119話 プロポーズ
「僕と結婚してください」
少年の真剣なまなざし。
相対する少女は、顔をリンゴのように赤らめながら頷いた。
小さく、はい、とだけ答えて。
この日、モルテールン家に一人、家族が増えた。
◇◇◇◇◇
前フバーレク伯の葬儀も滞りなく終わり、フバーレク領内が平静を取り戻している頃。
新しくフバーレク家の当主に就任したルーカスは、執務に追われていた。碌な引継ぎも無くトップが代わったため、領内の情勢把握だけでも一苦労。
「こことここ、何故税率が違っているんだ? 同じような家格のところで、こうも関税が違っているんだ。何か理由があるはずだが?」
「はて、少し資料を調べてみないと分からんです」
「頼む」
「承知です」
例えば、辺境伯領に接する多くの領地について、それぞれの領地からの荷物に別々の税率で関税を掛けていたことが発覚。新しく出来た幾つかの領地ともまた境が接するので、標準的な関税率というのを決めておく必要があるのだが、どこに標準を置くかで過去の税率の取り決めが政治的に意味を持ってしまう。
この税率の調整。前辺境伯どころか、前々代の当主から行われてきていた事らしく、何故そうなっているのかを聞かずにきた。
恐らくは領内での通行権や商業権に関わる利権の分配の結果だろうとは思われるのだが、何を基準にして、またどういう対価をもって今の税率に収まっているのかが現在のところ不明。
下手に事情を知らないまま関税を上げる。或いは下げるとすると、ことが他家に関わることだけに紛争の火種にもなりかねない。
落ち着くまでは現状維持が最善だろうと思われるのだが、維持するにしても事情の把握は必須。
或いは、今まで口約束で行ってきたことが全て消失している為、前代のドナシェルにこうこう言われてお約束しておりました、などという陳情が押しかかってきている。
口約束が本当だったのかどうかを確認するだけでも一苦労。中には、十年以上前にお互いの子供を夫婦にしようなどと言われていた、という捨て置けない者まで存在した。
死人に口なしとはよく言ったもので、中には口から出まかせを言いながら強弁し、あわよくば何か欠片でも配慮してくれれば、という強欲で恥知らずなものもある。
ルーカスは、今もまた溜息の数を一つ増やした。
「閣下、昨日指示いただいていたペトラ様の状況について、整理致しました報告が来ておりますが」
「ちょっと待て。この資料に目を通した後に聞こう」
領内の教会からの毎年の寄進についての資料を読み込んでいたルーカス。聖句の引用だの曖昧な比喩だのが多い教会の陳情は、気を抜くとあっという間に目が滑って、どこを読んでいたかも分からなくなる。確実に区切りの付くところまで目を通しておかないと、次に読むときにはまた最初からという事にもなりかねない。
キリの良いところまで読み進めると部下の報告を聞く。
「それで?」
「はい。ペトラ様は現在公爵家と婚約しておりますが、先方は既に婚約のお披露目までしていることもあり、約を違えるつもりはないようです」
「そうか、良かった」
サイリ王国の脅威が著しく減退し、フバーレク家の重要性もそれに準じて低下する今。軍家筆頭のカドレチェク公爵家と婚約しているペトラについて、婚約解消の噂が出ていたのだ。
ただでさえ東部では新旧の貴族たちを取りまとめる為に奔走しているのだ。ここで公爵家の後ろ盾という強力なカードを失うのは余りに痛すぎる。
それもあって、今後の指標として公爵家の思惑を最優先事項として調べていたのだ。
結果が良好であったことは喜ばしい。
「となると、後はモルテールン家……」
「頭が痛い問題ですぞ」
「分かっている」
ルーカスが父から引き継いだ遺産は幾つかある。
辺境伯家という爵位。それに付随する領地。フバーレク家の財産。そして、代々続いてきた歴史と、繋がりのある縁故。
それぞれに整理中ではあるが、もっとも悩ましいのが縁故だ。
財産目録のように数字で出せるのならば分かりやすいのだが、人付き合いの親密さ加減などは数値化できない。
血が繋がっていても仲が悪いことも多く、親族だからと油断も出来ないのだ。
「今、当家と婚姻の約を結んでいるのがカドレチェク家、グース家、クラップシュタイン家、そしてモルテールン家、だったな」
「はい。グース家とクラップシュタイン家は、婚約の破棄を視野に入れての関係再構築を匂わせてきておりますので、実質はカドレチェク家とモルテールン家の二つのみと考えてよいかと」
「カドレチェク公爵のところは現状維持で良いと判断する。問題はモルテールン家。当家としては、恩あるモルテールン家との婚約破棄などは出来ないわけだが……」
「東部の面々が騒ぐ以上、放置も出来ず、リコリスお嬢様を一旦引き取ることでお茶を濁すことにした。でしたな」
「そうだ」
東部の人間からすれば、顔が広い上に功績の大きいモルテールン家には、しゃしゃり出て欲しくない。だからこそ、露骨にモルテールン家の婚約破棄まで要求してきた家もあった。
一つ二つなら跳ね除ける事も出来ようが、纏まって連携されるとルーカスには手に余る。これから色んなことで協力を求めていかねばならない面々だけに、感情的なマイナスをもって外交関係をスタートするのはどう考えても悪手。
かといって、モルテールン家の婚約を破棄するなど出来ようはずもない。
ルーカスとしては、婚約はそのままに一旦実家に引き取ることで、東部の面々を宥める思惑があった。
彼とて一個人として、妹を政略の駒にすることに対する忌避感がある。だが、辺境伯家の当主としての責務を引き継いだ以上、そうも言っていられない。
私情を殺し、冷静になってお家の隆盛を図るのが義務だ。
「モルテールン卿はそれでよしとして下さった。ここまでは良いのだが……早速他所から手を突っ込んできた、ということだな」
「お嬢様が実家に戻られることを名目に援助、となっています。これを受ければ返礼を求められるでしょうが、返礼の中にリコリスお嬢様との婚約。つまりはモルテールン家との婚約破棄を含める交渉をしてくるはず。或いは、別の対価を要求されるか。ルーラー辺境伯などは馬を寄越せと言ってくるでしょう。馬を寄越すか、それとも婚約破棄か、と迫られれば、当家としては苦渋の選択となる」
「当家としては利権を手放すか、縁故を手放すかの二択になる、か」
「東部だけで利益を囲うのを見過ごせぬという事でしょう。弱いところから攻め、譲歩を要求してくるのは常道ですし」
「援助をそもそも受けずに突っぱねる、というのは有りか?」
「他家はいざしらず、当家は戦後の出費が嵩んだ上に領内が荒れた。今、援助を跳ね除けるならば、先々でより不利な立場になるでしょう」
戦争や災害からの復興とは、初動が大事。三分、三十分、三時間、三日、三ヶ月がそれぞれのリミット。
例えば三日というのは、統計的に知られた生存救出率の壁であり、これを過ぎると災害時に生きて救出される可能性が極端に低下する。
或いは、三ヶ月というのは人が人らしく生きる為の、理性のリミット。極限の状況下で、人間が社会性を維持できる限界。
この手の時間的な壁は何処の世界も大して変わらない。戦後のフバーレク領にしても、数か月以内が一つの大きな山場。
どんな家でもいざという時に備えて蓄えの一つや二つあるだろうが、それとて何年も保つわけではない。大体の目安として、ひと月分程度を蓄えてある家が多い。何も収入が無い、或いは出費が嵩んだまま数か月も過ごせば、ほぼ全ての家が素寒貧になる。
そうなれば餓死者、難民、盗賊、暴徒と問題が起きるし、一度そうなってしまえば元に戻すのには恐ろしく手間と費用が掛かる。餓死者が一人出れば、それを取り戻すのに十年以上の時間が掛かるわけだし、難民が戻ってくるには今以上の待遇でなければ戻りたがらない。盗賊は討伐するしかないし、暴徒は言わずもがな。
如何に、最初期の支援が重要か。ルーカスとて辺境伯家の嫡子として教育を受けてきた身であり、この重要性を見落とすほど間抜けではない。
人が居なくなってしまったところで、さあ支援しましょうと言っても無駄。人々がまだフバーレク領に居るうちに支援が必要。
だが、無い袖は振れない。
援軍への報酬や、戦費として膨大な出費があり、代わりに得たものは大したものが無い。目ぼしいものは援軍の手柄として分配されたのだから。
「家の美術品を売り払って金を作るか?」
「商人は利に聡い。ここぞとばかりに足元を見て来るでしょうな。第一、そんなことをすれば物笑いの種になり、一層求心力が低下する。東部の連中などは尚更強気になるでしょう」
「借財はどうだ?」
「借りを作るのは変わりませんよ? 貰うのも借りるのも、当家が困っている時なら大して変わらない。利息も暴利をぼったくるから、結局後で困ることになる」
今年の収穫や諸々の収入もあるのだから、一年後ならばなんとかなる。それだけ辺境伯家の地力は高い。だが、問題なのは今。幾ら将来的にお金になろうとも、今現金が無ければ早々に領地経営は行き詰る。
ここ数ヶ月以内にかなりまとまった大金が必要。しかし、現時点で金庫の中は寒い。
諸家から申し出てきた援助はどうしても欲しい。喉から手が出るぐらい欲しい。
だが、この援助が借りになるのは明らかで、後々なにかと恩着せがましく利を要求してくるのは間違いない。つまりは、毒入り饅頭であることが明らか。
食べねば死ぬ。食べても死ぬ。
こういう時、父ならばどうするのだろうかと、ルーカスは今更ながら辺境伯領を取り仕切っていた親の偉大さを感じた。
「モルテールン家の問題。例えば、私の娘をリコリスの代わりに婚約させるというのはどうだ? 当家との繋がりはより強固になりつつも、リコリスの婚約を撤回するということで援助も受けやすくはならないか?」
「愚策でしょう。リコリス様との婚約が解消された時点でモルテールン家としては、あえて改めて、当家と婚約する意義が無い。ジーベルト侯爵、レーテシュ伯、カールセン子爵、ボゴン伯爵などはこぞって娘をモルテールン家に宛がうでしょうね。一度婚約を破棄したという弱みを抱える当家が、これらと競って勝てますか?」
「無理だな」
「今のリコリス様との婚約は、先代の遺産です。別の婚約を宛がうのなら、競り合いと出費は必然」
「なら、どうすれば良いのだ」
ルーカスは溜息をまた一つ増やした。
彼は既に結婚していて、まだ二つになったばかりの娘が居る。これをモルテールン家に嫁がせる代わりに、リコリスとの婚約は撤回する。
フバーレク家としてみるならば、二親等の妹よりも直系一親等の婚約の方が重い。
援助を得つつも繋がりを深める良い手だと思ったのだが、部下には即座に否定された。
それもそうだ。リコリスがペイスと婚約したのは、フバーレク家が権勢を奮い、モルテールン家が貧乏所帯であった頃の話。ペイスの規格外っぷりや、モルテールン家の隆盛が明らかになる前のこと。
今、改めて仕切り直すとするならば、モルテールン家からすればあえてフバーレク家を選ぶことも無い。むしろ、他の好条件を選ぶべき状況。
今まで年単位でモルテールン家の面々と真心の交流してきたリコリスだからこそ、今でも大事にしてもらえているのだし、それがあるからこそ、モルテールン家に縁者を押し込めたい家は、リコリスを何とかして引き離そうとする。代わりなどあり得ないのだ。
「閣下、よろしいですか」
「ん? 何だ?」
部屋に、部下が入ってきた。
「閣下にどうしても今、面会したいとおっしゃる客人が来られておりますが」
「何? どこのどいつだ。この忙しい時に」
「それが……モルテールン家のペイストリー様でして」
「本当か!? それは、追い返すわけにもいかんな。よし、会おう。おおそうだ。折角ならリコリスも呼んでやれ。自分の部屋に居るはずだからな。あいつも恋人が来たとなれば喜ぶぞ」
ルーカスは、応接室で客人を迎える。
以前にカセロールと話し合った部屋であり、上客を迎えるのはここと決まっている部屋。部屋の中では、既にペイスがくつろいでいた。
「お待たせして申し訳ない」
「いえ。お忙しいところを前触れもなく押しかけたのは僕ですから」
「先日は色々とご助力いただき感謝しております。お父君の怪我の具合は如何でしょう?」
「特に日常生活に支障はなく。今まで通りに過ごしておりますよ」
「それは良かった」
「お気遣い頂き恐縮です」
社交辞令のやり取りから始まる二人の会話。
いきなり本題から入ることも無いので、差しさわりの無い、世間話がしばらく続く。
「もう少ししたらリコリスも来ると思います。女性は身支度に時間が掛かるものだから、それまでに用事を済ませておこうと思うのだがどうだろう」
「構いませんよ」
「ならば、今日来られた用件をお聞きしたい」
供応の為に出されていたお茶。口を付けていたカップを皿の上に置き、ペイスは要件を切り出した。
「本日お伺いしましたのは、他でもない、僕とリコリスの婚約について。どうやら、婚約の破棄を視野に入れて居られるご様子でしたので、対応については当事者として、聞いておきたいと思ったのです」
「……お耳が早いですな。お父上からお聞きになりましたか?」
「いいえ。父は何も言いません。しかし、リコリスが実家に留め置かれて僕だけがモルテールン領に戻されたことや、今の御家の状況を推測すれば、大よそのことは見当が付きます。そこで、父に無断でこうしてまかりこしたのです」
「ほう」
ペイスは流石に賢いと、ルーカスも頷く。
噂には聞いていたし、戦場での活躍は目にしていたが、実際改めて面と向かって会話すれば、先見性の高さや推察の確かさなど、うなるものが有る。
「僕もいささか目立ち過ぎたようで、我が家に対してもあの手この手で懐柔しようと謀る者が居る。そこから察するに、恐らく御家にも甘い話が来ているのでは?」
「お察しの通りです。当家に対して援助を申し出て下さるところは多い」
「そして、これも推測ですが、その援助の申し出を断りたくても断れない状況に置かれようとしている……違いますか?」
「……」
自分の家の台所事情が苦しいなどと、他家の人間に言えるわけが無い。
言えるわけが無いのだが、平静を装って隠し立て出来るほどの経験が、ルーカスには不足している。
急に無言になっただけでも、正解だと自白するようなものだ。
「あえて真正面から聞きます。ルーカス殿は、リコリスと僕の婚約を、フバーレク家当主として破棄するつもりですか?」
ドが付くほどの直球な問い。ルーカスも言葉を失った。
まさに今、それについてしきりに悩んでいるところであったので、思い切ってそのままを伝えることにした。
「正直、迷っております。モルテールン家には恩もあれば感謝もしている。第一、リコリス本人が貴君を好いているのは明らか。兄としても、また一家の主としても、出来れば貴君との関係をそのまま祝福してやりたい。これが本心だ。しかし、当家の置かれた状況が、それを容易には許してくれない」
「……状況? 具体的には?」
「金が無い。この一言に尽きる。当家とて曲がりなりにも辺境伯家。それなりに収益はある。が、先の戦争から復興する為にも、至急にまとまった金が要る」
「経営が黒字でも金回りが悪ければ倒産する。キャッシュフローの問題というわけですか。世知辛い」
「キャッシュフローという言葉はよく分からないが、黒字でも金回りが悪いという状況はその通りだ」
目先の金が無い為に、黒字であるにも関わらず倒産する企業というのは今の日本でも珍しくない。
戦争という非常事態の為になりふり構わず蓄えを吐き出して出費し、結果として今手元に現金が無いフバーレク家。目の前にある急場さえ乗り切るだけの現金があれば、リコリスとペイスの仲は心から祝福する、とルーカスは言う。
「ならば、僕から一つ提案があります」
「ん? なんだろうか」
「当家からまとまった金額をお渡しするというのはどうでしょう。そうすれば、兄として僕たちの仲を認めて下さるのでしょう?」
「馬鹿な。一体何の名目があってそんな真似。カセロール殿が許さないでしょう。第一、当家としても単なる施しを受ける気はないが?」
「大義名分があれば良いのですよ。そう、例えば“結納金”というような名目が」
ペイスの言葉に、ルーカスはぎょっとする。
言われて初めて、目の前の少年が、既に成人しているのだと思い出した。本来なら、一番最初に気付くべき可能性であったのにと。
リコリスが、おめかしして恥ずかしそうに部屋に来たのはそんなタイミングだった。
「リコ」
「ペイスさん!」
改めて顔を合わせると、リコリスは恥ずかし気に顔を赤らめる。
兄の前でいちゃつくほど恥を捨ててはいないし、かといって嬉しくないわけでも無い。何とも微妙な状況なのだが、それを意に介さない男がペイスという男でもある。
彼は、リコリスの前にそっと跪いた。
そして真剣な顔で一言。
「僕と結婚してください」
少年の真剣なまなざし。
相対する少女は、顔をリンゴのように赤らめながら頷いた。
小さく、はい、とだけ答えて。
この日、モルテールン家に一人、家族が増えた。
……モゲろ