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◆七月二十二日 三日目 亜麻色の髪の乙女

 雨上がりの光る道を、騒がしくエンジンの音を立てて一台のバスが走って行く。ただ無機質な機械の音だけが辺りに響いている。そのバスの動きは遅く、どうやら渋滞に巻き込まれているようだった。


 リョウはりんとバスに乗った。結局、りんが忘れ物だと取りに戻ったのは小さな音楽プレーヤーだった。りんは音楽プレーヤーのイヤホンを耳に挿し、目を閉じてリョウの胸に頭を預けていた。目的地が近付くにつれ、その顔色は悪くなっているように感じられた。


「大丈夫か?」


 リョウが聞くと、りんは僅かに目を開いた。だがリョウの目を見ることはなく、そのままの様子でいた。リョウはりんの体調が悪いのかと気にしていたが、ふとりんは微笑んだ。


「大丈夫」


 りんの耳から僅かに聞こえる音楽の音色が、リョウに届く。りんは頭をリョウの胸に預けているため、イヤホンがとても近い位置にあるせいだろう。


「なあ、何聴いてるんだ」


 リョウは問いかけた。りんは何かを喋ったが、それはバスのエンジン音にかき消されてしまった。だが、答えを聞かなくともリョウには分かった。それは、りんの妹――すずのピアノだ。りんはイヤホンを片方だけ外し、リョウに渡そうとした。リョウはそれを受け取るべきか迷ったが、結局のところ受け取ることにした。


 程なくして、イヤホンから静かな音楽が聞こえてくる。物静かで主張しないが、何かを訴えかけられているような気がした。


 それは心が洗われるような、純粋なメロディーだった。


「なあ。これ、なんて言うんだ?」


「『亜麻色の髪の乙女』。クロード・ドビュッシーよ。私の知っている曲を順番に弾いて、録音してくれたの。私のために」


 ふとした瞬間に、車の雑音にかき消されてしまうような――……。儚げで頼りなく、まるでそれは今隣に居るりんのようだった。バスが目的地に近付くたびに、りんは少しずつ元気を失っていった。それがどういう意味を持っているのかは、リョウには分からなかった。


「綺麗な音色よね。すずは天才だから――……きっと、将来は期待されるわ」


 だから一体、なんだというのだろう。


「……ああ、そうだな」


 バスのブレーキに合わせて、りんの頭が上下する。何故かそんなことだけが、リョウの意識に入っていた。絶え間なく流れ続ける音色は、先程まで降っていた雨のように鮮明だった。


「ごめんね。元気なくて」


 それは、良いけど。リョウはそう言おうと思ったが、りんが言葉を続けるような気がしたので黙っていた。りんはふう、と息を吐いた。何かを考えていて、それを考え終わったかのような様子だった。りんは何を考えていたのだろうか。


「……リョウ、さ」


「ん?」リョウが返事をするが、りんはリョウの顔を見ることはなかった。


「たとえば、もしも私があと一ヶ月の命でさ、すぐに死んじゃうって分かったとしたら、どうする?」


 何かを暗示するかのような言葉だった。言葉の真相はもちろん理解などできない。何か情報を集めようと、リョウは視線を動かした。サイドの髪の毛がりんの顔にかかり、表情を確認することができない。


「どういうことだよ」


 リョウは聞いたが、返答は帰って来なかった。バスは小刻みにアクセルとブレーキを繰り返し、一向に動く気配を見せない。かなりの渋滞のようだ。リョウは考えの読めないりんの横顔を見続けた。すると、りんがリョウの顔を見た。その表情はリョウが見ても分かるほどに陰鬱だったが、りんは隠そうとはしなかった。


 何故か、その表情を見ると息が詰まりそうになってしまう。


「……ごめんね。なんでもない」


 リョウは返答に困り、りんから目をそらした。たちの悪い質問をしていることに気付いていたのかどうなのか、りんもまたリョウの解答を聞くことはなかった。


 音楽プレーヤーから流れている『亜麻色の髪の乙女』が終わる。短い曲だった。そのためか、一曲の枠の中に繰り返し録音されているようだった。


「何だか、ね。もしかしたら、そういう覚悟もしないといけないのかなって思って」


「――正直に答えて欲しいんだけどさ。病院は、結局お前になんて言ったんだ?」


 リョウがそう聞くと、りんは両手を合わせ、胸を押さえるようにした。良くない知らせかもしれないと思い、リョウは固く唇を閉じた。


「ほんとのこと言うとね、何にも分からないんだって。現象が特定できなくて……今は、もう暫らくは大丈夫らしいの」


 もう暫くは、ということは。リョウはりんの言葉の先を理解してしまった。


「でも今後、いつになったらその症状が起きるのか、問題が起きるのか。問題が起きたとき、改善できるのかどうかも分からないらしいの。でも、これ以上はもうどうしようもない、って。……ついさっきまで元気だったとしても、ある日突然調子が悪くなって――……っていうことは、やっぱり、あるかも、って」


 りんはどれほどの不安を抱えているのだろうか。リョウにはりんの気持ちを理解することは出来なかった。だが、りんはいつも自分一人で抱え込む癖がある。それを知っているリョウは、りんの今にも折れそうな細い肩を抱いた。


「ちょっとね、弱気になったの。お医者様は大丈夫だって言ってたし、私が気にしても仕方がないことだって分かってるんだけど。……どうしても、診断の結果が悪い方に出たらって、考えてしまっていたのよ」


 ほんの少しでも、りんの不安を包み込むことができていればいい、などと考えた。


「……治るって。大丈夫だよ」


「考えてるとね、すずに会うのが辛くなるの。お姉ちゃん元気ないよって、いつか悟られてしまいそうで――……あの笑顔に答えられなくなってしまうんじゃないかって、不安になるのよ」


「お前は元気だ。病気じゃない」


 りんの瞳に、リョウの視線が重なった。


「少なくとも今、お前は病気じゃない。治ったんだよ。だから、きっと大丈夫だ」


 たとえ、過去にどのような病気に悩まされていたとしても。今後、どのような病気に侵されることがあっても。たった今、この瞬間のりんは、元気なのだから。そう伝えるつもりだった。だが、続くはずの言葉は沈黙の静寂にかき消され、あるいは飲み込まれた。


 リョウはりんの頭に手を乗せた。りんの目には、少しだけ涙が滲んでいた。


「本当にやばくなったら、ちゃんと仲間みんな呼んで、そばにいてやっから。その時は、言えよ」


「……うん」


 リョウがそう言うと、りんはその言葉に反応した。長い渋滞の中、動かないバスの中で、りんの瞳は揺れた。


「ね、またみんなで集まろうね」


「……ああ、そうだな」


 リョウの片耳で流れる『亜麻色の髪の乙女』は、少しだけりんを元気にしただろうか。


「ね、これ、良い音でしょ? 私専用なんだよ。モーリス・ラヴェルの『道化師の朝の歌』、フランツ・リストの『ラ・カンパネラ』、クロード・ドビュッシーの『亜麻色の髪の乙女』、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの『熱情』、それから――」


 バスが高架橋の下に潜り、新幹線が通り過ぎた。そのせいだろうか、りんが最後に言った言葉はノイズのようなものにかき消された。高架橋を抜けると渋滞を通り過ぎ、バスは平常速度で走り始めた。最後の一瞬、りんが少しだけ寂しそうな顔をしたように感じられた。


「ね、すずに会ったら、元気付けてあげて欲しいの」


「元気付ける?」


「ほら、色々環境変わって大変だったでしょ? だから」


 私に初めて会った時みたいに。りんは、そう呟いた。


 学校は転校になった。生徒も近い友人も、担当の先生さえ変わった。あの日と同じ――ということであれば、すずを連れ出して欲しい、というりんの願いを込めて、だろうか。


 外の世界への希望。少なくとも、すずにそれを持たせてあげて欲しい、といったことかもしれない。


 リョウは何も聞かずに承諾した。するとりんはリョウから目をそらして、言った。


「今日から、ちゃんと毎日病院に行くね。少しでも元気になるように。がんばるよ、私」


 何故だろうか、その言葉はリョウを不安にさせた。イヤホンを片方ずつ聴くことが出来る程に距離の近いりんが、何故か遠くに行ってしまうように感じられるほど、りんが儚い存在に見えた。ただ、それだけがリョウの不安だった。


 確かにその時は不安だった。だが、次の日からりんは普段通りの彼女に戻った。電話やメールで話すりんは、いつも元気で――……だから、忘れていた。この日、この時、この場所で、確かにりんとこのような会話をしたのだ。リョウがそれを思い出した時、世界は白く染まった。


 リョウが目を覚ますと、旅館の天井がそこにはあった。すぐにリョウは起き上がり、携帯電話を見て時間を確認する。七月二十二日、朝の九時。時間は元に戻っていた。これは『ノーリアル・ワールド』の三日目なのではないか。


 辺りを確認すると、六組の布団ではそれぞれが眠っている。そこには、みもりやジンやさつきもいた。


「リョウ」


 リョウが振り返ると、そこにはりんがいた。りんが声を掛けると、その声に反応したのか、トオルをはじめ次々に目を覚ました。旅館は静かだが特に変わりなく、辺りは静寂に包まれていた。


 これが果たして現実世界の七月二十二日なのか、『ノーリアル・ワールド』での七月二十二日――の三日目なのか。相変わらず、区別は付かない。何度も繰り返す世界の中で、目覚める瞬間はいつも同じ光景が広がっている。


「……一体、どうなったんだ」


 リョウがそう問い掛けると、みもりは携帯を開いた。


「七月二十二日から動いてないですね。……今まで何をしていたか覚えてない方、いますか?」


 それぞれ、首を振った。師匠の言った言葉通り、全員が二日目の出来事を覚えていた。思えば、リョウは目覚めた瞬間から服を着ている。さつきはドレス姿のままだ。ということは、ここはまだ『ノーリアル・ワールド』の中だということだ。リョウは窓から外を見た。相変わらず人の気配はなく、無機質な時間が流れている。


「……そろそろ、狐が現れる時間じゃないかな」


 そう言ったのはトオルだ。六人は窓の近くに腰を下ろした。三回目ということがあり、いい加減に慣れている様子だった。暫くそのままで待っていると、窓枠に白い足が見えた。それなりの勢いで飛んで来ただろうにも関わらず、着地音はしなかった。


「おっと。今回は覚えているようだな。師匠に会ったのか」


 開口一番、狐はそう言った。


「師匠とやらに会ってきた。俺達は不思議な力を手に入れたらしい。……それは、お前の想定していた通りなのか?」


 リョウがそう問い掛けると、狐は頷いた。


「この世界と戦うためには、どうしても師匠から悟りを受け継ぐ必要があってな。ノーリアルに振り回されているうちは、話にならないんだ」


 狐は胴体を前に向け、窓の外を見た。


「ノーリアル・ワールドの発生根拠を調べていた。二周して分かったことは、どうやらこの世界の持ち主は仲間が欲しいと思っているようだ」


 それは、うさぎの縫いぐるみや無人の自転車に通じる何かがあるのだろうか。


「ループの原因は分からなかった。同じ日を繰り返す、なんていう世界は、あまり多くはないのだが……。だが、何らかの意味はあるはずだ」


「誰なんだ、この世界の主ってのは」ジンが聞いた。


「俺にも分からない」狐は答えた。「だが言えることは、お前さん達ならば分かるかもしれん、ということだ。登場するキャラクターの全てに意味がある。残されたキーワードから、これが誰の世界なのかを判断するしかない」


 そして、この世界の矛盾を探さなければならない。それならば、音楽もだろうか。リョウはりんを見た。りんは何かに気付いたのか、リョウの袖を掴んだ。


「ここからは、俺も一緒に行こう。お前さん達が師匠に会ったのなら、ここからは協力しないとな」


 りんは立ち上がり、まっすぐに部屋の扉を目指した。リョウはそれを追った。


「りん?」


 リョウが名を呼ぶと、りんは振り返った。決意のある眼差しがリョウの瞳を貫いた。思わずリョウは少し動揺してしまった。


「みんな、聞いて欲しいの」


 みもり、ジン、トオル、さつきの四人も、りんを見た。


「マッドラビットと自転車を、助けたいの。あの子達が良い存在じゃないことが、きっとこの世界の問題だと思うのよ。助けて、そして――友達に、なってあげれば。何かが変わる気がする」


 後半は尻すぼみになってしまい、りんは俯いた。自分の言葉に自信が無かったのだろう。その過程に根拠はなく、想像の範疇を出ることはなかった。


 だが、助けると表現するのは簡単だが、どのように助ければ救われるのだろうか。


「この世界を楽しい世界にしたいの」


 その時、背後にいたさつきが素っ頓狂な声を出した。


 何事かと思い一同がさつきを見ると、さつきの膝の上に少年が座っていた。その少年はまるで光のシルエットのようで、顔や胴体のパーツの区切りは確認できなかった。その姿は紙のように薄く、だがどの角度から見てもその姿を保っている。はっきりと輪郭を確認することができないため、どこか儚げに思えた。


「光の少年――……」


 トオルがそう呟いた。もしかすると、これはさつきが言っていた、森で出会った少年だろうか。さつきは少年を抱く格好になっていたが、少年の――首と思われる部分が動き、さつきの方を向いた。


「仲間になってあげてよ」


「え?」


「みんな、仲間になってあげてよ。……ずっと、待ってたんだよ」


「待ってた?」


 さつきの腕から光の少年は抜け出し、空中を飛び回った。飛び回る時に僅かに残る残像が、少年の存在を曖昧なものにしていた。声ではなく、テレパシーのような何かがリョウの胸に届いた。リョウが胸を押さえると、それはどくん、と脈打った。


『もう、置いていかないで』


 どういう訳なのか、リョウは背筋が冷たくなるような感覚を覚えた。


 言葉にするならば、そのような内容だっただろうか。光の少年はそのまま、まるではじめからそこにはいなかったかのように消えてしまった。突如として現れ、突如として消失した存在感を前にして、さつきの両手が失った存在を求めて宙を彷徨った。リョウだけではなく、全員の胸に届いていたようだ。


「……行くぞ、さつき」


 ジンが立ち上がり、さつきの手を引いた。さつきは呆然としていたが、ジンに手を引かれて立ち上がった。ジンは扉に手を掛け、外へと出た。


「何してるんだ、みんな。りんの言っていることが正解だ。それが分かったから、さっさと行こう」


「……いや、何だったのかな、って」トオルが言った。


「なんだか寂しそうだなって思って、手を伸ばしたの。そしたら、消えてしまって」


 それは、森の中での出来事についての話だったのだろう。さつきがそう言うと、ジンは頷いた。


「実体は頼りなく、儚げ。世界はまるでこの場所だけをイメージして作られたかのように不器用で、少し足を伸ばせば雑になっていく」


 ジンは何かを読み上げるかのように呟き、天井を見上げた。何かを思い出しているようだった。ふいに、ジンの両手が握り締められた。


「世界の持ち主が満足するまで。師匠はそう言ったな」


 扉から廊下へと出て、ジンは振り返った。派手な外見と対称的に物静かな彼は、廊下を一通り見渡すと、部屋の中を見た。


「少なくとも、ここには人がいない。当たり前のように俺達は人がいない世界だと思っていたが、それは何故だ?」


 ジンは両手を広げた。唐突な問い掛けに、誰もが首を傾げた。


「今になってみて初めて分かったが、つまりここは『そういう世界』なのかもしれない。誰もが孤独でいる世界。もしも、それが師匠とやらが言っていた『世界が生まれた理由』だとするなら、それは」


 とても、悲しいことだ。おそらく、その後にはそう言葉が続いたのだろう。だが、ジンは何も言わなかった。リョウは立ち上がり、ジンの目を見た。ジンはリョウに向かって頷き、リョウもまたジンに頷き返した。


 この世界を楽しい世界にすることが、ノーリアル・ワールドから脱出するための鍵になっているのではないか。師匠は具体的なことは話していなかったし、何の根拠もなかった。――だが、どうにも見覚えがあるような気がしたのだ。現実を知っていて、かつ現実ではないこの世界に、見覚えが――その繋がりと矛盾。それを発見するためには、もう一度うさぎと自転車に接触する必要があった。


「行こう」


 どこかで、水道の蛇口から水滴が落ちる音がした。




 リョウ達が外に出ると、何かの違和感を覚えた。相変わらずリョウ達を除いて人物を確認することはできず、砂浜には静寂が訪れていたが――それとは別に、今までとは何かが違うような気がする。


 辺りを注意深く眺めながら旅館の廊下を歩いたが、特に変化は確認できない。ならば、何が変わったというのだろうか。何かの変化が起きたことには間違いがないと確信していたリョウは、旅館を出た時に変化の内容に気が付いた。思わず足を止め、目の前に広がる海と砂浜を凝視する。


 波が、動いている――……


 砂浜を足で踏みしめると、さく、と軽快な音がした。今までは飴細工か何かのように固まっていた砂浜。だが、理由が分からない。


 どういうことだろうか?


 前よりも少しだけ、現実に近付いている?


「……それだ」


 思わず、リョウは口に出して呟いてしまった。前よりも少しだけ、現実に近付いている。師匠に出会うことで、この世界は消滅に近付いている?


 だが、それはどうして?


「リョウ、あれ」


 りんがリョウの袖を引いた。リョウがりんに言われた通りの方向を見ると、砂浜の向こうから向かってくる影があった。規則正しく四列に並び、それらは真っ直ぐにリョウ達を目指していた。軍服に銃を構えている。よく見ると、小さな戦車も確認することができた。


「きたか」


 それは、うさぎの縫いぐるみの軍隊だった。流れ続けているピアノの曲調が乱れる。急にそれは速く、軽快なリズムを叩き始めた。もはや、元の曲とは似ても似つかない。


 興奮しているのだ。


 どういう訳か、そう思った。


「びどぅ――!! ハックチャさんぐりあなうぃごー!!」


「「うぃごー!!」」


 何かの掛け声も聞こえた。


「……リョウ先輩、気のせいですかね。……みもりには、攻撃してくるように見えるんですけど」


 そして、それらは一斉にリョウ達に向かって、銃を構えた。


「トモダチろばーっく!! ごー!!」


「……いや、俺にもそう見える」


 パン、と軽快な音がした。間違いなく、リョウ達に向かって銃を撃っていた。とても危険な予感がした。向こうから、恐ろしい速さで何かが近付いて来る。それは――リョウの目が正しいならば、綿だった。リョウは呼吸が止まりそうだったが、ありったけの力を込めて叫んだ。


「逃げろ!!」


 既に綿はさつきに届いていた。綿から手が伸びてきて、それはさつきの足首を掴んだ。


「きゃ――――!?」


 あまりの衝撃に、さつきが叫んだ。リョウはその手を蹴り飛ばしたが、その間に他の綿が群がってくる。ジンとトオルは既に捕まっていて、身動きが取れなくなっていた。


「ジン!! トオル!!」


「やめなさい!!」


 りんがうさぎに向かって声を張り上げるが、うさぎの耳には届いていないようだった。次々と乱射される銃。飛んできた綿が、次なる標的としてりんを襲う。りんはそのまま両手両足を封じられ、身動きを取ることが出来なくなっていた。続いて、リョウも綿に捕らえられてしまう。


「……あれ?」


 うさぎ達は近寄ってきた。誰もが身動きを取ることが出来なくなっている中で、みもりが呆けた声を出した。何故かみもりだけは無事であり、綿はみもりを避けて動いた。


 先頭のうさぎがみもりに向かって帽子を取り、頭を下げた。


「シッサー・わんぐりあなムソカ」


 当然何を言っているのか分からないので、みもりは何も言えずにいた。みもりの開いた口が妙に印象的だった。リョウは既に口の中に綿が入ってきていたため、喋ることは出来なかった。


「うぃー、ばっくとぅーごー、ヒヅカらっくとりあムーナ。ロックゆー?」


 何かを問い掛けられていた。みもりは一度、うさぎ達に捕まったことがある。仲間だとも思われていたような気がした。ならば、戻って来いということなのだろうか。まったく言葉は理解できないが、どことなくそのような雰囲気を持ち合わせている。


 うさぎはみもりに銃を向けた。驚いて、みもりが両手を上げた。


「ロックゆー?」


 何か喋らなければ、みもりも撃たれる。それが分かっていたが、みもりは冷汗を流して硬直していた。何しろ、意味が分からないのだからどうしようもなかった。


「……何ですか、この状況は」みもりは一歩も動けずに、乾いた笑みを浮かべた。


 まさか、反逆に出るとは。……反逆と呼ぶのだろうか? それすら分からなかったが、ふとみもりは何かを思い付いたようだった。うさぎの頬から汗が垂れた。お前は縫いぐるみだろう、と思わずにはいられなかった。綿は動きを止めたが、両手両足が封じられているために口内の綿を取り除くことができない。


「出でよ、戯言の仮面!!」みもりは勢いよく右手を天に差し出し、掛け声を掛けた。


 静寂が訪れた。


「……ええ、何それ。戦うための力って言ったじゃん」


「ロックゆー?」再度、うさぎは問い掛けた。みもりは絶望に満ちた表情をしていたが、そのままのポーズで笑った。一体、どうしてしまったのだろうか。誰にも真相は分からなかった。


「そうですか。そうまでしてみもりと戦いたいですか。……実はね、みもりはアニメ『マッドラビット』が大っ嫌いなんですよ」


「シャラップ!!」


 何故そこだけ英語なんだ、とリョウは思った。


「実はあなたは知らないかもしれませんが、みもりは大佐です」


「……ギーゴ?」


 銃を構えたうさぎが反応した。驚いているようだった。


「実は大統領です。天皇です。王様です。しかも、それでいて高校生です」


 奥の方で、軍服を来たうさぎ達がひそひそと何かを話し合っているようだった。……まさか、このような展開になるとは。リョウは驚いていたが、突如としてみもりの身体が光を放った。


「きゃっ……」


 誰もが目を覆ってしまうような放光が止むと、みもりは不思議な衣装になっていた。全身を覆い隠すマントにはフードが付き、首にはいくつものネックレスがぶら下がっていた。濃紺の透き通る宝石や、黄金のネックレスだ。それだけを見ると怪しげな魔法使いといった出で立ちだが、真っ白で目の部分だけに穴が空いた、不思議な仮面を身に付けていた。


 みもりらしいと言えば、らしい。あれが『戯言の仮面』というものなのだろうか。


「おおー!!」むしろ、うさぎ達の方が驚いていた。うさぎ達が驚いていることにみもりは驚いた。だが、これは使えると思ったのだろう。意地の悪い笑みを浮かべると、右手をうさぎ達に向かって振るった。


「みもりに逆らったことを後悔させてあげましょう!! 出でよ、バカには見えないみもり部隊陸軍!!」


 当然、何も起こらない。だが、うさぎ達は何やら悲鳴を上げながら、後方では引き返している姿も見えた。


「バカには見えないみもり部隊海軍!!」


 うさぎ達は海に向かって悲鳴を上げている。もちろん、特になにかがある様子はない。静寂に包まれた海だった。


「バカには見えないみもり部隊空軍!!」


 みもりがそう叫ぶごとに、わあわあと声を上げながらうさぎ達は引き返していく。


「なにこれ……」やっている本人も意味は分かっていないようだ。


 突如として、うさぎ達の中央で爆発が巻き起こった。地べたに這いつくばっていたリョウも驚いて、目を瞑ってしまう。


「ぎゃー!!」「ぐおー!!」「ばっく、ばっく、ごー!!」「のー!!」


 うさぎ達はみもりの後方に恐怖し、逃げて行った。


「……え?」


 みもりが呆けた声を上げて、仮面を外して後ろを振り返った。リョウも首だけを動かして、後方を見る。


「総員、前へ!!」


 そこには、先程まではいなかったはずの『バカには見えないみもり部隊』がいた。濃い顔の中年の男性が国籍も分からない軍服に身を包み、立っていた。うさぎ達の銃が玩具に見えてしまうような、本格的な銃を構えていた。


 うさぎ達は次々と逃げていたが、先頭に立っていたうさぎは転んでしまい、その間に他のうさぎは姿を消した。うさぎは泣きながら砂浜を這っていたが、ふとみもりの方を振り返った。


「……ごめんなさい」


 みもりはうさぎが泣いていることを確認し、慌てて背後に指示を出した。


「こ、攻撃やめ!!」


 気が付くと、リョウ達を捕獲した綿は消えていた。いつの間に消えたのだろうか。リョウが立ち上がり改めて見ると、既にうさぎは一羽になっていた。瞳に涙を滲ませながら、みもりを見ていた。みもりは慎重にうさぎと距離を詰め、屈んでうさぎを見た。


「どうして、こんなことを?」


「……あげたかった」


 それは、どういう意味だったのだろうか。だが、どういう訳かみもりにはその言葉が深く響いたようだった。


「――まさか」


 リョウの耳が正しければ、みもりはそう呟いた。みもりはうさぎと手を繋ぐと、微笑んだ。


「必ず、連れて行きますよ」


「あげて!」みもりの言葉に反応して、うさぎはみもりの胸に飛び込むようにしてしがみついた。そしてうさぎは――動かなくなった。


「……正解、なのか?」


 思わず、そう呟いてしまった。何が正解へと導いたのか、それさえもリョウには分からなかったが。みもりは確実に、うさぎの問題を解決したように見えた。


 みもりは呆然とそのうさぎの縫いぐるみを抱いていた。うさぎが全く動かないことを確認すると、微笑んだ。目尻に涙が浮かんでいた。


「――――意外と、可愛いじゃないですか」


 リョウも安堵した。様子を見ていた他のメンバーも、みもりの無事に安堵したようだった。みもりは得意気な顔で振り返った。みもりが何を言おうとしているのかをリョウは理解したので、みもりに向かって歩いた。


「どうですか! みもりだって、やるときはやるんですよ!」


「分かってるよ」リョウは笑って、みもりの肩を叩いた。「よくやった」


 ピアノの曲調が元に戻った。元に戻ったことで、リョウはどこからか流れてくるピアノの曲がまた変わっていることに気付いた。リョウが音楽を気にしていることに気付いて、りんが答えた。


「亜麻色の髪の乙女」


 りんが答えた。クロード・ドビュッシーの曲だ。ふと、リョウにはりんと最後に会った記憶の中で、りんが言った『りんの一番好きな曲』の順番を思い出していた。


 その推測が本当であるとするなら、次にループしたとき、ここに流れるのは――……


「ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの『熱情』」


 リョウがそう呟くと、りんが息を呑むのが分かった。りんも気付いていたのだろうか。リョウにも、何となくこの世界を誰が作ったのか、どうして自分達が巻き込まれているのかということについて、解答を出せそうな気がしていた。だが、一つだけ気になることはある。もしもリョウの考えていることが真実ならば、決定的におかしい部分が一つだけあるのだ。


「……リョウ、気付いていたの?」


 りんがリョウを見て、そう言った。リョウは静かに頷いた。


「お前は、気付いていたのか」


「……うん。もしかしたら、自分と関わりがあるんじゃないかなって。そんなことを考えるようには、なって。――でも、私」


 その時だった。背後でさつきの悲鳴が上がったかと思うと、今までとは比較にならない程の爆発が巻き起こった。リョウとりんが驚いて振り返ると、数が多すぎて曲がりきれずに転倒した大量の自転車が爆発を起こしている様子を確認することができた。


「……数が、多過ぎる」トオルが言った。


 走れ!! そう言ったのは、誰だっただろうか。みもりの肩で地蔵のように固まっていた狐がそう喋ったのかもしれない。リョウ達は砂浜から道路に上がり、以前と同じように道路を逃げ始めた。


「お前ら、先に行け!!」


 ジンがそう言って、道路の真ん中に立った。


「ジン君!!」さつきが叫ぶ。「大丈夫なんですか!?」みもりは足を止めなかったが、そうジンに聞いた。「みんな、行こう! 今は信じよう」トオルがそう言い、二人を連れ出した。りんも怯えながら、三人の後を付いて行く。だが、リョウだけはジンの後ろで立ち止まった。


「どうした、お前も早く行け」


 ジンはそう言ったが、リョウは動かなかった。ジンがどうするのか、見てみたいと思ったからだ。だから、リョウは聞いた。


「何か策があんのか?」


「そんなものはない。これから考える」


「珍しいな、お前にしちゃ」


 だが、ジンは笑っていた。みもりの一件を見て、この不可思議な状況に対する対応を心得たようにも見えた。リョウもまた笑い、何か危ないことが起こったらジンを助けるつもりでいた。


 自転車がすぐそこまで迫っていた。喋っていることは、前回とまったく同じだった。「こわい」「こわい」という声が、そこかしこから聞こえてくる。


「リョウ。自転車に捕まった時な、俺は一つ分かったことがあるんだ」


「分かったこと?」


 リョウが聞くと、ジンは両手を広げて自転車を迎え入れるような格好になった。


「あの自転車には、人が乗っていない。俺が捕まった時も、思えば前籠に入れられていた。こわい、転ぶこともできない、という声。あの時はそんなことを考える余裕はなかったが、この自転車達は――この世界の主の自転車に対するイメージなんじゃないか、ってな」


 ジンの身体を、みもりの時とまったく同じように光が包み込んだ。すると、ジンは――はっきりとは言えないが、中性の吟遊詩人のような格好へと変貌した。帽子にベスト、しわのあるブーツ、手にはバイオリンを持っていた。


「……冷静なる――か。試してみようか」


 ジンはそのままバイオリンを構え、弾き始めた。『亜麻色の髪の乙女』の曲調に合わせて、どこかで流れるピアノとバイオリンの演奏がマッチする。


 すると、半透明で巨大なバックラーが地面から現れ、リョウとジンを守る盾となった。


「……成功したのか」


 ふう、とジンはバイオリンを降ろした。冷静なる盾。ジンにぴったりの能力だ、とリョウは思う。転倒した自転車の爆発は盾によってジンまで届かず、自転車達は静かに盾の前に止まった。


「使い方が、分かんのかよ?」


 リョウがそう聞くと、ジンは腰に手を当てて振り返った。


「分からない。だが、いけるんじゃないかと思っただけだ。バイオリンも弾いたことはない」


 普段とは違う、まったく理屈ではないジンの台詞に、リョウは少し面白くなってしまった。


「そういえば夢ん中の世界って、こういう感じだよな」


「こういう感じ?」ジンは分からないようで、リョウに聞いた。


「なんとなく直感で、『これはいけるんじゃないか』なんて思うわけだよ。そうすると、それは真実になる。逆に、『これはいけないかも』と思うと、本当に失敗する、とかさ」


 確かにな、とジンは笑った。だが自転車達は止まった状態のまま、何も変化がない。ジンは慎重に盾を解除し、自転車に歩み寄った。自転車は僅かに震えているようだった。


「……恐れているのか」


 自転車は答えなかったが、おそらくそうなのだろう。ジンは自転車のハンドルを撫でると、微笑んだ。


「大丈夫だ、俺が操縦してやる。転ぶことはない」


 ジンは自転車に跨り、静かに発進した。背後から自転車達はゆっくりとジンに付いて行く。自転車のバランスはとても悪いようで、ジンは倒れないように苦戦していた。シンクロしているのか、周りの自転車も倒れそうで倒れない。ジンは暫く自転車を揺れさせていたが、強くペダルを踏み締め、立ち上がった。


「転ぶことを恐れるな。いいか、走っている以上は絶対に転ぶことはない。スピードを出し過ぎなければ曲がり角で転倒することはない」


 ジンがそう語りかけると、少しバランスが良くなっている気がした。リョウは走っていたが、ジンと同じように別の自転車に跨り、同じように走った。やはりバランスは悪いが、少しずつ安定していた。


「そうだ! 自転車は自転車だ、行くぞ!」


 そして、自転車はスピードを上げていった。暫くすると海沿いの道を抜け、高速道路に入った。ジンは自転車に乗り、笑顔になっていた。リョウも思わず笑顔になった。自転車は全く転ぶことがなくなり、ぐんぐんとスピードを上げていく。


「ありがとう」


 自転車が呟いた。ジンは頷き、そのまま走った。やがて前を走っていた四人に追い付く。すると、さつきがジンとリョウの姿を見て驚いているようだった。


「リョウ君! ジン君!」


 さつきが声を掛ける。リョウとジンは四人の後ろまで近付くと、四人が走っている速度と同じ程に調整した。


「みんな、自転車に乗れ!」


 ジンがあまりに楽しそうにそう言うので、多少驚いているようだった。ジンが何の屈託もなく笑う所など、今までに見たことはなかったからだろう。リョウも初めて見る表情だった。トオルが覚悟を決めたのか、近くの自転車に飛び乗った。


「大丈夫だ、自転車は転ばない!」


 みもりが前籠にうさぎの縫いぐるみを投げ入れ、その自転車に乗った。さつきはドレス姿のため、躊躇していたが――ドレスガードのついた自転車を発見し、それに飛び乗った。


「……だめ! 乗れないよ!」


 リョウが後ろを見ると、自転車に乗れずに遅れている人影があった。不藤りんだ。ハンドルを握ろうとするがうまくいかず、また怖がっているようだった。


「りん!」


 リョウがその名を呼ぶと、りんは涙混じりにリョウに手を伸ばした。


「ごめんなさい! 私……」


 りんは既に体力の限界なようで、発作混じりに呼吸をしていた。


「大丈夫だ、りん!」


 りんは自転車に乗れなかったのだろうか。リョウはりんが自転車に乗る姿を見たことがなかったので、もしかしたらそうなのかもしれない。リョウはりんに向かって手を伸ばした。


「掴まれ!!」


 りんはリョウの伸ばされた左手を追って走った。ふと背後から、向かい風が吹いた。その一瞬、リョウは時間が止まってしまったかのような感覚を覚えた。どこかで声が聞こえたような気がしたのだ。それは、いつかの会話だった。


『――自転車買ってくれるって! でも、乗れないかもしれないの』


 リョウは驚きのあまり、目を見開いた。確かに、そのような会話をした。だが、どうしてだろう? 何かが違う。思えば、今までもおかしな感覚はずっとリョウを付いて回った。


 りんは走った。向かい風がりんの駆け足を後押しする。リョウはややブレーキをきかせ、りんの右手に自分の左手が揃うように速度を合わせた。




 そして、リョウの左手とりんの右手が重なった。




 りんは驚いて声を出したが、リョウは構わずりんの右手を引いた。りんの身体が一瞬宙に浮かんだかと思うと、次の瞬間にはりんは荷台に横向きに座っていた。リョウは歯を見せて笑い、りんもまた笑った。そして、他のメンバーの元に走って行く。随分と距離が離されてしまったが、リョウの自転車は瞬く間に速度を上げ、他のメンバーと並んだ。


「りん!! 大丈夫か!?」


「大丈夫!!」


「怖いか!?」


 リョウが叫んだ。


「怖くない!!」


 りんが笑った。高速道路を終えた。何故か分かれ道は見当たらなかった。リョウ達は自転車を漕ぎ、行き止まりのあった曲がり角まで到達し――そして、思わぬ出来事に身を屈めた。


「――――浮いてる」


 呟いたのはトオルだった。行き止まりの壁は曲がり角を曲がるとなくなっていて、その先は崖だった。だが、誰も速度を緩めようとはしなかった。何故なら、それぞれの自転車が僅かに宙に浮かんでいることに気付いたからだ。


「ファンタジーすぎです。もうちょっと捻りがあっても良かったんじゃないですか」


 みもりは口ではそう言っていたが、目はきらきらと輝いていた。


「すご――い!! 映画みたーい!!」


 さつきは子供のようにはしゃいでいた。ジンはというと、笑みを浮かべていたが、何も口には出していなかった。


 大空へと沢山の自転車は飛び立ち、そして空を駆けた。緑の多い大地と高層ビルを下に、まったく不安定な様子を見せなかった。みもりの自転車の前籠にいたうさぎが手を叩いた。もはや誰も、自分達以外の何かが動くことに恐怖も違和感も覚えなかった。


「せいかい!!」


「おめでとう」


 うさぎと自転車が言った。六人は広大な大地を抜け、その先には海が広がっていた。無限に続く水平線へと向かって、六台の自転車は走り続けた。リョウはサドルに降ろしていた腰を上げ、その雄大な景色に息を呑んだ。


「さつき、おめでとう」


 さつきの自転車を見ると、さつきの腹部にしがみついている何かがあった。光のシルエット。リョウ達が旅館にいた時に、突如として現れた少年だ。それはさつきと既に出会っていたという話だったが――……。光の少年に翼が生え、少年は飛び立った。


「みんな、おめでとう!」


 光の少年は何人にも増え、自転車の周りを回った。水面ギリギリまで降りてくると、自転車の進路を示すように波が立った。もう、固まっているものなど何もない。止まっていた時は今、動き出したのだと――リョウには、そのように思えた。


「みんな、仲間だよ」


 光の少年がリョウに問い掛けた。リョウは歯を食いしばり、自転車の速度をぐんぐんと上げた。リョウとりんが乗る自転車と、他の四人が乗っている自転車の距離が離れていく。リョウは振り返った。


「みんな、仲間だ。一人じゃない。誰かが飛び出したら、俺達は一人になってしまう。……だから俺達は、足並みを揃えるんだ。同じ距離を保つんだ。そうすれば俺達は、どこへだって行ける」


 それは、誰に対しての言葉だっただろうか。リョウは水平線を見て、そう言った。リョウ達は、始めから仲間だった。ノーリアル・ワールドでの日々の間で、一度も仲間割れなどしなかった。だが、この世界の主は仲間であることを強く望んだ。友達が増えることを、強く望んだ。


「ねえ、リョウ。私も最後まで、仲間でいられたかな?」


 もしも何か問題を抱えているとしたら、それは一人しかいなかった。


「お前が、いつ、俺達の仲間から外れたんだ?」


 リョウがそう言うと、背後でリョウの腹部を抱き締めるりんの力が少し強まった気がした。旅行の前、りんは何かの問題を抱えていた。それをとうに伝えないまま、リョウ達は旅行へと出発した。残っていることは、それだけだった。


「ねえ、リョウ。本当は、私、もう――――」


 瞬間、リョウの視界を真っ白な何かが覆った。あれほど雄大に広がっていた水平線も、空を走る幻想的な自転車も、うさぎの縫いぐるみも、光の少年も消え去った。リョウの笑みは消えた。リョウは真っ白な空間の上に降り立った。辺りを見回すと、そこには何もなかった。誰もいなかった。何故だろうか、最後に言われた気がした。


 ごめんね、と。




 少し短いですが、これが三日目のあらましになります。ところで、あなたはどちらからいらしたのですか? ……そうですか。それはまた、難儀なことで。


 現実世界では、このような反転、問題解決――大道芸のような劇的な展開は、あまり望めませんね。それは人々がそう望んでいるからこそ、そういった世界になっているのです。波乱よりは安定を求めるのが、世の常ですから。ですが、やはり波乱も欲しい。ノーリアル・ワールドはそれを知っているから、劇的な展開やストーリーを持つ世界が多いのですよ。


 それは、ある意味では人々の願い――あるいは、希望のようなものに支えられている、ということかもしれません。私はそんな、救いのあるこの世界が大好きですけどね。


 それ故にノーリアル・ワールドには、ほぼ必ずと言っていいほどに矛盾が生じます。それは、自分自身の現実世界とノーリアル・ワールドに関する矛盾であったり、あるいはもっと抽象的な矛盾であったり――……その理由は、人々が救いを求めて世界を構築するからです。自分に都合の良いこと、都合の良い状況や人間関係――そのようなものが、『現実の世界を知っている』ノーリアル・ワールドには含まれているのですよ。だからこそ、それは『現実世界にはない』世界なのです。


 確かに、現実世界にはあり得ないことです。ですが、美しいとは思いませんか? 都合の良い現象や理論的な矛盾と引き換えに、そこに現れる感情的で、あるいは音楽的とも言える美しい物語の世界は。


 さあ、与えられていた課題・問題が解決し、秩序と常識のない世界が『想い』というキーワードによってルールを持ち始めた時、物語は急展開を迎えます。ここからは、急な下り坂を滑り降りるようですよ。


 それでは参りましょうか、ノーリアル・ワールドの真実へ。


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