其の弐
娘は家族と共に夜桜に来ていた。初めは持参の重箱の料理に舌鼓を打ち、桜を満喫していたが、次第に父達がしたたかに酔い、目も当てられぬ醜態を晒すようになると不快になった。母に風に当たってくると告げ、娘は三条川の畔に立った。
夜風に当たりながら対岸の明かりをぼんやりと眺めていたが、急に川の中程が輝いた。
「何かしら?」
訝しんでいるうちに光が収まり、中洲に咲き誇る巨大な桜をはっきりと見ることができた。
月明かりの下仄明るく照らし出された桜ははらはらと花弁を散らす。その威容は見る者の目を引きつけ、心を鷲掴みにする。
「……綺麗……」
感嘆しじっと眺めていると、桜の下にいた女性と目があった。白髪だというのに顔は若々しい女性だった。
『お前、この桜が見えるのかい?』
頭に響く声に娘は頭に手をやる。気のせいだろうか。それとも兄に戯れに飲まされた酒に酔ったか。そう思っていると、またもや声が響く。
『ならば、特別にここで見させてやろうか』
女は微笑んだ。妖艶でありながらも、向けられた途端に悪寒が走った。それにこんな場所で一人佇んでいることといい、容姿といい、怪しい人物だ。娘は断りを入れることにした。だが、声が出ない。代わりに頭を振ろうとしたが、それも敵わない。せめてというように泣きそうな顔でじっと女を見つめた。
女は娘の懇願に頓着せずに微笑んだまま娘に手を伸ばす。
次の瞬間、娘は桜の枝の上に座っていた。
眼下に微笑む女の姿があるから、件の桜なのだろう。木登りなどしたこともないし、そもそもいつの間にこんなところまで来てしまったのかと娘は狼狽えた。先程まで自分がいた場所を見ると、自分が地に倒れている。
「……え……」
鼻歌交じりに酔った兄がフラフラとした足取りで己の倒れている辺りにやって来る。
じっと川面を見つめる兄に自分はここにいると叫びたかったが、やはり声が出ない。倒れている娘に気づかぬまま兄は立ち去り、その途中で娘につまずいて転んでしまった。
ぼやきながら起き上がった兄は妹の異変に酔いが一気に醒めた。妹を抱えて激しく揺
する。
「瑠花‼しっかりしろ、瑠花‼」
兄の必死な叫びにただならぬものを感じてか両親もやって来た。そして驚き嘆く。
娘はただ涙を流してその光景を見つめた。