012話 アップルパイは笑顔と共に
穏やかな日差しの中。
炒った豆から煮だした豆茶を啜る。最近試作の一環として作られた物の一つで、特に出来の良いものだ。
香ばしい香りが残るお茶は、自然と飲むものの心を落ち着ける。
「で、説明してくれるんでしょうね、坊」
「え、えへへ」
「えへへじゃねえですよ。今更普通の子供の振りして可愛い子ぶったところで誤魔化されませんぜ。きっちり説明してもらいましょうか」
お茶の入った木椀を一気に空にし、勢いよく机に置く。
何時間も無駄に走り回ったせいで喉が渇いていたのは事実であり、お茶を飲み干すのは一瞬だった。
「いやまあ、僕もまさかシイツが追って来ているとは知らなくて。ちゃんと後から事情を報せに走らせたんですよ。入れ違いになりましたけど」
キリっと顔を引き締めるペイスであったが、何故か締まらない。
理由は、と考えれば明らかで、彼は、彼の母親の膝の上に座っているからだ。
正しく言うなら、不安を昂ぶらせていたモルテールン夫人が、帰って来た息子を見るなり抱きかかえてしまい、放すことを拒否したまま椅子の上で寝入ってしまったのだ。さっきから抜け出そうと努力はしているようだが、がっちりと固められて動くに動けない有様。
止む無く、真剣な話をするのはとことん不向きな雰囲気の中での説教会と相成った次第である。
「まあ、俺が追っかけたのが無駄足で、入れ違いになっちまったのは仕方ねえかとも思いますがね。俺たちが現場に着いた時には、既に屋敷に戻っていたって話ですし」
「うん、うん」
「けどね、何で、追っかけて行った人間を追い越せるんです。入れ違いったって物理的に空でも飛ばなきゃ無理でしょうが!!」
「それは私も知りたい。ペイス、一体何をどうやったんだ」
妻の膝の上に居る息子。それを見る父親の顔をしたカセロールと、その片腕たるシイツ。
領主とその腹心が一番聞きたかったのはそこだ。
目の前の少年が無事に戻っていたのは喜ばしいことだ。しかし、その為に何をしたのかを知らなければ、リーダーとして判断を誤ることもあり得る。
事情をきっちり話して貰わねば、今後に差し障るとの判断で、息子を半分説教しつつも事情聴取を行っているのだ。
「順を追って聞こう。まず、お前一人で賊を追ったのは何故だ」
「賊の力量を知っていたからです。剣に不慣れな人間を連れていけば、足手まといとまでは言わずとも、一人で追いかけるより厄介になると考えました。人質を増やす羽目になっては、とも考えました」
「わざわざすぐに追わずとも、私やシイツを待って追えばよかったのではないか」
「かも知れませんが、その待ち時間が致命的になっていたかもしれません。あの時点で、時間は金貨より貴重でした。拙速であっても巧遅に勝ると判断しての行動です」
なるほど、と大人組はため息を吐く。
本音を言えば、自分たちを待つべきだったと怒りたくもある。だが、あの時点で仮に自分達であればどうだったか。他の手勢や相棒に連絡して集合を待つより、時間を惜しんだ可能性は十分にある。
単なる子どもであれば叱りも出来るが、仮にもペイストリーは成人している。まだ半人前とはいえ、現場の判断はよほどでない限り尊重されるべきだ。後からなら人は何とでも言えるわけで、その場での判断が最悪を避けられていたのなら十分に及第点だ。人質を無事に救出できた事実は、何よりも尊重されるべき結果。
これを叱ってしまえば、自分たちとて常に最善を求められてしまうわけで、歴戦の戦士たる二人であっても、自分たちの判断が常に最善であったとは言い切れない。言いきれない以上、最善でなかった、と叱ることも出来ない。
「分かった、それはひとまずよしとする。必ずしも間違っていたわけでも無いし、結果として上手く行った判断を今更どうこう言うまい」
「はい」
「では、賊とはやりあったのかどうか。お前の剣の腕は私も知っている。あれほどの規模の盗賊団を率いていたのだ。相手はそれなりに腕の立つ者だったのではないか。そう、お前が敵わないほどだった、とか」
ペイスは一瞬顔を顰めた。
聞かれたくなかったなぁ、等という心の声が聞こえてきそうな態度。
ある程度疑問形にはなっていたが、断言に近いであろう言葉を、否定する材料は無かった。
「確かに、手強い相手でした。剣だけであれば、確実に僕よりも数段上の使い手だったと思います」
「無茶だとは思わなかったのか」
剣で何枚も上手の相手をする場合、相手にもされずただ切り捨てられる可能性だってあり得た。
畑の案山子の如く無造作に片足にされ、物言わぬようにされてしまっていたかも知れないと思えば、追わない方が良かったのではないか、との話も説得力がでる。
「厳しいとは思いました。ただ、急所だけを守り抜いて、致命傷だけは避けられる自信はありました」
「それで?」
「僕の【転写】であれば、自分の傷を相手にも転写して、最悪相打ちには出来るかなぁと……」
はあ、とため息をついたのは、横で聞いていたシイツだ。
確かに、ペイストリーの【転写】の魔法は厄介極まりない。
タイマンであればまず負けないはず、とシイツが追い掛ける前に考えたのも、この魔法があったればこそ。
模擬戦でも、この“傷の転写”で散々苦しめられた。自分の攻撃した結果が、何倍にもなって返ってくるやり辛さ。一撃で仕留めなければ、不利になる一方という理不尽さに、不覚を取ったのも一度や二度ではない。
父親たるカセロールの【瞬間移動】も一対一の決闘では極めて厄介だが、息子も負けず劣らずえげつない魔法を使うものだ、と呆れた故のため息だった。
そんなシイツを横目で窘めながら、父親の顔をしたカセロールは続ける。
「それも、お前の判断か」
「はい。僕が自分で決めたことです」
「なら、それについても、何も言うまい」
「ありがとうございます」
無茶をするのは親子そっくりだ、と思ったのはシイツでは無く、カセロールだった。
無論、若いころの自分が無茶をしたことなど棚に上げた上で、彼の目にあるのは愛妻の姿。
何も無い僻地での開拓という難事に、喜んでついてきた無茶を思い出したのだ。
うつらうつらと居眠りをしつつ、それでも膝の上の息子を離そうとしないあたりに名残が見える。
「それで、ここが一番重要な所だが」
「はい」
「お前は、ここに戻ってくるとき、どうやって戻ってきた? いや、質問を変えよう。“何の魔法”を使った?」
「え~それに関しましては非常に複雑な事情と詳細な説明が必要でありまして、多少整理の時間を頂くために後日にさせて頂け無いかと」
「お前は何処でそんな宮廷貴族のような言葉を覚えた。良いから答えなさい」
大事な所だ。
ペイストリーの非常識さは今に始まった事では無いとはいえ、持っている魔法は、ものを複写するようなもの。どうあっても、追い掛けてきた者達を飛び越えて屋敷に帰還するような真似は出来ない。
そんな真似が出来るのは、カセロールには心当たりが一つしかなかった。
自身が誰よりも良く知る心当たり。
じっと息子を見るカセロール。
その視線に、どうにも居心地が悪いのはペイス。
しぶしぶ、といった風で、ネタを晴らす。
「僕の魔法は、お父様もご存じの通り物を写し取るものです。条件としては、自分の目で見たことがあり、本物に触れたことがある物。自分が対象を認識できる物で、数を数えられる物、というものです」
「それは私も検証に付き合ったから知っている」
「僕は今回、こっそり自分に転写していた“お父様の魔法”を使ったんです」
「やっぱりそうか」
これだ。これこそが危惧していた情報だ、とカセロールは天を仰いだ。
普通、他人の魔法をどうこうしようなどと思わない。出来たとしてもやらない。
魔法とは、戦術兵器のように扱われることも多々ある。他ならぬカセロールとシイツが、戦場で切り札として使われたように。
そんな危険物だけに扱いは慎重を要するわけで、他人の魔法など恐れて当然。使い方の分からない爆発物をベッドの下に置いて寝るような真似は、常人ならば嫌がるものだ。
カセロールの魔法であれば、岩の中や地面の奥深くに瞬間移動するかもしれない。シイツであれば、太陽のような物を見て目を潰すかもしれない。
魔法というのは便利なようでいて、危険もそれ相応に大きい。扱いには慎重に慎重を重ねてなお足りない。他人の魔法なら尚の事。
それに、個性の塊ともいえる自己収斂の結実が魔法であるならば、他人の魔法など何の価値も持たないのが普通。
自分なりの記号や略字で書き綴ったノートが、他人には無意味なものであるのと同じ。
それをさも普通の事のようにやってのける七歳児など、何処の世界に居るというのか。
カセロールとシイツは、互いに顔を見合わせ、そして互いに頭を抱えた。
「ペイス。お前に言っておく。これは非常に重要な事なので、絶対に守れ」
「何でしょうか」
「今後、お前が他人の魔法を自分のものに出来ると吹聴する事を禁じ、人前で行う事も禁じる。また、魔法の転写とやらを絶対に他人に知られぬよう、細心の注意を払え」
「はい」
ペイスにとってみれば、やっぱりこうなったか、という思いだ。
魔法が危険物扱いであることは、自身も親に言われるまでも無く承知している。だからこそ言いたくなかったのだ。秘密にしておきたかったのだ。
今後、自分の魔法が他人の魔法を写し取れることを内緒にする。そこに否は無い。
他人にバレれば、他の魔法使いの比では無いほどの危険と見なされる。味方ならまだしも、敵対する人間などからすれば最優先で殺したい人間となるだろう。魔力の多さから考えてみても、下手をすれば戦略級の人間兵器扱いになる。バレれば、普通の生活などまず夢のまた夢。穏やかな暮らしなんて、毛の先ほども望めない。
絶対に他人に知られてはならないのだ。
「そうなると、賊を逃がしてしまった、というのは痛いな」
そう、事情を聴く中で最もカセロールが気にしたのは、賊の頭目を取り逃がしてしまったことだ。
手強い相手から村の子供を守るため、まずはその子の安全を最優先に逃げの一手を選んだ息子の選択。間違っているとは思えないし、我が息子ながらよくぞ友人を守り切ったと褒めてやりたくもある。
「そこは、人質を助ける為に、逃げる為の最善手を打ったと言う事で。友人を背に戦える相手では無かったのですよ。隙を見てマルクを引っ張るだけで精一杯でしたし」
「やむを得なかった、か。そこはもう、今更言っても遅いな。願わくば、逃げた相手が早晩秘密を抱えたまま討たれることを望むまで。案外、逃げた所で野垂れ死んでいるかもしれん」
「そうあって欲しいとは思います。しかし、うちが手配するのはやめるべきでしょうね」
「秘密を守りたいなら、か」
逃げた相手が、ペイスにとってバラされたくない秘密を持っているとして、父親であり、領主であるカセロールが取れる手段は限られる。
情報を集め、身柄を探して確保に動くのは表だってできるだろう。
他領や隣国等で、機会があれば『賊が逃げたが大丈夫か』等とさりげなく調べるのは比較的容易である。
だが、指名手配や回状まですれば、ペイスにとってリスクもかなり大きくなる。
そこまでして捕まえたい理由はなんだろう、と興味を持たれれば、モルテールン領以外の人間に掴まった場合などには藪蛇にもなりかねない。
耳目を集めることで身柄を押さえられる可能性が高くなるとはいえ、逆にペイスの秘密を喧伝することになりかねない危険も無視できない。
我が息子は何でこうも問題ばかり起こすのかと、父親として文句の一つも言いたくなる。
だが、それをぐっと堪えるだけの度量を持つのは、流石に名領主と言われるだけの事があった。
その後、幾つかの質問と回答の応酬があった後、内容をまとめ終ったカセロールが言う。
「これで、大まかな事はとりあえず聞いたか」
「まあ、まだ聞きたいこともありますが、こんなものでしょうか。後は追々聞けば良い事です」
「よし、それじゃあペイス。お前も疲れただろう。ゆっくり休め」
「それじゃあ失礼します」
愛する妻を優しく起こしたモルテールン卿は、女性の手の内に居た少年を解放させた。
これ幸いと、部屋から出て行くペイス。
しかし、少年は休む気などさらさら無い。
彼には、今やるべきことがあった。
◇◇◇◇◇
三つの村の村人が、戦いからようやく日常へ戻ろうとしていた。
忙しなく動き回る大人たちをしり目に、少年が独り、何をするでもなくぼーっとしていた。ただ、座っている。
村の端の、ともすれば隠れて見えなくなりそうな場所に、その少年、マルカルロは居た。
彼はつま先を見る様にして俯きながら、考え込む。
何十回目か分からない溜息をつき、そしてまた考え込む。
「どうしたんですか。らしくないじゃないですか」
掛けられた声にマルクが目を向ければ、そこには親友の姿があった。
明るい太陽に透かされた銀髪をさらりと揺らし、隣に座ってくるあたりに友人同士の遠慮の無さを感じる。
「珍しいですね。マルクがそんなに落ち込むなんて」
「うるさい」
落ち込んでいる、と指摘されたことで。自分自身で自覚してしまったことで。少年はより一層気持ちが落ち込む。
そしてまた一つ、ため息の数が増えた。
沈黙がしばらく続く。
マルカルロのため息の数が更に五つばかり増えた頃、彼の親友が口を開いた。
「ルミのことですね」
その問に、応えたのはまた沈黙だった。
膝を抱える様に、またその抱える手に力を入れるようにした上での沈黙。図星であると態度で表す少年に、ペイスは微笑む様にして会話を続けた。
「ルミの怪我は快方に向かっています。傷は残るでしょうが、命に別状は無いそうです」
座る二人にとって、もう一人の友人。
いつも連れ立っては大人たちに怒られる同士。
その子が居ないというだけで、悪童の名も高き悪戯坊主が、ここまで落ち込むのか。ペイスは不謹慎ながら新鮮な想いも感じていた。
「俺の……」
「ん?」
「俺のせいなんだ。あいつが怪我をしたのは」
やはりそれを気にしていたか、と言うのがペイスの正直な感想だった。
マルカルロは従士の子である。
大人に囲まれて育ったが故に、悪戯好きで口が悪く、大人にも遠慮することが無くて可愛げが無い。
しかし根は正義感と責任感の強い男である。イタズラをするのは、大人に自分を見て欲しいと欲するからでは無いかと、ペイスは思っている。
彼が、自身の不用意な行動でもって他人を傷つけてしまったとしたら、それを気にしてしまうであろうことは想像に難くない。
「俺があいつの言う通りにしていれば、あいつが怪我することも無かった。盗賊が逃げることも無かった。お前にも迷惑掛けることも無かった」
「マルク……」
「全部、全部!! 俺のせいなんだよ!!」
いつの間にか、感情昂ぶる少年の目は涙に濡れていた。
「僕は迷惑を掛けられたとは思っていません。それに、ルミもきっとマルクを笑って許すと思います」
「でも、あいつには傷が残っちまう」
「謝れば、許して貰えますよ」
「俺が俺を許せねえんだ。あいつは……あいつは女だ。傷は一生残る!!」
それが本当に気にしている事だったのかと、ようやくペイスは理解した。
ルミニートは、マルクと同じく口が悪い。
四人兄妹の末娘で、上が全員男。それ故に本人の口調も男勝りであり、格好も兄たちのおさがりである以上、少年のそれである。やんちゃなお転婆。男の子と間違えられることなどしょっちゅうだ。
それでも女の子には違いない。傷が残れば、醜く盛り上がった痕は一生ついて回る。
責任を感じる点は、そこにあるのだろう。
「とにかく、ここで落ち込んでいても始まりません。気になるのなら、直接ルミに謝りなさい。ほら、行きますよ」
「おい、引っ張るなよ。何処に行くんだ」
「もちろん、彼女の家です」
強引さ、というのも時には必要なのだろう。
落ち込んでいた少年は、引っ張られるままに親友の家にたどり着く。二人揃って中へと通されると、そこには簡素な寝間着で横になっている友人が居た。
ちらりと見える包帯は血の跡が残ってはいたが、どうやら血は止まっているらしく色が茶褐色になっている。
「よっ、二人ともどうしたんだよ」
訪問してきた二人の友人に気付いたのだろう。
退屈そうにしていた顔を笑顔に変えて、友達を出迎えたルミニート。ただし、笑顔が途中でひきつったのは痛みからであり、それを見逃すほど、彼女の友人の目は節穴では無い。
「お見舞いに来ました。怪我、大丈夫ですか? 辛そうですけど」
「ん、まだ結構痛い。でも、もう大丈夫って親父が言ってたぜ。俺が遊びに行こうとしたら寝とけって怒られたけどな」
「そうですか。あ、僕はちょっとやることがあるので、台所を借りますね」
「それは母ちゃんに言ってくれ」
何故か、そそくさと部屋を出て行ったペイストリー。
当然、その場に残されるのは悪童二人。マルクとルミの二人は、お互いに顔を突き合わせる。
「その、ルミ」
「ん、何だよ、変な顔して。腐った瓜でも食べたのか?」
素直さというものの持ち合わせがそもそも少ない少年。そんなものを持っていれば、今頃は品行方正な良い子であったはずである。
当然のことながら言いだしたいことを素直に言いだせるような性格はしていない。
必然、言いたいことを言いたそうにしつつも、言い淀んで口をへの字にする百面相になる。
それを指摘されたことで、ようやく決心が付いたらしい。
「あ~……ごめんっ!!」
ガバっと音がしそうな勢いで頭を下げたマルク。
その行動に、首を傾げたのはルミニートだ。彼女は、いきなりそんなことをされて、何のことかが分からなかった。
「おい、いきなり何だよ気持ち悪い。お前が謝るなんて、鳥肌がたつじゃねえか。やめろ、気色の悪い」
「いや、だって俺のせいでお前は怪我をしたわけだし、悪かったと思ってるんだ。だから謝る。すまん」
一度謝ってしまえば、後は本人が自分でも驚くほど素直に謝れた。マルクは、自分に出来る精一杯の誠意を込めて謝る。
心からの謝罪というのは、誰でも思いが伝わる物。真剣さは、ルミにも嫌と言うほど伝わってきた。
お互いに長い付き合いの幼馴染。目の前の少年が、どういう思いで謝罪を口にしたのかは何となく分かる。謝ることにかけてはプロフェッショナルの二人。その謝罪が本気かどうかなど、誰よりも分かるつもりだった。
「いいよ。それぐらいで。俺の怪我は、盗賊のあんちくしょうに斬られたんだよ。マルクのせいじゃない」
「でも、俺が馬鹿な事したから剣を盗られたんだ。だからもう一度謝る。ごめん」
「もう良いって」
気まずさと言うものがあるとするのなら、今の二人の間にあるのがそれだろう。
マルクは、心の底から少女に謝りたかったし、彼女が許したとて、自分で自分が許せなかった。だからこそ、謝り続けようとする。
ルミからすれば、少年の不用意な行動など日常茶飯事であり、今日が特別なわけでは無かった。それだけに、実際に斬ってきた相手に怒るのならともかく、マルクらしい馬鹿をやらかしたことに、怒る気にはなれなかった。それでも尚謝り続けようとする友人に、いつもとは違う座りの悪さを感じる。
かなり長い間、お互いに口を開こうとして戸惑う時間が続く。
互いに沈黙の気まずさが始まったころ、それを破ったのはルミとマルクの嗅覚だった。
「何だか、良い匂いがする」
「ああ、旨そうな匂いだ」
子供の五感は鋭い。
とりわけ、血の匂いが残る中に漂ってくる、香ばしさと甘さの香りには、つい鼻がひくつくほどだった。
「どうやら、マルクはちゃんと謝れたようですね」
その匂いの正体が来た。
悪童二人の共通の親友。ペイストリーの持つ木皿の上に、その正解がある。
「おいペイス、その旨そうなものは何だ?」
夜通し戦って、碌なものを食べずに、寝かされているルミが聞く。
寝かされてからこのかた、病人食のような大麦粥しか食べさせて貰えていない腹が、匂いにつられてぐぅと鳴った。
「先日、王都に行った時に見かけた果物を使って、さっき焼いてきました。ボンカを使ったアップル……じゃない、ボンカパイです」
「スゲエ……」
思わず声が漏れたのは誰だったか。
もしかしたら、その場の二人ともがどちらも感じたことなのかもしれない。
日頃、大麦粥や黒パンが主食のモルテールン領の村に住む二人の子供。
外に出たことも無い以上、目の前にあるパイは、生まれて初めて見るものだった。
「僕から、ルミへのお見舞いとマルクへの励ましです。さあ、食べてみてください。あ、ルミの家族の許可は取っておきましたから、怪我を気にせず食べてくださいね」
口に入れる前から、如何にも美味しいですと叫ぶような香り。
香ばしさと、仄かな果物の香りの混然一体となった主張は、思わず唾液の中に溺れそうになってしまうほどに食欲をそそる。
「やった、俺、こっちのやつね」
「あ、ルミ。そのでかいのは俺が狙ってた奴だろ」
「へへん、早い者勝ちだ。……っうめえ!!」
がっつくようにして一口齧ると、サクリと音がした。
何層にも重ねられた生地が、中の具を逃がさないように守っている。そこを歯で蹂躙していく一瞬。心地よい抵抗感と共に、小気味の良い音が弾ける。
その瞬間から溢れ出てきたのは、守られていた筈の果物の群れ。
ルミは、パイを口にした刹那、怪我の痛みすら忘れそうになった。
とろりとした、蜜のような甘い果実。
爽やかさを残しながら、それでいて至福をもって迎える甘さ。ただ甘いだけでは無く、果物らしさを強く自己主張し、しかも塩気のあるパイ生地と絶妙のハーモニーを奏でる。
旨い。ただただその旨さに、ルミは夢中になる。
はっと気づけば、手の中にあったはずのパイは無くなっていた。
代わりに、得も言われぬ幸福な気持ちと、最高のスイーツを食べた満足感が残っていた。
いけない。
パイは八切れ。限られている。
慌てて木皿を見れば、既に二切れ減っている。マルクとペイスも一切れづつ食べたからだ。
自分と同じように感じたのだろう。
マルクもまた、はっと木皿の上に目線をやった。
戦いだ。これは絶対に負けられない戦いの合図なのだ。
ルミは両手を伸ばして二切れを確保し、それを左右の手にそれぞれ一切れづつ掴む。右手の奴をサクリと食べる。左手の物をガブリとやる。
行儀が良い、とはとても言えない有様ではあるが、そうしなければ戦いに負けかねない。そして、この戦いは最後の一切れの為にあるといって過言ではない。
八切れあったはずのパイ。一切れをペイスが食べ、残りを三切れづつ頬張ったマルクとルミ。
算数の世界。残るのは、誰がどう計算しても一切れだ。事実、皿の上に残った宝物は、確かに一切れである。
戦いの決着は引き分けだった。
お互いに行儀の悪さを欠片も気にせず貪った結果、最後の一切れに手を伸ばしたのは、マルクとルミの同着という結果に終わる。
「二人とも、はしたないですよ」
「「だって旨いんだもん」」
こういう所は息がぴったりだな、とペイスは苦笑する。
日頃からつるんでいるだけあって、発した言葉は共に同じだった、ということに。
「最後の一切れの所有権は後で決めるとして、マルク、ルミ、ちょっとこれを食べてみてください」
「それがボンカって奴か」
「ええそうです。このパイを作るために選抜した、とっておきです」
パイを置いておくのは惜しい。ここで隙を伺って、食べてしまう誘惑すらも魅惑的なほどに。
ただ、そうすることはマルクもルミも避けようと思った。何故なら、彼らが将来の主君と仰ぐ少年は、ことお菓子に関しての不公正を酷く嫌うと分かっているから。
そして、果物そのものにも興味があるからだ。
これほどの甘露なパイの材料となる果物。それはきっと、最高の果物に違いない。
自分達が今まで食べてきたどんな果物よりも甘いに相違ないのだと、考えることは二人とも変わらない。
期待をするなと言われても、パイを食べてしまった以上は無理というものだ。
果物のはちみつ漬け。付けてから、一月も経っていないであろうそれは、ボンカの実の形がそのまま残っていた。
小さく切られた実を口に入れた二人。
彼女らは、共にその瞬間顔を顰めた。
「酸っぺえ」
「すげえ酸っぱい。何だこれ」
してやったり、という笑顔で居るのは一人だけ。
鳶色の瞳に笑みを浮かべ、イタズラが成功したときのたちの悪い顔でいるペイスのみ。この野郎は、成人したくせにちっとも変ってないと、してやられた二人は痛感する。
「僕も生で食べた時は驚いたんですがね。酸っぱいのから甘いのまで、一つ一つが本当に味が違う。今二人が食べたのは、酸味が強い産地の実です。それも甘味が実に蓄えられる前に摘んだ若いものらしく、蜂蜜に漬けても相当酸味が強いようですね」
「ペイス、てめえ、知ってて食わせただろ」
「勿論、作る前の試食と味見は基本ですから。僕もその酸っぱさは経験しています。ただ、何で二人にそれを食べさせたか、分かりますか?」
笑みを消して問うて来る少年の目には、真剣な色合いがあった。
ただイタズラがしたくてやった、と言うわけでは無さそうなそれに、二人はしばらく考え込む。
が、所詮は子供の考えで思いつくわけもなく、降参と言ったところだ。
「パイに向く果物、というのは、実は甘すぎるものは不向きなのです。生食であれば甘味が強く、汁気の多いものが好まれます。しかし、香りと酸味が強く、果汁も少な目である方が、この手の調理には向いています」
ペイスが言うのは事実である。
アップルパイ等を作るのに紅玉が向いている、と言われるのが常識的であるように、より果実らしさを持っている味の方が、調理には向く。
まして今回ペイスがパイ生地に使ったのは、二人が褒賞に貰ったのと同じ大麦の粉。若干癖がある生地になる以上、包む具にはそれに負けないだけの個性を持たせる必要がある。食べやすい、と言われる果実は、裏を返せば癖が無いということ。無個性故の癖の無さ。調理する際には、それが却って欠点になる。
褒めるべきは、癖のあるもの同士を見事にバランスさせた調理の腕であり、その称賛は偏に銀髪の少年に向けられるべきもの。
そんなことはさっぱり分からない二人からすれば、ただ旨いものを親友が作ってくれた、というだけの事である。
初めて食べた果実の良し悪しすら分からないのに、パイへの向き不向きなど分かるはずもないので、額面通りに受け取った。
酸っぱいものの方が、旨いパイになるのだろう、と。
「人も同じだと、僕は思っています。色々な味、色々な個性があり、それをどう活かすかは職人の腕次第。マルク、貴方は今回の事で苦い思いをした。もしかしたら、心には酸っぱいものが残ったかもしれません。それは、ルミのお腹に傷が残ってしまったのと、全く同じです。一生消えることは無いでしょう」
「ごめん」
「マルクに言いたいのは一つ。僕は、君がどんな個性を持っても活かして見せるつもりです。今回の件、味に深みが出たと思い、胸を張ってください。反省は、今後に活かしてください。僕の部下になろうと言うなら、ですがね」
「なるさ。絶対」
「それでこそ僕の親友です」
マルクは、残っていたボンカを口に入れた。
やはり酸っぱくて、ほろりとこぼした涙は、味のせいだと言い訳をした。
親友が、一つ大人になった。
それを、ペイスとルミは微笑んで眺めた。
ついでに、ついと二人の目が合ってしまう。どうしても気になるのは、やはりルミの包帯姿。
「ルミの傷、やはり残りますか」
「らしいぜ。まあ男の傷は勲章って言うしな」
「ルミは女の子でしょう。もう少し慎みを持てと言われませんか?」
「爺ちゃんみたいに説教するなよ。でもそうだな、最後の一切れをくれるなら、傷の事を綺麗さっぱり忘れることにしてやるよ」
現金なものである。
木皿の上に、一切れだけ残ったアップルパイ風のボンカパイ。日頃、甘いものを食べることの無い田舎で、文字通りご馳走である。
祭りの時であってもこれほど美味しいスイーツが食べられることは稀である。子供が甘いものに目が無いのは、古今東西不変の道理であり、この場でも然り。
「ま、お見舞いですからね。良いんじゃないでしょうか。マルクも良いですよね」
「しかたねえよな」
まだ、僅かに語尾が震えるマルクではあったが、生来の気丈さを取り戻しつつあるらしい。
ようやく、気持ちを取り直した。そう見えた矢先に、爆弾が落ちる。
「怪我を忘れるってことにしないと、爺ちゃんがうるさいからな。責任とってもらって、マルクの嫁になれとか言われたし」
「なっ、嫁?!」
「あぁ、やっぱり旨え」
幸せそうにパイを頬張るルミの横で、何故かマルクは固まっていた。
その顔は、リンゴのように真っ赤になっていたのだった。
1章〆
ここまでお読みいただいたことに感謝します。
ご感想、ポイント、お気に入り等々、何らかのアクションをいただけますと作者は嬉しいです。
作者としては、読者の方の反応が、何も無いのが一番戸惑いますので。