◆七月二十二日 一日目 道化師の朝の歌
リョウは夢を見ていた。まるで、何かに見せられているような気分だった。何故ならリョウの見ているその夢は、現実に起こった出来事だった。これは――いつの記憶だろうか。リョウは人通りの多い駅前の通りを、目的地に向かって歩いている最中だった。雰囲気のあるレンガ舗装の道を歩き、デパートを横目に時計台を目指した。
やや強めの風が、リョウの頬を撫でた。今は晴れているが、少し風が強いので天気予報はあてにならないかもしれない。時計台の鐘が鳴り、待ち合わせ時間になったことを告げていた。リョウの見ている時計台の下には、長い亜麻色の髪を風になびかせて、白いワイシャツを着た女性が立っていた。その左手に携帯電話を持ち、時間を確認していたが――暫くすると、こちらに気が付いた。チェック柄のスカートが風に揺れていた。
不藤りんだ。
「よー。なんで制服なんだ。今日、学校なかったろ?」
白いワイシャツに、チェック柄のスカート。りんはブレザーこそ着ていなかったが、リョウの通う学校の制服を着ていた。りんは制服を指摘されたことに多少頬を紅潮させて、気まずそうな顔をした。変だと思ったのだろうか。
「一応、なんとなく? ちゃんとした格好で会いたいじゃない、先生には」
生真面目、優等生。例えるなら、そんな言葉が似合うだろうか。りんはいつも体裁や空気を大切にする性格で、結果が良ければ他は大して気にしないリョウとは正反対だった。
今回も例に漏れず、ごく普通のシャツとジーンズで構えていたリョウは面倒臭そうな顔をして、りんの姿をまじまじと眺めた。
「堅苦しい奴だなあ。別に良いじゃねえか」
「ほっといてよ」りんはリョウのしわが寄った眉間を弾いた。
「痛えよ! 何すんだ!」
りんはリョウを無視して歩き出した。リョウは慌てて、りんを追った。夢だからなのか、リョウ達二人を除いて他に音はしない。
これは確か、最後にりんに会った日ではないだろうか。リョウは思った。この日から学校は夏休みだったし、リョウもまた、旅行をするために資金を稼いでいた。トオルとの顔合わせの日に、りんは来なかった。
「悪かったわね、付き合わせちゃって」
「別に良いけどさ。すずはどうだ?」
リョウが聞くと、りんは頷いた。
「ひとまず、大丈夫。ごめんね、最近相談ばっかりで」
上目遣いに微笑むりんを見て、リョウは少し安心した。「いや、いいよ」と返答して、前を向いた。
レンガ舗装の道には沢山の人間が歩いている。にも関わらず、まるでモザイクが掛かっているかのようにぼやけてしまい、人々の顔をはっきりと確認することはできなかった。気にすることもなく、二人は歩いた。
「……学校の人達は、何て?」
「今回は良いよ、みんな仲良くしてくれて。先生も言ってた、友達とあんなに仲が良いなんて羨ましい、って。少し調子悪くなると、すぐに心配して見に来るくらいだから」
りんは僅かに微笑んだ。それは安堵しているようにも見えたが、リョウには今までの出来事を回想しているようにも見えた。
「そりゃ良かった。転校するって聞いた時は、どうなることかと思ったけどな」
「おかげで、学校から毎日連れて帰るっていう使命ができちゃったけどね」
「まあ、そりゃ仕方ねえよ」
リョウがそう言うと、りんは風に揺れる長髪を押さえた。リョウの目線からも確認できる長い睫毛が、不意に下がった。目を細めているのだと気付いた時には、りんの表情は変わっていた。
「虐められてたからね、前の学校では」
「……そうだな」
リョウはあまり、こういう静かな空気が得意ではない。「あー! そいつは良かった!」と大声で言い、りんの背中を叩いた。りんは笑いながら「痛いよ」とリョウに言った。やり切れない会話を変えるための、少々大袈裟なリョウの振る舞い。りんも慣れたもので、すかさずリョウの背中を叩き返した。
「そうだ、もうすぐあの子の誕生日でしょ。その日、空けておいて欲しいの」
りんが手を合わせて、そう言った。リョウは何も言わなかったが、片方の眉を上げて疑問の表情を作った。りんの誕生日ならば話は別だが、すずの誕生日を祝ったことなどリョウにはなかった。
「ほら、もうすぐ十歳でしょ」
「そうか。もう、そんなになるのか」
あの小さなすずが、十年の時を過ごしたという。リョウはどこか、感慨深い気持ちになった。初めてリョウがすずに会った時、まだ六歳だった。それを考えると、時は経ったのだなあ、と思う。リョウが頷くと、りんは嬉しそうにした。
「じゃあ、じゃあさ、今度ゲーセンにも付き合ってよ」
「良いけど、なんで?」
「一人で行くのは、気が引けるのよ」りんは顔を歪めて、あんな清潔感のないところ、と呟いた。その様子があまりにりんらしい反応で、リョウは少し吹き出してしまった。
「お前、本当そういうの苦手だよな。別に一人で行けば良いじゃねーか」
「嫌」りんは目を閉じて、一言でリョウの提案を切り捨てた。リョウはりんにゲームセンターに行く理由を尋ねたが、返答はなかった。教えてくれない、ということだろうか。
「そういえば、夏休み最後にもう一度旅行をしようって、みんなで話してるんだよ。実家が旅館っていう奴がメンバーに混ざってきてさ、ちょっと良い旅行になりそうなんだ」
「そうなの? すごいじゃない!」
「りんも、もちろん行くだろ?」
リョウはそう問い掛けたが、返答はなかった。長い沈黙が訪れた。リョウはりんが何を考えているのか分からず、黙々とただ歩みを進めた。もう返答が来ることはないかと思われたが、暫くの沈黙の後、りんは呟いた。
「ねえ、そうしたら、すずも一緒に連れて行ってもらえる?」
「すずを?」
「ずっと、一緒に行きたいって言っているから。私が行けるようなら、だけど」
リョウは悩んだ。大きくなったとは言っても、まだすずは幼い。妹を旅行に参加させることをこれまでに何度もりんは提案してきたが、その度にリョウは断ってきた。それは、何かがあった時にすずの面倒を見切れないかもしれない、というひとつの不安のせいでもあった。
これまでにリョウは何度も幼いりんを連れ出し、体調を悪化させてきた。それが自分の責任にもなるとリョウが気付いたとき、既にりんの病気は回復に向かっていた。ならば――同じことを、妹にしないため。そんな思いでもあったのかもしれない。
「……わかった」
だが、リョウは頷いた。もう、すずも十歳になる。リョウ達はもっと昔から、りんを連れて冒険をしていた。ならば――そろそろ、参加させてあげたい。その気持ちも、リョウには理解のできるものだったからだ。リョウは笑うと、りんの肩に腕を回した。
「誕生日には、重ならないようにするよ。旅行から戻って来たら、それも盛大にやろう」
「うん。約束だよ」
どうして、このような夢を見せられているのだろうか。リョウは自分自身を上から眺め、そう考えた。リョウとりん以外に音を発するものはなく、都会であり歩行者は他にもいるというのに、二人以外の声は全く聞き取ることができなかった。
「り……ちゃん……」ざああ、と砂嵐のような音がした。
唐突に、白い光がリョウを包み込んだ。その場にいた二人は消え、レンガ舗装の道も消え、瞬間的にリョウは覚醒する。
リョウは目を覚ました。自室の天井ではないことに若干の驚きを覚えつつ、自分が旅行に来ていることを思い出した。頭の上で何かが開く音がした。襖の音だろう。リョウが起き上がり後ろを向くと、襖を開いた本人を確認することができた。長い亜麻色の髪。白いシャツに、チェック柄のスカート。
「なんとか、間に合った、かな」
「りん、来たのか」
りんはそう言って、座り込んだ。リョウはりんの様子を確認した。長い亜麻色の髪はやや乱れていて、息が上がっていた。
「大丈夫か?」
「うん、大丈夫。息が上がってるだけ」
りんは自分の息を整えているようだった。今、走ってきたのだろうか。窓を見ると、既に外は明るい。
「始発かなんかで来たのか?」
「え? 何が?」りんは体力がない。ぜえぜえと息を切らしながら返答していた。リョウは少し間を空けて、再度聞いた。
「ああいや、電車」
「ああ、電車。……そうだよ」
りんはようやく息を整えると、リョウに微笑んだ。思わぬ事態だったが、リョウは笑った。
「どうしたんだよ、来られないって言ってたのに」
「ちょっとね、都合が変わって。行けない予定だったんだけど。走って来ちゃった」
「寝てないのか? 少し休んだ方が良いんじゃ」
「大丈夫よ、ここに来るまでにしっかり寝てきたってば」
リョウが心配そうにりんの顔を覗き込むと、りんは紅潮した顔のままで笑った。息は上がっているが、顔色はそこまで悪くなさそうだった。
「すずは来てないのか」
「ちょっと、まって」
リョウがそう聞くと、りんは何かに気が付いたかのように洗面台に走った。必死で髪を整えているように見えた。おそらく、自分の髪が乱れていることに気が付いたのではないだろうか。りんはそういうことをとにかく気にする。リョウは少し面白くなって、鏡をまじまじと見つめるりんの様子を見ていた。いつも通りのりんだ。洗面台から戻ってくると、りんは答えた。
「急に行けることになったから、置いてきたの」
「そうか、みんな会いたがってたけどな。……まあそれはいいや。元気にしてるか、すずは」
「ん。ひとまず、大丈夫みたい」
それは、夢の中でりんがリョウに言った台詞と全く同じだった。
「旅行に行けなくて、悔しがってるんじゃないか」リョウが聞くと、りんはあはは、と笑って手を振った。
「今回は諦めてもらったわよ、さすがに」
「そうか。まあ、そうだな。なんだよ、何があったんだ? どうして来られなくて、どうして来られるようになったんだよ」
リョウがそう聞くと、りんが舌を出して答えた。その様子は妙に子供っぽく、常に大人しくいようとする普段のりんとは少し違う、珍しい表情だった。何か、とてつもなく良いことがあったのかもしれない。少し、はしゃいでいるようにも見えた。
「秘密」
「なんだよ、教えろよ」
「やーよ、大したことじゃないし。とにかく、もう解決したから良いじゃない」
「はは、噂の奇跡でも起きたか?」
リョウは冗談で言ったつもりだったのだが、りんは答えなかった。やがて長い髪を両手で撫でるように、あるいは愛おしむように触り、言った。
「そうだよ」
冗談交じりの笑顔は消えた。何かの核心に触れたような、言葉の重みをリョウは感じた。重みの理由はリョウには分からなかった。りんが何を考えているのか分からずにいたが、りんはリョウを指差すと、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「減点ね」
「はあ?」
「苦労したわよ、ここまで来るのに。仲間は一人でも欠けたらいけないんじゃなかったの?」
「お前が来ないって言ったんじゃないかねーかよ」
りんは笑った。騒ぎを聞き付けたか、隣の布団が動き出した。
「……おはよ、リョウ」目覚めたのはトオルだった。
「ようトオル。こちら、不藤りん。どうやら間に合ったらしいぜ」
リョウがトオルにりんを紹介すると、トオルは目を白黒させてりんを見た。りんは笑って、トオルに挨拶をした。
「はじめまして、不藤りんです。よろしくね」
「……あ、ああ。はじめまして。丹沢トオルです。大丈夫なの?」
「うん、ひとまずは」
「あれ? りん先輩、来たんですか?」
襖の向こう側で寝ていたみもりも目を覚ましたようだった。寝ぼけ眼を擦って、みもりが起き上がった。来ないという話になった時に、一番落ち込んでいたみもりは――驚いて、目を丸くしていた。
とにかく、これで六人が揃った。
リョウが起き上がるみもりを眺めていると、部屋の状態に何かの違和感を覚えた。六組の布団のうち、二つが空になったままになっている――……。ジンとさつきがいない。リョウはそのことに気が付いた。二人は、あれから戻って来ていないのだろうか? ジンはよくいなくなるが、さつきは基本的にいつもいるはずだ。リョウはそんなことを考えながら、空のままのさつきの布団を見ていた。
「ちょっと、リョウ先輩」
「あん?」
リョウがさつきのスペースを見ていると、みもりが目を細めてリョウを見ていた。何かを疑うような眼差しだった。
「襖閉めますけど、良いですか? 私、これから着替えるんで」
「あ、ああ」
「女の子の部屋じろじろ覗いちゃって、やらしー」
「そんなつもりじゃねえよ」リョウは苦い顔をした。隣でトオルが笑っていた。
リョウとトオルも着替えることにした。リョウは手早く着替えを終わらせるが、トオルはのろのろと着替えていた。襖の向こう側もある程度時間が掛かるようで、着替えが終わって暫くは暇を持て余した。ゆったりとしたトオルの動きが、あまり朝は強くないことを物語っている。リョウは特にやることもなく、部屋の壁にもたれて後方の窓を眺めた。外は快晴。今日も爽やかな一日になりそうだ。
「トオル、お前、ジンとさつきを見たか?」
「ええ? ……見てないよ、寝てたし」まだトオルは眠いようだ。
「りんとみもりは?」リョウは襖の向こう側に声を掛けた。
「みもりは見てないですよ」
「私も見てないよ」
二人の返事を聞いて、リョウはふう、と息を吐いた。どこかに行ったのだろうか。だが、朝になっても戻って来ないとは。一応、全員で楽しむための旅行なのだが……。リョウは後方の窓を開いて、部屋の中に風を流した。そして、再び座り込む。背後の風がリョウの髪をさらさらと揺らした。そして、リョウはあることに気付いた。
「……今、何時だ? もしかして飯の時間、過ぎてる?」
その時、みもりが携帯電話を確認しながら襖を開いた。どうやら一通り終わったらしい。
「七月二十二日、朝の九時。朝ごはん食べるなら丁度いい時間ですね」
「じゃあ、先に飯に行った訳でもないんだな。……何やってんだ、あいつら」
みもりが何かを考えているようで、部屋の扉を開いては閉め、リョウの隣まで行って窓の外を覗き、また戻って行く。
「……で、何やってんだお前は」
リョウが聞くと、みもりはきらきらとした目でリョウを見た。その目にはまったく似つかわしくない、意地の悪そうな笑みを浮かべていた。複雑な表情だとリョウは思った。
「いえ。さつき先輩とジン先輩がそろそろ熱い夜から帰って来る時間かと」
「もしそうだったら、お前どうにかすんのか」あまりに予想外なことをみもりが言うので、リョウはみもりにそう言った。その言葉には若干の笑いが含まれていた。
「突撃! 隣のシュラバ! みたいな?」
「バーカ」
「バカとはなんですか、バカとは」みもりは拗ねたような表情になった。
相変わらず、穏やかな風はリョウの後方から髪を揺らし続けている。他には何の音もしない――……。リョウは目覚めた時から、何かの違和感を覚えていた。だが、その理由が分からない。部屋の壁掛け時計を見た。確かに、朝の九時を指している。何ら変わりない、静寂に包まれた朝だ。
その時、リョウの中にふと疑問が浮かんできた。
静寂に包まれた朝?
海辺の旅館で?
朝食を食べるのには最も最適な、この時間に?
リョウはそのことに気付いて、壁から背中を離した。旅館にはそれなりに人がいたはずではなかったか。普段ならば、それは気にするほどの内容ではなかったのかもしれない。だが、何か妙な雰囲気をリョウは感じた。
妙な雰囲気とはつまり――……、人の声だけでなく、虫の音も、波の音も、一切聞こえないということだった。
「やけに、静かじゃないか?」
リョウがそう言うと、リョウ以外の三人は言葉を失い、リョウを見ていた。一体どうしたと言うのだろうか。リョウが口を開きかけたその時、背後で声がした。
「異変が起きたようだな」
リョウが驚いて振り返ると、そこには――白い狐が、まるで今までそこにいたかのように立っていた。だが、その狐は妙な状態だった。胴体は窓の外を向いているのに、顔はまるで逆側に付いているようだった――いや――リョウが首元を確認すると、首が捻れている様子はない。狐の首はまさしく、逆側に付いていた。
「うおわっ!?」
リョウはその異様な様子に驚いて、慌てて狐から距離を取った。
「失礼な態度は友達をなくすぞ」狐がため息を付いた。
リョウは唖然として、狐を見た。確かに今、この狐は喋った。みもりが慌ててりんのそばに行き、腕に抱きついた。トオルとりんは唐突に現れた――言葉を話す狐にまったく対応ができないようだった。
「驚いている所すまないが、師匠に頼まれてな。俺の言葉を聞いて欲しい。……ああそうか、ノーリアル・ワールドに来るのは初めてか。ならば、普通の狐の格好の方が都合が良いな」
狐は胴体を前に向けた。胴体が前を向くと首は後ろを向いてしまうので、ブリッジをするように顔をそらした。すると、さも狐の顔が上下逆さまに付いているように見えた。みもりが悲鳴を上げた。
「おや、難しいな。普通の狐に戻すには、確かこう……」
狐の首から、ごきん、と異様に大きな音がした。狐はその状態で顔を元の位置に戻そうとしていたが、うまく行かないようだった。
「ちょっ!! 余計にキモいですから!! やめてください!!」
「……口が悪い小娘だな」
狐は首を元に戻すのを諦めて、再び胴体を後ろに、顔をリョウ達の側に向けた。話が通じることが分かったからか、多少みもりは落ち着いたようだった。
「『室外行き』の電車に乗って、師匠に会え。それが頼まれたメッセージだ」
全員、何も答えられなかった。狐は前足で耳を掻くと、首を振った。
「あと、俺の首に袋が掛かっているだろう。誰か外してくれ」
みもりはりんにしがみついたまま、動こうとしない。りんも動けない様子だった。リョウが立ち上がろうとすると、後ろからトオルが出てきて狐の首にかかっている小さな袋を手にした。何が入っているのだろうか。
「まだ開けるな。大事に取っておけよ、そりゃあすごく重要なもんだ」
それだけ話すと、狐は窓から飛び降りた。トオルが驚いて窓の外を確認したが、暫くしてリョウ達に向き直ると、首を振った。
「いなくなった。……下にもいない。消えちゃったみたいだ」
一体、なんだったのだろうか。暫くの間、誰も喋ることができず、ただ呆然としていた。リョウはまだ夢でも見ているのかと思ったが、口に出すことはしなかった。夢だと言うには存在感があり過ぎた。軽く頭を叩くと、衝撃が走る。やはり、夢ではないのだろう。
「……ジンとさつきは、どこに行ったんだろう」
リョウがそう言うと、トオルが真剣な眼差しでリョウを見ていた。みもりは気まずそうに視線をそらしたが、りんには状況が読めていないようだった。リョウはりんに言った。
「昨日、飲み物買いに出てさ。まだ戻って来てないんだ」
リョウがそう言うと、りんは驚いた。「何か、あったのかな」りんも心配そうな表情になる。
リョウ、みもり、りん、トオルの四人は、旅館の中を歩いた。旅館内にトオルの親族は見当たらなかった。客もまた、昨晩から今朝にかけて、忽然と消えてしまったようだった。廊下を歩いたが、昨日の段階では深夜になっても歩き回っていた元気の良い旅行客は、どういう訳なのか一人も確認することができない。
みもりが両手で握り拳を作り、胸の前に壁を作るようにしていた。おそらく、本人もその体勢を取っていることに気付いていないのだろう。それほどに、みもりは怯えていた。
「……なんか、変じゃないですか」
「心配すんな。まだ何も起きちゃいない」
そう言いながらも、リョウ自身もそれなりに不安があった。何かが起こったのか? 旅館内の人間がリョウ達を残して、ある日突然消えてしまう理由? そんなものは、リョウには分からない。ふと見ると、トオルは色々なものを確認しているようだった。りんはというと、狐が現れるまでの爽やかな笑顔はどこに行ってしまったのかと思える程に、不気味そうにしていた。
「……おかしい」トオルが呟いた。何がおかしいのだろうかと思い、リョウはトオルの顔を見た。
「うちは旅館であって、ホテルじゃない。こういうクラシックみたいなものは、あんまりかけないと思うんだけど」
「……そういえば、これは『道化師の朝の歌』ね」りんが天井のスピーカーを見上げた。
リョウは辺りを再び確認した。電気は点いていない。人影はない。念のため食堂も見てみたが、やはり人は誰もいないようだ。……明らかに、おかしい。昨晩までとは違う場所のようにすら感じる。四人が外に出た時、みもりが海に向かって指を差した。
「み、見てくださいよ、あれ」
一同が海へと視線を向けると、その異様な光景に目を奪われた。風が吹いていない。そこまでは必ずしも有り得ない現象ではないが――まるで写真を撮ったかのように、波は『固まって』いた。あまりにも異質なその光景に、その場にいたメンバー全てが驚きのあまり、動けなくなった。
「……ねえ、リョウ。私は夢を見ているの?」りんが聞いた。
「いや……俺に聞かれてもな」リョウはどうすることもできず、そう答えた。
「……ここはどこですか? 異世界ですか? ……夢の中ですか? はやく覚めてくださいよ」
他のメンバーもまた、固まった波を見て同じように思ったらしい。みもりはそう言うと、何も言えなくなっているりんにしがみ付いた。当然だった。リョウですら、恐怖を感じ始めていた。旅館を出て砂浜に立つと、その光景が異常であることがよく分かった。砂浜もまた凍ってしまったかのように、足先で砂を分けることも、踏み締めることも出来なかった。
例えるならば、リョウ達は時間の止まった空間に立っているようだった。
背後で鳴り続ける『道化師の朝の歌』。そのメロディーもまた、旅館を出てもなお聞こえ続けている。旅館内のスピーカーから聞こえている訳ではなかった――狐は言った、『ノーリアル・ワールドに来るのは初めてか』と。ノーリアル……現実でない世界? 自分達は、一体どこに巻き込まれてしまったのだろうか?
「トオル、りん、みもり。全員、離れるなよ」
無意識のうちに、リョウは三人に対してそう呟いていた。それぞれリョウに頷いた。リョウはそれを確認してから、まずこれからどうすることが正解かを考えた。ひとまず、さつきとジンと合流しなければならないか――……
そう考えていた時だった。リョウの視界に、何か小さなものが入ってきた。それは踊り、やがてリョウの視線の中央で立ち止まり、きっちり九十度の角度を変えてリョウの目を見た。
「ぷるぷぷっ。ぷるぷぷっ。ぷーぷるぷっぷっぷっ」
そこにいたのは、可愛らしい出で立ちと、それに相反するいかれた瞳が特徴的なうさぎの縫いぐるみだった。
「マッド、ラビット……」りんが呟いた。
それは謎の擬音を発しながら、踊っていた。わりと大きめの、人の頭ほどはありそうなうさぎの縫いぐるみ。だが大きいといっても、人が入れるようなサイズではない。だとするならば、遠隔操作か何かだろうか? リョウは常識的な思考をすることで、今の異常な『事実』から目を背けようとしていた。
「な、なんか出た!」みもりがりんにしがみ付く力を強めた。リョウもまた、咄嗟にファイティングポーズを取っていた。
うさぎは、背後で流れる『道化師の朝の歌』のメロディーに合わせて、陽気にダンスを踊っていた。その足取りは軽やかだったが、あまり人間の動きをしているとは言えない動きだった。複雑に首が上下している。
「たらー?」
うさぎはリョウを見つめた。突然見られたリョウは驚いて、身が竦んでしまった。だが、うさぎはかたかたと震えるように動くと、また踊りだした。暫くすると、ぱちん、と両手を鳴らした。両手を大の字に広げると、『道化師の朝の歌』のメロディーのテンポが少し上がった。
「たったらたったっ」
「たっ。たったらたったっ」
ふと、リョウの背後から別のうさぎが現れた。手前で踊っているうさぎとまったく同じうさぎの縫いぐるみだ。同じように踊りながら、うさぎは一羽から二羽になった。
「……なんだ、これ」トオルがぼやいた。
「きゃあ!」みもりが悲鳴を上げた。すぐ近くに、それとは別のうさぎが現れたのだ。うさぎ達の数は増えていく。気が付けば、砂浜の上では何十羽ものうさぎがダンスを踊っていた。いつの間に増えたのだろうか? 数が増えたうさぎ達は不意に踊ることをやめ、リョウ達を見た。
うさぎはリョウを指差して言った。
「ほしかった」
意味が分からなかった。続いて別のうさぎが今度はりんを指差し、同じように「欲しかった」と呟いた。うさぎは次々増え、増えては四人のうち誰かを指差し、「欲しかった」と呟いた。うさぎが増えているのもそうだが、数が尋常ではない。既に百体はいるだろうか――どこから出てきたのか、砂浜を埋め尽くすほどの数になっていた。
「なんで……? 一体、どういうことなの」
りんが混乱し、そう呟いた。隣では、みもりがりんにしがみついたまま、目を閉じて何かをぶつぶつと呟いていた。
「これは夢これは夢これは夢これは夢これは夢……」
自分に言い聞かせているようだった。だが、目を閉じても音楽が消えることはなかっただろう。
その「欲しかった」という言葉がどうしても気になったのか、トオルはうさぎに対して話し掛けた。
「な、何が欲しかったの?」
すると、うさぎはトオルに向かって歩いた。トオルの目の前まで機械のように歩くと、首をがくがくと震わせた。
「……ト。トト、トモダ。トト、トダチ」
「……なんて言ってるの、これ?」トオルがリョウに聞いた。
「お、俺が知るかよっ……」
リョウは冷や汗を流した。うさぎ達はそれぞれ、リョウ達を囲うように動いた。先ほどの狐と違い、うさぎ達が何をしようとしているのか、目的はさっぱり分からない。
「これは夢、これは夢……」
「みもりちゃん、しっかりして」りんがみもりの肩を揺さぶった。
「やめてください!! 今、みもりは起きるんです!!」みもりが目を開いてりんにそう言ったが、尋常ではないうさぎの数に驚き、顔を青くした。
「トモダ」「トモダ」縫いぐるみ達は繰り返しながら、少しずつリョウ達と距離を詰めてきた。気付けば四人は囲まれていて、辺り一面からうさぎの縫いぐるみが迫って来る状態になっていた。やがてうさぎがみもりの足元に寄ってくると、みもりの足首を掴んだ。
みもりが悲鳴を上げた。
「よ、寄らないでくださいよ! 気持ち悪い!」
りんが駄目、と叫んだが間に合わず、みもりはうさぎを蹴ってしまった。うさぎはそのまま他のうさぎ達に埋もれ、見えなくなった。
瞬間、それまで四人をばらばらに見ていたうさぎ達が一斉にみもりの方に向き直った。
ざっ、という、規則正しい足音がした。
不意に流れ続けていた『道化師の朝の歌』が止まり、辺りは静寂に包まれた。リョウは何かの異変を感じた。
「――――な、なんですか」
「いらない?」
「ぜ、全然、意味が、わかんないです」
みもりは八方から見詰めるうさぎの視線に、思わずりんの腕を離した。すると、うさぎは三人とみもりとの距離を離すように、間に割り込んだ。みもりが後退していくと、それに応じてうさぎ達もスペースを空ける。みもりは恐怖のためか、呼吸困難に陥っていた。ひゅうひゅう、と浅い呼吸の音がした。
「いらない?」
リョウは助けに入ろうと思ったが、身体が石のように固まってしまい、声を出すこともままならない。一体、いつから――……?
リョウは視線を動かし、りんとトオルの様子を確認した。だが二人とも同じようになっているのだろう、石像のように固まっていた。もしかしたら、『道化師の朝の歌』が止まった瞬間に? リョウは焦った。あまりに異常すぎるこの現象に対して、どのような対処をして良いのか分からなかった。
「いらない?」「イラナ?」「イラナ」「イラナ!」
一斉にうさぎ達は、まるで壊れた機械のように「イイイイイ」と繰り返し始めた。
「何もうこれ……たすけて……」
うさぎ達はみもりに寄ってくる。みもりはついに震えていた足の自由が効かなくなり、尻餅を付くように転んでしまった。そして――――
あるうさぎが自らの腕で、自らの首をもいだ。
「ひっ……!?」みもりが息を呑んだ。
びり、と布の千切れる音がした。破けた布から綿が飛び出し、その綿から何かの声が聞こえてくる。もしもリョウが動ける状況だったとしても、この一瞬だけは止まっていただろう。その声は、何故か悲しそうな声音だった。やがて破裂音がして、うさぎは砕け散った。
泣くことも叫ぶことも忘れ、みもりは呼吸を引っ込めた。周りのうさぎ達も、次々と自分の首を破っていく。白い綿から昆虫のような足が生え、生き物のように――昆虫のように動き出した。
「きゃああああ!? 来ないで!! 来ないでください!!」
そして、みもりに群がっていく。みもりは悲鳴を上げながら綿を払っていたが追い付かず、少しずつ綿に包まれていった。
「ちょっと、やめ、やめてくだ、さっ……」
あるいは、口の中に。あるいは、耳の穴に。カサカサと音を立てながら、綿が侵入していくのが見える。みもりは涙ながらに訴えたが、もはや声はなく、やがて咳き込んで綿を吐き出した。みもりは綿に包まれて、身動きが取れずにいた。
その綿の中から、突如として巨大な人間の口が生えるように伸びてきた。
「――――え?」
あまりに予想外の出来事に、みもりは惚けた声を出した。リョウはみもりの名を呼ぼうとしたが、声は出なかった。「逃げろ」と、そう言いたかった。だが、巨大な口はそのままみもりに迫り――
みもりを、飲み込んだ。
ここで少し、休憩に入りましょうか。ここから先が長いので――お茶のおかわり、いかがですか。
何やら恐ろしい展開になってまいりました。秩序と常識のないノーリアル・ワールドでは、このように摩訶不思議な出来事も当たり前のように起こってしまうのです。ああ、この室内ではそういったことは起きませんのでご安心ください。何故か、ですか? それは後でお話しましょう。
ここでリョウ達は唐突に場面転換するのですが、その前にあなたにはお話しておこうと思いまして。飲み物を買いに出たさつきとジンがその後どうなったのか、少しばかり興味ありませんか?
本とは関係なしに、少しだけ見てみましょうか。あ、もちろんこのシーンを記述して頂いても構わないのですが――……リョウがいなくなってしまうシーンなので、少し進め辛いかな、ということがありまして。そこはお任せします。わたくし文章を書くのがとんでもなく下手なもので、お任せしてばかりで申し訳ございません。
しかし、あなたにはお話しておきたいのです。わたくしもお二人の様子を見ることで、この後の展開に納得がいったということがありまして。
さて、場所は深い森。背の高い木々に囲まれ、その木々の間を通る道路がひとつ。リョウ達が旅館で『ノーリアル・ワールド』に巻き込まれていた一方で、甘くない飲み物が欲しいと言い、その場を離れたジンとさつき。二人はコンビニへと続く道の途中にいました。先頭を歩くジンと、ジンの袖を掴んで後ろを歩くさつき。二人とも目的の場所へはすぐに到達する見込みだったので、いつまで経っても景色の変わらない道に少しばかりの不安を覚えていました。
「……ねえ、ジン君」
カラスの鳴く夜道に、高校生が二人。夜も更けて、静かな森の中を二人は歩いていました。トオルの話を聞く限りでは、森はすぐに抜けられる見込みでした。歩いて行ける距離だと言われていたはず――なのですが、いつまで経っても森を抜けられそうになかったのです。さつきは不安そうに、ジンの後ろを歩いていました。
「どうした」夜道だからか、いつもより優しい声音を選んでジンは返事をしました。
「やっぱり、戻らない?」
「そうするか?」
ジンは立ち止まりました。さつきの方を向くと、さつきはジンに向かって頷きました。どうやら、二人は旅館に戻ることに決めたようでした。
「こんなに遠いのかな」
「さあな」辺りを見回すジン。夜更けに聞こえるカラスの鳴き声だけが、辺りを支配しています。ジンが暫くの間、夜空を見上げていると――さつきは言いました。
「……りんちゃん、大丈夫かな」
さつきの質問は突拍子もないものでした。ジンは一瞬驚きましたが、すぐに元の冷静な顔に戻り、「何の話だ?」と返事をしました。もしかして、同じことを考えていたのでしょうか。
「りんちゃん、自分一人で抱え込むクセあるって話、したじゃん。また、みんなの旅行と私の事情は関係ないからーとか言って、なにか隠してるんじゃないかなって」
さつきの言葉を聞き終わる前に、ジンは旅館に向かって歩き出しました。さつきは俯いて、ジンの言葉を待っているようです。ジンはいつもと変わらぬ無表情でいました。
「不安か」
「不安っていうか……心配? そうだよ、きっとそれで何かあって、ストレスで体調崩しちゃったんだよ。え、あたし学校で何かしたかなあ……バイトで何かあったとか? ……ありえる。きっとそうだよ。ねえ、旅行が終わったらみんなでりんちゃんのとこに行こうよ。別のバイト探すとか、みんなで相談してさあ」
さつきが一通り話し終わると、ジンは目を閉じて眉間を指で揉んでいました。
「お前の話はいつも長い上にまとまっていない」
「なによー」さつきはジンに表情で抗議しました。
「それに、予想と事実を混ぜるな。わけが分からなくなるだろうが」
「……うぐ」
「少なくとも、俺達にできることはないんじゃないか。相談も受けていない訳だし」
「だって。またりんちゃん、調子悪いんでしょ?」
「いや」
さつきがそう聞くと、ジンは首を横に振りました。浴場でリョウと話した時に、ジンはりんの体調のことは確認していますからね。
「だが、何もないとは言えないだろうな」
ジンが答えると、さつきは急におろおろとし始めました。
「やっぱり、みんなで行った方が良いんじゃないかな。元気出るし……リンゴとか持ってさ」
「お前の気が回る部分については評価しないでもないが、お前はお節介過ぎるからな。余計なことをするなよ」
「そうだよね。やっぱり、リンゴじゃなくてイチゴの方が良いよね」
「……はあ?」
さつきの言葉があまりに予想外だったからなのか、ジンは目を丸くしていました。さつきの思考回路は、いつも斜め上を行きますからね。
「包丁がないと食べられないし。余計なものだって思われても仕方ないよね」
「……いや、俺は果物の種類について話をしていた訳ではないんだが」
噛み合わない話に、さつきがきょとんとする番でした。ジンはふう、とため息をついて、袖を掴んでいるさつきの頭を撫でました。予想外の行動だったのか、さつきは視線を地に落として、両手の人差し指をつつき合わせています。
「りんの体調のことは、りんが考えることだ。もしも体調が悪かったとして、りんがお前に相談しなかったということは、それなりの理由があるってことだよ」
「……理由?」
「例えば、うつる病気だった、とかな。風邪みたいなもんだったら、心配はいらないが――りんだけで抱え切れなくなったら、少なくとも連絡して来るさ。そうしたら、お前にはりんの考えていることなんてすぐに分かるだろう。その時に助けてやればいいんじゃないか」
「……そっか」
さつきが納得したことにジンは安心し、口元を緩めました。でも、何かの問題が解決した訳ではない。それが分かっていたからか、ジンはまた口元を引き締め、顎を引きました。
「……もしくは、りんの体調は問題じゃない、とかな」
「え?」
その時でした。森の中に、不思議な音楽が聞こえてきました。ジンとさつきは驚いて空を見上げましたが、飛行機など、何かが飛んでいる様子はありません。
「……なんだ?」とジンが言うと、さつきが「道化師の朝の歌」と、流れている曲名を言いました。遠くから聞こえてくる、地鳴りのような音。さつきはジンの袖をより強く掴み、ジンはさつきと地鳴りの間に割って入るように動きます。遠くから聞こえてくる音は、次第に地鳴りではなく、はっきりと聞き取ることのできる音に変わっていきます。それは――チェーンとタイヤの音。それに、何者かの呻き声のような、苦しそうな声音でした。
「……なに? なんなの?」さつきは呟いていましたが、ジンはその呻き声が段々と近付いて来ていることに気が付き、瞬時にさつきの手を取りました。
「逃げるぞ、さつき!!」
げええ、げええ、と声を上げながら、何かが近付いて来る。そして、それはただ近付いて来ている訳ではありませんでした。背後では――何かが爆発し、そしてその爆発もまた、ジンとさつきに近付いて来ていたのです。
「ジン君!! なんなの!?」
「俺が知るか!!」
走って逃げる二人は、やがて森を抜けました。この先は、海沿いに旅館があるのみ――のはずでした。ところが二人は、森を抜けると高速道路に辿り付いていました。唐突に夜から朝に変わり、辺りは明るくなりました。二人は意味が分からず周囲を見回しますが、森から高速道路までに分かれ道はありませんでした。
「な、なにこれ!? なにこれ!?」さつきは混乱しています。その高速道路には、料金所もなければ車も走っていなかったのですから。ジンはさつきの手を引き、走り続けました。辺りを確認すると、そこが旅館に辿り着くまでの道とは何ら関係のない道であることが分かりました。
高速道路の標識を見ると先には分かれ道があるらしく、左方向は『帰る』、直進方向は『びっくり』と書いてありました。いずれの場合も距離は書いておらず、ジンは意味不明な事態に歯を食い縛りました。
「来るぞ……!!」ジンは謎の音が近付いていることに気付いていました。立ち止まって振り返ると、高速道路の向こう側で何かが爆発しながら近付いて来るのが見えました。
「こわい」何かが呟く声が、遥かに遠いジンとさつきの耳に届きました。
「……さつき、見えるか?」
「自転車こわい」何かの声が聞こえてきます。さつきもその声に気付き、顔を青くしました。
「み、見えるよ」さつきはジンに答えました。
「本気で走れよ? 転んだら置いて行くからな」
遠くから、自転車の群れがジンとさつきに迫っていました。ジンはさつきの手を強く握り、さつきもまた、ジンの手を握り返しました。その自転車には運転手がいませんでした。誰も乗っていない自転車は「こわい」「こわい」と言いながら、やがて倒れて爆発していく――ジンとさつきにとっては、それは意味不明な出来事だったでしょう。ジンは冷静でしたが、さつきは目尻に涙を浮かべていました。
「――――走れっ!!」
ジンはさつきの手を引き、走り出しました。長い高速道路を走ると、まるで車を使って駆け抜けているかのように景色が目まぐるしく変わっていきます。自分達の走る速度がおかしいのか、景色の方がおかしいのか。それは二人には到底理解のできない部分でしたが、とにかく異常な事態であることは認識したようです。
「ねえ、ここはどこなの!?」さつきはジンに尋ねました。
「知らねえよ!!」当然、ジンはそう答えました。
二人は理由も分からないまま、高速道路を駆け抜けました。ですが、ジンとさつきの速度よりも、僅かに自転車の方が速いようでした。自転車の群れと爆発は、少しずつ二人と距離を詰めて来たのです。
「ねえちょっと、近付いてくるよ!」さつきは叫びました。
ジンは、自分の速度にさつきが付いて来ていない事実に苦い顔をしました。さつきは今にも転びそうで、それがジンの足を引っ張っていたのです。
「さつき、もう少し速く走れないか?」
「ご、ごめん。スカート、長くて……」
確かに、さつきはとても走り難そうでした。ジンは舌打ちをしましたが、その時に高速道路の先に気付きました。先にあったのは――一台のトロッコ。何故、こんな所に? トロッコはその先の分かれ道で左に抜けるように線路が組まれており、直進方向は明らかに高速道路の続きでした。
「ジン君! 一人で逃げて!」限界が来たのか、さつきはジンにそう言いました。
その時です。この瞬間の、ジンの行動が格好良いんですよね。
ジンの左手が、さつきの右手を引きました。
ジンはまるで姫を助ける騎士のようにさつきを抱えると、ふわり、と飛びました。トロッコにさつきを乗せ、ロックを外し、トロッコを全力で押したのです。当然、トロッコは分かれ道の左の進路を目指して、速度を上げて行きます。
「わっ、わっ」さつきはそのスピードに恐怖しているようでした。
ジンはふと、さつきの頭を撫でました。
「後でな」
「え?」
ジンはためらいなくトロッコの手を離しました。速度を上げたトロッコは、勢いよく左の進路を目指して曲がって行きます。ジンはそのまま――直進方向へ。
「こっちだ馬鹿野郎!!」
ジンを見るさつきの瞳が、まるで水面のように揺らぎました。
「えっ」
ジンはそのまま自転車に追い掛けられて――トロッコの方向に自転車が行かないことを確認し、無我夢中で高速道路を駆け抜けました。さつきはトロッコから降りることも出来ず、事態はジンの思惑通りに進んで行きます。
「ジン君――――!!」さつきが反対の道から叫びますが、ジンは無視をして走り続けました。さつきが見えなくなると、ジンは走る速度を上げました。ジン一人だと、恐ろしく速いですよね。陸上部か何かなのでしょうか。自転車はぐんぐんと遠ざかり、ジンは笑みを浮かべました。
おそらく、自分一人ならば自転車を振り切れると予想していたのでしょう。そのためには、さつきはいない方が良い――……。孤独になったジンは、一人自転車から逃げていきました。後ろを振り返ることもなく、ただひたすらに――ジンは目まぐるしく変わる高速道路を走り、曲がり角を曲がり、そして――……
絶望しました。
「……おい、これはどういうことだ」
走っていたジンは立ち止まり、呆然としました。曲がり角を曲がった先にあったのは――行き止まり。高速道路のはずなのに? いいえ、そのような現実世界での常識は、ノーリアル・ワールドでは通用しないことなのです。そこにはジンの背の高さ程の壁が、道路を遮るように立っていたのです。
ジンは行き止まりになった壁の向こう側を見ました。向こうは高い崖になっていました。とても、飛び降りたら助かる高さではない――……。
「何が『びっくり』だ、クソが……!!」
ジンは珍しく冷汗を流しながら、壁を叩き――後ろを見ました。そこには、目前にまで迫って来ている自転車がありました。ジンはただ呆然と、それを見ていました。
一方、自転車から逃れたさつきはトロッコに乗って、すさまじい速度で再び森の中へと迷い込んでいきました。分かれ道の先は森になっていたようですね。
「きゃ――――!!」
さつきはトロッコの中に身を隠し、目だけを進行方向に出してその様子を見ていました。アスファルトを抜け、森の中へと線路は続いて行きます。トロッコはがたがたと震え、その振動にさつきは震えました。その先は、驚くべき展開ですよ。なんと、線路の先がジャンプ台になっていたのです。さつきのトロッコは投げ出され、そして――どこにあったのか、谷をジャンプしました。
「きゃ――――!?」
そのまま、さつきのトロッコは地面に着地。ガリガリとすさまじい音を立てて減速していき、やがて――止まりましたね。お疲れ様でした。
さつきは暫らく、放心していました。そりゃあ、しますよね。ちょっと早送りしますね。……はい、ここから。
そこは再び、森の中でした。確かに、『帰る』方向だったのでしょう。さつきが恐る恐るトロッコから身体を出すと、そこは深い森でした。霧に包まれていました。
「……ここは、どこ?」
さつきは大きな声を出そうとして、自転車の存在を恐れたのでしょうね。諦めて、トロッコから出て歩き始めました。森に入ると、さつきは時間と方向の感覚を失いました。木漏れ日の光を見ながら、さつきは森の中を嗚咽を漏らしながら歩いていました。
「……もう、わけわかんないよお」
呟いても、その言葉を受け取る者はいません。いや、わたくしも受け取る者はいないと思っていたのですけどね――ほら、どこからか声が聞こえてきませんか?
「あ……う……」
さつきが歩いていると、どこからか妖精の声のような、水面の中のような、あるいは、複雑にエコーが掛かったような――ぼやけた声が聞こえてきます。はじめさつきは、その言葉を言葉として理解することは出来なかったのですが、不意に木々の隙間を移動する人影がありました。さつきは驚いて、その人影を追いました。
「あ……ぼう……」
さつきは顔を上げて、辺りを見回して――今度こそ、大きな声を出しました。
「誰か、いるの?」
返答はありません。さつきは不安に思いながら、さらに森の奥深くへと入って行きます。すると、また人影を発見しました。さつきは人影を追いますが、人影を発見した木の裏側を見ても、誰もそこにはいませんでした。背後に気配を感じて、振り返るとまた一瞬だけ見える人影。僅かばかり、その人影は光っているようにも見えました。
「遊ぼう」さつきは、初めてぼやけた声を単語として聞き取ることができました。少年の声でした。さつきは声を張り上げました。
「お願い、みんなに会わせて!」
それでも、少年は笑いながら木から木へ移動しています。「遊ぼう」「遊ぼう」と、少年はさつきに話し掛け続けていました。さつきはもう一度声を掛けようと思いましたが、不意に呼び止めようとするのをやめました。何かの覚悟を決めたようにも見えますね。
「――遊びたいの?」
光る少年達の笑い声が止みました。さつきは微笑みながら、両手を広げました。
「おいで」
さつきが声を掛けると、木々の隙間からその少年は現れました。顔や胴体などははっきりと確認することができず、近付いて来ていると言うのにその存在は危うく、触れると消えてしまいそうな雰囲気さえ持っていました。まるで、光のシルエットのような――少年はさつきの目の前まで寄ってきました。さつきはその少年に触れて良いのかどうなのかが分かりませんでしたが、覚悟を決めると――その少年の頭を撫でました。
「どうして、こんな所にいるの?」
「……みんな、遊んでくれないんだ。ずっと、一人なんだ」
さつきは少年の気持ちを汲み取ったようですね。この切り替えの早さと共感の早さがさつきの長所ですよね。人間ですらないものと心を通わせることができる、という。
「大丈夫だよ、あなたは一人じゃない。あたしがいるよ」
「……ありがとう」
「でもね、あたしは仲間に会わないといけないの」
「仲間ってなに?」
「暖かいものだよ」
さつきは笑顔で答えました。
「一緒に、行こ? みんなに紹介するよ」
光の少年は、シルエットのままでしたが――おそらく、さつきの顔を見上げるように動きました。さつきがそのまま微笑んでいると、不意に少年を撫でているさつきの手が光を放ち始めたのです。
「うん! ありがとう、お姉ちゃん」
少年はさつきに抱きつきました。すると、さつきに異変が起きました。
「……え? なんだろ……」
それは、一瞬の出来事でした。さつきが自分の姿を確認すると、緑のワンピースはドレスに変わり、純白の手袋を身に付けていました。さつきはそれを確認しましたが、それ以外に変化は見られませんでした。少年はさつきの目の前から消えていなくなってしまい、さつきは途方に暮れました。
以上が、リョウのいない場所で語られていた出来事になります。この二人の行動が、今後の展開に大きな影響を及ぼすのですよ。いかがでしたでしょうか。それではリョウの視点へと戻りまして、物語を続けましょう。
え? これ、このまま記述しているんですか? 後で修正をお願いしますよ。