141話 形見
男は、後悔していた。
男は平凡であったし、普通だった。当たり前の結婚をし、子供が生まれ、我が子を愛した。当たり前の日常が続くと何の疑いも持っていなかったのだ。
愛した我が子が居なくなるまでは。
自分のかつての過ちは、自分の死が近づくにつれてより深い後悔となって心を苦しめる。
男の名をクライエス=ミル=デトモルト。居なくなった我が子とはアニエスのことである。
「さ、入ってくれ」
ベッドに横たわっている男の前に、少年が連れてこられる。
病の男からすれば、血の繋がった孫。
「……」
ベッドの上には、皺枯れた老人が寝ていた。
筋力はやせ衰えて朽ち木のように細い腕だけが、ひょろりと掛け布団の上に出ているだけ。
寝ていた男は、入って来た見慣れぬ少年をじっと見た。
自分の孫であることは、老人にはすぐに分かった。
面影があるのだ。顔かたちや雰囲気に、自分の娘の面影が。
小さかった頃の娘に、良く似ている。
事情があったにせよ、今でも後悔している過去の決断について、本当ならば、真っ先に謝ろうとも思っていた。だが、何故か言葉が出てこない。
だからだろうが、しばらくの間部屋の中は無言だった。
沈黙を破ったのは、声変わりもしていない少年の声。
「お初にお目にかかります。ペイストリー=ミル=モルテールンと申します」
「む……」
孫に、他人行儀にされる。クライエスは、頭を金づちで殴られたような衝撃を受けた。
分かっていたことではあるが、自分の過去の過ちを改めて突き付けられたようで、悲しさでもなく、苦しみでもない、後悔とも少し違う、焦燥感にも似た強い衝撃に戸惑う。
いや、きっと後悔と悲しみと苦しみが全て混ざって、そんな気持ちになったのかもしれない。
「クライエス……じゃ。よく来てくれたな」
何とか挨拶は出来た。身体が弱っている為笑顔もぎこちなかったが、それでも笑えたはずと、老人は安堵した。
「似ているな」
思わず口に出していた。
四十年近く前の息子、そして三十数年前の娘が、ちょうどこんな感じだったと、年を取ると昔のことだけは鮮明に思い出せる。
「は?」
「よく似ている。あの子の小さい時にそっくりゲホッゲホッ」
喉の奥が詰まっているような、肺の方が擦過しているような、聞くからに具合の悪そうな咳をする老人。
彼が病気であるというのはどうやら間違いないらしいと、ペイスはじっと見つめる。
案内してきた伯父が、老人の背をさすりながら何がしかの薬を飲ませた。
しばらくすればそれで何とか咳は治まったらしく、荒い呼吸ながら話を続ける。
「見ての通り、父の容体は良くない。今朝まではまだ大丈夫かと思っていたのだが、思っていたよりも悪い。本来ならこの場で渡そうと思っていたが、別室の方が良いだろうとおもう。父上、構いませんか?」
老人は息子の言葉に、ぜいぜいと悪い呼吸を続けながら頷いた。
「渡したいもの?」
「詳しくは場所を変えて話をしよう。どうにも、今日は父の調子も悪いようだ」
僅かな会話だったというのに、見るからに疲労している老人の姿。
この弱った姿を見せたかったのかと不審に思いつつ、ペイスと伯父は別室に移動する。
「すまなかったね」
「何がです?」
部屋に入るなりのノヨルエスの謝罪。何に付いて謝っているのかが分からず、ペイスは聞き返した。
「父の我儘に付き合わせてしまった。妹は正式に当家の籍を外している以上、赤の他人からの招待。断ってもおかしくないものだった。それに、ここから話すこともあくまで私一個人の願いだ。君は……いや、卿はいつでも席を外してもらって構わない」
「とりあえず話だけは伺いましょう。何故、今になって連絡してこられたのか。そのわけを」
「ありがとう。渡したいものもあるのだが、前置きも長くなりそうなので、お茶を用意しよう。座ってくれ」
年季を感じさせる高級そうなソファーに、ペイスは腰を落ち着ける。
話し相手の男は、備え付けの小さなベルをチリンと鳴らして侍女を呼び、お茶の用意を言いつけた。
事前にスタンバイしていたのだろう。ほどなくお茶の準備も整う。
毒見も終わり、お互いに一口お茶を飲んだところで話が始まる。
「良いお茶ですね。察するに聖国のもの?」
「よく分かるな、その通り。とっておきの客に出す、当家で用意できる最上級品だよ」
「気遣って貰ったようですね」
「せめてもの気持ちだ」
まずは雑談から。
お互いに為人を探りながらの会話だ。
一通りお茶で口を湿らした後は、さてとばかりに本題に入る。
「卿は、当家とモルテールン家の確執について、どの程度知っている?」
まずはお互いの前提の確認。
「母が父との結婚を反対され、駆け落ち同然で家を飛び出し、父と一緒にモルテールン領で過ごすようになったと聞いてます。親の反対を押し切って結婚したことで、親子の縁を切られたとか」
「……うん、その通りだな。ただ、その話は肝心なところが少し抜けている」
「肝心なところ?」
元々カセロールもアニエスも、自分の過去の苦労話を子供に滔々と語るような人間ではない。どれだけ苦労をしていようと、それをおくびにも出さずに、大したことないから気にするなとでも言ってのける性格をしている。
ペイスとて、いや、ペイスだからこそ、詳しい話を知らないというのは、あり得ることだった。
「そもそもの起こりは、当家が大戦で手ひどく被害を被ったことにある。私とアニエスの祖父は大戦前からアーマイア公爵家に世話になっていた。あの当時は彼の家は権勢を誇っていて、当家もその恩恵を受けていた。何十年も前のことだ。祖父の妻、つまりは我らの祖母も、アーマイア家と縁の深い家から嫁いできた。その長男が父だった」
「アーマイア家ですか。大戦の元凶の?」
旧アーマイア公爵家といえば、大戦の時に王家を裏切って、結局は負けた家である。
かつては国家の要職を独占するほどであり、アーマイア家と所縁のある家は多かった。戦争が終わってからは一族郎党は徹底的に粛清され、罰された者だけなら更に数倍する。
「ああ。大戦が終り、反乱者として処罰を受けたアーマイア公爵家は、近縁者も連座して処罰が下った。当然、妻がアーマイア家に連なる当家にも処罰があった。直接アーマイア家から嫁いできたわけでは無かったので処刑こそ免れたものの、戦争での功は無しとされ、褒賞も無く、罰金が科せられたのだ。多くの戦費を費やした後で、得るものが無く、残ったのは大きな借金。私は当時を詳しく知らないが、家が傾くのに十分な被害だったそうだ」
「なるほど」
「心労もあってだろうな。祖父は大戦が終わってすぐ亡くなった。跡を継いだのが父だった。嫡男であったから順当だという意見もあったのだが、この時にかなり揉めたのだ」
「それは何故?」
貴族という生き物は、血縁を大事にする。親から子に財産を受け継いでいくことを重視するので、血の繋がった子供というなら領地を継ぐに不足は無いはずだ。
ペイスは首を傾げる。少年の疑問には、続けて男が答えた。
「母親がアーマイア家に連なっていたからだよ。王家に疑われることは避けるべきだと家中の意見は根強かった。そこで、父は弟に領主の座を譲った」
「つまり、その弟とやらは母親が違う?」
「察しが良くて助かる。祖父はリハジック準男爵家から側室を迎えていたが、その子が叔父だ。大戦後には陞爵してリハジック子爵家となっていたか。叔父が領主になることで、リハジック子爵から援助も受けられるようになり、借金の肩代わりもしてもらえたことで当家も持ち直した」
リハジック子爵という名に、ペイスはどこか聞き覚えがある気がした。そして、すぐに海賊討伐騒動の時の黒幕だと思い出した。
よくよく悪縁とは付いて回るものらしい。
「それと母のことに何の関係が?」
「話はここからややこしくなる。このリハジック子爵が、アニエスを側室にしたいと言い出したのだ。成り上がりと言われたリハジック家としては、伝統的な貴族との繋がりを深める狙いがあったと聞いている。中々困る申し出とは思わないか?」
「ええ、それは確かに」
援助を受けている相手から、娘を嫁に欲しいと言われる。
借金の形に娘を寄越せと言われているようなものであり、気分はよろしくない。ましてやそれが自分の母親の話だと言うのだ。さすがにペイスも顔を僅かに顰めた。
「当家としては断れるはずも無い。断っては家が潰れる」
「はあ」
「だが、何とかより良い条件を引き出そうと交渉した。父は消極的だったが、叔父は積極的でね。新たな当主を認めさせる功績としても喧伝出来ると、自分が表に立って際どい交渉をしていたそうだ。そんな時、アニエスがカセロール殿と結婚すると言い出したのだ。我々とすれば、寝耳に水だった」
「母様らしい」
ペイスは、若かりし頃の母がやらかしたであろうことを想像し、苦笑した。
あの人は、昔っから行動力があるのだなと。
「私としても、また父としても、領主である叔父の意見は尊重せねばならないし、家中で割れるほどの余裕も無かった。家中で意見統一をするため、そして先の事情もあってカセロール殿との結婚には反対するしかなかったのだ。どうしてもリハジック子爵を説得できないと思ったし、張り合う相手がカセロール殿なら尚更だ。大戦で功を為したという点はリハジック家も同じで、経済力もリハジック家が上。家と家で比べたなら、どうあってもリハジック家を選ぶのが当然と、誰しも思う」
「否定はしません」
カセロールとアニエスが出会った当時というならば、モルテールン家は最底辺の貴族だ。カセロールの個人事業のようなもので、そこらの農民の方が生活が豊かかもしれない。カセロールが援助を求めて駆け回り、傭兵と大して変わらない稼ぎ方をして家を維持していた時期。
真っ当な貴族と比べるなら、比較にすらならない。
「断るとするなら、家の欠点や利害では無く、結婚相手個人に断る理由を付けねばならない状況だった。カセロール殿個人であれば、リハジック子爵より優れている。魔法使いでもあった。だが、それを言えば、リハジック子爵が面白くないだろう。家の事情で断るよりも、はるかに心証が悪い。彼の人の顔に泥を塗るようなことを、叔父は出来なかった。だから、カセロール殿との結婚には断固として反対した」
家同士で比べれば、全ての条件面でリハジック家が上。自家の都合を理由にすれば、相手に極めて有利な代償を要する。だから、断るなら個人の資質を理由にせざるを得ない。
相手が病弱すぎるであるとか、粗暴すぎるぐらい分かりやすい欠点があるなら、それを理由に断れただろう。
だが、無理やりこじつければ相手の心証は最悪になる。ある意味、人としてお前は劣ると言い放つに等しいのだから。自分に自信のある人間ほど、頭にくるはずだ。
「しかし、母は家を飛び出した」
「そうだ。リハジック子爵は当時もすでにかなり御年だった。年寄りの愛人扱いは嫌だったのだろうな。しかし、飛び出してしまった以上は無視も出来ない。顔を潰されたリハジック子爵を宥めるには、アニエスの行動が当家とは一切関わりないことであると証明する必要があったのだ」
「それが絶縁ということでしょうか」
少なくとも、カセロールとの結婚を祝うことは出来なかっただろう。そんなことをすれば、援助を受けながら泥を顔面に投げつけた恩知らずの汚名を被ることになっていた。親としてはともかく、貴族家として、その選択はあり得ない。
「ああ。当家は乗り気だったが、アニエスが“我儘”をした。あくまで娘個人の不始末であり、当家としては責任を感じて娘を絶縁して責任を取った。これでリハジック子爵は矛を収めてくれた。あの時は、一歩間違えば当家とリハジック家の戦争になりかねないところだったのだ。やむを得ない手段だったと思っている」
「うちの父と組んでリハジック家と戦うという選択肢は無かったのですか?」
「あった。だが、リハジック家は当時でさえ一派を形成しており、幾ら英雄と言えどモルテールン家が味方に付いた程度では勝てないと考えた。それは間違っていなかったと思う」
「否定は致しません」
当時というなら、従士の数もシイツを含めて三人。カセロール、シイツ、コアントロー、バラモンドの爺様。戦える人間はこれで全部だった。領民とて二十人も居ないのだから、まともに戦って勝ち目などありはしない。
今ならモルテールン家も子爵家の一つや二つ敵にしたところで何するものぞという実力があるが、当時はペイスも生まれる前である。非常識の権化が居ない以上、常識的な判断は正しいだろう。
「しかし、最近になって色々と当家を取り巻く環境も変わって来た。リハジック子爵も代替わり以降没落しているのはご存知かな?」
「ええ、噂程度は」
噂どころか、今のリハジック子爵を没落させた張本人だったりするのだが、そんなことはおくびにも出さないポーカーフェイス。
対面に座るノヨルエスにしても、まさかペイスがリハジック家をコテンパンにして虚仮にしまくったなどと想像すらしない。彼が知る事実は、ただ“何故か”リハジック家が没落したことだけ。
「今更のような気もするが、彼の家に遠慮する必要もなくなった。叔父にはまだ話していないが、父としては、アニエスに詫びの一つも入れたいと考えているのだろうな。病で先が長くないと分かっているから、焦りもあるのだろう」
「それが、今回の招待だったと?」
「そういうことだ。無視されることも覚悟のうえで、私が動いた。父の最後の望みでもあったしな」
伯父の言葉を聞きながら、ペイスはじっと見つめる。真意を見極めるために。
「……お家の利益の為に、うちと関係修復を図りたいだけでは?」
「言っておくが、モルテールン家が勢力を増していることと、今回のことは関係が無い。このまま父が死んでしまえば、アニエスにはずっとしこりが残ったままになる。兄として、それを案じる一心だ」
「信じることが出来るとお思いで?」
二十年以上も縁を切っていた相手が、今更詫びたいと言ってきている。
その理由が、モルテールン家が勢力を増したことで、手のひらを返してすり寄りたいからではないかと疑うのは当然だろう。
だが、伯父はそんな気持ちは無いと断言した。
「すぐに信じてもらえるとも思っていないし、アニエスが顔も見たくないと言うなら、それを受け入れる。ただ、これを妹に渡してほしいのだ」
今回の招待の一番の目的だ、という物の正体。
デザイン的には極々シンプルな、赤い宝石が付いたネックレス。
「何です、これは」
ペイスのたずねた言葉に、男は真顔で応えた。
「私の、そしてアニエスの母の形見だ。十年前に亡くなった母の……な」