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◆七月二十二日 二日目 ラ・カンパネラ

 降り出した急な雨を避けるため、リョウとりんは二人で走っていた。レンガ舗装の道を抜け、やがて都会を離れ、住宅街へと移動する。左に森林公園を、右に連なる一軒家を横目に、二人は屋根のあるバス停へと逃げ込んだ。降るのではないかと疑ってはいたが、こんなにも急だとは思わなかった――上がった息を整えると、リョウは自分の状態を確認した。急いで走ったため、そこまでは濡れなかったか。


「もう、急に雨振るのやめて欲しいね」


 りんもまた、濡れた鞄をハンカチで拭いていた。屋根を少し避けて空を見上げると、辺りを薄暗くするほどの分厚い雲が一面を覆っている。待ち合わせをした時は快晴だったはずなのに、風が強い日の天気は変わりやすいものだ。雨は急激に悪化し、少し走るのが遅れていたら今頃はずぶ濡れになっていただろう。


「……まー、長くは続かねえよ。夏の雨ってそういうもんだ」


「そうね」りんは苦笑した。


 雨に濡れるとすぐに風邪を引くりんの事が少し不安になった。後姿をまじまじと眺めていると、不意にりんが振り返り、リョウと目を合わせた。


「なに?」


「い、いや」


 急に目が合うと何故か気恥ずかしくなってしまうのは、何故なのだろう。だが、バス停の時刻表をチェックしベンチに座るりんは気にした様子もなかった。あまり濡れている様子はない――ならば、大丈夫だろうか。


 りんは何も言わず、ベンチの隣を叩いている。座れ、ということだろうか。リョウがりんの隣に座ると、少しだけりんが表情を緩めた。何はともあれ、目的のバス停には辿り着いた。


「そういえば、学校までの距離ってどうなったんだ?」


「あんまり離れてないよ、バス使うようになったくらいで。時間は変わらないかな」


「そりゃ、バス使ったからだろ」


 リョウが笑うと、りんも確かにね、と頷いて笑った。やがて、雨音が激しくなる。雨がベンチまで入ってくるほどになっていた。二人は立ち上がり、ベンチの裏側へと避けた。やはり、これほどの強い雨であればすぐに止むのではないか。


「ねえリョウ、覚えてる? 前にもこんなこと、あったよね」


 りんがそう言った。リョウにはさっぱり覚えがなかったため、りんの顔を見た。りんは昔を懐かしんでいるようで、視線をどこか遠くへと向けていた。


「みんなで、自転車で冒険して。途中で雨が降ってきちゃって、私達はバス停に非難したの。私は病弱だったから、調子が悪くなっちゃって。リョウ達はみんなで心配してくれて、どうやって病院に連れて行こうか、なんて話をしていたこと」


「……ああ。そんなことも、あったっけかな」


 りんが話しているのは、かなり昔の話だ。まだ移動手段が自転車だった頃、リョウはいつも自転車の荷台にりんを乗せ、ジンやさつきと遠くへ出掛けていた。何かがあるとすぐに体調を崩していたりんは、いつも途中でリタイアしていた。本人にとっては、記憶に新しいものだろうか。


「バス停だから、どこかに通じるバスは来るからってジンが言って。バスが来たら病院に連れて行ってもらおう、なんて言ってる間にお父さんとお母さんが迎えに来て」


「ああ」


「でも私、もっと先に行きたかった」


 りんは道路の先を見詰めた。ざあざあと降る雨は道路の向こう側を隠してしまい、暗闇に包まれていた。ひどい雨だ、とリョウは思った。以前にもあったこと。雨が止んだら、この先に行こうね。遠い日の彼らは、そんな話をしていただろうか。もはや記憶は遠くなり、はっきりとは思い出せないが。りんだけがバス停に迎えに来た父母と共に、家に戻ったのだ。


「雨が上がったら、もっと遠くに行ってみたいと思った。初めてだったのよ、家の周りと病院の周りを越えた、どこか遠くに行くのは。リョウやジンやさつきが、すごい人に見えた。だって私には、できないことだったから」


 りんは立ち上がった。両手を合わせて、まるで祈りを捧げるかのように空を見上げた。


「今でもそう。私は、みんなで旅行に行くのが楽しい。リョウが言った通りだった。みんなで揃えば、どこにだって行けるって思った」


 雨が止んだ。やはり、急な激しい雨は長く続かないものだ、とリョウは思う。今はまだ曇っているが、やがて晴れ間も訪れるだろう。りんはそれを確認すると、屋根の外に出た。雨上がりに飛ぶ蝶のように踊り、チェックのスカートをひらひらとはためかせた。それはどこか、幻想的な光景だった。


「そう思ったこと、忘れたくないの。素敵じゃない? この世界は陸が続いている限り、どこまでも道路が広がっているの。自転車ひとつあれば、それを辿ることができるの。今までに見たことがない景色とか、見たことがないお店とか、見たことがないもの、たくさん」


 りんはリョウの手を取った。誰も見ていないことを確認すると、そのままりんに手を引かれた。


 両手を握り、遠心力に身を任せる。車も訪れない道の真ん中でダンスのように回転すると、りんは笑った。三百六十度、目まぐるしく変わっていく景色の向こう側に、いつかの面影を重ねているのだろうか。


 どこへも行けなかった自分のこと。いつか、リョウが連れ出そうとして、失敗した夏の思い出を。


「どこへ行こう? どこへ行ける? 私達が見ていないものは、全部未知の世界だわ。それを私達はなくしていくの。世界を広げていくの。一人では無理かもしれない。でも、みんなだったら。きっとどこまでも走って行ける」


 ふと、りんは足を止めた。ひらひらとはためくスカートと長い亜麻色の髪は、静かに重力に従った。


 何かを思い出したのだろうか? りんは急に暗い顔をして、黒い雲に表情を重ねた。風に流されてころころと表情を変える空のように、笑顔から憂鬱へと変化していくりんの表情を、リョウは呆然と眺めていた。


「……そう、思ったの」


「……どうした?」


 りんは首を振った。上目遣いにリョウを見る。その表情が不安に染まっていることが見て取れる。


「ねえリョウ、もうすぐすずの誕生日が来る」


 りんは、いつも、一人だった。


 リョウがりんを連れ出すようになってからも、りんだけはジンやさつきと一緒に遠くへ行くことを許されなかった。人よりも遥かに短い門限。遥かに狭い行動範囲。長い時が経ち、その門限と行動範囲を少しずつ広げたりん。


 同様に、すずも、また。


「分かってるよ。今度は、すずも一緒だ」


 りんは再び、笑顔になった。だがそれも一瞬のことで、急に驚いて、鞄の中を探し始めた。


「あ」


「なんだよ」


 不意に何かを思い出したのか、時計を確認するとリョウに言った。


「バス、まだ時間あるよね?」


「ああ、ここはかなり時間掛かるからな」


「ちょっと、忘れ物したの。一旦家に帰るよ。バス来たら、行っちゃって良いから」


 りんは慌てて元来た方向へと走り出した。リョウはその様子を眺めていた。なんと騒がしい奴だろうか、とリョウは思った。間違いなく、りんが行って戻るまでの間にバスは来るだろう。だが、もう少しここにいても良いかもしれない。何故か懐かしい気持ちになった――リョウが目を閉じると、不意に光がリョウを包み込んだ。少し眠くなってきた、このままベンチで少し休むか。いや、ベンチは濡れていたのだったか。気に掛ける余裕もないまま休息に意識は遠のき、リョウはベンチに身体を寝かせた。


 そういえば、元々自分は夢を見ていたのだったか――――


 目が覚めると、リョウは身体を起こした。まだ頭が覚醒していないまま、リョウの背後で声が掛けられた。


「なんとか間に合った、かな」


 リョウが振り返ると、そこにはりんがいた。眠ってしまったのだろうか。リョウはそんなことを考えながら「おお、間に合ったぞ」とりんに言った。そこまで言ってから、ここが室内であることに気が付く。リョウが辺りを確認すると、隣でもぞもぞと布団が動き出した。


「……おはよ、リョウ」トオルはリョウにそう言った。


 瞬間、リョウは現状に気が付く。……夢だったのだろうか? 自分は確か、今まで――何をしていたのだったか。まだ、寝惚けているのだろう。りんもリョウの様子に気付いてか、嬉しそうにはにかむと、リョウの頬をつついた。リョウはトオルとりんが初対面であることに気付いた。


「トオル。こちら、不藤りん。間に合ったらしいぜ」


 リョウがトオルにそう言うと、トオルはりんを確認した。「はじめまして、不藤りんです。よろしくね」りんがそう言うと、トオルが固まる。頭に疑問符を浮かべているような表情だ。


「……あ、ああ。はじめまして。丹沢トオルです」


 本当に、初めまして、だったか?


 何かがおかしい。リョウは気付いた。この台詞をどこかで聞いたような気がしてならなかった。だが、長い時間が経ってしまったかのように、リョウの記憶はぼやけていた。まるで頭に霧がかかったようだ。


「……ねえ、リョウ」トオルは聞いた。リョウが返事をすると、トオルは立ち上がって辺りを確認した。「……僕は夢を見ていたのかな? ……なんだか、記憶が何も繋がらなくて。変なのに、なんかやたらとリアルな夢でさ」


 リョウも同じ気持ちだった。随分と長い間、眠りこけていたのだろうか? 隣でりんがリョウとトオルの様子を見ている。


「りんは? いつ、ここに来たんだ?」


「ついさっきだよ、何もないよ?」りんに思い当たる節はないようだ。ならば、やはりただの思い過ごしだろうか。リョウは日付を確認した。


「七月二十二日、九時。……やば、飯の時間始まってるぞ。何時までだったっけか」


 トオルがその台詞を聞いて、リョウの携帯を覗き込んだ。何かに気付いたのだろうか? リョウがそんなことを考えていると、トオルは部屋の中を見回した。みるみるうちに顔が青くなっていくのが見える。


「みもりちゃんがいない」


 夢から覚めた瞬間のように、リョウは現状の矛盾点に気が付いた。


 布団は用意されているが、みもりの眠っていたはずの布団は綺麗に折り畳まれている。……確かに、いない。昨日、みもりは部屋を出なかった。寝る瞬間のことも知っていた。どうして、それまで当たり前だと思っていたのだろうか。布団は六組。さつきとジンも、そこにはいなかった。


「……トオル、もしかしてよ、その夢っていうのは……七月二十二日だったか? その日付を、みもりが確認したか?」


 トオルは頷いた。待て。そうすると、つまり――何が起こっている?


 七月二十二日は、これで二日目。一日目に起きた出来事の記憶が妙に薄いため、異常を把握出来ていなかったのかもしれない。一日目、携帯を確認して七月二十二日だとリョウに教えたのはみもりだった。だがここに、当人はいない。


「……みもりちゃん、うさぎに」


 りんがそう言った。リョウがりんを見ると、りんは恐怖に怯えたような顔をしていた。リョウは、それまでに起こった出来事をすべて思い出した。


「全員、覚えているのか」リョウ聞いた。それがみもりの事件のことを言っていると認識していなかったら、二人が頷くことなどなかったはずだ。だが、二人は神妙な顔をしてリョウの問いかけに頷いた。


 ならば――ならば、やはり夢ではなかった。三人が三人とも事情を把握しているということは、夢ではないと言っても良いのではないだろうか?


「……その後は? その後はどうなった?」


 リョウは二人に聞いたが、返答はなかった。その後一体、何が起こったのだろうか? 気付けば、リョウ達は服を着ている。もしも不思議な狐の出てくる出来事が夢だったのだとするならば、りんが来る前日の夜、リョウ達は寝巻きの状態だったはずだ。


「どうして……? どうしてなの……? こんなこと、おかしいよ」


 りんがぶつぶつと呟き、そのまま気が遠くなったのか、倒れてしまった。


「りん!」リョウはりんのそばに寄った。苦しそうに、浅い呼吸をしている。リョウの頬を、嫌な汗が流れた。この光景には――見覚えがあった。


 まさか、これは。例の発作だろうか。


 ならば、薬が必要なはずだ。辺りを見回すが、リョウの腕に指が当たる感触があった。りんを見ると、首を振っている。


「大丈夫か?」


 りんは薄く目を開いてリョウを見ていた。苦しそうだが、リョウの顔を見ると、微笑んだ。


「……大丈夫。ちょっと、気が遠くなっちゃっただけだから」


 りんが起き上がった。ひとまず、大事ではないらしい。リョウは安堵したが、なにか妙な違和感を覚えた。トオルが異常事態のためか、何もできずにリョウを見ていた。リョウはそんなトオルに目配せをして大丈夫だと告げてから、りんに向き直る。


「しっかりするんだ、りん。まだ、みもりを助ける方法があるかもしれないだろ」


 つまり、みもりを助ける方法がないということも考えられる。リョウはそう思ったが、りんには言えなかった。りんは「うん、大丈夫」と呟くと、深呼吸をした。気持ちを落ち着けているようだ。


「異変が起きたようだな」


 リョウの背後で、何かが着地する音が聞こえた。聞き覚えのある、奇妙な音。振り返ると、幻想的な狐の姿がそこにはあった。


 もしかしたら、この世界は繰り返しているのだろうか? 何度も同じ、奇妙な日を繰り返す世界。みもりはいないが――狐はリョウ達を見ると、首を傾げた。


「……二回目か。もう、そんなに経っていたか。調査が難航しているな」


 狐は前足で耳を掻いた。その様子は、前にも見たことがあった。そっくり、同じ世界。だが、何かが違う。狐の一言は、疑問を確信に変える何かをリョウに与えた。


「お前は、一体何者なんだ」


 リョウが問い掛けると、狐は多少満足そうな顔をして答えた。


「名乗るほどのモンじゃあねえ、って一度言ってみたかったんだ」


 りんがくすりと笑った。辺りの緊張が、多少緩んだように思えた。


「ここは、現実世界ではないのか? どこなんだ、ここは」


 リョウが狐に問い掛けると、狐は首を振った。


「ここは、現実世界ではない」


「ノーリアル・ワールドだって、前に言ってたよね」トオルは既に、全てを思い出したようだった。こういう時、トオルの記憶ほど頼りになるものはないとリョウは思った。


「そうだ。ここは秩序と常識のない世界、ノーリアル・ワールド。現実の世界を知っていて、現実ではない世界のことだ。お前さん達は、この世界に迷い込んでしまったんだよ」


 リョウは窓の外を眺めた。現実の世界を知っていて、現実ではない世界――。よく似ているが、客の一人もいない旅館。そっくりだが、決して動くことのない海。確かに、現実の世界を知っている、とリョウは感じた。だとするならば、ここは現実ではない、あるいはパラレルワールドのような空間だということだろうか。


「みもりちゃんは、どうなったの?」りんが聞いた。狐はみもりがいないことを確認すると、首を振った。


「ノーリアルに取り込まれてしまったか」


「ノーリアルに、取り込まれた?」トオルは聞いた。


「この世界にいる限り死ぬことはない。だが、自我を失うことはある。秩序のない世界で自分が自分であるかどうかも分からないまま、この世界が消えるまで彷徨うことになる」


「……消えたら、どうなるの?」おそるおそる、りんは聞いた。


「現実世界では、行方不明者となるだろうな。世界ごと消えてしまうから、後には何も残らないよ」


 それはつまり、何を意味する? 狐の言葉がすぐには飲み込めず、理解するのに時間を必要とした。


 三人の記憶が正しいならば、みもりはうさぎ――正しくは、うさぎの縫いぐるみから出現した口に飲み込まれた。あれが、『ノーリアルに取り込まれる』という現象なのだろうか? みもりはこの場にいない。七月二十二日は繰り返している。おそらく、日付に秩序などないのだろう。今、みもりはこの世界のどこかに迷い込んでいる、ということだろうか。


「……助けることは、できるのですか」そう聞いたのはトオルだ。


「お前達がこの世界にいる限りは。室外に発生するノーリアル・ワールドの寿命は短くてな、それまでに助けなければ皆、共に消えてしまう」


「どうすればいいの?」今度はりんが聞いた。


「とにかく、『室外行き』の電車に乗って、師匠に会え。その後のことは、師匠が教えてくれる。それが今のお前達に最も必要なことだ」


 くれぐれも、ノーリアルに取り込まれないようにな。狐はそう言うと、また窓から飛び降りて行った。風のように消えてしまい、後には何も残らない。その様子を確認してから、リョウはトオルに向き直った。


「……電車の駅なんて、あるのか?」


「まあ、歩けばそりゃあることはあるけど……もちろん、『室外行き』なんて電車は出てないよ」


「……そう、だよなあ」


 暫くの静寂が訪れた。トオルはどうして良いのか分からないようで、またりんも同じことを考えているようだったが――狐は言った、ノーリアル・ワールドにいる限り、死ぬことはないと。だとするならば、今やることはひとつしかない。リョウは立ち上がった。


「リョウ?」りんが聞いた。リョウはりんの言葉には返事をせず、部屋の扉を目指した。


「とにかく、全員で集まるんだ。それから、みもりを助けに行こう。この世界から脱出するなんていうのは、そこからだ」


 もしも『室外行き』の電車を発見し、師匠などと呼ばれる人物に出会い、元の世界に戻る方法が把握できたとしても。メンバーの揃っていないこの状況で、彼らを置いて帰る訳にはいかなかった。今の自分にできることは、残っているメンバーの意識を統一し、必ず全員を救うこと――リョウは振り返り、困った顔をしている二人を見た。


「旅行をしているうちに未知の世界に迷い込んでしまった、なんて冗談じゃないけどよ。みんなで揃えば、きっとなんとかなるさ」


 そう言って、笑った。自分が心を折る訳にはいかなかった。今回の旅行を企画したのも、メンバーを集めたのも、他ならぬリョウだったからだ。


「……そうだね。とにかく、合流が先決か」トオルが重い腰を上げた。


「未知の世界の旅行かあ。もっと普通の旅行を期待してたんだけどなあ」りんがそう言ったが、これには全員が共感していただろう。


 そうして、三人は未知の世界を冒険することを、心に決めた。


 不意に、流れている音楽に気が付いた。一日目は『道化師の朝の歌』だったが、これは違うメロティーだ。リョウはその曲名を知らなかったが、りんが「『ラ・カンパネラ』。小さな鐘、という意味よ」と答えた。何かを暗示しているのだろうか。だが、あまりに不安定なこの世界で意味を特定することなど現実的ではなかった。




 リョウ、トオル、りんの三人は旅館を出た。旅館の中は確認しなかった。既に中に人がいないことは明確だったし、確認する意味もないと感じたからだ。まずは、みもりを探さなければならない――相変わらず静止した世界の中で、三人は歩いた。飴細工のように固まった砂浜を歩いていると、まるで絵画の中を歩いているような、奇妙な気分になった。


「……出てこないね、マッドラビット」


 りんがそう呟いた。そろそろ登場しても良い頃だとは思うのだが。


 リョウは砂浜から隣の道路へと移動し、道路の向こう側を見た。延々と続いていく道路がある。現実世界では、その先に何かがあったような気もする。だが、まったく思い出すことはできなかった。


「出て来ないなら、それが一番いいぜ。さつきとジンを探せる」


 最終的には出会わなければいけないが、あまり出会いたくない。リョウがそんなことを考えていた時だった。トオルの目の前に、見覚えのあるうさぎの縫いぐるみが姿を現した。


「わっ」


 あまりに急な登場だったからだろう、トオルが驚いて声を出した。リョウはトオルよりも前に出て、うさぎと向き合う。だが――うさぎは何をすることもなく、その場に立ち尽くしていた。どうにも様子が変だった。初登場の時から様子は変だったが、前回とは違う存在のようにも思えた。うさぎはリョウ達を見ると、歯を見せて笑った。可愛らしい見た目が台無しになる笑い方だった。


「レディース・アンド・ジェントルメン。ぱくぱくあサンドリア?」


「……は?」


 リョウは思わず呆けた声を出したが、うさぎは構わずに手を叩いた。そして、リョウ達にも何かを期待している。それが拍手を期待されているのだと理解し、トオルが拍手を始めた。仕方なく、リョウとりんも拍手をした。


「センキュー、センキュー。うぃーすてりぃトモダチらゲットあすてーな」


 うさぎがマイクを持つように左手を口元に寄せると、うさぎの声は大きくなった。うさぎの声にエコーが掛かったかと思うと、背後で流れている『ラ・カンパネラ』の音量が上がった。驚いて、リョウ達は思わず身構えた。


「うぃー・プリシメントですたらべーあ」


 うさぎはそう言うと、道路の向こう側に向かって手を伸ばした。リョウ達がうさぎの示す方向を見ると、遠くで規則正しいリズムで、何かの音が鳴っていることが分かった。ラ・カンパネラのメロディーに合わせて、何かの歌声も聞こえる。


「リョウ!! あれ!!」トオルが指差した。


 規則正しいリズムで鳴る音とは、足音だったようだ。道路の向こう側から膨大な数のうさぎの縫いぐるみが何故か軍服を着て行進し、こちらに向かってくる。前回はバラバラに寄って来ていたが、今回は規則正しく二列に行進をしていた。


「「シングー・ろっぴきぇぺっざらべーあ・ひといっりナショナリー」」


 全く理解は出来ないが、何かの言葉で歌っていることも分かる。リョウが行列の先を遠目に確認すると、歩いてくるうさぎ達は徐々に二列から三列、四列と増えていた。そのさらに向こうへと視線は動く――リョウは、信じられないものを発見した。


「みもりちゃん」


 りんが口を両手で押さえ、悲痛な声音でそう呟いた。リョウとトオルはその異様な光景に絶句し、何も言うことが出来ずにいた。


 遠目に見えていた行列はリョウの手前で手を差し伸べているうさぎに向かって近付いて行き、目の前で立ち止まった。軍服を着て銃を構えたうさぎ達は、先程までリョウと話していたうさぎと向かい合っていた。どうやら、このうさぎがリーダーのようだ。


「うぃーすてりぃトモダチらゲットあすてーな」


 リーダーのうさぎがそう言って敬礼をすると、一斉に口を揃えてうさぎ達は喋った。


「「うぃーすてりぃトモダチらゲットあすてーな!!」」


 うさぎ達が道を開けると、『それ』は中央に配置され、一斉に拍手が巻き起こった。品のない、奇妙な笑い声も聞こえる。何羽かのうさぎは浮かれて頭を振り回していた。


「なんだよ、これ……」


 トオルが青い顔をして、その様子を見詰めていた。リョウもまた、予想もしない出来事に頭が真っ白になってしまっている。りんは自身の口に両手を当てて、その状態で固まっていた。うさぎ達の中央に設置されたのは、小さなクレーン車だった。クレーン車の竿部――ブームから先は、まるでゲームセンターのクレーンゲームで見るようなアームが――ただし、そのサイズは比較にならない程大きなものが――取り付けられていた。まるでそれらが神であるかのように称え、うさぎ達は拍手をした。


 そのアームに首を掛けられ、今にも窒息死寸前のみもりがそこにはいた。悲痛な表情を浮かべ、あるいは苦しそうにしている。だが夢でも見ているかのように動きは緩やかで、うさぎ達から逃げようとはしていない。


「……ひひひ、楽しいなあ。……楽しいなあ」


 みもりは完全に正気を失っていた。思わず、ごくりと唾を飲む。


 これが、謎の巨大な口に食べられてしまった結末なのだろうか?


 つまり、みもりはノーリアルに『取り込まれた』。


 リョウの頭の中を、そんな思考が渦巻く。確かに、取り込まれるという表現が一番正しいだろう。この世界にいる限り、死ぬことはない――その代わりに世界が消えるまでその世界の一部、あるいは存在となって、秩序も常識もない世界の住人となるということなのだろうか。


「あながっチュゲッびすたらめんとあくありえりあしティ」


 うさぎが何かを喋っている。喋っている内容はともかく、この喋り方はオリジナルのマッドラビットにとてもよく似ている。オリジナルのマッドラビットは日本語を話すキャラクターだったようにも思えるが――その高い音でまくし立てるように喋る様は、リョウ達の恐怖を煽るには十分だった。


 まさか、みもりを助けるためにはこれと戦わなければいけないのだろうか――……?


「ねえ、リョウ。マッドラビットって、どういう話だったかしら」


「何言ってんだ、こんな時に」


「友達が欲しいんだけど、全然他の動物達と話が合わないマッドラビットが、周りの動物達に悪戯をする。そんな話だったわよね」


 トオルが何かに気付いたようで、りんを見た。リョウにはりんが何を言わんとしているのか、さっぱり理解が出来なかった。りんは何かの覚悟を決めようとしているような、決意に満ちた表情をしていた。


「ハッピー・ニュー・いやー」


 うさぎ達がみもりを称えると、クレーンが動き、アームが上昇していく。みもりは釣られたまま苦しそうに声を出した。表情は笑っているのに、苦痛に喘いでいる。それは、異様な光景だった。アームが外れることはなく、うさぎ達は拍手をしていた。


「みもり!!」


 リョウは叫んだ。みもりがリョウの言葉に反応することはなかった。このままでは、本当にみもりは死んでしまうのではないか――!! この世界に居る限り、死ぬことはないと狐は言っていた。だが、そんな言葉などリョウの頭から飛んでしまっていた。


 何を考えたのか、りんがリョウよりも前に出て、うさぎ達に向かって行った。リョウは慌ててりんの手を掴み、それを引き止めた。


「どうしたんだ、りん」


「友達が欲しいのよ、きっと」


 思わず、目を丸くしてりんを見てしまった。一体りんが何を言っているのか分からず、リョウは困惑した。


「アニメの話なんて関係ねーって!! 一度さつきとジンと合流しよう!」


 リョウはそう提案したが、りんは首を振った。


「ほら、さっき『うぃーすてりい』だっけ? 『トモダチらゲットあすてーな』とかなんとか、言ってたし」


「友達とゲットしか合ってねえだろ!!」


 りんは真剣な表情のままで、一歩も引く気はないようだ。何かの確信を持っているようだったが――りんの言葉は、理屈で説明できるものではなかった。マッドラビットの話からすれば、確かにそう思えなくはないが――もっと、理屈で説明できる確信が必要なのではないか。迂闊に近寄って、りんまで『取り込まれる』ようなことになってしまったら。リョウはそう考えていた。


「今ここで目を離したら、また出てくる保証なんてないよ、リョウ。このままじゃ、みもりちゃんが大変なことになっちゃう。助けないと」


「助けるったって」


 りんの目が言っていた。今、自分が助けるのだと。


「どうするんだよ」


 りんは、リョウの手を静かに離した。りんの表情には、少し余裕が感じられる。この状況下でよく余裕を持てるものだとリョウは思った。


「大丈夫。きっと、大丈夫だと思う」


 そう言うと、りんはみもりとクレーンに向かって歩いた。下で騒ぐうさぎに躊躇することはない。不思議なもので、うさぎ達はりんのために道を開けた。りんはクレーンの前まで歩くと、クレーンに首を吊っているみもりを見た。みもりはうわごとのように、何かを呟いていた。


「今、助けるから」


 りんはそう言うと、クレーンを避けて更に奥へと歩いた。うさぎ達は再び砂浜を覆い尽くす程の数になっている。それらは一斉にりんを見た。リョウからはりんの後ろ姿しか確認することは出来なかったが、その後ろ姿はうさぎ達の視線に合わせて震えたように見えた。恐ろしいのだろう。だが、りんは両手を広げた。


「この子は、あなたの友達じゃないわ。だから、もうやめて」


 うさぎ達は次々とりんに向かって首を傾げた。リョウはその様子を見て、少しでも異変があったらりんを助けられるように気構えをした。


「べらべらフクリシェラべーら?」「べらー!! べっべらー!!」「べらー!!」


 次々にうさぎ達はりんを指差し――非難されているようにも見えた。りんは大きく深呼吸をした。何か、決定的な一言を喋ろうとしているのだとリョウは気付いた。


「……私の、友達よ」


 口々に非難をしていたうさぎ達は非難するのをやめ、静止した。


「…………ともだち?」


 その時、リョウの感覚が正しかったのなら。あるいは、この理屈では説明しようのない展開に感情的に判断を下すのだとしたら――うさぎ達は、悲しそうな顔をした。


 理由は分からない。だが、ただ一言だけ何かに気付いたかのように呟いたうさぎの言葉は、りんを批判する沢山のうさぎ達を黙らせた。りんがうさぎの様子に気付いて、広げていた両手を引っ込めた。虚空へと放った一言はうさぎの統率を崩し、うさぎ達は次々と崩れ落ちるように地面に突っ伏した。


「……あっ」りんは、うさぎ達に手を伸ばした。


 刹那、うさぎ達は一斉に膨らんだかと思うと――そのまま、破裂した。


「りん!!」


 あまりに唐突な出来事であり、二人が手を出す暇などなかった。クレーンも同様に破裂し、みもりは宙に投げ出された。慌ててトオルがそれを受け止めるために走ると、煙が晴れて辺りの様子がはっきりと見えてきた。


 トオルはみもりを受け止め、リョウはりんのそばに走った。


 そして、煙が晴れた――……


 りんは飴細工のような砂浜に座り込んでいた。本人も一体何が起きたのか分からない様子だったが、自分の安否を確認すると、ふう、とため息をついた。


「りん、大丈夫か?」


 リョウがりんの顔を覗き込むと、りんは少し苦しそうにしていた。リョウはついに、気になっていたことを聞こうと思った。


「それ――、もしかして、例の病気じゃないのか」


「……うん、大丈夫。そばにいてくれれば」


 りんはそう言うと、笑った。少しずつ楽になっているようだった。何故だろうか、リョウはその時に妙な違和感を覚えた。リョウは不安だったが、ひとまずは気にしないことにしようと思った。


「なんで、助けられたんだ?」リョウは聞いたが、りんは首を振った。


「分かんない。でも説明すれば、分かってくれるような気がして」


 何故、りんはそう思ったのだろうか。あるいは、人間の言葉すら喋らないうさぎの縫いぐるみの奥深くに、感情を見出したのだろうか。それは理屈ではなかったが――もはや、理屈や計算などこの世界では価値を持たないものだ。ならば、こういうこともあるのだろうか。


「……げふっ、うええ、気持ち悪……」


 みもりが目を覚ますと、おそらく締め付けられていた咽喉部に違和感があるのだろう。喉元に手を添えると、クレーンの痕に触れた。状況を把握するためか、きょろきょろと辺りを見ていた。


「大丈夫?」


「あれ……? トオル先輩?」


 みもりはトオルをぼんやりと見ていたが、自分が抱かれていることに気付くと、現状を理解した。


「えっ、みもり、何やって……あれ?」


「動ける? 大丈夫?」


「う、動けます。どうも」みもりは頷いて、自らの足で立った。


「助けられる前に、一体何があったか思い出せる?」


 みもりが小さく悲鳴を上げて、トオルに抱きついた。おそらくうさぎを探しているのだろう、辺りをきょろきょろと見ている。


「みもり、大丈夫だ。りんが助けてくれたんだ」リョウはりんを指差した。みもりがりんを見る。りんは少し気恥かしそうにしていた。


「……たまたま成功しただけだから。気にしないで」


 みもりはりんに飛び付いた。驚いてりんはみもりを受け止めたが、どうやらみもりは少し泣いているようだった。


 リョウもようやく、辺りの状況を確認した。つい先程まであれだけの数がいたというのに、すべて破裂してしまったのだろうか、砂浜は静寂に包まれていた。どこでループしているのかもよく分からないが、『ラ・カンパネラ』は何度も繰り返し、砂浜に流れ続けていた。まるでプロのピアニストが弾いたのではないかと思えるような、重厚で壮大な音楽だった。


「何だか、よく分からないね」トオルがリョウにそう言って、笑った。リョウも頷いた。


「りんには何が見えたんだろうなあ」


「……僕は、どうやってマッドラビットからみもりちゃんを奪い返すかとか、そんなことばっかり考えてたよ」


「奇遇だな。俺もだ」リョウは笑った。


「日本語が通じるんだったら、最初っからそう言って欲しいよ……」


 今のやり取りに一体どのような意味があったのか、それさえも定かではなかったが。みもりが正気を取り戻したことが、ノーリアル・ワールドに取り込まれた鬼岩みもりを救出したということなのだろう。


 ふと、トオルが何かに気付いた。何かに驚いたようで、はっと背筋を伸ばし、森に向かって目を見開いた。


「みんな!! しっ……」


 人差し指を口元に当てて、トオルは合図をした。みもりは慌てて泣き止み、りんは何事かとトオルを見た。――ふと、森の中から足音がした。トオルは森にそろそろと近付いた。


「……まだ、何かあるんですかあ?」みもりが情けない声を出した。


 ガサガサという音はゆっくりとリョウ達に近付き、森の中から――それは、顔を出した。


「あれ? リョウ君? ……りんちゃん?」


 中から出てきたのは、さつきだった。意識を集中していたリョウとトオルだったが、それがさつきであることを確認すると、ぽかんと口を開いた。


「さつき? ……何でお前、こんな所にいるんだよ」


「何でこんな所にいるの?」


「いや、俺が聞いてるんだけど……迷ったのか?」


「うん、ちょっと大変だったよ――りんちゃん、来たんだ?」


 さつきが目を輝かせると、りんは微笑んだ。


「そうなの、なんとか間に合って。大丈夫だった?」


「うん、あたしは全然大丈夫だったけど……何かあったの?」


 ふと、リョウはさつきが奇妙な格好をしていることに気付いた。緑色のワンピースはドレスに変化し、白い手袋を付けていた。さつきは気にも止めていなかったが、その格好はあまりに場違いだった。


「おいさつき、お前なんでそんな格好してるんだ」


 リョウが聞くと、さつきは自分の服を見た。


「可愛いよね?」


「いや、可愛いかどうかは大した問題じゃねーよ」


 どうしてこの状況下でこんなにも平和な思考でいられるのか、聞いてみたい所ではある。さつきは自分の姿を改めて確認すると、ああ、と手を合わせた。そんな格好、とリョウが聞いた言葉の意味を今更理解したように思える。


「なんか、気が付いたらこうなっちゃってたんだよね。どうしちゃったんだろ」


 どうやら、さつき自身も分からないらしい。するとトオルが何かに気付いたらしく、さつきの手を取った。さつきは慌てたが、トオルは深刻そうな顔をしていた。


「さつきさん。ジンさんはどうしたの?」


 え、とさつきが呟いた。リョウも言われて気付いた。さつきとジンは、二人でコンビニに向かって行ったはずだ。今この場にジンがいないということは、何かがあったということだ。さつきは気付いていないようだが――……


「ええ、えっと……分かんない、あたしも何で今ここにいるのか分かんないし」


 トオルがさつきの両肩を掴んだ。真剣な表情に、さつきも思わず身構えた。


「さつきさん。君は、旅行の初日の夜にどうしていた?」


「……え、ええ? それは……コンビニに」


 何かに気が付いたようで、さつきは急に辺りをきょろきょろと確認し出した。トオルが安堵するのが見えた。


「良かった。なんか、偽物だったらどうしようとか思っちゃったよ」


「え、そんなことってあるんですか?」みもりがぎょっとしてトオルを見た。


「あるかもしれない、って意味。ないとは言えないでしょ?」


「……確かに」みもりはもう関わりたくないと言わんばかりだった。


 トオルは再びさつきに向き直って、言った。


「この七月二十二日は繰り返しているんだ。僕達も最初は覚えていなかった。だから、もしかしたら記憶が遠いのかもしれない。ちゃんと思い出して、一日目、二人はどうしていた?」


「い、一日目……」


 さつきが唇に人差し指を当てて、考え込んだ。トオルはじっと、その様子を観察していた。場合によっては、ジンも救出しなければならなくなるかもしれない――……。


「……そうだ、高速道路で別れたんだよ」


 帰って来た言葉は、予想を大幅に上回る言葉だった。トオルは一瞬目を丸くし、その場にいた誰もが呆気にとられた。


「高速道路? ……どういう意味?」


 その時、リョウはどこか遠くで聞こえる奇妙な音に気が付いた。それは爆発の音のようであり、また違う何かのようにも思える。さつきがその音に気付いたのか、音の方向を振り返った。


「……思い出した。逃げないとやばいかも」


「逃げる?」トオルが聞いた。さつきは頷いた。


「あたし達、自転車に追い掛けられてたんだよ。分かれ道でジン君が二手に別れて、自分だけ自転車を引き継いで。……そう、ちょうどこんな音で。トロッコに乗って、あたしは森の中に」


「……高速道路に、トロッコ?」


「ホントなんだってば!」


 遠くで聞こえる音が、どんどんと大きくなっているのがリョウにも分かった。何かが高速で近付いてくる。それは、さつきの言う通りなのではないか――はるか遠くで、森を飛び出して道路を曲がり、近付いて来る『なにか』がそこにはあった。曲がる瞬間に転倒し、爆発していた。さつきが「逃げよう!」と叫んだが、リョウは思わず目を凝らしてその『なにか』を見てしまった。


 それは、さつきの言った通りの自転車だった。――だが、ただの自転車ではなかった。その自転車のサドルには誰も座っていない。無人の自転車だ。ただし、前籠に何かが乗っていた。見覚えのあるような――……。近付いて来るにつれ、それははっきりと目に見えるようになった。


「うわあー!!」


 前籠に尻から突っ込んで、盗難防止用チェーンにがんじがらめにされて身動きの取れなくなったジンがそこにはいた。そのジンは白目を剥いて気を失っていたが、やがて自転車が呻き声を上げて転倒すると、ジンは転倒の瞬間だけ覚醒しているようだった。みもりがりんの後ろに隠れた。リョウは思わず顔をしかめた。


「……なんだ、あれ」


「リョウ君、早く逃げよう!!」さつきが叫ぶ。


「よく見ろさつき!! ジンが乗ってる!!」


 さつきは、え、と呟いて自転車を見た。そして、両手で口を押さえる。


 自転車は転倒して爆発するが、爆発の中からまた同じような自転車が姿を現した。そして、その荷台にジンが同じように縛り付けられている。少し走っては転倒し、自転車は爆発に身を隠した。


 また転倒し、転倒の瞬間だけ覚醒し、蒼白になって恐怖に顔を歪ませながら地面に顔を擦りつける。自転車は爆発し、また中から自転車が――……。


「な、何あれ……」


 りんが呟いた。それは永遠と繰り返す恐怖体験のようにも見えた。ジェットコースターが昇りきり、下る瞬間に胃がひっくり返るような、あの感覚だけを永遠に繰り返しているようなものだ。考えるだけで吐き気がする。


「りんさん、あの自転車はどうしたら良いのか分かる!?」トオルが聞いた。


「ぜ、全然分かんない」だが、りんは顔を青くして震えていた。


 一体、どうしたら良いのだろうか? こうしている間にも自転車は迫って来ている。ジンの乗っている自転車よりもはるか向こう側で、沢山の自転車が森を抜け、ジンの自転車と同じコースを辿り、こちらに近付いて来るのが見えた。自転車は同じように曲がり角で転倒し、爆発する。ジンの乗っている自転車とは、いくらかの距離があった。


「あああああ!!」


 ジンは何度も叫び、苦痛に表情を歪ませている。それはまるで、ゾンビに捕らわれた人間のようだった。自転車は近付き、やがて爆風はリョウの頬を撫でた。相変わらず、全く意味は分からず――そして、恐ろしい。


「ジン君――!!」


 さつきが叫ぶ。だが、当然のようにジンがさつきの言葉に気付くことはない。みもりの時もそうだった。つまり、ジンは今――ノーリアルに、取り込まれているのだろう。


「リョウ、あれ、怖い」


 りんがリョウの袖を掴み、震えていた。確かに恐ろしい光景ではあったが――それは、みもりの時も同じではなかっただろうか。りんが必要以上に怖がっているのか、リョウの思考が麻痺してしまっているのか。何れにしても、今回はりんの活躍を見られることは無さそうだ。


 ならば、どうしたらいい?


『説明すれば、分かってくれるような気がして』


 ふと、りんがみもり救出の時に言っていたことを思い出す。


 うさぎの縫いぐるみは、感情を持っていた。話すこともできた。ならば、自転車も話すことができるのではないか?


「あいつを捕まえる。みんな、先に逃げてくれ。俺が失敗したら、助けに来てくれ」


 そこに理屈は存在しない。ただの直感だ。だが、それだけがヒントとも言えた。直感で考え、自転車が思っていることを感じ取り、どうにかする以外に道はないように思えた。リョウは迫り来る自転車に対し、立ち向かうように前に出た。


「で、できないよそんなこと!!」さつきが狼狽する。


 リョウは手を広げ、自転車を捕まえる準備をした。


 不意に、リョウの耳に何者かの声が届いた。ジンの声ではない。もっと別の、何か――……。転倒する瞬間に呻き声を上げ、走っている最中も何かを呟いている。呻き声は、言葉になっている?


 「こわい」「こわい」と、まるで走っていることそのものを恐れているかのように。思えば、うさぎの縫いぐるみは喋ったのだ。自転車が喋らない理由など、確かにどこにもない。自転車はぐらぐらと揺れ、怖がり、そして呻き声をあげて転倒していく。


 恐れているのだろうか? 自分が高速で走っていることを?


 ふと、リョウの頭にそんな考えが浮かんだ。それは、りんがうさぎを見た時に『友達が欲しいのかも』と思った瞬間と同じような直感だったのかもしれない。


 だが、一度そう思ってしまうと、そうとしか考えられなかった。でなければ転倒する理由も、転倒する瞬間にジンが覚醒している理由もない。だとするならば、捕まえるのではない。どうすればいい?


 自分が自転車に初めて乗った時、自転車が怖いと思った時、どのようにしただろう?


 リョウは広げていた手を引っ込め、自転車を待った。転倒するおおよその位置を把握する。自転車は呻き声をあげて転倒する。その瞬間を待って、リョウは走り出した。


「リョウ君!? だめだよちょっと!! 戻ってきてよー!!」


「うるせーさつき!! さっさと行け!!」


 さつきがリョウの奇行に驚く。だが、さつきに説明している暇などない。爆発の煙を見ながら、リョウは次の自転車が飛び出してくる瞬間を待った。


「……来い」


 自転車が、この煙の中から飛び出して来る瞬間――……。


 真っ白な煙の中から、カチャ、と盗難防止用チェーンの擦れる音がした。


 瞬間、リョウは走り出した。


「……っなろーが!!」


 高速で飛び出す自転車の荷台部を、リョウが捕まえる。全力で走り、その荷台を後ろから支えた。自転車は驚くほど不安定で、リョウが支えていなければ今にも倒れそうだ。


 リョウが走り出す動きに合わせて、三人が慌ててリョウの後を追う。後ろからは自転車の大群が、リョウ達を追って来ている。リョウは舌打ちをした。


「おいコラ、ジン!! さっさと目え覚ませ!!」


 リョウが叫ぶと、ジンが目を覚ました。心なしか、自転車の速度が上がっているように感じる。自転車の揺れは次第に収まり、リョウは自転車の声を聞いた。


「転ぶこともできない」


 背後の爆発音に紛れて掻き消されるほどに、その声は小さかった。だが、リョウの耳が確かであれば、自転車はそう言った。何か、重要なキーワードのように思えた。やがて海沿いに走っていたはずの一同は高速道路を走っていた。どこで高速道路に入ったのかということすら全く把握出来なかったが、自転車のスピードは見る見るうちに上がっていく。自転車は消える様子もなければ、うさぎのように爆発する様子も見せない。


 まさか、失敗した――――? ノーリアルに、取り込まれる。リョウは戦慄した。


「リョウ君!!」


 さつきが意を決したのか、リョウの支えている自転車の荷台に飛び乗った。高速道路は分かれ道に差し掛かった。左方向と、直進方向。左方向には線路が見える。これが、さつきが言っていた話だろうか。


「左はダメ! 砂浜にループするから!」


 さつきがそう言った。リョウは直進方向に避けた。


「何だ、一体何が起こっている。俺はどうしてしまったんだ」ジンが自分の姿を見てそう言ったが、さつきは自転車にしがみ付いた。リョウが自転車に対して働きかけていることを見たからか、さつきも自転車に対して話し掛けようとしていた。


「怖くない。怖くないよ、だから目を覚まして。あなたは一人じゃない」


 それは、いつも誰かの心配ばかりしているさつきらしい言葉だった。


 不意に、上がり続けていた自転車の速度が緩やかに減速した。


 ジンの盗難防止用チェーンは跡形もなく消え去り、ジンは自由になった。リョウの持っている荷台部がやや膨らみ始めたように見えた。


「みんな自転車から離れて!!」トオルが叫ぶ。リョウは荷台から手を離し、さつきとジンは自転車から飛び降りた。自転車はパン、と音がしたかと思うと弾けて粉々になった。それは爆発とも違う現象だった。迫り来る無人自転車から逃げながら、リョウはその自転車の行く末を目で追い掛けていた。


「……悲しそう」


 リョウが見ると、りんがそう呟いた。確かに、うさぎも自転車も悲しそうな顔を、あるいは言葉を呟いて消え去った。何かの意味があるのだろうか。少し考えてしまったが、後方を見ると、無人自転車はまだリョウ達を追って来ている。そんなことを考えている場合ではなかった。


 ジンが何かに気付いて、リョウの肩を掴んだ。


「おい、リョウ! さっき、分かれ道で直進方向に行ったか?」


「え? ……ああ、行ったけど」


 まずい、と呟いてジンが後方を見る。既に自転車は分かれ道の部分を通り過ぎており、こちらに迫っていた。


「どうしたんだよ」


 真っ直ぐに高速道路を駆け抜け、曲がり角を曲がる。すると、リョウはジンがまずいと言った理由が分かった。高速道路のはずなのに、道は壁で阻まれていた。だが、こんなもの乗り越えてしまえば済む話ではないか。


 人の高さほどの壁をリョウが走る勢いで駆け上がると、危うく転落しそうになった。まるで空を飛んでいるのではないかと思えるほど、はるか下に地面が見えた。


 高速道路の先に、崖? リョウは驚いて、辺りを見回した。初めから道路が行き止まりになることを想定しているような作りで、歩けそうな場所はどこにもない。地面よりも、雲に手を伸ばした方がまだ近そうな雰囲気さえあった。


「行き止まりなんだ」ジンはぼやいて、肩で息をした。


 逃げ場が無くなった。


「えっ……行き止まり!? 嘘、嘘ですよね?」


 みもりが後ろを確認した。自転車はまもなく到着するだろう。こんな所、落ちたら絶対に助からない。今更、リョウはジンが自転車に捕まった理由を理解した。あの高速道路で、ジンとさつきは二手に別れたのだ。さつきは旅館へと戻り、ジンは行き止まりに――……。


 冷や汗が流れた。どうしよう。どうすれば?


「ね、ねえねえねえ!! 近付いてくるよお!!」


「さつき先輩!! さっき、自転車に何か話してましたよね!? なんとかしてくださいよ!!」


「む、無理だよあんな数!!」


「ジン先輩、何ぼさっと突っ立ってんですか!! なんとかしてくださいよ!!」


「今考えているところだ」


「あーもー!!」


 リョウが呆然として壁の上から地面を見下ろしていると、不思議な現象をリョウは確認した。


「みんな、飛ぶぞ」リョウは言った。身長が足りず、壁を登らなければ下が見えないみもりが一生懸命壁を登り、下を確認する。青い顔をしてリョウを見た。


「ちょっ、頭おかしくなっちゃったんですか!? 死ぬでしょ!!」


 だが、リョウには謎の予感があった。飛べる、と思った。見下ろしている時、リョウはその空間に水のように波紋が広がるのが見えたのだ。うさぎの綿から飛び出した、綿の大きさから考えると明らかにスペースの足りていない口。写真のように固まる波、飴細工のように分けることのできない砂浜、何の脈絡もなく飛び出した高速道路。


 見えている景色と空間の繋がり方は、イコールではない。


 リョウの言っていることを理解するためか、リョウとみもり以外の四人も壁を登り、一同は壁の上に立った。背後からは、もう自転車がすぐそこまで迫っている。


「いや、そういうことか――でも、ひとつの賭けじゃないか」トオルには、この状況が見えているようだった。


「……リョウ」りんがリョウにしがみ付いた。目を閉じていた。みもりはぎゃあぎゃあと何か言っている。トオルが冷汗を流し、ジンは腕を組み、さつきはおろおろしていた。


「――りん、大丈夫か?」りんは走ってきたことが災いしたのか、肩で息をしていた。リョウにしがみついていなければ、すぐに倒れてしまうような雰囲気だった。


「……大丈夫」だが、りんは笑顔になった。


「いいかみんな、時間がない。狐は『この世界にいる限り、死ぬことはない』って言ったんだ。ここは、飛んでも死なない」


 リョウはそう言って、それぞれを見た。


「俺を信じろ」


 リョウはそれだけ残し、一番先に崖から飛び降りた。一瞬宙に浮き、重力を感じる。まさにこれから落ちるという恐怖と、意識が飛ぶような嫌な感覚が全身を駆け巡った。だが、一度落下し始めてしまうと妙に冷静だった。リョウが右腕を見ると、りんが付いて来ていた。固く目を瞑り、震えていた。リョウは上を見た。


「もう、自転車に捕まるのはごめんだ」ジンがそう言い、飛び降りた。


「……覚悟決めるしか、ないよね」トオルが飛び降りた。


「ちょ、ちょっと、置いてかないでよ!」さつきが飛び降りた。


「…………ああもう、せめてもうちょっと可愛い死に方したかったですよ!!」みもりが余計なことを言い、飛び降りた。


 瞬間、崖際で爆発があった。一番最後に飛び降りたみもりが悲鳴をあげた。間一髪といったところだろうか。リョウは丁度、波紋の広がっていた場所へと差し掛かっていた。水に飛び込むような感覚があり、思わず一瞬息を止めてしまった。だが実際は水の中ではなく、通常通り呼吸ができる。不思議な感覚だったが、緩やかに減速した。まるで、パラシュートを広げているようだ。ジンやトオルもリョウと同じほどの高度になった。リョウはりんの肩を叩いた。


「りん、もう大丈夫だ」


 りんが目を開くと、摩訶不思議な事態に驚いているようだった。


「……知ってたの?」


「いや、崖の上で水の波紋みたいなものが見えたんだよ。だから、何かあるんじゃないかって」


「予感?」りんは呆れた顔で聞いた。


「予感だ」リョウは自信満々に答えた。


「俺を信じろ、とか言って。適当なんだから」りんは笑った。「信じて良かったじゃねーか」リョウも思わず、笑ってしまった。結局のところ、単なる直感だった。だが直感が全てを左右するこの世界で常識に頼っても仕方がないということは、既に何度も思い知らされていた。


 この秩序と常識のない世界で冒険する感覚を、リョウは僅かに掴んだようだった。


 やがて地面が近くなっていき、二人はふわりと地面に着地した。崖の下は湖が広がっており、リョウ達は丁度陸地の部分に着地した。すぐ隣には橋があり、湖をまたいでいた。湖の向こうは住宅街になっていた。住宅街と呼ぶべきなのだろうか――トオルの言う商店街とも少し事情が違うようで、その街は緑が多い。建物が少ない割に、やたら背が高いビルなどが洋館の間に建っている。日本ではないような印象も受けた。


「トオル、ここが商店街なのか?」リョウは違うと思っていたが、念のためトオルに聞いた。トオルは首を振り、こんな場所は見たことがないと呟いた。ジンが軽い足取りで橋の上に立つと、遠くを見た。


「あー!! ちょっと、助けてください!! 誰か!!」


 声のする方を見ると、みもりがばたばたと両手を振りながら落下していた。すぐ下は湖だった。近くにいたトオルが苦笑いをして、みもりに手を貸した。


 リョウが気付くと、ジンが遠目に道を見ていた。トオルがジンのそばに寄った。


「自転車に乗る前、何があったか思い出せる?」トオルが聞くと、ジンは腕を組んだままで答えた。


「行き止まりの所で、自転車に襲われた。そこから先は、すまないが覚えていない」


 そっか、とトオルは呟いた。兎にも角にも、これで全員揃った。リョウは少し安堵した。もしも誰も助けられなかったら、三人でこの世界の終わりを迎えていたかもしれないのだ。少なくとも、これで全員で帰る道を目指すことができる。


「……道はどこまでも続いているみたいだ。これから俺達、どうしたら良いんだろうな」ジンが言った。リョウはりんと橋の上に立ち、湖の向こう側を見た。道路は一直線にどこまでも続いていて、地平線が見えるほどに果てしない。本当に別世界のようだ。しかし、どこか雑なようにも見える。まるで『誰かが想像した街』の姿を、そのまま再現したかのような雰囲気だった。


「『室外行き』の電車に乗って、師匠に会え。確か、狐がそう言っていたわ。電車って、あれじゃないかしら」


 りんが指差した先を見ると、電車の駅のようなものがあった。線路はその駅から始まっていて、どうやらその駅はどこかの終点のようだった。自動改札口も確認できる。奥には黒い蒸気機関車が場違いに設置してあり、電光掲示板には『KnowReal World 室外行き』とあった。


「電車?」当然の疑問をさつきが口にした。


「見て。電線引いてあるよ」トオルが指差した。


「煙が出てるが……」ジンが言った通り、その蒸気機関車からは煙が出ていた。どうやら、蒸気機関は動いているようだった。


 それぞれ謎の交通機関に首を傾げたが、狐の言葉通り、その黒い蒸気機関車に乗ることにした。自動改札口まで向かうと切符売り場がなく、自動改札口は作動していなかった。無機質な客室に座ると、発車のベルが鳴り、蒸気機関車は静かに発進した。蒸気機関車の中は向かい合わせる形の座席がいくつか配置しており、リョウ達はその座席に座った。やがて景色は静かに移動してゆく。


「……これでようやく、帰れるんですかね」


 みもりがため息をついた。リョウにも気持ちは分かる。だが狐は、電車に乗って師匠と呼ばれる何かに会え、としか言わなかった。それを考えるとリョウには、これで帰ることが出来るとは到底思えなかった。例え帰ることが出来たとして、それは旅館の中なのか、外なのか、はたまた日本なのかどうか。それさえも分からない。


 隣に座っているりんが窓の外を眺めているのが見えた。窓の外は緑の中に高層ビルが建っているという不自然極まりない景色が続いていたが、やがて夜になっていた。時間の流れが速すぎる――しかし、七月二十二日を繰り返すような世界に時間の概念などない。もしくは、時間の流れとは違う何かによって、昼と夜が決まっているのではないかとも思える。


「……どうして、こんなに悲しい世界なんだろう」


 りんが窓枠に肩肘をつき、ぼやいていた。


「悲しいって、マッドラビットの縫いぐるみや自転車のことか?」リョウが聞くと、りんは頷いた。


「不思議の国みたいな世界でも、もうちょっと楽しい世界でも良いじゃない。爆発したり、寂しそうにしたり、怖がったり――そんなことばっかり」


「本当にそう思うよ」そう言ったのはさつきだ。「あたしね、みんなと会う前に、男の子に会ったの。光っていて、今にも消えてしまいそうな――……。男の子が言ったの。ずっと、一人なんだって」


 蒸気機関車は夜の道を走った。どこかも知らない土地を走り、やがて砂漠へと到達した。何もない土地に、線路がひとつ。蒸気機関車は無機質に走り、そしてやがて、夜明けが訪れた。


「助けて、あげられないかな。マッドラビットも、自転車も――……。私は、助けたい。助けて、友達になってみたいの」


 りんの表情は真剣そのものだった。順番にりんはそれぞれを見ていった。さつきは頷き、みもりは複雑な表情になり、トオルはりんを見詰め返した。ジンがため息をつき、腕を組んだ。


「何かを助けるとか、そういうことに頭が回る余裕があるのが羨ましいな。……正直俺は、まだこの世界がただの夢のような気がしてならない。お前達と合流したことも、夢心地に感じるくらいだ」


 ジンがそう言うと、それぞれがそれぞれを確認した。この不思議な世界に、結局は六人とも巻き込まれたことになる。コンビニに出て別れたジンやさつきまで、何故かこの世界にいる。それは不思議な偶然だった。みもりが膝を叩いた。


「そーですよ! こんなの、夢に決まってます! はやく起こしてくださいよ、リョウ先輩!」


「何で俺に言うんだ」


 リョウは眉をひそめ、他の者は笑った。だがトオルだけが、至って真面目な顔でいた。


「僕達は、同じ日をループしているんだ。秩序と常識のない世界だって、狐は言ってた。でも、意味はあると思うんだ。マッドラビットの行列にも、無人の自転車にも、意味が」


 トオルはそう言った。この荒唐無稽な世界に、意味が――……? 少なくとも、これまでの展開から意味を読み取ることは不可能だ。ならば、一体どうすれば良いのか?


 やがて、蒸気機関車は駅へと辿り着いた。一同が機関車から降りると、そこはどこかで見たような、田舎の土地だった。一度も見たことはないのだろうが、何故だか懐かしい感情を抱かせる。自動改札口を抜けると、リョウはあることに気が付いた。いかにも住宅街のような雰囲気を放っているが、畑に道路、小学校。民家は一軒もない――いや、一軒だけあった。木造の小屋で、山小屋のようにも見えた。リョウ達はそれに近付くと、扉の前に張り紙がしてあった。


『絶対に開けるな』


 これはさすがに誰もが理解不能だった。ドアノブを回すが、開く様子はなかった。鍵が掛かっているようだ。


「何ですかこれ、ふざけてるんですかね」みもりが怒りながらそう言った。「普通、この扉を開けたら夢から覚めて終わりじゃないんですか」


 他には特に何かがある様子はない。だが駅は終点のようで、暫らくすると蒸気機関車は元の方向へと帰って行った。蒸気機関車が行ってしまったので、全員どうすることも出来ずにいた。


「……あ、そうだ。狐のやつ」


 トオルが思い出して、ポケットから狐の小さな袋を取り出した。中を開くと、鍵が入っていた。


「さっすがトオル先輩!! 愛してます!!」


 みもりが嬉しさのあまりトオルに抱き付き、トオルは苦笑いをしながら扉に鍵を差し込んだ。だが、鍵を回すことはできなかった。


「……回らないんですか?」みもりが聞いた。トオルはやや残念そうな面持ちで「これじゃなかったか」と呟いた。みもりが愕然として、その場にへたり込んだ。


「もしかして、このまま帰れないなんてことは……ないよね」


 さつきがそう呟いた。みもりがさつきを本気の泣き顔で見詰めたため、さつきは狼狽して手を振った。だが、その問いに答えられる者は、六人の中には誰もいなかった。狐の鍵すら回らない。となると、一体どうやって師匠という人物に会えば良いのだろう。蒸気機関車には乗った。駅にも辿り着いたが――……。すると、扉の向こうで声がした。


「……もしかして、そこにいるのかね?」


 扉の向こうから、老衰した男性の声が聞こえてきた。咄嗟にみもりは扉に耳をつけた。


「います!」リョウが大きな声で答えたが、扉の向こうからは返答がない。沈黙――……の末、もう返事はないのではないかと思われる程に時間が経ち、諦めかけた頃だった。


「現実世界の子供達よ、よくここまで辿り着いたな。ここからそちらまでは今回、非常に距離が遠いので――なかなか、会話にはならないかもしれん。だが、私の言葉をよく聞きなさい」


 みもりが喉を鳴らして、その言葉を待った。それぞれ扉の前に近付き、一言でも聞き漏らすまいとした。


「知っていることもあるかもしれないが、今君達のいるその場所を『ノーリアル・ワールド』という。誰かの強い想いによって作られた世界だ。私は今まで、ずっとその想いのかけらと戦ってきた。だから、私の知っていることを話そう」


 その言葉を冒頭として、師匠と呼ばれる何かは語りだした。主にこのような内容であった。


 ノーリアル・ワールドは誰かが強く願いを持った瞬間に生まれる。いわば、ノーリアル・ワールドの存在を願った誰かによる夢の世界のようなものだ。


 ノーリアル・ワールドを現実かと問うならば、それは現実ではない。はっきりとそう言えるが、存在しないかと問われると、そうではない。ノーリアル・ワールドには現実世界の人間が巻き込まれている。その間、現実世界の人物の意識は飛んでいることが多い。


 ノーリアル・ワールドの中には、願った本人すらその空間に登場しないことがある。たとえば夢を見る時に、自分が必ずしも夢の中に存在しているとは限らないことのように。ただし、巻き込まれる人間は強く関わりを持っている場合が多いようだ。


「……じゃあ、この『ノーリアル・ワールド』にみもり達がいるということは――少なくともこの世界は、みもり達の知っている誰かが願った世界、ということですか」


 リョウがみもりを見ると、みもりは打って変わって真剣そのものだった。誰かの願い、というキーワードに反応したように思えた。


「そうでない可能性もやはりあるが、その可能性はかなり低いだろうな」


 みもりは扉に耳を付けたまま、俯いた。


 ノーリアル・ワールドは秩序を持たない。現実世界とは違う作られ方をしている。だから、現実世界の常識は通用しない。だが、生まれた理由は確かにある。ノーリアル・ワールドそのものは、その時に生まれた理由に基いて世界を構築している。


「その時に生まれた――理由」トオルは何かを考えているようだった。


「元の世界に帰るためには、どうしたらいい?」


 ノーリアル・ワールドから脱出するためには、ノーリアル・ワールドと現実世界を繋げなければならない。調査――白狐が君達に、白い包を渡しただろう。ノーリアル・ワールドが消滅する時、君達がそこに来た時と同じように、現実世界との間に亀裂ができる。その時、その鍵を使いなさい。師匠はそう答えた。


「……じゃあ、どうしたら『ノーリアル・ワールド』と現実世界は繋がるのですか?」


 トオルがそう聞くと、暫くの間の後に返事はあった。


「ノーリアル・ワールドが消滅に近付くにつれて、現実世界との繋がりは強くなるのだよ。ノーリアル・ワールドは世界を構築した本人が満足した時に、覚醒を始める」


 当人のコンプレックスや願望から生まれる世界だからだ。多くの場合、現実世界の常識が捻じ曲げられるかたちで発生する。そのため、ノーリアル・ワールドには現実世界に存在する部分について、矛盾が発生することが多い。


 たとえば、足の遅いことがコンプレックスの人間が『自分の足が速い世界』を願うと、ノーリアル・ワールドの中でのみ、その人間の足が速くなる。その世界で主が満足するためには、力いっぱい、誰よりも速く走ることが条件となる。だが、ノーリアル・ワールド内でも彼は『足が遅い人間』だと言われていることがある。


 現実世界との矛盾を発見することで、解決に近付くことができる。


「だから、君達が気付いていない所に解決の鍵があるかもしれない」


 何故か、その言葉を聞いた時にリョウは謎の違和感を覚えた。


「世界の矛盾に気付いた時、予想もしない何かと戦うことになるかもしれない。そのため、君達に戦う力を授けよう。現実世界ではあり得ない力でも、君達は使うことができるようになる。……おや、日高さつきは既に力を得ているようだな。それは『共感の癒し』という」


 さつきが自分の姿を再確認した。ワンピースからドレスへと変化したのは、そういうことだったのかもしれない。


「東野リョウに勇気の剣を。矢美津ジンに冷静なる盾を。丹沢トオルに叡智の瞳を。鬼岩みもりに戯言の仮面を。――そして、不藤りんに信念の弓を」


「なんでみもりだけ、そんなにネガティブなんですか」みもりの抗議は無視された。


「……本当に、夢みたいだね」さつきが苦笑いをした。


「もしも人が夢というものを見るのだとすれば、それが実際には存在しない、架空の出来事であると一体誰が証明できる? 逆に言えば、現実世界だと人が思っているものが、ある日唐突に崩れない保証が何処にある? ある意味では、これは夢の世界かもしれない。だが、存在する世界だ。人は秩序を持ち過ぎるのだよ、さつき。秩序や常識では測れない事態に遭遇した時、それを幻想やまやかしであると決め付けるのだ。だから、自分を信じなさい」


 まるでさつきのことを今まで見ていたかのように、師匠は言った。


「君は一人じゃない。共に分かち合う仲間がいる。それが大事なことなのだよ」


 さつきは真剣な表情で扉を見詰めていた。背後で流れ続けるラ・カンパネラの曲が終わり、世界が白く染まっていく。その様子を全員、ぼんやりと眺めていた。最後に師匠が言った。


「世界が戻る瞬間に、前回のことを覚えているように強く念じなさい。それだけで、君達は前回の記憶を次に活かせるだろう」


 曲が終わった時に、世界は戻る。思えば、『道化師の朝の歌』の時がそうだったかもしれない。リョウは思った。そしてそれ以上に、リョウには自分が深くこの世界に関わっているという予感があった。あるいは、今までに見た何か――……。何故そう思うのかと言えば、リョウには他のメンバーが見ない、ある出来事を見ることが出来ているからだ。


 それは、不藤りんと最後に会った日の記憶のこと。そうだ、一人ではない。もしかしたら、りんか、あるいは自分が世界の矛盾を解く鍵になっているのかもしれない。そんなことをリョウは思った。




 さて、少し休憩を挟みましょう。物語は中盤を過ぎまして、ようやく全貌が見えてきたような予感がしますね。もうストーリーが見えてしまいましたか? いえいえ、とんでもない。まだ物語は終わっていないのですから、ちゃんと最後まで付き合ってくださいよ。お茶がなくなってしまいましたね、おかわりどうですか? あ、アールグレイ以外も色々あるんですよ、ダージリンですとか、ハーブティーもございます。何でもお申し付けくださいませ。


 それにしても、調査君は出番が沢山あるというのに、わたくしだけいつも蚊帳の外なのですよ。わたくし、監督ですので。寂しい限りであります。


 既にお気付きのことと思いますが、木造の小屋の中とは、ここになります。この時は世界がとても不安定だったので、どうしても扉を開けられなかったのですよね。あ、そういえば『絶対に開けるな』の張り紙を貼ったの、わたくしなのですよ。


 影の功労者です。えへん。


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