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◆最終日 別れの曲

 リョウは大上段に構えた剣を真っ直ぐに振り下ろした。巨大なケーキの真上から剣を振り下ろすと、リョウはケーキの中に飲み込まれていった。クリームに触る感触はなく、代わりにリョウは空間を切り裂いた。すると、リョウは真っ白な空間の中に投げ出された。その場所に降り立つと、今までに見えていたはずの景色は消え去った。


 リョウは何もない空間で立ち尽くした。一体どうなったのか、リョウ自身には何も分からなかったが――暫らくすると、音楽が聞こえてきた。これは、すずのピアノだ。


 その音色を聞き、リョウは思い出した。


『ちょっとね、弱気になったの。お医者様は大丈夫だって言ってたし、私が気にしても仕方がないことだって分かってるんだけど。……どうしても、診断の結果が悪い方に出たらって、考えてしまっていたのよ』


『……治るって。大丈夫だよ』


『考えてるとね、すずに会うのが辛くなるの。お姉ちゃん元気ないよって、悟られてしまいそうで――……あの笑顔に答えられなくなってしまうんじゃないかって、不安になるのよ』


 リョウは今一度、りんと病院へ向かった時のことを思い出していた。


『ね、良い音色でしょ? これ、私専用なんだよ。モーリス・ラヴェルの『道化師の朝の歌』、フランツ・リストの『ラ・カンパネラ』、クロード・ドビュッシーの『亜麻色の髪の乙女』、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの『熱情』、それから――』


 バスが高架橋の下に潜り、新幹線が通り過ぎた。そのせいで、かき消された言葉だと思っていた。ノイズのような音は、実際には流れていなかった。これは、すずが意図してリョウに伝えまいとしたことだったのだろう。


『フレデリック・ショパンの『別れの曲』』


 それは、誰とも別れたくなかったからなのだろうか。すずは、リョウ達の仲間になることを強く望んでいた。嫌な予感がした。


 遠目に何か、影のようなものが見えた。リョウは歩き出し、その影に近付いた。歩いても歩いても、その影が大きくなることはなかった。やがてリョウは駆け出した。


 時が経った。自転車を乗り回し、りんを荷台に乗せていたリョウは、大きくなった。自分で旅行を企画するようになった。仲間を集めた。――そして、すずと出会った。りんと同じように、病弱だった。だが、いずれは治るものだと思っていた。


 何故なら、りんは治ったのだから。


 ぼんやりと、影の正体が見えてきた。遠くで、りんとすずが手を繋いでいるのが見える。りんとすずはリョウに背中を向けて、光の向こう側へと歩いている。何故か、二人が遠くに行ってしまう気がした。まだ、行かないでくれ。そう思いながら、リョウは走った。鎧がやたらと重い。歩いているはずのりんとすずに、まったく追い付ける様子がなかった。がしゃがしゃという、ブーツの音だけが辺りに響いていた。


「待て!! 待ってくれ!!」


 リョウは叫んだ。叫んだつもりだった。だが、声はりんとすずに届くことはない。自分の耳にも反響しない。リョウは手を伸ばした。りんが立ち止まる。すずはまだ、歩いている。りんの左手と、すずの右手が離れる。すずは振り返って、りんを見詰めていた。その瞳には、大粒の涙が溜まっている。りんは背中しか確認することは出来なかったが、肩が震えていた。


 別れるのだろうか?


 今、この場所で?


「まだ、行くな!!」


 リョウは走った。これで、終わりにしてなるものか。まだ――、まだすずを旅行に連れて行っていないのだ。そう思うと、不意にリョウの速度が上がる。りんを追い越し、立ち止まっているはずなのにそこから遠ざかっていくすずの――……


 腕を、捕まえた。


 瞬間、リョウはノーリアル・ワールドへと帰ってきた。自分の心臓の鼓動が聞こえる程に、リョウの息は上がっていた。分断されたバースデーケーキは暫くの間硬直していたが、ゆっくりと外側に倒れた。


「……終わったのか?」


 ジンが青空に座り込んで、汗を拭いながらそう言った。荒れ狂うように流れていたルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの熱情は止まり、辺りは静寂に包まれていた。リョウが立ち上がり振り返ると、ジンと目が合った。だが、これで終わりだとは思えない――リョウは、そんなことを考えていた。ジン達の下へと走る。ジンの疲労が特にひどい。連続して防御を続けていたせいだろうか。


 割れたバースデーケーキが光り出したのが、最初の現象だった。その場で溶けてしまったかのように、バースデーケーキはリョウ達の降りることができない地面へと落ちていく。溶け落ちたバースデーケーキのあった場所には、光の玉が浮いていた。その光の玉は、あるものへと形を変えて光り続けた。


「きゃ……!!」


 さつきが悲鳴を上げ、頭を両手で抱えた。さつきの近くで小さな爆発が起きたのだ。はじめは小さな音だった。それはやがて音量を上げ、爆発の数も増えていく。


「なんだ……!? 何が起こっているんだ!!」ジンが辺りを見回して、そう言った。


「ちょっと口の悪い狐さん、どうしちゃったんですか!? 世界が崩壊するってアレですか!?」みもりが聞くと、狐は首を振った。


「俺にも分からん。だが、まだ世界は崩れてはいない」


 では、ここはまだ崩壊している訳ではないということなのだろうか? だが、爆発はその規模を増していく。リョウのすぐそばでも爆発は起き始めた。浮いていた光の玉はやがて大きくなり――……そして、それは現れた。


「……すず」


 リョウは呟いた。そこには、巨大な点滴にがんじがらめに縛り付けられたすずがいた。苦しそうに目を閉じ、肩を上下させている。これは――見覚えがある。みもりの時も、ジンの時も、一度ノーリアルに取り込まれた人間はあのように縛り付けられていた。


 世界の主が、現れた。


 ろうそくの時と同じように、何かが宙を舞った。だが、数は比較にならない程に多かった。それらは宙を舞い、無差別に動き回った。


「危険だ、みんな離れろ!!」


 リョウは叫んだが、誰もその場所を移動することなど出来なかった。鉄骨によって作られた鳥籠の中で、飛び回る――恐ろしい数のメスやはさみ、注射器。規則性を一切持たず、中には道具同士でぶつかり合っている様子も確認することができた。リョウは足を傷付けられ、たまらずに膝を突いた。


「……よし、隠れろ」


 ジンがそう言うが、既に盾は限界をとうに越えていた。新たに出現した盾は、既に効力などないように思えるほどの薄い膜だった。


 飛び回る刃物は、次々とジンの防御壁を破っていく。どうしたら良いのだろうか。このままでは、全員やられて終わり――終わると、どうなるのだろう? リョウは考えた。あるいは、みもりやジンのようにノーリアルに取り込まれてしまうのだろうか。全員――? リョウは冷汗を流した。一体、何が起こっているのだろうか?


 ふと、リョウの視点はすずの口元に動いた。何かを呟いているように見えた。


「……トオル、あれ、なんて言ってるか分かるか?」


 リョウがトオルに聞く。トオルは頷いて叡智の瞳を展開し、目玉を動かした。


「……苦しい。たすけて」


 トオルが言った。


 リョウの中で、何かが切れた。


「身体がどんどん、バラバラになっていくみたい。……って、言ってるみたいだ」


 いつから、そのように感じていたのだろうか。そう考えると、虚しい気持ちばかりが先立ってしまう。


 あるいは――? あるいは、すずが病気になったとき。


 旅行に連れて行って欲しいと頼まれたとき、断ったことは?


 遊びに連れて行かなかったのは。


 もしも、元気にならないと分かっていたなら。


 リョウは剣を構える。ジンの防御壁から出ると、刃物は無差別に、あるいはリョウに向かって飛んで来た。リョウはその刃物を受けるつもりでいた。数も数えられない程の刃物が、リョウ目掛けて飛んで来る。リョウはその全てを、払い除けるつもりでいた。


 だが、刃物はリョウの身に触れる前に光の玉にぶつかり停止し、落下した。


「……効いた」


 リョウが振り返ると、さつきが驚いているようだった。どうやら、今の防御はさつきによるものだったようだ。だが、リョウは刃物が自分に当たらなかったことよりも、『共感の癒し』とやらがすずの攻撃に効いたことに驚いていた。無差別に飛び回る規則性のない刃物の動きは、まるですずの心の中を表しているかのようだった。


 さつきは驚いていたが――ふと、寂しそうな顔をした。


「……癒しが、効くんだね」


 つまり、そういうことだった。


 リョウは剣を構えた。すずを、助けなければ。すずは、ノーリアルに取り込まれているのだ。もしもそれを助けられるとしたら、自分しかいないのではないか。あれを解放してやれるのは、剣を持っているリョウだけ。武器を構えているリョウにしか、すずの心を解放してやれる者はいない。


「リョウ。その剣、私に貸して」


 その時、背後から声がした。


「りん、先輩」


 リョウが振り返ると、そこにはりんが立っていた。苦しそうに肩を上下させていたが、例の発作のような現象は見られない。何よりも印象的だったのは、りんは白い和服に、赤い袴を身に纏い――巫女のような姿をしていた。真面目で意志の強い瞳は、まっすぐにすずの姿を射抜いていた。


 信念の、弓。


 何故か、そんな言葉だけが頭の中に蘇った。


「貸して」


「……良いのか?」


「私が、やるよ」


 リョウは防御壁の内側に戻り、りんに剣を渡す。りんはしっかりとその剣を握った。


 りんはすずに向かって微笑んだ。バランスを崩しそうになりながらも、防御壁の外側へと歩いていく。


「ずっと、届かなかった」


 前髪がりんの表情を隠した。りんは俯き、リョウの剣を握り締めた。


 その言葉は、何に向けての言葉だったのだろうか。あるいは、すずへの思い。あるいは、自分に対しての思いだったのかもしれない。りんはずっと、すずの病気と二人、戦ってきたのだろう。


 いつか治る。かっての自分がそうだった時のように。


「りんちゃん」


 さつきが手を握った。りんはさつきに向かって一つ頷くと、防御壁の外に出た。


「届いた時には、いつも手遅れだったことも。どうして私ばっかり、って、思った」


 りんの左手が輝きを帯びた。やがてその光は一本の弧を描くように、横に広がって行った。これは、弓だ。巨大な弓をりんは持っていた。すずの痛みが伝わっているのだろうか、今にも転倒しそうになりながらも、りんは弓を構えた。そして、リョウの剣を矢のように当てがい、弓を引いた。


「りんさん、点滴だ!! 点滴を狙って!!」


 トオルが言う。りんはその巨大な点滴に照準を合わせた。


「どうして私ばっかり、恵まれているのかって」


 瞬間、世界が白く光る。それはカメラのフラッシュのように、何度も点滅した。爆発音だけが聞こえる空間の中で、りんの弓の音だけが耳に残る。


 そうか。


 りんはずっと、申し訳なく思っていたのだ。自分だけが良い方向に転ぶ中、すずの病気が進んでいることをりんは知っていたのかもしれない。いつかは治るものだと思っていたのは、リョウだけ。りんはいつか、もしかしたら、まだ可能性は、そんな言葉にすがっていたのかもしれない。


 信じることだけが、りんの心を支えていたのかもしれない。


 ただ一人、『トラベラバーズ』の一員ではないすずのことを。


 リョウの胸のうちに穴が空いてしまったかのように、なにか冷たいものが流れた。全身の感覚は遠くなり、乾いた喉が何かを求めた。


「諦めるな!!」


 気が付くと、リョウはりんの背中に、すずに向かって叫んでいた。何かを叫ばずにはいられなかった。


「まだ間に合う!!」


 涙交じりにそう叫ぶが、すずの耳には届いていないように思えた。


 りんは背後のリョウに、微笑んだ。


「誰も一人じゃない。一人にさせない。ずっと――――そばにいるよ」


 りんが剣を放つと、一直線にリョウの剣はすずの点滴目指して飛んで行った。


 光の剣は星を撒き散らしながら飛んで行き、すずの点滴を――貫いた。


 バリン、とそれが弾ける音がした。点滴は跡形もなく消え去った。瞬間、世界は白く染まり、すべてが消えた。




 今なら、迎えに行けるだろうか。




 リョウは走った。舞い上がる光の塵の中へ突っ込むと、両手を伸ばした。その瞬間、リョウの心は安堵に包まれた。


 遅くない。まだ、遅くない。


 そう、思った。


 ふわり、と何かが胸の中におさまる感触があった。リョウはそれを確認し、中で動きがあった時、安堵して息を吐いた。


「……リョウ、お兄ちゃん?」


 小さな身体に不釣合いなほど大きな瞳が動き、リョウを見据えていた。


「おかえり、すず」


 リョウが笑うと、すずも笑った。リョウ達はゆっくりと下降していった。青空の中を光の塵に包まれながら、広大な大地へ。


「……ここは?」


 リョウ自身どう表現していいのか迷ったが、答えた。


「誕生日プレゼントだよ。旅行に一緒に行こうって、話したろ?」


「じゃあ、十歳に、なれたのかな」


 すずは言った。リョウはすずの肩を掴むと、微笑んだ。


「もちろんだ。誕生日おめでとう、すず」


 リョウが言った。ジンがリョウの近くまで寄り、腕を組んですずを見た。


「おめでとう、不藤妹」


 さつきがみもりを連れて走った。トオルも寄ってきた。


「おめでとー!」さつきがすずに抱き付いた。


「おめでとうございます、で良いんですか?」みもりが難しい顔をして言った。


「はじめまして。お誕生日おめでとう」トオルも笑った。


「すず!」


 すずは目を丸くして、リョウの背後を見た。リョウもまた、振り返った。瞳に涙をいっぱいに溜めて、りんがすずを抱き締めた。


「……夢、なのかな?」すずは辺りを確認しながら言った。


「夢でもいい」りんは言った。「夢でもいいよ。祝えて、良かった」


 地面に降りると、そこはどこかの建物の上だった。リョウは周りを確認した。これは――病院ではないだろうか? すずの入院していた、病院――……。夢の中の世界では、いつも最終的に自分の居場所へと帰って来る。つまりは、そういうことなのだろうか。沢山の自転車とうさぎの縫いぐるみに囲まれた。空には光の少年が、光の塵を撒き散らしながら飛び回っている。


「お誕生日、おめでとう!!」


 ぱん、とクラッカーの鳴る音がした。その場にいる誰もが、手を叩いていた。リョウ達も負けずに手を叩く。すずは何が起こっているのか、よく分からないといった顔をしていた。


「……ねえ、リョウお兄ちゃん。すずは、どうしたの?」


 どうしたのだろうか。何が起こっているのかは、リョウにもよく分からなかったが。


「喜んでおけば、良いんじゃねーかな」


「あのね、リョウお兄ちゃん達の仲間になりたいって、思ってたの。そうしたら、気が付いたらここにいて……」


 リョウはすずの手を握った。


「良いじゃねーか。これで、全部解決だ」


「……そう、かな?」


「初めての旅行、おめでとう。すずも俺達の仲間だぜ」


 リョウがそう言うと、すずは満面の笑みを浮かべた。




「よかったよ」




 瞬間、大地震の中心に立っているかのような衝撃を感じた。見ると、大地にブロック状の切れ目が入り、どこかに落ちて行く。景色は段々と黒く潰れていき、その場にいたうさぎの縫いぐるみや自転車、光の少年は消え去った。


「来たか。世界が崩壊する、ここから出るぞ!!」


 狐がみもりの肩から飛び降り、そう言った。リョウ達は頷いたが、どこへ行けば良いのかが分からなかった。


「こっちだよ」


 すずがリョウの手を引いて、病院の屋上から飛んだ。まるで月面のように、とてつもない距離を跳躍する。すずを先頭に、一同は世界の端へと飛んで行った。周りを見ると、世界が縮んでいるようにも見えた。どこまでも広がっていたはずの水平線はやがて宇宙空間に潰され、そこにあったものがなくなっていく。


「あれは……」


 声の聞こえてくる扉、木造の小屋のすぐ近く。もはや木造の小屋はそこにはなく、扉だけが鎮座していた。その近くに、大きな鍵穴があった。リョウ達が近付くと、トオルの持っていた鍵が巨大化した。


「うわ!」トオルは驚いて、その鍵を両手で構えた。


「さあ、その鍵を使うんだ」狐が言う。


 トオルが鍵を使うと、鍵穴は光り出す。その先に巨大な白い空間が出来上がった。宇宙空間に突如として現れたゲートのように、その先には何も見えない。


「……これで、帰れるんですか?」みもりが聞くと、狐は頷いた。


「現実世界の元にいた場所にな。よく頑張ったな、お前さんら。大したもんだぜ」


 少し、狐が嬉しそうにしているように見えた。表情は全く変わっていなかったが――みもりがその白い空間に足を踏み入れると、光に包まれていき、やがて見えなくなった。ジン、トオル、さつき、と順番に空間に入っていく。りんが入ろうとした時、不意に立ち止まって振り返った。


「どうした?」狐が問う。


「そういえば、あなたの名前は何だったのかな、と思って」


 りんが笑うと、狐はそっぽを向いた。


「名乗るほどのモンじゃあねえ、って言ったろ」


 狐は胴体をりんに向け、そっぽを向いた。だが首を反らし上下逆さまにりんを見ると、呟いた。


「調査ってんだ」


「ばいばい、ちょうささん」りんは狐の物言いに笑って、手を振った。


 残る空間には、扉と白いゲート。狐とすずと、リョウだけが残っていた。リョウもまた、光の空間に行こうと思ったが――ふと気になって、狐を見た。


「お前は、これからどうすんだ?」


「俺はそっちの扉から小屋に帰るよ。現実世界に行くのは俺じゃ無理だし、帰る方法がなくなっちまうしな」


「……そうか」


「また、どこかで会えたらいいな」


「ああ。助かったよ、ありがとう」リョウは狐に礼を言った。


 リョウがすずの手を引いて、空間に入ろうとする。リョウが足を踏み入れた時、その手は引かれた。何事かと思い、リョウは振り返った。すずはその場所から動こうとしていなかった。光の空間に足を踏み入れたからか、空間はリョウを奥へと引っ張ろうとしているように感じた。


「……すず?」


 リョウが聞くと、すずは首を振った。


「おわかれだよ」


 その言葉に、リョウは目を見開いた。空間はより強くリョウを引く。やがて足が飲み込まれた。


「何言ってんだ、さっさと帰るぞ」


 すずは首を振った。


「私は、もう戻れないから」小さな声で、そう呟いた。


「馬鹿言うな!! みんな一緒に帰るんだよ!!」


 リョウはすずの右手を、両手で掴む。だが空間がリョウを引く力が強くなる。やがてその両手は離れていく。すずは笑顔になった。それはまるで、


 まるで、もう満足した、とでも言うかのように。


「すず!!」


 リョウの両手はすずの左手を滑っていき、そして――中指の先が離れた。リョウは白い空間の中に飲み込まれていく。


 ただ一人、すずを残して。




「すず――――――――!!」




 フレデリック・ショパンの『別れの曲』が聞こえてくる。目を開くと、天井が見えた。呼吸が浅い。胸が苦しい。そんな感覚が伝わってくる。全身を動かそうにも、指の先すらぴくりとも動かない。これは、何だろうか? 窓の外を見ると、青空に雲が浮かんでいた。左を向くと――……、りんの顔が見える。


「どうして?」


 りんが泣いている。不意に、携帯電話が鳴った。りんは驚いて涙を拭く。その間に携帯電話が止まる。今度は、自分の記憶ではないとリョウは感じた。これは、何の記憶だろうか? 誰の記憶――?


 りんが深呼吸をして、携帯電話を手に取った。暫らくのコールのあと、おそらく電話が繋がったのだろう。りんは無理矢理に明るい表情を作った。相手は電話先だというのに。


 そして、信じられない言葉をリョウは聞いた。


「やっぱ、今回は無理かなあ」


 あの時のことだ、とリョウは気付いた。自分が電話した時。りんが、鼻声だった時に。あの時、鼻声だったのは。りんの調子が悪そうに聞こえていたのは。


 ならば、これはすずの記憶だろうか。


「ううん、大丈夫。こっちのことは良いから、旅行楽しんできなさいよ」


 りんが自分のことをいつも一人で抱え込む性格だということは、よく分かっていたつもりだった。だが実際には、りんがどんな状況でいたのか、その電話からは判断することができなかった。


「奇跡が起きたら、行くかもねー。……なんでもない、大丈夫。ちょっと色々あって、疲れてるだけ」


 よくもまあ、そんな台詞が言えたものだ、とリョウは思う。すずの意識が遠くなっていく。同時に、リョウの意識も遠くなっていく。危険な雰囲気だった。まるで、二度と目が覚めないかのような――……。


「うん、ばいばい」


 そう言って、りんは電話を切った。そのまま、すずのベッドに向かって突っ伏した。りんが震えている。どうしたら良いのだろう。リョウにはどうすることもできなかった。


「奇跡、起きてよ」


 りんが顔を上げる。すずの顔を見ているようで、その瞳には涙が溜まっていた。


「お願い。奇跡、起きてよ。何でもなかったねって笑ってよ。嘘だって言ってよ。――……すずを助けて。神様」


 すずが願っているのが分かる。お願い、奇跡を起こして――……。たった一度でいい、みんなの仲間になるチャンスをください。


 すずの願いが聞き届けられたのか、病院の部屋は真っ白な空間に染まっていった。新品のランドセルや連絡帳が消えていく。その真っ白な空間の中に、すずは立っていた。


 辺りには、何もない。


 何度も確認する。一体、自分はどこに来てしまったのだろうか。そんなことを考えている。


 ふと、遠くに何かが見えた気がした。すずが走って行く。すると、はるか遠くに見覚えのある顔があった。


 駆け寄る。手を握る。すると、それは振り返った。


 目の前にはりんが見える。


「……すず?」


 りんがすずの名を呼んでいる。すずはゆっくりと、りんに吸い込まれていき――……、


 そして、すずはりんになった。


 真っ白な空間を走る。あてもなく、どこかへ。だが、すずには予想が付いていたのだろう、その足は真っ直ぐにどこかを目指した。真っ白な空間に終わりがあるのが分かる。すずは走った。りんの声が聞こえてくる。


「ずっと、一緒だから。私、見てるからね」


 これは奇跡だ。すずは思った。真っ白な空間を抜けると、そこは旅館だった。すずは辺りを見回す。襖が閉じられている。ゆっくりと、その襖を開ける。そこには、見慣れた自分の顔があった。


「リョウお兄ちゃん、起きて」


 その声が聞こえたのかどうなのか、リョウが目を覚ます。部屋には布団が六組。日付は七月二十二日。


 そこは、ノーリアル・ワールドだった。




 リョウは目を覚ました。すぐに起き上がり、辺りを確認する。すぐに目に入ってくるのは、旅館の天井だった。立ち上がり、カーテンを開けて外を見る。空は快晴。爽やかな風がリョウの頬を撫でた。どこかで、蝉の音がする。砂浜の向こうでは、静かに波が立っている。ふと、声がして振り返った。廊下の向こうで子供が騒いでいる声が聞こえる。携帯を開いて、日時を確認した。八月二十二日、朝の九時だ。


 リョウは安堵して、ため息をついた。


「……リョウ、おはよう」


 一番最初に起きてきたのは、トオルだった。リョウは軽く手を上げて、トオルに挨拶した。その向こう側では、ジンが眠っている。


「よう、トオル」


「今、何時?」


「九時だ。もう朝飯の時間だから、さっさと着替えないとな」


 トオルはそうだね、と頷いた。それを確認して、リョウはふと笑った。着替える時に服を確認して、やはり寝巻きだ、と思う。


 すべて、夢だった。


 そう思うのが、一番自然ではないか。あれだけの大冒険をしたにも関わらず――元の世界に帰って来たリョウは、そう思うことにした。あまりに非現実的すぎる展開、世界、そして登場人物。改めて考えると、不思議なことばかりだ。随分長い夢を見ていたものだ、と思う。


「リョウ」


「なんだ?」


 トオルはリョウを見ていたが、ふとどこかに顔を向けて、言った。


「……ん、何でもない。早くしないと、席なくなっちゃうね」


 襖が開いて、中からさつきが顔を出した。男達の姿を確認すると、さつきは微笑んだ。


「おはよー、リョウ君、トオル君」


「よう、さつき。よく眠れたか?」


 リョウが問い掛けると、さつきは目を擦った。


「……まだ、寝てる気分。今、何時?」


「九時だよ。……もう、他の客は移動をはじめてるみたいだ」


 さつきは廊下を確認した。暫らく、交互にリョウとトオルを見ていた。


「なんだよ?」


「……ううん、なんでもない。いこっか」


 ジンが機械的に起き上がり、そのまま洗面台へと向かった。既に起きていたのかもしれない。リョウは自分の布団を軽く畳み、未だに眠りこけているみもりの布団を蹴った。


「オラみもり、さっさと起きろ」


 すると、みもりが何やらぶつぶつと喋っていた。リョウは何度も布団を蹴った。


「おーい」


「みもり、今日は一日寝るって決めたんです……起こさないでください……」


「飯がなくなるだろうが!」


 飯というキーワードに反応したのか、みもりが勢い良く身体を起こした。既に襖が開いていることを確認すると、慌てて髪をチェックする。


「ちょっと、起き抜けの美少女の顔を見るとかほんとリョウ先輩にはデリカシーがありませんよね!」


「誰が美少女だ」


「オマケに今蹴りましたよね!? ただでは済まされませんよ!?」


「しらねーよ」


 リョウは悪態をつき続けるみもりを無視して、扉へと向かった。みもりはリョウが扉を開けようとしていることにまた喚いていた。


「はっ!? まさかまだ七月二十二日なんてことはないですよね!? 今度はリョウ先輩達もノーリアルだったりして!!」


 みもりが立ち上がって、急いで鞄の中の携帯電話を取ろうと荷物を漁った。その瞬間、リョウは固まった。ジンやさつきも、トオルもまた、固まった。


「……何ですか? ……マジじゃないですよね?」みもりが冷汗を流しながら、そう言う。携帯電話を確認すると、ため息をついた。「良かった、ちゃんと帰って来たんですね」


 暗黙のうちに捨て去ろうとしたリョウだったが、この様子を見ると全員同じことを考えていたのだろう。それが、みもりの何気ない一言によって打ち砕かれた。リョウは振り返り、みもりに向かって歩いた。肩を掴むと、思わぬ行動にみもりが怯えた。


「……な、なんですか?」


「お前、夢を見なかったか」


「……はあ、夢? 夢じゃないって、師匠が言ってたじゃないですか。リョウ先輩、もしかして覚えてないんですか?」


 リョウは何も言えなくなった。


「……え? 夢? ……なんですか?」みもりはそんなはずはないと思っているようだった。


 リョウは振り返って、ジンとさつきとトオルを見た。ジンがこちらに向かって歩いて来る。


「みもり、お前はノーリアル・ワールドという単語を知っているか」


 リョウはその言葉に驚いた。みもりの肩を離し、それぞれの顔を見た。それぞれ、思い当たる節があるようだった。当然のように『ノーリアル・ワールド』を信じているみもりはきょとんとして、リョウや他のメンバーの複雑な表情を見ていた。


「師匠が言ってたよね。君は一人じゃない、共に分かち合う仲間がいる。それが大事なことだって」


 さつきが思い出したように、そう言った。


「みんな、覚えているのか」リョウは聞いた。


「みたいだね」トオルが答えた。


 ならば、『ノーリアル・ワールド』は夢ではなかった。五人の人間がたまたま同じ夢を見ることなど――……、ないとは言えないが、有るとは言い辛い。リョウはなんとも言えない気分になった。リョウ達が過ごした七月二十二日の四日間は、現実には存在しないが、どこかに存在する時間だということだろうか。


「とにかく、一件落着して良かったじゃないですか。ご飯にしましょう」


 みもりはそう言ったが、リョウはその場で固まっていた。ならば、夢ではなかった? 全てが? それに気付いた時、リョウは焦った。さつきがリョウの様子に気付いて、訊いた。


「どうしたの、リョウ君?」


 もしも、『ノーリアル・ワールド』が夢ではなかったのなら。最後にリョウは、すずと別れた。崩壊し、どこにも存在しない空間へと帰って行く世界の中に、すずは一人、残ることになった。もしも、それが夢ではなかったのなら――


「ジン、車、出せるか?」


 リョウが深刻な表情でそう言うので、着替え終わって他のメンバーを待っていたジンは言葉もなく頷いた。


「何かあったの?」トオルがリョウに訊いた。


「俺達の七月二十二日が本当だとしたら。……最後に、俺はすずと別れた」


 さつきが息を呑む音が聞こえた。ジンは険しい表情で腕を組み、トオルは固まり、みもりは事情が飲み込めないようで、困惑していた。


「俺は病院に向かう。ジン、悪いけど付き合ってくれねーか」


「ああ、分かった」ジンは悩む素振りもなく、承諾した。


「あたしも行くよ!」さつきはリョウの手を取った。


「現実世界では――ってことか。確認する必要はありそうだ」トオルもすっかり、追求する気だった。


「……なんだかよく分かんないけど、みんな行くならみもりも行きます」事情を理解していないみもりだったが、事態の深刻さを受け止めたようだ。


 食事を済ませて、一同はすぐに車を出した。結局旅館を中途半端に出ることになってしまったので、トオルの親族達にリョウは頭を下げた。だが、仕方のないことだと思っていた。


 車はすぐに旅館を出て、道路を抜けて行く。やがて高速道路に辿り着き、その間何を話すこともなかった。


 人は夢を見て、そしてどこへ行くのか。リョウは嫌な予感を拭えずにいたが、最後に満足そうに笑ったすずの顔が妙に印象に残っていた。


 病院に到着すると、懐かしい薬品の匂いをリョウは感じた。車に他のメンバーを残し、リョウは一人、廊下を歩いた。受付に行くと、近くにいた懐かしい人物がリョウを発見した。


「新守先生」


 リョウが声を掛けると、眼鏡を掛けた男性は微笑んだ。


「やあリョウ君、久しいね」


「すず――不藤すずに面会に来たんですけど」


 だが、リョウがそう言うと、新守先生はとても寂しそうな顔になって、言った。


「……その件なんだけど、実は不藤さん、急に病気が悪化してしまって」


 それは、予想された言葉だった。だからなのか、何も感情は動かなかった。まるで凍り付いたように、リョウの心は固まっていた。


「……部屋は」


「まだ、全てそのままだよ。急な話でね」


「見ても良いですか?」


「ああ、もちろんだよ」


 新守先生に案内され、リョウは冷たい床を歩いた。無機質なスリッパの音が響いた。部屋の向こうでは、入院患者と思わしき子供達が談笑している。すずの部屋が目に入った。白いカーテン、机と椅子。その部屋の中には、新品の自転車が置いたままになっている。リョウはそれを見ると、新守先生に訊いた。


「新守先生、あれは」


「不藤さんの誕生日プレゼントということで、親がね。ここに配達させたんだ」新守先生はそう言った。「その直後のことだったから、車で出て行って。まだ、ここに」


「俺、届けます」


 リョウがそう言うと、新守先生は頷いた。リョウは自転車のハンドルに手を掛け、それをゆっくりと動かした。新品の自転車の匂いがした。その匂いがすると、聞いただけでは感じられなかった消失感が湧き上がってきた。


「リョウ君?」


「……いえ。なんだか、ちょっと」


 そこから先に言葉は続かなかった。その代わり、リョウは新守先生に訊いた。


「新守先生。もしも俺が――夢の中ですずと出会って、そのせいでここに来ていたとしたら。嘘だと思いますか」


 予想外の言葉だったのだろう、新守先生はやや驚いた顔をしていた。その後に、微笑んだ。


「思いませんよ。……虫の知らせというものがある。親しい人間にほど、それは強く伝わるものだ」


「……ありがとう、ございます」


 リョウが礼を言うと、新守先生は窓の外を見た。窓を開くと風が吹き、カーテンが窓の外側に流れる。その様子を、新守先生はしばらく眺めていた。


「患者の病気を一番に分かっていたはずの私には、その知らせは来なかったけどね」


 新守先生は、寂しそうな顔をした。リョウは自転車のサドルを強く握った。


「必ず、届けます」


「ああ。不藤、りんさんによろしく」


 リョウは頭を下げて、その場を離れた。


 リョウが病院で話したことを車に戻り説明すると、それぞれ考えることがあるようだった。あの事件の後なのだ、世界が繋がっていると思う他になかった。


「……そうか。なら、俺は帰る」


 ジンがそう切り出した。すると、さつきが頷いた。


「あたし達が入れる空気じゃ、なさそうだもんね」


「自転車、届けてあげてよ」


「ごめんな。みんな、ありがとう」


 さつきとトオルがそう言うと、ジンは二人を車に乗せて走り去った。リョウは軽く手を振ると、その後ろ姿を見送った。ふと、みもりがいないことに気付いた。挨拶できないのは仕方ないが、りんの家へと向かわなければ。そう思いリョウが自転車に跨った時、背後で声が聞こえた。


「リョウ先輩――――!!」


 振り返ると、みもりが息を切らしながら駆け寄ってきた。何故、みもりが病院から出て来るのだろうか。だが、その腕に抱いているものを確認すると、リョウは驚いた。


「……ジン先輩、みもりを置いていきましたね。呪ってやる……後でこの子に食べてもらいましょう」


 みもりはそう言うと、腕に抱いたうさぎの縫いぐるみをリョウに向け、がお、と言った。リョウがその様子に少し笑うと、みもりも笑った。


「やっと笑いましたね、リョウ先輩。みもりがノーリアル・ワールドの話をしてからずっとぶきっちょ面だったから、心配してたんですよ」


「それを言うなら仏頂面だ。何で病院から出て来たんだよ」


「りん先輩が妹さん連れて旅行に来るっていうから、わざわざ用意したんですよ、これ。渡せないのも、と思って」


 みもりはマッドラビットを見せた。そういえば、嫌いだというのにみもりは持っていた。すずがマッドラビットを好きだということを、事前に確認していたのかもしれない。


「病室が分からないから、戻ってきたんですけど――……」


 みもりはこの時間にリョウが出てきたことと、ジンの車がそこにないこと、リョウが自転車に跨っている様子を見て、何かを察したようだった。


「……この子には、ここに入っていてもらいましょう」


 そう言うと、うさぎの縫いぐるみを自転車の前籠に入れた。


「これから、りん先輩の家ですか?」


「良く分かるもんだな」


「何せ、戯言の仮面を持つほど口数が多いですから」


 リョウはそれを聞いて、少し笑った。


「リョウ先輩。みもりはね、楽しくないことは嫌いなんです」


「ああ、知ってるよ」


「楽しいと思っているから、一緒にいるんですよ。……すずさんだって、同じはずです」


 みもりの言葉を聞いて、リョウは目を見開いた。


「みもり達といると寂しくないって、伝えてきてください」


「……ああ。分かった」


 リョウは駅へと向かうみもりに手を振った。


 自転車に跨り、りんの家へと急いだ。リョウの身体には小さな自転車は漕ぎ辛く、スピードはちっとも出なかった。だが――、それでもリョウは、自転車に乗った。


 このまま、空さえ飛んでいけるような気がした。もちろんそれはノーリアル・ワールドの出来事であり、現実には空を飛ぶことはできない。リョウが光の剣を握ることもなければ、うさぎの縫いぐるみが手を叩くこともなかった。


 だが、この縫いぐるみと自転車は、どういう訳か持ち主を探しているような気がしたのだ。友達を――そして、運転手を探していた。


 光の少年というのは、すず自身の気持ちの現れだったのではないかと思った。人懐っこく、仲間を求める少年――思えばすずは、信頼できる仲間というものを強く求めていたのではないか。だから、リョウの戯れの仲間になりたかったのではないか。


 そう。子供の頃は、皆で遊ぶことがとても重要だった。誰か一人でも欠けたら楽しくなかった。だからこそ、すずは仲間を求めたのだ。学校では病気を理由に虐められていたし、病院では、きっと仲間はできなかっただろうから。


 長い時が経ち、リョウは大人になった。まだ幼く、虚弱ですぐに身体を壊すりんを荷台に乗せて、色々な場所を走って回った。だがいつしかその時は過ぎ、りんもまた大人になった。だから、忘れていた。


 あの時、りんは病気のせいでとても苦労をしたのだと。


 ならば、ノーリアル・ワールドでの七月二十二日は、存在したのだろうか。それは、すずの人生を豊かなものにしたのだろうか。


 すずは、誕生日を迎えられたのだろうか。


 リョウがインターフォンを押すと、りんが玄関先に立った。


「……リョウ」


 りんの目は真っ赤に腫れていた。泣き通していたのだろうか。旅行に旅立った時から? だとするなら、


「気付けなくて、ごめんな」


 そう答えるのが最善だった。りんは驚いた。


「な、なんで? どうして?」


「おじさんとおばさんは?」


「……急用で。今はいないよ」


「中にすず、いるんだろ」


 リョウが聞くと、りんは自らの身体を抱いた。まだ、その言葉は聞きたくないだろう。……だが、頷いた。


「上がるぞ」


「ちょ、ちょっと」


 りんはリョウの手を握った。何も食べていなかったのではないかと思えるほどに、冷たい手だった。りんは気まずそうな顔をした。


「駄目か?」


「……いいよ」


 リョウは家の中に入った。りんの部屋の手前にすずの部屋がある。入ると、ベッドは盛り上がっていた。リョウはゆっくりとそれに近付き、顔の部分が白い布で隠されていることに気付く。リョウは少しためらったが、覚悟を決めてゆっくりと布を避けると、そこにすずはいた。


 真っ白な肌、まだ幼い顔立ち。桃色の唇。紛れもなく、あの日のすず、そのままだった。違うのは目を閉じていることと、もう二度と目を開くことがない、ということだけだった。


「……葬儀は?」


「今、お父さんとお母さんが準備してて。もうすぐ戻ってくると思う」


「……そうか」


 リョウは布をそっと戻した。北向きの遺体と枕飾りがリョウの胸に響いた。


「いつからなんだ」


「……昨日の、朝に。丁度、電話もらった時くらいから」


「どうして、黙ってた」


 分かっていたが、リョウは訊いた。


「もうすぐ、葬儀の日程が決まったら、電話しようと思ってたよ」


「そうじゃねえよ。……どうして、すずの調子が本当は良くないことを黙ってたんだ」


 リョウが聞くと、りんは俯いて答えた。


「調子が悪い、なんて言ったら、本当に調子が悪いみたいじゃない。……まだ、治る可能性があったもの。奇跡が起きるかもしれなかった。……だから、諦めたくなかった」


「それでも、病状のことは」


「今の私は病気じゃない。だから、きっと大丈夫だって、言ったじゃない」


 リョウはりんに何も言えなくなってしまい、ただりんを見ていた。りんはすずの部屋の隅で座ったまま、動こうとしない。リョウは仕方なく、すずから離れようとした――が、不意にりんが口を開いた。


「夢を見てたの」


 一瞬、何のことなのか分からなかった。だがリョウが耳を傾けたことを確認すると、りんは話し出した。


「夢を見てたの。夢の中で、私はすずなの。もうすぐ誕生日だって思っていて、もうすぐみんなの仲間に入れて貰えるって思っていて、その夢が奇跡的に叶うの。見たこともない旅館に辿り付いて、そこではリョウ達が眠っていて。私はみんなの仲間に入れて貰えることが嬉しくて。でも、見たこともないメンバーが一人増えていて、その人が私がりんじゃないって言うのよ。私は嘘がばれたと思って、何だか妙に悔しくて。それで」


「巨大なバースデーケーキになって、めちゃくちゃにしようとした」


 リョウが続きを話した。りんは驚いて、リョウの顔を見た。


「夢じゃねえよ」


「……え?」


「それは、夢じゃない。……りんも、来ていたのか」


 叶うはずのない思いを。


「ノーリアル・ワールドに」


 あるはずもない世界に向けて。


 りんは立ち上がって、リョウと向き合った。二人のそばでは、すずが眠っている。


「……信じても、良いのかな? 奇跡が起きたってこと。すずは」


 すずは、誕生日を迎えられたのか? その問いかけに、リョウは頷いた。しっかりと頷いて、そして――……笑った。


「奇跡は、起きたんだよ。そう信じようぜ。少なくとも、俺達は。信じていよう」


 りんは頷いた。少しだけ心が軽くなったように見えた。リョウはすずの手を握った。今までからは想像もできない程に、冷たい手だった。


「誕生日おめでとう、すず」




 すると、どうだろうか。




 すずの部屋の様子が僅かに変わったように感じた。一瞬、何が起きたのかリョウには分からず、辺りを見回したが――変化があるようには思えない。りんも変化に気が付いたようで、部屋の様子を見ていた。自分の気のせいではない。リョウがそう確認したころ、部屋の中に音楽が流れた。


 すずのピアノ。ノーリアル・ワールドではずっと流れていた、すずの思いの欠片。大好きな姉に向けて、姉のプレーヤーに録音した。


「……フレデリック・ショパン。『別れの曲』」


 りんが呟いた。リョウはすずの手を握ったまま、どうしていいのか分からずにいた。『別れの曲』は本来のテーマの通りの遅いカンタービレだった。だが、その叙情的な旋律はすずの弾いたものであると――そんな予感をさせた。


 瞬間、そこで寝ていたはずの、今まさにリョウが手を握っている――すずが起き上がり、リョウに笑った。




「ありがとう、リョウお兄ちゃん。お姉ちゃんをよろしくね」




 リョウが反応するよりも早く、りんが声を掛ける間もなく、すずはリョウに口付けをした。


 リョウには、何が起きたのかが分からなかった。


 すずは眠っている。辺りに響いた『別れの曲』もどこへやら、場は静寂に包まれていた。リョウは呆然としていた。すずの手を離すと、何も変化が起きていないことがよく分かった。


 それはおそらく、一瞬のまやかしであった。すずは白い布を顔に掛けたまま、動くことはなかった。リョウはただ、呆然とする他になかったが――……、ふと、信じられないといったような驚きの表情で自分を見詰めている女性の存在に気が付いた。


「……りん」


 りんは、頬から一筋の涙を溢れさせた。リョウはりんが今どのような気持ちでいるのかを理解した。


「……見たのか?」


 りんは、頷いた。


「見たのか」


 何度も、全く変わらない表情のまま。


「見た」


 溢れた涙が部屋の床に落ちた。りんがリョウの胸にしがみついた。そして――、泣いた。『別れの曲』が流れていたはずのすずの部屋で、ありもしない、また有り得ることもない一瞬の幻覚に心を通わせながら。




「そっかあ、じゃあすずちゃん、笑ってたんだ」


 その後のことだ。無事学校生活も再開し、リョウ達はもう幾許もない学生の本分に戻った。いつもと変わらない帰り道、夕暮れの光がリョウ達を包んでいた。もうじき昼は短くなり、夏が終わるだろう。そして、旅行で起きた奇跡など、時間と共に過ぎて行ってしまうものかもしれない。


「でも、不思議なことがあるもんだなあ。ただの旅行仲間として付いて行ったつもりだったんだけど、面白い体験ができたよ」


 トオルがそう言うと、それはたまたまだ、と皆、笑った。


「そういえば、りんちゃんは?」さつきが訊いた。


「葬儀に行ったばっかりだからな。まだ、色々やることもあるんだろうさ」


「……大丈夫そうだった?」


 さつきが不安そうな顔で訊くので、リョウは笑った。


「何しろ、奇跡を見ちまったからな。いつまでも泣いている訳にもいかねえだろ」


 それは満面の笑みだった、とリョウは思った。だが、すずはノーリアル・ワールドに残ったのだ。その後、どうなるのだろう。あの狐がどうにかしてくれるのだろうか。


 何しろ不確かな世界なのだから、それはリョウの分かる所ではなかった。


「遠い昔にさ。子供のころは、もしかしたらこんなことはたくさん経験していたかもしれないって、思ったんだ」


 そう言ったのはジンだ。何かを思い出すように、夕日の向こう側を眺めているようだった。


「例えば、友達と遊びに出て。不思議な世界に辿り着いて、そこで一日遊ぶんだよ。でも次の日にみんなに確認しても、誰も覚えてない、なんてな。もしかしたら、ただの夢だったのかもしれない。いや、きっと夢だったんだろうが。本当にあったんだ、なんてさ。意地張って信じていた時があったんだよ」


 珍しく流暢に喋るジンを見て、リョウが笑った。


「でも俺達は、みんな覚えてる」


「ああ。それが違いだ」


「みもり達は、この旅行を最後に別れてしまいますから。いつまでも仲間でいなさいよって、すずさんは教えてくれたんですよ」


 みもりがそう言った。


「なんだ? いつもくだらないことばっか喋ってるくせに、やたらとまともじゃねえか」


 リョウがからかうと、みもりはむすっとした顔になった。だが、不意に悪戯をする少年のように輝いた目になった時、少しリョウはからかったことを後悔した。


「子供の頃に感じたようなことを――忘れたくないのかもしれないな、俺は。キラッ」


 一瞬、何を言われたのかが理解できなかった。だが隣でトオルが吹き出したことを確認すると、旅行の夜にリョウがトオルに話していた内容だということを思い出した。


「おま、起きてやがったな!?」


「いっけない、みもりちょっと急用が! すいません、また明日お会いしましょう!」


 みもりはリョウの手のひらに何かを押し付けると、舌を出して駆けて行った。何なんだと思いつつ、リョウは押し付けられた何かを確認した。それはメモのようだ。リョウがメモを開いて中を確認すると、


『密会とか言って、申し訳なかったです。思ったより大変なことだったので、ちょっとだけ反省してます。ちょっとだけね!』


 そう書いてあった、やれ、素直じゃない奴だとリョウはため息をついた。


「そういえばリョウ、りんさんの所に行くって言ってなかった?」


 トオルがそう訊くので、リョウはああ、と頷いて時間を確認した。病院の後片付けを手伝う予定だったのに、もうひどい時間だった。


「げえっ」


 リョウは慌てて走り出した。気を付けて、というさつきの声が届いた。だが、後ろを向いて手を振った。


 そういえば、ノーリアル・ワールドという名前はおかしくないだろうか? リョウは、不意にそんなことが気になった。現実的でないという意味ならば、普通は『アンリアル』になるはずでは――そういえば、蒸気機関車の駅にスペルが書いてあった気がするが。過ぎてしまった夢の記憶というものは、何故か覚えているようで覚えていないものだと思った。


 だが、彼らは忘れないだろう。旅行の日に突如として舞い降りた、七月二十二日の四日間を。




 いかがでしたでしょうか。美しいお話だと思いませんか? ああ、とても時間が経ってしまいましたね、申し訳ない。まあ時間と言いましても、こちらの時間のお話ですけどもね――長い間、お疲れ様でした。最後ではありますが、一つ問い掛けをさせてください。


 あなたにも、遠い昔に不思議な出来事が起こりませんでしたか? それは、忘れてはいないでしょうか。もしも忘れているのだとしたら、その記憶を次は忘れないでください。あるようでないような、不思議なノーリアル・ワールドの出来事のことです。それは存在しないようで、いつもすぐ隣にある『かもしれない』のですから。


 おっと、次の物語が始まってしまうようですね。もう時間がありません。そろそろ、戻りましょうか。


 現実の世界へ。


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