたものを」
十年前といえば、モルテールン家が困窮していた時期だ。人は増えているのに収入が変わらず、赤字続きで苦難に耐えていた頃。
その時に態度を軟化させてくれていれば、或いは僅かでも援助してくれていれば。関係改善は劇的に進んだことだろう。カセロールの魔法もあるのだし、孫の顔の一つも見せに連れていくぐらいは出来たはずだ。
この十年でモルテールン家は劇的に地位を向上させて収入を増やした。豊かになった今になって昔のことを詫びてきても、仮に当人はその気でなくとも、周りから見ればすり寄っているとしか見えない。
肉親の情に訴えかければ多少の不条理も押し通せる、などと誤解を生んでしまえば、モルテールン家だけでなくデトモルト家にも有象無象のハエが集ることは、火を見るよりも明らか。舐められるわけにはいかない以上、甘い顔も出来ない。
「関係改善でも言って来たのか? それとも何か要求があったのか?」
「いえ、要求と呼べるものは何も。ただ、前男爵の現状と、過去の経緯について向こう側から見た事情を、僕が聞いたに留まっています」
「そうか。ならば、現状維持ということだな」
ペイスが過去の事情と経緯を知ったとしても、カセロールは別に恥じることは無い。過去の自分が力不足であり、貧しかったというのは事実であっても、それを隠すつもりも無いのだ。
向こうにも事情はあろうが、息子ならば自分の味方であると確信できる以上、別に状況は何も変わっていない。両家は縁を切ったまま。特に向こうを気遣う必要も無く、ただ関わり合いにならないだけ。
そう判断したカセロールの言葉に、ペイスは首を横に振った。そのまま、持っていた装飾品を取り出す。
「実は、母様の実家からこれを預かりました」
「これは?」
ペイスがテーブルの上に置いたのは、預かって来た形見のネックレス。デザイン自体は古いものと分かるが、付いている宝飾は相当な値打ち物だろう。
「デトモルト男爵家より預かってきました。母様に渡してほしいと」
「アニエスに? ただの装飾品や御機嫌取りではないということか」
「ええ。最初は突き返そうかとも思ったのですが、事情がありました。これは母様の母様、前デトモルト男爵夫人の残した形見なのだそうです」
賄賂か何かかと疑っていたカセロールは、息子の言葉に驚く。
アニエスと良く似ていた義母が、既に神の御許に召されていたことについて。親は子よりも先に死ぬ。そんな常識を、改めて強く感じさせられたことについて。
「何!? 夫人は亡くなられたのか。何時だ!?」
「十年ほど前だそうです。母様のことは最後まで心配していたそうです」
「そうか……」
カセロールは瞑目した。
アニエスの親兄弟は、アニエスを嫌ってはいなかった。ただ単にカセロールとの結婚にのみ反対していたわけで、いわば自分がアニエスと実家を引き裂いたようなものだ、という負い目を持っていたからだ。
自分を選んで付いてきてくれたアニエスには感謝と愛情を抱くものの、だからと言って自分のせいで母親の死に目にも会えなかったというなら罪悪感もある。
向こうが狭量なせいだと責任を擦り付けるのは簡単だが、一概にそうも言えない事情が有る事をカセロールは知っているし、人のせいに出来るほど無責任でもない。
自分の判断、アニエスの判断、そしてデトモルト家の判断。どれも間違いだったとは思わないが、結果がこれというのは余りに酷な話。
故に、男は複雑な思いを込めて溜息を一つだけついた。
「そういう事ならば、アニエスに伝えないわけにはいかんな」
「はい。僕から伝えましょうか?」
「いや、これは私が伝えねばならんことだろう。ペイス、アニエスを呼んできてくれるか」
「分かりました」
ペイスがアニエスを見つけて呼びに行くまで、小一時間かかった。
不慣れな王都の新居であり、勝手が分からなかったせいだ。その間、ずっとカセロールは思い悩んでいた。
「あなた、話があると聞いたのだけれど」
「ああ、そうだ」
カセロールの待つ部屋にペイスと共に入ったアニエス。伊達に長い付き合いでは無いわけで、一見何の変哲もない素知らぬ顔をしているカセロールが、かなり深刻な悩みと葛藤を抱えていることを察した。
自分の旦那は、辛い時や苦しい時、悩んでいるときほど、それを表に出さないようにしたがる癖があると、彼女は良く知悉している。
「まあ座れ。貰いものだが、王都で流行っているハーブティーがある。気持ちが落ち着くお茶だそうだ。お前も飲むだろう?」
「まあ、あなたがそんな気をつかうなんて珍しい」
「偶には良いだろう」
カセロールの指示で、侍女がお茶を用意する。勿論、ペイスの分もだ。
しばらく無言でお茶を飲んだ三人。沈黙を破ったのは、カセロールだった。
男らしく潔く、騎士たるもの正々堂々と、お茶を濁しながら。
「さて、アニエス。驚かずに聞いてほしいのだが、先日ペイスがノヨルエス殿の招待でデトモルト男爵家を訪ねた」
「まあ」
「義兄殿は息災だったそうだ」
夫の言葉に、妻は一呼吸大きく息を吸い込んだ。
吸い込んだ息の分だけ、大きな溜息になりながら返事をする。
「……そう。疎遠になってたから今の様子を聞けて嬉しいわ。何の用事があったのかしら?」
縁を切って冠婚葬祭を全て無視する間柄の両家。最後の伝手を持ち出してまで、いきなり招待とあれば、ただ事でないと察するぐらいはアニエスにも分かる。
「クライエス殿が病で危篤だそうだ。余命幾ばくも無い。そして、夫人は既に亡くなっていたらしい」
夫の言葉に、ただ驚くしかないアニエス。
「昔、二十年以上前になるだろうか。お前と結婚させてほしいと二人して訪ねたことを覚えているか?」
「ええ。勿論」
「あの時。そう、結婚を反対され、諦めるしかないかと思っていた時。お前は家を捨てても付いていくと言ってくれた。今でもはっきりと覚えているよ」
「私も覚えているわ」
「嬉しかったし、今でもそのことには感謝している。だが同時に、お前に辛い思いをさせてしまう自分が不甲斐なかったよ。私にもっと力があればと思った」
「私が選んだことよ。あなたのせいじゃないわ」
「だが、母親の死すら知ることなく、別れを告げることさえ出来なかった。済まない」
カセロールだけの責任ではない。いや、責任というなら、自分や、実家にだってあるだろう。一人で背負わないで。
そう、アニエスは呟いた。
「今更かとも思うが、ペイスが夫人の形見を預かって来た。これをどうするか。お前が決めると良い。受け取れないというなら、ペイスが返しに行くことになるだろう」
「……しばらく、考える時間を貰っていいかしら」
「ああ、構わない」
いきなり、母親は死んでました。父親も死にそうです。と言われても、平静で居られるわけが無い。
彼女は、自分の子供の頃のことを思い出す。
男爵令嬢として何不自由なく育ててもらったし、両親にはごく普通の愛情を貰ったことを。
まだ五歳か六歳の頃。嫁入り修行が嫌で兄の部屋に逃げ出した時、兄は笑って匿ってくれた。そして、二人して母から怒られたものだ。
自分の社交界デビューの時、自分よりも母が嬉しそうにしていた。どんな服が良いか、飽きもせずに何時間も母と二人で相談した。
楽しかった時も、辛かった時も、色々な思い出がある。それを、じっと思い出していた。
アニエスが子供たちに向けたように、アニエス自身もまた母から愛情を受けて育った身。大切な人の死を受け入れるのには、時間が要る。そう言って、アニエスは形見を手に自室に戻る。
部屋から出ていく母の背を見送るペイスは気付く。母の目元が潤んでいたことに。
◇◇◇◇◇
「お義母様も辛い思いをされてきたのですね」
「そうですね。家の事情とはいえ、悲しい話です」
人の命が軽い世界。死は常に身近にある。
だが、だからといって慣れるものでもない。
自分たちのすぐ傍で悲しむ人が居るにも関わらず、手を差し伸べることも出来ないのかと、リコリスは落ち込みそうになる。
だが、そこでふと気付く。自分の夫は、今までも悲しんでいる人に手を差し伸べて来たではないかと。自分もその一人ではないかと。
「ペイスさん」
「はい?」
「私たちで、何かお義母様を元気づけることは出来ませんか?」
真剣なリコリスの目に、ペイスは心を動かされた。
元より人を笑顔にするのが菓子職人としての喜びであったはず。ならば、母の悲しみを拭い、笑顔にするのも自分がするべき仕事ではないか。
そう、心が動いた。
ティーカップに残っていたお茶を一気に飲み干したペイスは、決心した様に立ち上がる。
「リコ、ちょっと手伝って貰えますか?」
「はい、勿論です」
夫婦二人の姿は、木の下からは居なくなっていた。