001 プロローグ~転生したら貧乏貴族
神は存在するのだろうか。
多くの哲学者が悩み、神学者が躍起になり、科学者が否定してきた存在。
あるものは太陽にその姿を見、またあるものは大自然にその姿を見る。
大海原を神に見立てるものも居れば、超越者の存在を信じるものも居る。
そして、時として人の中にもまた神を見ることがある。
神に愛された存在として、溢れんばかりの才能に満ちた人が居ることで。
神の申し子。
人々に、時として畏敬の念を向けられ、時として羨望と嫉妬の対象となる存在。天才とも偉才とも呼ばれ、時に畏怖される存在。
神に愛された存在は、どんな世界にもいる。
スポーツの世界にも、音楽の世界にも、勉学の世界でも。
そして、お菓子職人の世界でも。
◆◆◆◆◆
「さあ、残り時間も後30分を切りました。各国とも最後の仕上げに掛っている模様です」
アナウンサーの明るい声が会場に響く。
わざわざ日本から欧州まで出向いた彼らが声を張り上げて実況するのは、パティシエ(菓子職人)世界大会の様子だ。
最終日も残す所、あと数十分。
それでパティシエ世界一が決まる。
「我らが日本代表の最終調整も、どうやら終わりのようです」
実況と共に向けられたカメラの先には、白い服に身を包んだ男たちが居た。
男だけの集団ともなれば漂いそうな、むさ苦しい臭いは無い。
寧ろそれとは程遠い、甘い匂いが充満する場。
日本代表に与えられた作業場に、鎮座するのは巨大な飴細工。
人の背丈を超えるような甘味のオブジェは、作業台の上にあることで異様な威圧感を与えていた。
繊細にして大胆。
技巧の限りを尽くして制作された芸術品は、世界の名を冠たるに足るだけの美しさを持っている。
現在の得点では、日本代表が二位。
一位との得点差は僅かであり、この飴細工で逆転することは確実だと、誰もが認める素晴らしさだ。
だが、そんな作品を作り上げた職人たちの顔は未だ冴えない。真剣そのものの顔。
この飴細工勝負は、作業台から指定の採点場所まで移動させるのが最も難しいからだ。
指定の場所に置かなければ、どんなに素晴らしい作品でも得点を付けて貰えない。
移動させる途中で落としてしまえば、今まで積み上げてきたものが全て台無しになる。
子供の足でも、五歩も歩けば行ける距離。
その五歩は日本中の菓子職人にとって最も重要な五歩になる。
十歩。いや、例え万歩かけてでも、その距離を無事に辿りつけるのなら惜しくは無い。
「3つ数えた所で持ち上げる。慎重に行くぞ。1、2の3!!」
掛け声と共にゆっくりと持ち上げられた飴の塊が、持ち手にその重量を伝える。
重々たる手のしびれは、あと僅かで世界一になれるという重圧もあってのことだろう。
緊張で強張る体には、その重さはより一層強く感じられるものだ。
じっくり、じっくりと運ぶ。
その歩みは亀の如しだ。
いよいよ指定の場所に、作品を降ろす。
長かった戦いもこれで終わり。そう、誰もが思った時だった。
『あ、前世記憶の消去設定を忘れているや。ま、いっか。死ぬまで時間も無いし』
ふと聞こえた声に、職人は耳を疑う。
掠れるような、聞き取りづらい声。だが、ひどく耳に残る、やけにはっきりとした不思議な声。
電波の悪いアナログラジオの音を大音量で、しかも耳元でならされたような声。
緊張している時にかけられる大声ほど驚くことは無い。
咄嗟に、手から作品が滑り落ちる。
その場に居たものにとっては、やけにゆっくりと時間が流れる気がした須臾。
職人の目の前に倒れこんでくる巨大な塊。砂糖とは言え、大人数人がかりで運ぶ質量物が倒れてくる。遠くで聞こえる甲高い悲鳴。
職人の頭に当たった砂糖の鈍器。彼は、生温いものが頭から流れる様を感じた。事実、彼の頭はあっという間に真っ赤に染まる。
血である、と認識するには、鉄の臭いだけで十分だった。
甘い匂いに慣れていただけに、やけに強烈な臭いに思えた。
職人は、目の前が真っ暗になった。走馬灯が駆け巡る中で、彼の胸中に浮かんだのはあと少しで叶う筈だった自分の夢だった。
――世界一のケーキを作りたかったな。
そして一人の職人が死ぬ。神の申し子と呼ばれたその名と共に。
◆◆◆◆◆
赤ん坊の泣き声が辺りに響く。
「おめでとうございます。元気な男の子ですよ」
産婆から、お祝いの言葉が告げられる。
抱きかかえられた手の中には、生まれたばかりの赤ん坊が居た。
大事そうに抱えられ、布でくるまれた赤ちゃんが、母親の胸に渡される。
「そうか、男か。アニエス、良くやった」
破顔する父親が、妻にかけた労いの言葉。
それに疲れ切った表情で応える女性の腕の中では、布地に包まれた赤ん坊が泣いていた。
「ああ、可愛いなあ。目鼻立ちはお前に似ているようだ。きっと美少年になるぞ」
「ええ、そうね。けど目の色は貴方と同じ。素敵な色……あら?」
「ん、どうした?」
不思議そうな顔をした妻に、夫が声を掛ける。
「いえ、この子、私達の話をじっと聞いているような……」
「まさか。生まれて一刻も経っていないのに、言葉が分かる訳もないだろう」
「……ええ、そうね。そうよね」
そんな取り留めもないやりとり。
夫婦の会話を、まるで“外国語を聞いている”かのように、じっと赤ん坊は見つめていた。
「あなた、この子の名前はどうしましょう」
「それはもう決めてある」
父親は、母親に抱かれた赤ちゃんを両手で優しく抱える。
じっと互いを見つめ合う親子。
「お前の名はペイストリー。ペイストリー=ミル=モルテールンだ」