113話 反撃の策略
「敵、撤退していきます」
後軍を徹底的に奇襲されたことにより、サイリ王国軍が総撤退を開始した旨、伝令からの報告があった。
恐らくは占領している砦のいずれかに引き返して態勢を整える腹だろう。
しかし、何にせよ勝利は勝利。
最後の最後まで追い詰められていた者たちは、残るありったけの力を込めて吠えた。
「うおぉぉ!!」
「ルトルートの奴らめ、俺たちの力を思い知ったか!!」
散々に負かされて領都まで引いたフバーレク家の一軍は、ようやく一矢報いたことに満身創痍ながらも喜んだ。
無論、この功績が何処にあるのかは分かり切っている。
「モルテールン卿、並びにお歴々の皆さま、ご助力感謝致します」
「フバーレク家に助力するのは、友家として当然のことです」
一旦敵が引いたことで、全軍の指揮官だったフバーレク家の嫡男が、モルテールン家を筆頭とする援軍諸家に挨拶に来る。どこか肩の荷が下りたような顔をしているが、それもそうだろう。もし城壁を守り切れていなければ、彼の身の安全は保障されるはずも無かったのだから。
最後の一線を守り切った男の安堵した表情。
挨拶を代表して受けるのは当然、モルテールン家の筆頭問題児。
援軍のメインであったモルテールン家の当主が、怪我の為安全な場所に避難させられており、この場に居る中で唯一モルテールン家当主代理が務まる人間。
一策を用いて敵を撃退せしめた功績もあり、色々と問題も多いが手柄も多い。彼が代表して挨拶することに異を唱える者は居なかった。
仮にいたとしても、高位貴族が皆異論を挟まない以上、口出しはしない。
「貴方がたのおかげで命拾いしました。心から御礼を言います。しかし、御父君が負傷されたことが残念です。我々に出来ることであれば何なりと言って下さい」
「戦場に立つ以上、父も覚悟あってのことですが……お心遣いはありがたく頂戴します。さすれば一つお願いが」
「何でしょう」
お家の主力を損なってまで助力してくれたのだ。大抵の無理は聞くつもりで、フバーレク辺境伯子ルーカスは尋ねた。
常識的に考えれば、報酬とは別に治療費を払って欲しいであるとか、被害に見合う利権を寄越せといったところだろうか。仮にそうであっても、誠意をもって応える覚悟は出来ている。
もっとも、領地の大半を蚕食されている現状で金を払えなどと言われても無い袖は振れないのだが、いずれにせよ、まずはどれだけの請求書が回されるかだけでも聞いておきたい。
常識的な要求をあれこれ予想する青年。
しかし、その予想は裏切られる。
「でしたら、御家の残存兵力と物資をお借りしたい。そして今後の援軍を含め、全ての兵権をお預け願いたい」
「何ですと!!」
ペイスの申し出に驚いたのは、ルーカスだけではない。援軍として参列している南部閥の面々も同様だった。
兵権を預けるということは、生殺与奪を全て任せるという事。自分たちの領軍を、他人にそっくり預けてしまうということなのだから、驚かずにはいられない。
「ペイストリー殿、横から口を挟んで申し訳ありませんが、そのようなものを他人に渡すわけにはいかないと思います。少なくとも貴族家当主としての常識から言えば、他人に軍を預けるのは、自分が自分の軍に害される危険を含む重大な決断。もしも軍を必要とされているのならば、参謀の長にでもなって、意見を優先的に通すだけでも良いのでは?」
「それでは駄目です。優先的に、では駄目なのですよ。全てを必ず、という状況でなければ意味が無い」
ウランタの常識的な意見は、ペイスに即座に却下される。
「ならばせめて、何をするのか、何時まで指揮権を振るうのか程度は知りたいものです。ルーカス=フバーレク卿も同じだと思いますが」
「ボンビーノ卿のおっしゃる通りです」
「ふむ、それもそうですね」
御年九歳の子供に、軍事の指揮権を全て預ける。ましてやそれが、大軍がまたすぐにでも押し返しそうな中で。
普通ならばこれに頷くなどは狂人の所業だが、ことペイスに限ってそんな常識などには当てはまるはずも無い。
それを知るだけに、困惑するルーカスに代わってウランタが口を挟んだのだ。政治的な匂いがする為、セルジャンなどは黙って傍観している。
「一体、何をするおつもりですか?」
「ルーカス殿もおかしなことを聞きますね。戦時に兵権を預かる人間が行うのは、いつだって戦って勝利を得ることです。それ以上も、それ以下も無い」
「勝利ならば挙げたばかりではないですか。ペイストリー殿の策によって、大勝利です」
十分の一にも満たない戦力で、万を超える敵軍を撃退したのだ。勝利というなら、これ以上満足する戦果はあり得ない。
そうウランタやルーカスは思っていたが、ペイスは首を横に振る。
「笑止です。あんな小細工で、勝った負けたと一喜一憂していては話になりません。第一、敵の数を減らしたわけではない以上、態勢を整えられればまたすぐにでも押し寄せてきます。そうなれば、辺境伯不在の上に主力を失い、士気も兵数も劣る此方が圧倒的不利。これでは勝ったとも言えないでしょう。せめて、盗られた領土を奪い返すぐらいはやらねば、勝利とは言えない」
自信満々のペイス。その瞳には決意があった。
彼とて、指揮権を寄越せなどというのが非常識な要求であることは百も承知なのだ。それでも尚、尊敬すべき父や、生まれたときからの知己であるシイツを痛めつけられて、心穏やかでいられない事情がある。遠慮せずとも良いというお墨付きもある。
自重する気などさらさらなかった。さっさと指揮権を寄越せと詰め寄っている。
これを見ていたモルテールン家の面々はあきれ顔だ。
こういう時のペイスが聞く耳を持たないことは、モルテールン家の常識。
「大将も大怪我で、シイツさんまで動けないってのに、うちの若大将はまだ何かやらかすつもりだぞ。またぞろ悪だくみしてる顔になってらあ」
「あの人は人使い荒いからなあ」
「俺、ホント仕官先間違えた気がする」
「敵は怖くなくても若様のあの顔は怖いっす」
どこぞのイタズラっ子の非常識には慣れている面々は嫌がっているが、辺境伯子ルーカスには違って見える。
英雄の子。妹の婚約者にして若き英才。天才の名も聞く俊英。そんな傑物が自信あふれる姿勢で口にしたのだ。何かとんでもない自信の裏付けがあるに違いない、と考えた。
「モルテールン卿。貴君に我々の命を預けるとすれば……いや、預ける。だが、我が家にとってももはや欠かせない残存戦力だ。守りを欠かすわけにもいかぬ。出来るだけ損耗は少なくして頂きたい」
「損耗? 無用な心配ですね。あの程度の雑魚相手なら一兵も損なう必要は無い。とりあえず見ていてもらいましょう。心配が杞憂であったとすぐに分かるでしょう」
何を考えているのかさっぱり読めないペイスの様子。
ルーカスは、狐に化かされたように呆けるのだった。
◇◇◇◇◇
ルトルート辺境伯ジェレッドは、悔しさを噛みしめながら占領地へ行軍していた。
いや、行軍といえば聞こえはいいが、客観的な見方をするなら敗走だ。
食料も精々が一晩分ほどしかない状況の中、兵は速足で歩いていた。夕暮れの中、ザクザクと変わらない二拍子のリズムで、皆足を動かす。体中から焦げた臭いや汗の臭いがするのも厭わず、ただ急いで早歩き。偉い人間が馬上にあるのを恨めしそうにしながら。
「してやられましたな」
「もう一息でフバーレクの息の根を止め、モルテールンの害虫を駆除し、神王国に引導を渡せるかと思っていたのだが。中々ままならんものだ。神はよほど試練がお好きと見える」
馬上の面々が愚痴をこぼす。そうでもしなければ、呪詛が漏れそうだったからだ。悪態で済ませられるうちは、まだ余裕があるともいえる。
「この先、砦が幾つかあります。ヴォライン伯爵、ポーロー伯爵、アンジェルシア子爵の三隊がそれぞれ二千づつの手勢で守っておりますれば、ひとまずそこまでお引きいただき、軍を整え、再度の領都奪取を図るべきかと」
「うむ。それは俺も考えていた。ここからならばどこが近い?」
「ヴォライン伯爵の所でしょう。このペースならば一日弱で着きます」
「ならばそこに行こう」
ルトルート辺境伯は、今回の侵攻作戦に当たっては乾坤一擲の力を込めていた。総力を挙げてフバーレク家を潰し、絶対に勝つと必勝を期していた。何故ならば、外交的・戦略的に極めて不利な状況に陥りつつあったからだ。
敵であるフバーレク家は、公爵家の後援を得て外交的な足場を着々と固め、更には軍事的にも小競り合いに勝利している。戦備増強にも抜かりが無かった。刻一刻と不利になっていく、ジリ貧と言うべき状況。
ことここに至っては生きるか死ぬかの決戦を挑むと、魔法使いを破格の待遇で雇い、かなり無理した徴兵で兵数を揃え、近隣諸領にも気前よく利益を提供して兵を出させ、優秀な参謀と共に綿密な作戦を練りに練った。物資についても金に糸目を付けずかき集めたし、傭兵だって同じようにした。
その甲斐あってか、野戦での勝利に始まり、電撃的に連戦連勝を重ねてフバーレク家を領都まで追い詰めたのだ。
あとほんの一押しというところで邪魔されたことに、忸怩たる思いがある。
だがしかし、現状を見れば決して悲観することも無い。
準備は入念に整えただけあって、本国から占領した砦までの補給路は確保してある。幾らモルテールンやフバーレクでも崩せぬと確信できるほどの防備もあった。
一戦場で兵糧を喪失したところで、砦までたどり着ければまた改めて領都を攻められる。
全体的に戦況を見るなら、十対ゼロだったものが九対一になった程度のこと。
「慌てることは無い。指揮官が慌てればそれで軍は動揺する」
「ごもっともです」
辺境伯も戦場の人。用兵の機微も多少は知る身。
馬だけならば数刻。徒歩であっても休みなしで急がせれば半日強で砦に着ける。余裕を見て一日という側近の意見は正しい。
「全軍に停止命令、一旦休憩を取れ」
「よろしいのですか? このまま追撃される可能性も……」
「馬鹿な。敵は寡兵だ。我々が後退するのは大事をとってのこと。我々にも余力のある今追撃してくるのなら、返り討ちにするまで。それよりも、このまま急がせ、体力の差や足の差でばらつきが出ることが怖い。無いとは思うが、陣形が長細く長蛇に伸びたところで横っ腹に奇襲、というのも有り得る。相手にはモルテールンが居るからな。今までも数人を連れて奇襲ということがあった。数十、いや数百ぐらいの奇襲は有り得ると考えて備える」
「分かりました」
ルトルート辺境伯も慎重な判断をした。
神王国の本隊が大軍で押し寄せてくるまで早くて二週間。遅くとも一ヶ月程度。
それまでに堅固な城壁都市である領都アルコムを奪取出来れば、自軍は万を超えるだけに十分に対抗できる。急場で足並みの揃わない神王国軍ならば、逆撃すら可能。
だからこそ、ここでしくじるわけにはいかない。今、優勢な状況は明らかなのだ。領都奪取は急ぎたくも、落ち着いた確実な行動が求められる。
そんな主人を、部下たちは皆尊敬の目で見る。
自分たちの主人は、戦場の勝ち負け以上にもっと高い視野を持っていると。
一時間ほどの休憩で、全軍の足並みは揃った。
辺境伯は一瞬、このまま取って返せば面白いか、とも思ったが、まずは万全の態勢を再編すべきと考えて腰を上げる。
辺りはすでに日が落ちて暗くなっている。これから移動して、砦に着くのは深夜になるか、と考えた。
「夜襲を警戒すべきだな」
「何かおっしゃいましたか?」
「いや、独り言だ……ん?」
さあ出発しようとしていた矢先。慌てたように走ってくる小柄な男が居た。
見慣れない風体で、子供のような風にも見えたが、顔立ちは厳つい。身に付けているものはマルレーニ伯爵軍のもののようだった。
「待て、それ以上は近づくな」
当然、辺境伯の近習は止める。自分たちの信頼している者以外は近づけさせるつもりはない。
押しとどめられた小柄な男は、そのまま跪いて頭を伏せ、声を絞り出す。
「我が主マルレーニ伯より伝令。敵軍が此方に向かってきております」
「何っ!!」
馬鹿な、と思わず叫びそうになったジェレッド。軍の最高責任者として、心の中で三つ数えて落ち着きを取り戻す。
「それは確かか」
「分かりかねます。私は今申し上げたことを閣下にお伝えするようにとだけ言われましたので」
「そうだな。伝令の人間が状況を掴めることも無いか……おい、奴を呼べ」
状況を確認しようと思えば、ジェレッドには良い手がある。大金で雇っている【鳥】の魔法使い。鳥の目を使うことも出来る為、偵察にはもってこいの能力。
「お呼びですか?」
「うむ。ここに敵が押し寄せてきているとの報告があった。貴君の力を借りたい。偵察は可能か?」
「……難しいです。時間が時間ですので、あまりはっきりしたことは分かりませんが?」
「むう……仕方がない。それでもかまわないからやってくれ」
鳥の多くは、暗い中では物を見ることが上手く出来ない。ニワトリなどはその典型だ。
夜行性の鳥としてはフクロウ等も居る為、全ての鳥がそうというわけではないが、夜間の視界が極端に悪くなる鳥は多い。
鳥使いと知られる魔法使いも、鳥については専門家。予め断ったうえで、夜でもまだ使える鳥で偵察を行う。
昼間ほどとはいかないまでも、おぼろげにあたりの様子が見える。すると確かに辺境伯の方に向かって急ぐ集団が見えた。
「確かに、何者かが此方に向かってきます」
「数は?」
「千は超えていますが、万は無いでしょう。大体二千と言ったところでしょうか」
「ならばフバーレクの残兵に違いない。我々が指揮しない軍で、我々がここに居ることを見越し、更にはそれだけの数を纏める。奴ら以外にあり得ない」
「しかし、敵は城内に閉じこもっていたはず。どうやってです?」
「分からん。が、我々の後方を乱した例もある。恐らく奴等の切り札に相違ない」
ルトルート辺境伯も歴戦の名将。フバーレク家を相手に長年戦ってきた古強者。状況判断は早かった。
魔法なのか伏兵なのか。どちらにしても自分たちが命令を出していない軍となれば敵と思われた。
「ならば、これはチャンスだ」
「は?」
「奴らは、これを決戦として奇襲を掛けてきたのだ。狙いはこの俺の首。芸の無いモルテールンの入れ知恵だろうが、劣勢の立場なら逆転の手は俺の首を狙うのが一番。向かってくる二千騎は恐らく精鋭だ。逆にこれを討ち果たせば、奴らの戦意は折れるに違いない。すぐに迎撃の準備だ!!」
辺境伯の指揮のもと、疲れた体に鞭打って迎撃の態勢を整えたサイリ王国軍。
幾ら撤退行動中とはいえ、余力はまだまだある。数千の小勢など一飲みにしてくれると、手ぐすね引いて待ち構えた。
やがて、やってくる軍集団の影が見え始めた。
暗くてはっきりとは見えないと目を凝らしていた所、向こうから矢が一本飛んできた。かなり手前に落ちたが、明確な攻撃だ。
「ええい、突撃だ!!」
矢の補給も無い現状。残り少ない矢玉を消費したくは無かった。
止む無く、盾を構えての突撃となる。向こうも慌てたのか矢をしきりに放ってくるが、兵の数が違うのだ。やがて辺境伯が狙った通りに乱戦になる。
お互いの兵が乱れ合うのであれば矢は使えない。これで一気に潰す。
そう考えていた辺境伯。しばらくすると、不自然な状況に気付いた。
「待て、待て。我こそはジェレッド= メレデレク=デ=ルトルートなるぞ。お前たちは何者か!!」
「何!? ルトルート閣下だと。止め、攻撃止め!!」
暗闇の中、お互いの攻撃が止まる。
自ら辺境伯の元に近づく一騎は、大声で自分はヴォライン伯爵であると名乗った。
砦を守っているはずの伯爵が、何故自分たちを襲ったのか。
辺境伯は、頭に血を昇らせながらも伯爵を呼ぶ。そして、いきなり大声で叱責した。
「何故我らを襲ったのか!! そもそも卿らには砦を死守せよと命じたはずだ!!」
「は? しかし、マルレーニ伯が砦まで供の数騎と一緒に来られ『味方は敵の軍によって壊滅。辺境伯も敗走であるから、直ぐに全軍で救援に向かえ』とおっしゃられたので。我々は一大事と思い、駆け付けてきたのです」
「マルレーニ伯が? 馬鹿な。つい先刻まで最前線におった。あり得ん話だ」
「しかし、顔も確認しました。確かにあれは伯爵閣下でした」
ヴォライン伯爵は自分でも伯爵の姿を見たという。何度となく目にしている人間の顔だから、間違いないと。
しかし、それならば城壁でフバーレク家やモルテールン家相手に奮闘し、先ほども先陣を切って突撃していったマルレーニ伯は誰だという話になる。
今だって、戦いの後始末に陣頭指揮で動き回っているのだから、伝令に出向くわけが無い。
「……まあそれは後で伯に聞こう。それで、我らを襲ったのは何故か?」
「はじめは様子を見ておりましたが、そちらが襲って来られたので……これは敵に違いないと」
「そちらから弓を打ち込んできただろう」
「私は命令を出しておりませんし、そんな事実も確認しておりませんが……暗い中で逸った兵が居たのやもしれません」
「何たることだ。我々は無用な同士討ちをしていたのか」
味方同士で争う同士討ちほど悲惨な戦いは無い。大義も無ければ功も無い。徒に損耗と疲労のみを重ねて、得られるものは皆無という最悪の戦い。
「それで、補給物資はどの程度持ち出したか? 特に食料は、我らも手持ちは無いぞ」
「それが……とにかく急げと言われましたので」
「何も持ち出さずに来たのか!!」
「いえ、矢や武具ならばそれなりに持ち出しましたが」
「そんなもので腹が膨れるかっ」
ここにきて、ついにルトルート辺境伯も感情を爆発させた。触るな危険の爆発物状態にある辺境伯。だが、それでも言うべきことを言うのが参謀の役目と、一人の近習が口を開いた。
「閣下、こうしてはおれませんぞ」
「何?」
「話を整理するなら、砦は今、空っぽの状況。騎兵だけでも急がせ、早急に守りを固めねば。今、本当にフバーレク家の追っ手が来れば、我らは飢えたまま戦わねばなりません。負けるとは思えませんが、絶対に有利とも限りません」
「クソがっ!!」
参謀の言う通りの状況だと、理解するだけの能力を持つ指揮官。伊達に一軍を率いているわけではない。
手近なものに一通り八つ当たりしたところで冷静さをほぼ取り戻し、騎兵のみを砦に先行させた。
この時は、それが最善の判断と誰もが思った。
だが、二刻もすれば最悪の判断であったと気付く羽目になる。
「閣下!!」
「……その姿は如何した。何故ポーロー伯爵が居る!!」
「面目次第もございません」
ポーロー伯爵は、二番目に近い場所にある砦を守る将。後方の補給路を遮断するのは兵法の常道であるため、特に守りを固めるよう言いつけてあったはずだが、何故か戦場に居る。
ことここに至って、辺境伯の怒りは怒髪天を突く。
「閣下、御怒りを御鎮め下さい。事情を聞かねばなりません」
参謀が冷静に話を聞いたところはこうだ。
一番近い砦にルトルート家の騎兵が急行していた所、砦が敵に襲われて危険だから援軍を出すようにと知らせを受けていたポーロー伯爵と接触。双方が互いに敵と誤認したためにまたも同士討ちが発生した。不幸中の幸いだったのは、一度同士討ちを経験していた側がそれに気付けたことだった。十騎の騎兵と三十人ほどの死傷者で済んだのは、先の同士討ちに比べれば軽微な被害と言える。
そのポーロー伯爵が言うには、ルトルート辺境伯本人が援軍に向かえと、顔に包帯を巻いたボロボロの姿で言いに来ていたとのこと。
最早疑う余地も無く、敵の策略である。
「全軍!! 全速で砦に向かう。足が折れても構わん。駆け抜けろ!!」
敵の策略となれば、砦は危うい。砦にまとまった兵力で籠られれば、自分たちは飢える。戦場での勘が、辺境伯に危機を告げていた。
一番近い砦に着いた時。最も驚いたのは、いつの間にか堀が一重増えていたこと。
更には、人影らしきものが砦のあちらこちらにある。
どういうことかと様子見に走らせた騎兵。不幸な彼は、砦の方から飛んできた矢に“片目”を射抜かれて倒れた。
射手の横には、小柄で子供のような影。
「サイリ王国軍に告げる!! ここは元よりフバーレク家の物。我らフバーレク家に助力し、侵略者を退けんと駆け付けた正義の軍なり。勇兵五千を相手にしたくば、掛かってこい!!」
何を猪口才な、と辺境伯は突撃命令を出そうとしたが、それは参謀に止められた。
ただでさえ頑強な砦に、新たな堀まである。そこに五千もの兵が立てこもっているのなら、攻め落とすにもどれだけの犠牲が必要か分からない。今後の反攻を考えても、ここで兵を損耗するのは愚策と言われる。
その意見は正論である。
辺境伯は、悔しさと怒りに震えながらその場を離れていく。
冷静さを失っていたせいだろう。
その場の誰もが、砦の人影が風に吹かれて動いていることにも気づかなかった。