◆七月二十二日 四日目 熱情
固いアスファルトの地面を、二足の靴が歩く音がする。片方の足取りは速く、片方の足取りは遅い。道の両脇に並ぶ青々とした木々が存在感を主張する中で、二人は目的地に到着した。門を見ると、自分が入って良いものなのか、という気持ちが交差した。だが、今日ばかりは自分も保護者のようなものだ。リョウがりんを見ると、りんは俯いていた。
「……りん、入ろうぜ」
「うん」りんは少しばかり、緊張しているようだった。
下駄箱まで向かうと、静かな音楽が流れている。リョウが振り返ると、下駄箱の近くで遊ぶ二人の少女がいた。リョウのことをあまり見ない顔だと思っているのだろう、物珍しいといったような目をしていた。リョウは二人の少女の頭を撫でた。
「何してんだ、お前ら。もうこんな所で遊んで良い時間じゃないぜ」
リョウが微笑むと、二人の少女はこくん、と頷いた。それを確認すると、リョウは立ち上がった。アスファルトの床からフローリングの床へと移動し、来客用のスリッパに履き替える。りんも上履きを持っていないのか、スリッパを使用した。
「お前も昔、通ってたよな。懐かしいか?」
リョウが聞くと、りんは首を振った。
「今でも毎日、来てるから」
「そうだな。でも、俺は懐かしいよ」
「懐かしい?」
「お前が通ってた頃は、毎日門の前まで迎えに来てただろ。――学校も違ったしな、遠かったんだぜ」
「――ああ。そうだったね」
りんは少し、昔を懐かしんでいるようだった。今では同じ学校で、自転車も使っていない。そのせいだろうか。
廊下の向こう側から歩いてくる人影があった。眼鏡をかけた男性だった。リョウが手を振ると、向こうの男性は驚いているようだった。
「新守先生」
「君は――遠野リョウ君かい? 懐かしいな、何年ぶりだい?」
「顔も出さずにすいません」
「ああ、とんでもない。別に君は、ここに用もないだろうし」
そんなことないですよ、とリョウは笑った。新守先生と呼ばれた先生は、リョウの唐突な登場に驚いているようだった。だが、隣にいるりんを見ると、何をしにここまで来たのかを理解したようだった。
「すずは?」
「そこで待っていますよ。早く会ってあげてください」
リョウは新守先生に頭を下げると、廊下を歩いた。りんはきょろきょろと辺りを見回しながら、リョウの後に付いて来ていた。廊下を歩き、フローリングの床を靴で叩いて、扉を開いた。
「あ!」
白いカーテンが風に揺れた。室内に入る日差しが、その場所に幻想的とも言える美しさを与えているように見えた。まだ新しいランドセルが机に置かれている。リョウはそこで自分を待つ少女に微笑んだ。
「リョウお兄ちゃん!」
新品と思わしき連絡帳に絵を書いて、少女はリョウを待っていた。彼女こそ、りんの妹、不藤すずだ。リョウは軽く手を振ると、すずに寄った。
「よー、久しいな。元気してたか」
「もちろん! え、なんで?」
「今日は俺も迎えに来たんだ。りんに頼まれてな」
「そうなの!? お姉ちゃん、ありがとう!」
りんは笑った。リョウは笑って、すずの頭を撫でた。すずは嬉しそうにはにかんだ。新品のランドセルを開くと、既に沢山の教科書が入っていた。国語や算数、以前リョウも勉強した。懐かしいものばかりだ。
「勉強は進んでるか?」
「うん! この間はね、九九をやったんだよー」
「そうか」リョウは笑った。
「ねえねえ、もうすぐ十歳になるんだよ」
すずがそう言った時、リョウの服の袖が少し引っ張られた。りんが期待をするような眼差しでこちらを見ていた。リョウはりんに微笑んだ。
「ああ、おめでとう――はちょっと早いな」
「もうすぐおめでとう!」
「ああ、そうだな」リョウは笑った。
「誕生日プレゼント、もらうんだ」
「そうか。じゃあ、俺からもプレゼントをあげないとな」
「ほんと!? 何くれるの!?」
すずは目をきらきらと輝かせて、リョウを見た。プレゼントとなると、やはり子供は目の色を変える。リョウはこの場所に来るまでに予め考えていたことを口にした。
「今度、旅行に連れて行ってやるよ」
すずがその言葉を理解してから、反応があるまでには多少の時間があった。何を言われたのか、分かっていないようだった。すずは勢いよく立ち上がり、リョウを見上げた。
「本当!?」
「ああ、本当だ。ただし、りんと一緒だ」
「いいよ、大丈夫!」
元気付けてあげて欲しい、とりんに頼まれた。環境が変わり、学校が変わって、大変だったから――リョウは言葉を選んだ。
「これからは、すずも俺達の仲間になるんだぞ。色んな場所に行こうな」
「うん!!」
すずはその言葉を聞いて、とても嬉しそうにした。これで、良かったのだろうか? リョウは心の中でそう問い掛けた。すずが一体どのように不安だと思っていたのか――あるいは、りんが不安に思っていたのか。だが、りんの表情を見てリョウはこれで良かったのだろう、と感じた。
何故なら、りんは笑顔だったからだ。
すずが新品のランドセルを背負うと、リョウの袖を掴んだ。
「あのね、お父さんとお母さんがね、自転車買ってくれるって! でも、乗れないかもしれないの。お兄ちゃん、教えてくれる?」
「俺? りんに教えてもらえよ」
「リョウお兄ちゃんがいい」
そういえば、リョウはいつも学校が終わると自転車で走り回っていた。その頃を見ているからだろうか。りんはリョウの自転車の荷台に乗るのがいつもの流れだった。
「誕生日プレゼント、楽しみだなあ」
「りんは何をプレゼントするって?」
「こらリョウ、そういうこと聞かないの」りんがリョウの脇腹を小突いた。
「秘密だよー」
ふと連絡帳に描かれた絵を見て、リョウは全然隠せていないじゃないか、と思い笑った。すずの連絡帳には、うさぎのマスコットが描かれている。あれは――アニメーションキャラクターのマッドラビットではないだろうか。さて、ゲームセンターに行きたいと言い出したのは誰だっただろうか。
「……すず、もう準備できたの?」
「うん! もうとっくに終わってるよ」
りんがすずの笑顔を見た。リョウもまた、すずの顔を見ていた。それは、満面の笑顔だった。どう表したら良いのか言葉に出来ない程の、まっしろな笑顔。リョウの心には、その存在が強く響いた。
彼女は、生きているのだと。
りんは今にも泣きそうな顔で無理矢理笑顔を作ると、すずを抱き締めた。
「――分かった。帰ろっか」
「うん!」
すずは下駄箱に向かって走った。とても楽しそうにしていた。リョウはすずを追い掛けて歩き出したが、ふとりんが立ち止まっていることに気付いて、振り返った。
「行こうぜ」
リョウが声を掛けると、りんはリョウの目を見た。
「ごめんね。わざわざ、ありがと」
「ああ」リョウは言った。「分かってるよ、お前の気持ちは」
りんは歩き出した。その瞳には、覚悟があるようだった。リョウは迷ったが、りんに声を掛けることにした。
「りん」
りんが振り返ったことを確認すると、リョウは考えていた言葉を口にした。
「今のお前は病気じゃない。だから、きっと大丈夫さ」
りんは笑った。
長い空白の後、リョウは目を覚ました。そこは、旅館の天井だった。先ほどまでは、自分は海を自転車で走っていた――……リョウはそう思いながら、立ち上がった。携帯を確認する。七月二十二日、朝の九時。四日目だ。
この携帯電話が七月二十二日を指している限り、ノーリアル・ワールドからは脱出できていない。そう言われているかのようだ。
続いて、トオルが目を覚ます。部屋の様子を確認すると、みもりの布団に座っている狐が一匹。何故か部屋の中に自転車と、その前籠にはうさぎの縫いぐるみが入っている。
「リョウ」
声を掛けられて、リョウがその方向へ目線を向けた。そこには、りんが立っていた。続いて、みもり、トオル、さつき、ジンも目を覚ます。
「――帰って来! ……てないですね」
みもりが狐を見て、分かりやすく落胆した。相変わらず失礼な娘だ、と狐はため息を付いた。しかし、うさぎの縫いぐるみと自転車が解決したということは、もうこの世界に残っているものはない。それでも、この世界はループし続けている。
相変わらず、さつきはドレス姿、みもりはフード付きマントに仮面を持ち、ジンは詩人のような格好をしていた。まだ戦う相手がいる、ということなのだろうか。
「……どうなったんだろう」
りんが呟いて、布団を避けて立ち上がった。窓の外を確認すると、寄せては返す波を確認することができた。時間は間違いなく、動いている。リョウはそう感じた。同時に、やや世界が淡い色になっているようにも思えた。
「そろそろ、脱出を考えた方が良いんじゃないか? どうすれば脱出できるんだ?」ジンは狐に問い掛けた。
「世界が崩壊する瞬間、どこかに鍵穴が現れる。どうやら、着実に時間は進んでいるようだな」
狐はみもりの肩に乗り、窓の外へ指示を出した。みもりが窓の外に向かって歩くと、狐は頷いた。
「世界の矛盾に解決の鍵があるって師匠が言っていたけど――この世界の主が満足したから、世界は消え始めてるってわけか」
トオルは、何かに納得がいっていないようだった。確かにトオルはこれまでずっと、世界の矛盾について考えているようにも見えた。発見できなかったというのも、個人的には悔しいのだろうか。だが矛盾が無い可能性もまた、あるのだろう。
「ノーリアル・ワールドの矛盾と本人の満足度には、密接な繋がりがあることが多いが――今回は、違ったということか」狐は首を傾げた。
矛盾と言っても、そもそもが秩序も常識もないこの世界で、何に気付けと言うのだろうか。リョウはため息を付いた。世界がループしていると気付くことにすら時間の掛かる世界だ。現実世界と比較してどうであるか――などと、考える余裕はない。
この世界の問題は、うさぎの縫いぐるみと自転車が寂しくならないことだ。それが正解――そこまで考えた時、リョウの頭の中にある懸念が生まれた。
「七月二十二日、朝の九時。もう、何回これを言ったんですかね」
「……みもりちゃん、ちょっと待って」
「トオル先輩?」
この世界の主は、おそらく友達を欲している。そこまでは、何となく理解ができた。うさぎの縫いぐるみも自転車も光の少年も、それを欲していたからだ。――ならば、次にどうしたら良いのか?
「七月二十二日?」
「……はい。そうですけど」
この世界の主は、まだ寂しがっている。そういうことではないのだろうか? 主が登場もせずに、満足することがあるのだろうか?
「『夏休み最後の旅行』に出掛けたのに?」
はっと気付いて、全員、目が覚めたかのようにトオルを見た。トオルは素早く立ち上がり、辺りを見回した。
「まさか、世界の矛盾って――」
瞬間、トオルの身体から光が発された。思わず目を覆ってしまったが、光がおさまるとリョウはトオルを見た。トオルは角帽に黒いガウンを羽織り、さながら博士のような格好に変貌していた。トオルは目を閉じたまま、両手を前に差し出したかと思うと――手のひらを上に向けた。その両手から、目玉が飛び出した。ぎょっとして、近くにいたみもりが飛び退いた。
「とっ、トオル先輩?」みもりが不安そうに声を掛ける。だがトオルは、至って冷静でいた。
ぐるぐると、トオルの両手から飛び出した目玉が空中で回転する。
「……叡智の」りんが呟いた。
「僕達は、夏休み最後の旅行に出掛けた。……どうして今まで気付かなかったんだ。七月二十二日って、まだ打ち合わせもしていないじゃないか」
「……確かに」ジンが呟いた。
「まだある。……そうか」
トオルの両手から出現した目玉が、レーザーライトのような光線を放った。それはゆらゆらと揺れた。
「分かった」トオルの目玉から発されている光線が、りんを指した。
「りんさん、いつここに来たんだっけ?」
「あ、朝だよ? 時間もなかったから――」
トオルの目玉から、映像が映し出される。それは、トオルが起きてからの記憶だろうか。映像の中には、同じような和室の姿が見える。リョウがりんに振り返り、トオルが目を覚ました。みもりはまだ眠っている。
「そうだよね。……じゃあ、どうして布団が六組あるんだろうか?」
特に、当時その場にいたみもりが驚いているようだった。リョウもまた、その指摘には驚いた。確かに、おかしい。りんは朝に来たと言っていた。そういえば、リョウが目覚めた時に走って来たような雰囲気ではなかっただろうか? りんは来ないと言っていた。トオルは五人で予約を進め、布団も来た当時は五組しかなかったはずだ。
ならば、一体いつから布団は六組になっていた?
「分かんないよ、来た時はもう敷いてあったの! ノーリアル・ワールドなんて言うくらいだから、そんなことも起きるんじゃないの?」
「じゃあ、どうやってここに来たの?」
「……どうやって?」
トオルはぐるぐると回転している目玉を両手に吸い込ませた。手のひらは上に向けたまま、トオルは両手を握って目を開く。まるでトオルの目そのものが、今まで両手から飛び出ていたかのようだ。
トオルは至って冷静に、りんを見ていた。りんの方は、明らかに動揺していた。それはまるで――まるで、自分が犯人であることを指摘されたかのようだった。
「りんさん、答えて欲しいんだ。どうやってここに来たのか」
「え、えっと……」
りんは苦笑いをして、答えた。
「この世界のせいで、記憶がないのかも」
トオルは首を振った。
「現実世界での出来事は、誰も忘れていないよ」
りんだけが、遅れて来た。確かにそれは、リョウにも不審に思う点はいくつかあった。はじめから感じていた違和感というものは、もしかしたらそれだったのだろうか?
「何でそんなこと聞くの? ……今は、この世界から出ることが先決でしょ?」
「いや、重要なことだ。師匠は僕達に、『現実世界との矛盾を発見することで、解決に近付く』って言ったんだ。そうだよね?」
「確かに、それは重要なことだが」狐は答えた。このような展開になるとは、思っていなかったのだろう。
「僕達さ、実は『はじめまして』じゃあ、ないんだよ。りんさんはそう言ったけれど――……。ここに来る前に、みんなで顔合わせをしたじゃないか。だから、変だと思ったんだ。それも、覚えてない?」
リョウは眉をひそめた。見れば、ジンも同じような顔をしていた。さつきは、両手を合わせて胸に当てていた。みもりは怪訝な顔をしていた。トオルが言っていることは――
「あー、そっか! 思い出した!」
トオルが言っていることは、嘘だ。
「そうだったね、ごめんね。すっかり忘れてたよ」
トオルはそうか、と頷いた。みもりがりんのそばから離れた。さつきはジンの袖を引っ張り、ジンはさつきを無視して腕を組んでいた。りんだけが――取り残された。理由が分からず、りんは狼狽していた。
「来られる訳がなかったんだ。僕達はジンさんの車でここまで来た。夜のうちに、どうやってここに辿り着くんだろうか? 場所も教えていない、名前も知らない旅館に、たった一人で辿り着いたって?」
トオルの視線は、りんに突き刺さった。そして、誰もがりんを見ていた。りんは後退り、和室の壁に背中を付けた。
「この旅行の打ち合わせに、不藤りんは参加していないんだよ。僕達は『はじめまして』だ」
りんの瞳が揺れた。トオルはりんを指差した。
「不藤りん。君は、君だけが――『ノーリアル』だ」
はっきりと、りんは偽者だとトオルは言った。それはつまり、どういうことだろうか?
りんは今、ここにいないということだろうか?
「……ひどいよ。犯人探しみたいなことして」
りんの様子がおかしかった。不安定になっているのか、その声はひどく暗く、重たいものだった。背後で流れる曲のテンポが増していく。これは、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの『熱情』だ。まるでその曲調に合わせるかのようだった。りんは何も言葉を発していなかったが、リョウにはりんの様子が、りんの感情が昂ぶり、やがて爆発しそうになっているのではないかと感じた。
「みんな、仲間だって言ったじゃない」
その時、リョウにも異変が訪れた。まるで砂嵐のように、視界がぶれた。何が起こったのか分からず、リョウは膝をついた。
「リョウ君!?」
「リョウ!!」
さつきとジンがリョウに声を掛ける。だが、リョウにはその声に返事をする余裕がなかった。頭が熱い。無理矢理記憶を押し付けられているかのように、リョウは目蓋の裏側に強い熱を感じていた。
「ずっとずっと、仲間だって言ったじゃない」
光の少年が、リョウの目蓋の裏側で回る。カツン、と何かの音がした。リョウは思わず、声を出してしまいそうになった。頭が熱い。焼けてしまうかのように、熱い。青空が見える。自分は何かに寝転がって、目を開いている。隣で誰かの声が聞こえる。
『ねえ、リョウ。本当は、私、もう――――』
「もう、だめなの? これでおしまいなの?」
リョウの記憶の中の台詞に、ノーリアル・ワールドのりんの台詞が繋がる。りんの声音が幼くなっているのが見える。りんは泣き出し、退化し、背は縮んでいった。その様子を誰もが凝視していた。
「ねえ、もっともっと遊ぼうよ。せっかく、最後の旅行なんだよ。でも私、参加できたんだよ。私、これでもう」
左手首から先の感覚がない。点滴で繋がれた手首が下がる。肺が苦しい。頭が熱い。遠くで誰かの声がする。それらはぐるぐると回り、目蓋の裏では砂嵐が流れる。ああ、耳鳴りがうるさい。もはや、人の声なのか鳥の音なのかの区別が付かない。これでもう、おしまいなのか。誰かの気持ちがリョウに届く。
「おしまいなんだよ」
左手首が垂れ下がる。リョウは両耳を押さえ、叫んだ。
「やめろ――――――――!!」
りんは見る見るうちに赤子になり、衣服だけが地に落ちた。赤子はぎゃあぎゃあと泣いている。りんは「なんとか間に合った」と言った。そしてその後、りんは何と言っただろうか? リョウは聞いた。噂の奇跡が起きたのか、と。その時、りんは長い髪を撫でながら、こう言わなかっただろうか?
そうだよ。
「そっか。もう、おわりなんだね」
唐突に泣き止んだ赤子が喋った。その声は、りんのものではなかった。沢山の人間の声が入り混じった時のように、ぼやけて霞んでいた。
「全員構えろ!! 世界が変化を始めるぞ!!」
みもりの肩にいた狐が叫んだ。だが、リョウは身動きが取れずにいた。先程の映像のせいだろうか、身体のバランスが保てなかった。目を開くと、パズルか何かのように旅館の風景が『剥がれていく』。そして、剥がれた旅館の風景はどこかに『落下した』。例えるならば、そう表現するのが一番正しいだろう。
非現実的な光景に、目を奪われた。部屋も、窓も、窓の外にあった波も、砂浜も。すべて、剥がれて落ちていく。真っ青な空間の中にリョウ達はいた。大空に投げ出されたようだ。はるか下に地面が見える。だが、リョウ達は空中に静止し、浮かんでいた。立ち上がることも出来る。不思議な感覚だった。
なおも音楽は流れ続ける。りんの心の内を見透かすかのような、感情的で激しい曲調。それは、物語のクライマックスに相応しい音色だった。
「なに、これ……」
さつきが地面を見て呟いた。音楽はボリュームが上がり、その存在を主張するようになっていた。
「あれ、見てください!」
みもりが指を差した。ようやく視界が戻ったリョウが見ると、元りんだったものは赤子になり、赤子だったものは包帯に巻かれて動いていた。それはとても不気味な光景だったが、ある意味では幻想的でもあった。
「避けろ!」
ジンが言う。後ろを振り返ると、鉄骨が飛んできていた。慌ててそれを避けると、鉄骨は暫らく進んで空中で静止した。あちらこちらから飛んでくる鉄骨には規則性があり、ある一定の距離を保ち、交差して組まれていく。
あっという間にリョウ達は、空中で組まれる鉄骨に囲まれてしまった。包帯はやがてひらひらと揺れながら、その質量を増大させていく。バスケットボールほどの大きさだった包帯の玉はやがて人間一人分ほどの大きさになり、そしてさらに大きくなっていった。
不意に、その包帯の玉の中から何かが飛び出した。それは高速で飛び回り、目にも止まらぬスピードで動き続けた。
「……あれ?」
そして、それはトオルの身体を貫いた。
「トオル!!」
「トオル先輩!!」
ジンとみもりが同時に叫んだ。だがそう思うのも束の間、今度はさつきが右足を貫かれた。それの速度は衰えることなく、リョウ達に襲い掛かった。
「みんな、俺の後ろに隠れろ!!」
ようやく動けるようになったリョウは貫かれたトオルを回収し、ジンの後ろについた。みもりが慌てて隠れ、さつきも後ろに入ったことを確認すると、ジンは周囲全体を覆い尽くすバックラーを出現させた。バックラーは半透明なので、激突した何かが落ちる瞬間を確認することができた。
「……ろうそく?」ジンがぼやいた。
「トオル先輩!! さつき先輩!! 大丈夫ですか!?」
みもりが泣きながら叫ぶ。トオルは貫かれてぽっかりと胸に空いた穴を眺め、呆然とした。
「……はは、なんだこれ」トオルは痛みに悶えていた。血は出ていないようだが、やはりノーリアル・ワールドでも痛みは感じるようだ。食べられたみもりの痛みは想像を絶するものだったのだろう。
「大丈夫。任せて」
さつきが天に祈りを捧げるように、両手を組んだ。すると、さつきの全身が光り、祈りを届けるかのように光は空へと向かっていく。みもりは驚いて、その光景を見ていた。さつきから発される光はトオルにも向かい、胸の傷を修復させた。
「さつき先輩」みもりは安堵した。だが、トオルの傷を修復したさつきはかなり体力を消耗したようだった。
包帯の玉はやがてリョウ達が見上げてしまうほどの巨大なものになり、その包帯が外された。
「バースデーケーキ」
さつきがそれを見て、そう言う。包帯の中から出てきたのは、巨大なショートケーキだった。生クリームの上には巨大なイチゴが並び、さらにその向こうには沢山のろうそくが火を点けられ、燃えていた。何故かろうそくはぐるぐると回っている。ケーキ自体が回っているのかもしれない。
巨大なバースデーケーキはろうそくを射出する。四方八方から飛んで来るろうそくを、ジンは盾でガードした。強烈な打撃に、ジンの盾は傷付いていった。盾に衝撃が走ると、ジンも同じようにダメージを受けているようだった。
「このままじゃすぐに割られるぞ……!!」ジンが言う。ジンの息は上がっていた。どうやら、それなりに体力を使うものらしい――……
「ちょっと、攻撃なんて反則ですよ! こっちは戦う能力持ってないんだから……」
みもりが嘆くが、バースデーケーキはおぞましい声を上げながらろうそくを飛ばして来る。さつきの右足は完治には程遠く、すでにさつきは力尽きていた。
「ぐう……もう、耐えられん……」
ジンが脂汗を滲ませながら、そう答える。ジンが出現させていた半透明のバックラーにヒビが入った。ジンの体力と比例しているようで、ジンは肩で息をしていた。
「リョウ先輩! 先輩の力って、『勇気の剣』なんでしょ!? さっさと力を開放してくださいよ!!」
みもりがリョウの腕を振る。リョウは戦いの最中、呆然と立ち尽くしていた。トオルが起き上がり、『叡智の瞳』を出現させるために両手を開いた。
「何か、弱点はないのか……!!」トオルは『叡智の瞳』を使い、バースデーケーキを観察し始めた。
「勇気の……?」
リョウはみもりを見詰めた。その時のリョウは、ひどい顔をしていただろう。みもりはリョウの顔を見るなり、愕然とした。
「あの中には、りんが、いるんだぞ」
バースデーケーキの声は、嗚咽のようにも聞こえた。ひどい音を立てながら、ぐるぐるとケーキは回転を続けた。そこら中のものに当り散らすかのように、四方八方をろうそくが飛び交う。それは、まるで悲しみに暴れているかのようだ。
そう、悲しみに暴れているかのようだった。
「いませんよ! りん先輩なんて、この世界のどこにもいないんですってば!! トオル先輩だって、りん先輩がノーリアルだって言ってたじゃないですか!! しっかりしてくださいよ!!」
みもりがリョウの身体を揺さぶる。だが、リョウには分かる。
『なんとか間に合った、かな』
あの場所にいたのは、間違いなく人間だ。彼女は秩序と常識を持っていた。この、秩序と常識の存在しない世界で――……。
『奇跡が起きたら、行くかも、ね』
『そうか。まあ、そうだな。なんだよ、噂の奇跡でも起きたのか?』
その時、確かに奇跡は起きたのだ。
『そうだよ』
だって彼女は、そう言っていたから。
「ああもう! みもり部隊、バースデーケーキを攻撃してください!!」
みもりが仮面を用意し、叫ぶ。――だが、何も変化はなかった。みもりは辺りを見回し、幻想の中に現れる部隊を探した。だが、何も助けに現れることはなかった。
「……どうして!? もう、肝心な時に役に立ちませんね!!」
「みもりちゃん」トオルが瞳を回転させながら言う。「もしかして、戯言じゃないと駄目なんじゃない?」
みもりは、ぽかんと口を開いた。前回は、『バカには見えない』という制約があった。そのせいだろうか?
不意に、回転するバースデーケーキの中から、ろうそくとは違う何かが飛び出した。それは宙を舞い、リョウ達のもとへ落下していく。リョウがそれを確認した時、リョウの中にある仮説が生まれた。
「……おいジン、頼む。上の防御を解いてくれ」
「……なんだって?」
りんが、落ちてくる。だから、上の防御を解いてくれ。リョウは、ジンに伝えた。
間違いなく、リョウ達が接していたのは、りんの姿をした人間だった。だとしたら、一体それは誰だったのか?
「え……!? りんちゃん!?」
さつきが驚愕に目を見開いている。
『どうして……? どうしてなの……? こんなこと、おかしいよ』
彼女自身も、この世界には納得していなかった。寂しい世界だと、そう言っていた。ならば、それは誰の世界だったのか?
この世界の主とは、一体誰だったのか?
それをリョウが確信した時、リョウの身体を光が包み込んだ。風にマントが揺れた。鋼の鎧、青銅の篭手、分厚いブーツを装備し、頭に鉢巻を巻いた。そして、腰には自分の背丈ほどもありそうな、巨大な剣を――構えた。リョウは手を伸ばす。上空から落ちてきたりんを、リョウは捕まえた。
「……リョウ、先輩」
みもりが呟いた。
「りんちゃんがケーキになって、その中からりんちゃんが……あれれ?」
さつきは動揺していた。ジンが気合いを入れるが体力が尽きたのか、巨大なバックラーは跡形もなく消し去った。八方から、ろうそくの束がリョウ達を目掛けて襲い掛かってくる。
リョウはそれを、全て真っ二つにした。
「もう、やめろ」
リョウは巨大なケーキになって回転する、『それ』に声を掛けた。
「みもり、俺が距離を詰める間、あれの気をそらせるか?」
「リョウ先輩……!? 分かりました、やってみます」
みもりは目を閉じて、仮面を装着した。すう、と大きく息を吸うと、みもりは目を開いた。
「昔々、あるところにおじいさんとおばあさんがいました!! おじいさんは川へ芝刈りに、おばあさんは山へ洗濯に行きました!!」
全力でみもりは意味不明な物語を話し始めた。青空の向こうに、生い茂った木々に囲まれて洗濯を試みるお婆さんがいた。とてもではないが、洗濯するのは無理だろう。
みもりの言葉に反応したのか、『それ』はぴたりと回転を止めた。
リョウはそのバースデーケーキを斬ることを決意した。中に何があるかを知っていての決断だった。抜き身の剣を構え、リョウは駆け出した――広がる青空の下、ただ一つ不自然にそびえる『それ』に向かって。
「おばあさんが山で洗濯をしていると、どこからか『エンヤコーラ!!』と山を登る桃が――もう限界ですさっさとなんとかしてくださいよリョウ先輩!!」
「いけ、リョウ!!」
ジンが汗だくの顔で叫んだ。リョウも止まる気は全くなかった。この世界を、このノーリアル・ワールドを、終わらせるために。リョウは大上段に構え、青空を蹴り、青空へ飛んだ。太陽の下、リョウの剣は光り、他のメンバーの目に届いた。
「聞け!!」
リョウは長いノーリアル・ワールドの旅路の中で、ずっと気になっていたことがあった。
現実世界との矛盾とは、つまり――……何故、不藤りんの病気が治っていないのか、ということだ。
彼女の病気は遥か昔に治った。りんはそれを克服していたはずなのだ。だが、ノーリアル・ワールドでのりんは、すぐに体調を崩していた。
もしもそれが、りんではなく、すずであったとしたら?
もしもそれが、『不藤りん』の姿をした、『不藤すず』であったとしたら?
『ちょっと、まって』
すずは来てないのか、とリョウが聞いた時。自分の顔を確認するため、洗面台に走ったりん。あれは――自分の髪型を確認していたのではなく、自分の姿を確認していたのではないか?
もちろん、そんな予想に根拠などない。だが、少なくとも彼女は『不藤りん』ではなかった。ならば、それは誰だったのか?
どうしてリョウはずっと、過去の記憶を見ていたのか。りんはずっと、リョウに伝えようとしていたのだ。この世界を誰が用意したのかを。本当は、何を伝えたかったのかを。
大雨が降った日、二人で待ち合わせをして、すずを迎えに行った日のこと。新品同様のランドセルと、もう二度と使われることのない連絡帳を前にして、自分の状態が危険だとも知らずに、微笑んだすずのこと。
「お前は、俺が助ける!!」
もしも現実世界ですずが既に死んでいて、この世界で再会したのだとすれば――……確かにそれは、奇跡だ。
何故、こんなにも悲しい世界なのか。それは、彼女が作り出した感情が秩序となった世界だからではないのか。たった一人、いつ起こるのかさえ分からない苦痛を前にして、彼女が願った世界だからではないのか。
ならば、自分はそれを幸せな世界にしてやらなければならない。
俺達は、仲間だから。いつも、リョウはそう言っていた。
りんの病気は治った。病気が治っていない人間が他にいるとしたら、それは『不藤すず』以外にはいなかったのだ。
りんが不安そうにしていたこと。まるでそれが自分の病気であるかのように、心配に思っていたこと。自分が幼かった頃、同じように危険な状態を乗り越えてきたこと。奇跡が起きたらだって? 冗談じゃない、とリョウは思った。だって、あの時は元気そうにしていたじゃないか――……
「すず!!」
あの、病院で。
 




