104話 新作
血気盛んな若者。それも、才気溢れる人間にとって、年老いた人間こそ社会の害悪であると思いがちだ。
老人たちを罵る言葉に老害という言葉を使い、自らを鼓舞するに俊英才器と自賛する。
これは正しいのか。
否。
才能豊かな人間は、自分を絶対視しがちであり、それ故に見落としがちなことがある。
それは、経験の重要性だ。
老人が考える危惧について、自己の経験不足故に見落とし、或いは軽視し、老人たちが迂遠な手段を取る愚か者に見える。
人間は失敗から学ぶ。最初から全知の人間など居るわけが無い。
だからこそ、より多くの失敗をしてきた経験値は、才能だけで補うには不足。経験を埋めるのは経験でしかない。
とりわけ、前世の経験ですら意味を持たないとなっては九歳児は九年相当の経験しか持ち合わせていない。
すなわち、姉の暴威に対処する経験である。
「ペイス、こっちの青はどうかしら?」
「姉様、それで服を作るなら、グッと落ち着いた雰囲気になります」
「むふふ、あたしにぴったりよね。あぁでもこっちの赤いのも捨てがたいのよね。どう思う?」
「素敵ですね。活動的で明るい姉様の内面をよく表していると思います」
ペイスとジョゼの姉弟二人が、護衛と共に居るのは王都。
それも、多くの貴族が贔屓にする王家御用達の大商会のホーウェン商会。
王都の貴族街の中にまで店を構えており、二人はそこの一室にいた。部屋の中は暖かいを通り越して暑いほどの熱気であり、華やかな雰囲気。
このホーウェン商会で主に扱うのは服飾品と装飾品。王都においては、貴金属や宝飾品の類はこの商会を通さずに手に入れるのはほぼ不可能とまで言われるほどのシェアを持ち、それに加えて王城に出入りするほどに信頼の厚い商会。
ハサミや針を持って貴人に近づく服飾関係者は、医師や料理人に次いで暗殺などのリスクを背負う。それだけに信頼こそがとても重要なパラメータ。王家御用達のブランドは、何よりも信頼の証となるだけに、商会は毎日賑わいを見せる。
布職人や細工職人も多く抱え込んでおり、ホーウェン商会こそ最も格式のある衣装の大店と衆目の一致するところ。
「やっぱり、メインの布はこっちにするわ。薄い黄色が素敵じゃない?」
「ええ、とても似合うと思います」
ここ二時間ほど。ジョゼがあれこれ衣装を見繕い、それにペイスが付き合うという光景が見られた。
今、ようやくメインの布地の選定が終わったところである。
「……ペイス、もしかして疲れた?」
「いいえ。まさか」
「そうよね。あたしの約束をすっぽかした代わりだものね。これぐらいで疲れるわけないわよね」
「勿論です姉様……はぁ」
ペイスの悪癖と呼べるものがあるとするならば、お菓子のことに夢中になると我を忘れることである。
それもあって先日、砂糖づくりに熱中するあまり、ジョゼとのお茶会の約束をすっぽかしてしまったのだ。
常日頃から忙しく、ここ最近はまともに女性陣と会うことも無かったペイス。久しぶりのお茶会ということで張り切って準備をしていたジョゼであるから、すっぽかされたと分かったときはこれ以上ないほどに不機嫌になった。
散々謝り倒し、何とかご機嫌を直してもらおうと奮闘した結果、ペイスが一日ジョゼの買い物に付き合うということになったのだ。
勿論、出費は全てペイスのお小遣いとヘソクリと隠し財産からである。
慣れないことに付き合っているため、先ほどからペイスの顔には明確な疲労が見えている。それでも笑顔を崩さずに姉に付き合うだけ、姉弟の面白さがあった。
「布はこれで良いとして、デザインはどうした方がいいかな?」
「お嬢様、それでしたら腰の辺りで大き目のリボンをあしらい、腰から下の部分には花の刺繍をするのが良いと思います。こちらに見本がございますが、如何でしょう」
ジョゼとペイスは一応は貴族の令嬢と令息。それも、れっきとした成人貴族。
失礼があってはならないと、部屋の中には十人以上の人員が詰めていた。
うち一人は先ほどから生あくびでつまらなそうにしているトバイアム。これは護衛だ。
残りがホーウェン商会の針子達。
ジョゼに声を掛けてきた女性もその一人。どうやらお針子の中心人物らしく、他の人間は彼女の指示に大人しく従っていた。
お針子とは、服を作るに際して必要な針仕事を生業とする人間のことで、繊維産業や服飾産業が機械化されていない社会では重要な職業の一つ。家が生計を立てる最小単位となっている場合、女性が家庭内で担うことも多い。
女性の社会進出が極めて少なく、女性の権利の多くが制限される神王国の社会でも、針子は女性の進出が進む職業の一つ。
羊飼い、羊毛生産、仕立て屋、仕立て直し職人、梳毛職人、縮絨職人などは男の方が圧倒的に多いが、糸紡ぎ、針子、刺繍などは女性の仕事とされている。それだけに、手に職を付ける手堅さという意味で、女性の嫁入り修行に刺繍が含まれていたりするのだが、ジョゼはこれが大の苦手である。
「刺繍……ペイスぅ」
「そんな泣きそうな目で見なくても大丈夫です。ここの商会は刺繍までやってくれますから」
「はい、お任せください」
「やったぁ!!」
パァっとジョゼの顔色が明るくなる。いつもの買い物と違い、自分で刺繍をしなくても良いと分かったからだ。アニエスが一緒ならば、こうはいかない。
普段優雅な生活をする貴族女性は、刺繍を行う機会が多い。ハンカチのワンポイントなどは当たり前で、どれだけ上品な素養を持つかを計る目安にもなる。何せ、腕の良し悪しは素人でもはっきりと分かるのだから。
自分の晴れ着を、自分の刺繍でみっともないものにはしたくない。
ホーウェン商会の刺繍職人ともなれば、国内でも屈指の実力者。自分でやるより良いわよね、とジョゼはご機嫌である。
「刺繍する花は如何しましょうか」
針子の問いに、ジョゼはペイスを見る。
このお転婆娘は、花の種類も碌に知らないからだ。バラとカーネーションの区別すら怪しい。
「布地が黄色ですから、青色か緑色が目立つ花が良いでしょうね」
「それでしたら、紫陽花は如何でしょう。季節も宜しいですし、色合いが青から赤まで選べますので、見た目も華やかになります」
ペイスの意見に、即座に反応が返るあたりは流石は大店の針子である。
「んじゃあそれで良いわ」
「畏まりました」
ジョゼにしても、自分が分からないことをグダグダとケチ付けるつもりも無く、あっさりと承諾する。
刺繍を注文する場合、難しいデザインほど高くなり、単純なデザインほど安い。
では紫陽花はどうかといえば、これはかなりお高いデザインになる。
四角や直線の幾何学模様などは見習いでも出来るために安く、花のように複雑で細かな部分の多い刺繍は高い。また、花の中でも紫陽花のように小さい花が沢山必要なデザインは花のデザインでも上位の難しさ。
それを分かっていて紫陽花を薦めるあたりもまた、大商会の商魂である。
ちなみに、もっとも難しい刺繍は貴族家の紋章だ。
「それでは布あてと寸法の確認を行いたいと思います」
「うん、いいわよ」
布地とデザインが大まかに決まれば、サイズを測る。
ジョゼも体つきが女性らしくなってきているので、仮に馴染みの店であっても測りなおしていただろう。
しかし、針子達にいささか戸惑いの様子が見えた。
「あのぅ……」
「ん? どうしたのかしら?」
「布を当てたいのですが」
「だから、良いわよって言ったじゃない」
「女性の方の寸法を測りますので、男の方にはご退室願いたいのですが」
そういえば、とペイスはジョゼと顔を見合わせる。
ここの店は紹介を貰って初めて来たが、いつも行っている馴染みの店なら護衛も無い。ハイハイしていた頃からジョゼを知るだけに子供扱いされるし、ペイスが弟であることも知っている。だから別に同席したままでも良かった。
事情が変わっていることに、皆が気付く。
「だって、ペイス、トバイアム」
「仕方ありませんね」
「おっし、そういうことなら俺は出てますんで」
退屈で死にそうになっていた護衛は、護衛のはずなのに喜んで部屋の外に出る。
その潔い職務放棄を見て、ペイスもやれやれと部屋を出ることになった。
部屋を出たところで何をすることも無く。
男二人で駄弁るだけ。
「この調子だと、本当に一日掛かりそうですね」
「若様は仕方無いって話だけどよ、俺なんてとばっちりだぜ? もう帰りてえよ」
「今頃、本村ではアレが出来てる頃ですよね」
「アレかぁ……」
◇◇◇◇◇
「おい、出来たか?」
「シイツさん、お疲れ様です。先ほどようやく。出来はこの通りです。味見しましたがいけますよ」
モルテールン領コッヒェン。
新産業の担当を、他の連中を無理やり黙らせてもぎ取った従士長が見回りに来ていた。
「おうおう、良いんじゃねえの? 匂いはちゃんと酒っぽいじゃねえか」
「彼らのおかげですね」
シイツたちの傍には、ダバン男爵領から移住してきた者たちが居た。全部で三人。皆十代の若者ばかり。
彼らは、ワインを作る酒造所の跡を継げなかった者たちだ。
モルテールン領のように新興領地はいざ知らず、他所の町では酒造りに限らず職人と名の付く職業は保護されている。粗悪品を乱造されても問題がある為、作り手の管理が行われているのだ。
親方株と呼ばれるものがそれで、株の権利を持たない人間が酒造に関わるには、持っている人間の下に就くしかない。この管理権もまた領地貴族の特権であり、権利金という名の税金は、領地貴族の大きな収入源の一つである。
重要な職人ともなれば監禁のように隔離される例だってある。それほどに職人とは囲われ易い。
また、人権や労働規範などが欠片も無い世界で他人の下で雇われる時、心無い親方に付いてしまえば奴隷と同じように扱われる。
かといって、職業選択の自由もほとんど無い世界では、別の職に就くのも極めて難しい。農家になるにも土地は簡単に手に入らず、他の職人になろうにも排他的で、行商人になるには元手が要る。聖職者だって浄財という名の寄付が要る。どれにしても簡単にはいかない為、多くは泣く泣く親方に尽くす。
そんな不遇にあった若者を、モルテールン家が誘ったのだ。それも破格の待遇で。年間で二レットの年俸を確約し、成果次第ではボーナスも付けるというのだから、男爵領ではうだつの上がらない親方についている跡取りなどは本気で悔しがったりもした。一般的な農家の稼ぎの倍。下働きの職人の給料の三倍はある。
甘い蜜に誘われる虫のようだった、とは口の悪いダグラッドの言葉である。
シイツはそのまま新規入植者の面々にも声を掛けた。
「よう、頑張ってるか!!」
「これはビートウィン様」
「様付けなんぞやめろ。鳥肌が立つ。他所はどうか知らんが、うちじゃあそんな堅苦しい挨拶は要らねえよ」
新しく来た面々は、伝統息づく町からの入植者。
彼らからすれば、古くからの階級思想そのままに、従士に対しては平民も遜って接するのが常識。
慌てて跪こうとしたのを、シイツが面映ゆそうに止めた。自分の家名なんて、何か付けろと言われたときに適当にでっち上げたもので、自分でも何だったか忘れることが多いのだ。それで呼ばれるのは気恥ずかしいだけである。
「シイツさんが率先してくだけた態度とってますしね。礼儀知らずはうちの伝統ですか?」
「うるせえぞニコロ。うちで一番失礼なのはお前だからな。俺だって場を弁えればちゃんと……ってか、何でお前がここに居るんだ?」
「新しい産業について、勉強です。予算を付けるにも、どういうことをしてるのか知らないと」
素知らぬ顔で酒造りの現場に居たニコロだが、よくよく考えれば不自然である。
何せ、彼の仕事は金銭の出納管理。酒造りのような実業に首を突っ込む必要はないはず。
「お前、自分の仕事をしろってんだ」
「これも仕事です」
「良いから、本村に戻れ。お前ももうじき部下が出来るんだ。上が率先して不純なことをしていたら、下が真似しちまうだろう」
「なるほど。シイツさんが言うと説得力がある」
「俺を見習って、少しは真面目に仕事をするこったな」
自分だって半分ぐらい職権乱用で酒造りを担当したシイツではあるが、それをおくびにも出さずにニコロを本村に戻す。
「やれやれ、あいつももう少し大人になればいいんだけどよ」
ニコロが恨めしそうにしながら本村に戻ったのを見送り、シイツは仕事に戻る。
「従士長様、言われていた試験は終わりましたが、次はどうしましょう」
「お、出来たか。俺が坊から聞いたのは、次は安定性を持たせる研究って話だが」
「安定性?」
「酒が出来たとして、品質を一定にする為の研究らしい。俺は分かんねえが、商品にするなら必須なんだとよ」
「なるほど~」
「まずは、出来たやつをそれぞれ瓶に詰めて、置き場所を変えてみるか。ワインなら冷暗所ってのが常識だが、このサトウモロコシ酒もそうとは限らねえ」
「如何しますか?」
「何本か出来上がりを瓶に詰めてくれ。ここに置いておいたのと、外の日向に置いたのと、お屋敷の物置の暗いところに置くのとで試そうじゃねえか」
ワイワイガヤガヤ。
不純物を取り除いた搾汁で、ワイン造りの製法を一部取り入れた試作品を前に、シイツたちは賑やかだった。
早速試作の味見という名目で、グビりと一杯やるシイツなどが原因である。
「シイツさん、シイツさん!!」
「あん? ニコロ!! お前本村に戻れって言ったじゃねえか!!」
しばらく仕事をこなし、従士長の顔にも十分赤みがさしたところで、本村に戻ったはずのニコロがいつの間にか息を切らせて傍にいた。
「すぐに屋敷に戻ってください。大変なんです!!」
「何があった!!」
ニコロの様子に、シイツのほろ酔いが一気に醒める。
「奥様とリコリス様が……」
シイツは思わず、天を仰いだ。