◆プロローグ
自分のことに置き換えて、考えてみて欲しい。
ある時山の近くに知らないうちに小道が増えていて、その道を歩くと果てしなく広い草原に辿り着き、そこで知らない少年と一日を遊んで過ごす。後になって考えると、誰と何をして遊んでいたのかさえ如実には思い出せないのに、どういう訳か遊んだ記憶だけが残っていることがある。
それが現実なのかどうかを確かめるため、いつも翌日に増えた小道へと向かう。草原に続く小道の場所はしっかりと覚えていたはずなのに、そこにあった小道は翌日になるとなくなっていて、二度とその草原に辿り着くことができない。
こんな経験はないだろうか。
それは、もしかすると夢だったのかもしれない。だが、誰かと遊んだ記憶はその人物の頭の中に印象的に残っている。ということは、その記憶が夢であったのか、はたまた現実であったのか、ということを判断――あるいは断定することは、誰にも出来ないこととなってしまうのではないか。
そのように不安定な、ある意味では幻想的とも言える記憶が確かに子供の頃にはあったものだが、ふと気付いた時には経験することがなくなってしまっている。そして大人になる頃には、大概の人間が夢さえほとんど見なくなってしまうものだ。
だから、それをわたしが成人してから経験したということは、今になって思えばとても貴重な出来事だったのだろう。
「はい、今はもう日本に。……はい、明日から出社の予定でいます。……後でまた交渉してみるつもりではいますが、今回は少し厳しいかもしれません」
さて、時は夏過ぎ。十月中旬、クールビズから通常のスーツスタイルに世の社会人達が姿を変えるころ。わたしが日本に帰ってきて、電話をしながら成田空港のロビーを歩いていた時のことだ。
当時のわたしはスーツケースに仕事道具一式を詰め込み、それはへとへとに疲れていた。今回の先方が気難しい方だということは事前に知らされていたし、わたし自身も重々承知していたつもりだったのだが、それはわたしの予想の遥か上を行くものだった。わたしはタブレット端末を片手に失敗した会議の記録を眺めながら、電話を肩と耳で挟んだ。さて、これはどのように会社に報告したものかと頭を悩ませていた。
企画そのものは失敗した訳ではなかった。だが、なにしろ先方の気迫というのか、有利に契約を進めようという断固たる意志というのか、そのようなものに気圧されて不利な商談をまとめてきてしまったのだ。
自社に新しい商品をと思い、確固たる意志を持って商談に挑んだというのに、これではとんだ負け戦である。
「申し訳ありません。先方の都合もありまして……はい、分かっています。ですが、旅費を使って先方まで出向いて、堂々と商談不成立を掲げて会社に戻る訳にも行かなかったのですよ」
先方の女性がわたしの目を見て話す時の、それは独特な金切り声が耳に付き、未だに忘れることができない。もはや隣で楽しそうに笑う家族の声すらその女性の声に脳内で変換されてしまい、わたしのストレスの片棒を担いでいる。
企画・営業である身としては、これは失態なのではないだろうか。わたしはタブレット端末を眺め、ため息を付いた。
「ご理解頂けて何よりです。しかし、実際にその目で見てみると、あまり価値を感じなかったということもありますので、やはり」
その瞬間のことだ。わたしはタブレット端末を眺めていた。つまり、タブレット端末以外のものは一切目に入っていなかった。それが原因だったのかどうかはわたしに分かることではないが、わたしが軽く聞き流してしまうほどの、小さな音がしたのだ。思えばそれが、ひとつのきっかけであった。
それは、キン、というような、金属がぶつかるような音だっただろうか。あるいは、パン、というような、何かが破裂する音に酷似していたかもしれない。当時のわたしは聞き流していたので、正確な音はもう覚えていないのだが。
「商品から根本的に変える必要があるのではないかと感じまして……もしもし?」
何かが変わった気配がした。
いや、それは変わったのだろう。わたしがすっかりタブレット端末のディスプレイに夢中になっている間に、だろうか。辺りの雑踏も、つい先程までわたしの隣で楽しそうに笑っていたはずの家族も、とにかく人の声、人の姿がまったく『なくなって』しまった。わたしは顔を上げ、辺りを見渡したが、つい先程までの空港のロビーとは打って変わって別世界のようにも見えた。
わたしは唐突に繋がらなくなってしまった携帯電話を閉じた。どういう訳か圏外表示になっていた。
何が起こったのか当時のわたしにはさっぱり事情が分からず、とにかくそのロビーを当てもなく歩き回ることにした。一度外に出てみようかとも考えたが、自動扉は近くに立っても開くことはなく、まるで時間が止まってしまったかのように触れることさえできなかった。
そう、触れることさえできないのだ。そこに見えているはずなのに、何故か触ろうとしても手前を通り過ぎてしまう。初めは余程疲れているのか、そのせいなのかとも考えたが、どうやらそうではないようだ。わたしは努めて冷静でいたが、しつこくロビーを歩いているうちに少しずつ余裕は失われていった。
「……そうだ、案内カウンター」
空港のロビーはとても広いので、利用客のために案内用のカウンターが設けられている。もしかするとここは立ち入り禁止の場所なのかもしれないと考え、わたしは遠目に見えている案内カウンター目指して歩みを進めた。
ところが、いつまで歩いても案内カウンターに辿り着く気配がなかった。それどころか、歩けば歩くほど遠目に見えている案内カウンターが遠ざかっているようにすら感じられた。いよいよ狐か何かにでも化かされているのではないかと考え始めたわたしだったのだが、その時にロビー内にアナウンスが流れた。
「ノーリアル・ワールドへお越しのお客様は、千三百とんで五百番目の改札口を通り、室内行きの電車にお乗りください。まもなく行進いたします」
ふざけたアナウンスだと思ったが、空港のロビーに設置されている電光掲示板を見て――飛行機のタイムスケジュールがリアルタイムに更新されるあれだ――その予想外の表示内容に我が目を疑った。
『KnowReal World方面 室内行き』
knowは知る。realは現実的な、という意味だから、現実を知っている世界? もしくは、現実の世界を知っている? 誰が? 主語がない。もしかすると、『KnowReal』でひとつの単語なのかもしれない。あるいは、名詞だろうか?
こんなことなら、まだ通訳がいるうちに狐に化かされていれば良かったのに。などとわたしはつい、何の意味もないことを考えてしまった。わたしはその電光掲示板が示されている通りの番号を探し、そして発見した。
本来は荷物チェックなどが行われるべき場所に、何故か電車の自動改札口が鎮座していた。千三百とんで五百番目の改札口。アナウンスでは理解不能だったが、改札口の左に千三百、右に五百とマーキングされていた。確かに、番号は飛んでいるが――そもそも、自動改札口に番号など振られていなかったような気がするのだが。わたしはいよいよ頭がおかしくなってしまったのかと、そんなことを考えながら改札口を通った。
改札口の向こうには電車のホームがあり、黒い蒸気機関車が威厳を放っていた。ある程度予想はできていたが、乗客は一人もいない。だが、ホームの電光掲示板には確かに出発時刻が――出発時刻、二十六時五分? これもおかしい。
これが、『ノーリアル・ワールド室内行き』の電車なのだろうか?
……少なくとも、電車には見えない。
そう呼ばれるものなのだろうか。
あまりにも非現実的な出来事のためか、あるいは正常な判断が出来なくなっていたのか、わたしはその蒸気機関車に乗ってみよう、などと考えてしまった。他に手段がなかったということもあるのだが。乗車すると、暫らくして蒸気機関車は誰も知らない何処かへと走り出した。
どれだけ走っただろうか。何しろ時計もあてにはならないし、日付も時間もわたしの感覚からすると滅茶苦茶になってしまっていたので、正確な時間は分からない。だが、その蒸気機関車はある駅に到着した。わたしがその駅を降りると、見慣れた電車のホームの姿がそこにはあった。
ただ、見慣れていたのは駅の様子だけだった。線路はあるが地面はなく、見慣れた駅は――宇宙空間に浮いていた。足元を見ると、煌びやかな星の輝きが視界を覆いつくした。宇宙に鉄道。確か、そのような題材の本がなかっただろうか。ホームの自動改札口から先には何があるのだろう。わたしは自動改札口があるだろう、小さな建物まで歩いた。すると、自動改札口の向こうには木造の小屋があった。
改めてわたしは宇宙空間をくまなく観察した。今まさにわたしは、果たしてここは地球であるのか、それさえ定かではない空間に存在しているのだ。絵本のような出来事に感覚が麻痺し始めたのか、その頃のわたしはいささか興味と期待に満ちた眼差しをしていたのではないかと思う。
自動改札口を通り、小屋の扉まで歩いて来た。中には誰かがいるのだろうか? わたしはノックをしたが、中からの応答はない。ドアノブに手を掛け、ドアノブを回し、ゆっくりと体重を掛けた。ギイ、と静かに音がして、木造の扉はゆっくりと開き、小屋の中の様子が少しずつ見え始めた。
「ノーリアル・ワールドへようこそ!!」
瞬間、銃声のような音がして身を竦めた。鳴ったのはクラッカーの音だったようで、小さな国旗やリボンがわたしに降り注いだ。だが、クラッカーと声の主はどこにもいない。木造の小屋の中には一つのテーブル、四つの椅子、奥には暖炉があり、その暖炉の前には揺り椅子に腰掛けた老人がひとり。老人は本を読んでいて、隣で少女がそれを聞いているようだった。
わたしは声の主を探した。だが、さっぱり声の主は見付からない。本を読んでいる老人はわたしのことなど興味がないようで、ただ少女に本を読んで聞かせていた。
「惜しい! 残念ですが、あなたの視線はそこにあるべきではありません。もっと下、そう下ですよ。天井を上だとするなら、の話ではありますが」
わたしはようやく声の方向に気が付いて、足元へと目をやった。そこには真っ白な毛並みの狐が――ただの狐ではなかった。身体は後ろを向いているのに、何故か顔はこちら側に付いている。一見するととてもグロテスクだが、苦しくはなさそうだ。
「初めまして。わたくし、三角帽子のコオロギ。名を『監督』と申します。こちらの白狐はわたくしの相棒で『調査君』と申します。以後お見知りおきを」
「……あ、ああ。ご丁寧にどうも」
わたしは狐が喋っているのだと思ったが、よく見ると狐の頭に三角帽子を被った、普通のコオロギよりは二周りほど大きいコオロギが乗っていた。大げさな身振り手振りなので、動き出すとすぐにその居場所が分かった。これもまた、大きさという意味でとてもグロテスクだ。だが、不思議と怖さは感じなかった。
「ちげえよ。俺は『調査』だ、『調査君』じゃあねえ」
初めて白狐が喋った。顔に似合うのか似合わないのか、何しろ見たことがない存在なのでそれすら分からないが、どうやらこの狐は口が悪いようだ。
「失礼、調査君」
「お前絶対分かってないだろ、いつも同じ紹介しやがって」
いつも、ということは、今までにもこの場所に訪れた人間はいたということだ。……人間なのだろうか? それさえも分からない。わたしはつい面白くなってしまい、扉も閉めずにその二匹の会話を聞いてしまった。
「正直に申し上げますと、わたくしも『カント君』に名前を変更しようかと思っていた所でして。あなたも『調査君』に名前を変更すべきかと」
「嘘を付くな」
それは現実には絶対に存在することのない、日本語のやりとり。まるで夢でも見ているかのような、不思議な二匹のコミュニケーションだった。
わたしは二匹の漫才を横目に、奥にいる老人に挨拶をしようかと思い、扉を閉めた。別段寒さは感じていなかったが、暖炉のそばまで行くと暖かな感覚に安らぎを覚えた。暖炉の隣には、わたしが入ってきた扉と同じような扉があった。これはどこに通じているのだろうか。多少気になるが、今はここがどこであるのかを聞く方が先決だと思い、わたしは老人のそばに向かって少し歩いた。
「こんにちは」
わたしが軽く会釈をすると、老人は初めてわたしの存在に対して反応した。今までこちらに気付いていなかったのだろうか。ふさふさの顎髭をすっと撫で、テーブルに置いてあった眼鏡を掛けてわたしを見た。
「……おお、客人であったか。これは失礼した」
「すいません、客人ではないのですが、迷い込んでしまいまして。蒸気機関車に乗って、ここまで来ました」
「いいや、おそらくあなたはそこの監督が招いた客人のはずだ。そうだろう?」
老人がコオロギに向かってそう聞くと、コオロギはええ、と頷いた。わたしは誰にも招かれてなどいない。一体、どういうことなのだろうか。
「ここは、どこなのでしょう?」
わたしが聞くと、老人は難しい顔をした。わたしはそんなに難しいことを聞いたつもりではなかったので、多少驚いた。
「どこかと言われれば――現実世界でないことだけは、確かであろうか。……だが、どこかと聞かれると、それはどうにも難しい」
「……そう、なのですか」
「ここは『ノーリアル・ワールド』と呼ばれる場所だ。それ以上のことは、今はまだ調べている途中なのだよ。今までに分かっていることについては、そこの監督に話を聞いて頂きたい」
それきり老人は話を終えたつもりなのか、再び本に向き直った。わたしは少し困ってしまったが、おそらく老人はこの場所に住んでいる人間なのだろう。その彼がこう言っているということは、これ以上何を聞いても答えは出ないのかもしれない。
「監督、調査、客人にお茶をお出ししなさい」
本に目を向けたまま、老人は二匹にそう命じた。コオロギと白狐――監督と調査は棚からカップを取り出すと、テーブルに置き、テーブルの上に置いてあったティーポットからお茶を注いだ。監督は三角帽子を上に掲げ、わたしに合図をした。
「アールグレイで、よろしいですか?」
「ああ……ありがとうございます」
「どうぞ、こちらへお座りください」
わたしは言われた通りに椅子に座った。不思議な空間だった。よく見れば、この小屋には窓が一つもない。暖炉の火は燃えているが、外は宇宙空間で酸素はないはずだ。もっとも、わたしがあの駅に立っていた時点でそのようなルールが通用しないことは明確だったのだが。わたしが小屋をきょろきょろと眺めていると、不意に監督が三角帽子を取ってわたしに頭を下げた。
「実は、あなたは客人なのです。今回はわたくしが呼び出させていただきました。実は新しい本を一冊執筆していただき、わたくしの物語を現実世界の方々に届けてはいただけないかと」
そう言うと監督はどこからか、わたしのタブレット端末と同程度の大きさの鏡を取り出した。
「本を?」
「さようでございます。既にご存知のこともあるかと思いますが、ここは『ノーリアル・ワールド』。現実ではなく、かつ現実を『知っている』世界であります。この世界には、いくつもの美しいエピソードがあるのです」
監督が鏡を小さな手で叩くと、鏡のガラス面が色を変えていった。それは、魔法のような光景だった。それまでどうやって帰ろうかと密かに考えていたわたしは、その幻想的な光景に見入ってしまった。
「ですが、この世界のことを知っている方は現実世界にそう多くありませんので。本をご紹介させていただくことで、より多くの皆様にこの艶やかで美しいエピソードを知っていただければ、と」
まるでわたしが出版業界に就職しているかのような口ぶりだった。その時のわたしはためらったが、こう答えた。
「……ですが、わたしは作家ではありません。それを頼むのであればわたしよりも、その業界に精通している人物の方が都合が良いのでは?」
わたしがそう答えると、監督はふと笑って首を振った。虫なのに笑っているのが分かるのも、不思議な感覚だった。
「この世界に来ることができるのは、限られた人間だけなのです。この時間、このタイミングでは、あなたが一番都合が良かった」
その言葉は、わたしには理解ができなかった。だがわたしが彼に呼ばれたことだけは、どうやら真実らしい。わたしは監督にひとつ頷いて、タブレット端末を起動し、記述の準備をした。
今になって思えば、もしもその時のわたしが冷静な思考でいたら――あるいは、そこまでファンタジーな世界ではないとしたら。わたしはきっと、元の世界に帰る手段を問い詰めていただろう。だが、少し聞いてみたいと思ってしまったのだ。不思議なコオロギが話す物語を書き留める瞬間など、これを逃したら二度と体験できないだろう。
「ありがとうございます。では、この鏡を見てください。今回は、これを用いてお話を語ることができればと考えています」
さて、まるでバスガイドでもしているかのように語る監督の話は大変面白かったので、わたしは彼の話を細かく聞き、その全てを記述した。最終的には記述しないで欲しいと言われた部分も記述した。何故なら、その方が面白いと感じたからだ。
大変前置きが長くなってしまったが、それがこの『ノーリアル・ワールドの旅路』という物語を作るきっかけとなった。監督にとっては、今回の物語も数ある話のほんの一部に過ぎないという話だが、いずれにしても現実とはかけ離れた、奇妙な話であることに変わりはない。
まるで夢のような、あるいは夢だったのかもしれない奇妙な世界の物語を、今これを読んでいるあなたに知って頂けることを、わたしは嬉しく思う。