其の四
それで旦那と伴って出かけたんだが、オレはつくづく今まで旦那について行かなくて良かったと思った。
何しろ、川原にしゃがみこんで何か話したと思ったら、道端のお地蔵さんにぶつぶつと呟いたり、木の上に向かって何か呼びかけたりと、とにかく変なことばかりしていた。
明らかに挙動不審なのに周りの人は何とも思わないのか、気にもかけないでその背後を通り過ぎる。しばらくしてオレは声をかけた。
「旦那~」
「何だい達士さん」
すっかりオレを祖父ちゃんとして扱っている。傍若無人に見えて老人や女子供には優しい人なのだ。ただし良識のある相手で自分に歯向かわない相手に限る。まぁ、それは世間の皆さんがそうだろうが。
旦那の対応に合わせるように祖父ちゃんの言葉遣いを真似る。
「何をやっているんです?」
旦那は少し困ったように頭を掻く。
「いやですね。どうも隠れ家を変えたようでして…。色々と聞いているんですが…」
「お手数をおかけして申し訳ありません」
振り返ると着物姿の女性がいた。
何というか明治とか大正にはいたんだろうな~って感じの女だ。雪藤さんと同じく着物姿でも、華やかさが無く地味な佇まいだ。それにもう見られなくなった髷を結っている。ただ、雪藤さんも美人だけど、この女もどこか美しい。例えるなら雪藤さんが大輪の牡丹ならこの女はそっと彩りを添える霞草だ。
オレはドギマギしているのに旦那は平気そうで呑気に言った。
旦那はつくづく美人に耐性がある。鈍いわけでも美しさを理解する感性や情緒が乏しいわけじゃない。ただ、興味がないんだ。ある意味では誠実であり、ある意味では非情だ。自分の惹かれた相手しか眼中にないんだ。旦那に想いを寄せる相手はたまったもんじゃない。
「これはおちかさん。いや、お恥ずかしい。道に迷いましてね」
「それを聞き及びましたのでこうしてお迎えに上がりました。そちら様は?」
ついと目を向けられ、オレは思わず頭を下げた。
確かに女性の丁寧な言葉遣いに礼儀正しくしたくなったのは確かだ。だが、それだけじゃない。目を向けられた途端に襲われた寒気に恐れを抱いたからだ。この女を怒らせてはいけないと直感でわかった。
旦那はオレをかばうように立ち位置を入れ替わって真っ向から矢面に立った。
「仁野達士さんです。オレの友人でして。一緒してもらっても構いませんか?」
「龍さんのお連れする方ならどなたでも構いません。ではお二人共私の後をついて来て下さい」
おちかさんについてどこか不思議な道を行く。
さっきまでのアスファルトで覆われていた地面が、いつの間にかろくに地面の見えない、膝丈よりも高い雑草が生い茂る獣道に変わった。あわてて周囲を見回すと森だった。
「…旦那…」
不思議に思って声をかけると、旦那は振り返って口の端でニッと笑った。人を安心させるような頼もしい笑みだった。
「何だい達士さん。足が痛むかい?」
「…まだそんな年ではありませんよ」
「まぁまぁそう言わず。もうすぐですよ」
いつになく旦那が丁寧な口調で言う。悪ふざけにしては長続きしている。訝しんでいると、旦那はオレの後方を見上げて頭を下げる。振り返ってものどかな山道が広がるばかりで何もない。
しばらくすると道の先に旦那の家より、いや、以前見た雪藤さんの屋敷よりもずっと立派な屋敷が見えた。目的地が見えたことに励まされてすっかり重くなった足を動かして坂を登っていくと、全容が明らかになった。
敷地を区切る塀や門扉もなく、芝生の中にある石畳の先におちかさんによく似た女が三人待っていた。オレ達が前に行くと三人揃って頭を下げた。
「お待ち申しておりました」
こちらも挨拶を返すと真ん中の女の左手にいた女がオレの手を取って支え、片手を背に添える。まるで老人を労わるような体勢だった。
「足元にお気を付け下さい。よくよく見ると窪みがありますので」
オレは黙って頷いた。
「達士さん。オレは先に行っているよ。ゆっくり来な」
老人の真似をしてえっちらおっちらと中庭に到着すると旦那は一足先にお婆さんと談笑していた。オレがやって来たのに気づくと立ち上がって空いている椅子を引く。
オレを座らせてからまた腰掛けると、にこやかに笑ってお婆さんに包みを差し出す。
「お久しぶりですおせきさん。〝三島屋〟の大福が手に入ったのでお裾分けに来ました」
「それはご丁寧に。龍さんには本当に良くしていただいて…」
念の為に言うが、この大福は雪藤さんにもらったものではなく奇行に走る前に旦那が新たに買い求めたものだ。
男所帯で、それも二人共甘党とくれば貰った大福が残るはずもないし、何かと支離滅裂な旦那にも、貰った物を使い回さない良識はある。むしろそうした義理堅さは人一倍だ。
それから旦那持参の大福と供された茶菓子で茶会が開かれた。
その場の全員が着物姿なのに屋敷も庭も洋風で、テーブルの上には紅茶と洋菓子が用意された。和風の要素は大福と緑茶しかない。
用意されたお菓子はとても美味しくて今まで食べたことがない位だった。オレが感動する横で旦那はおせきさん達と色々と話していた。
初めに紹介されたが、何でもおせきさんは旦那の家で昔働いていたお手伝いさんだそうだ。旦那の面倒を看ていたなんてさぞや苦労したことだろう。そうした苦労話を聞きたいが、話しかけるなと言われているから断念した。
他の三人は娘さん達で、オレの手を引いてくれた女が何かと相手をしてくれた。本当にいい人過ぎて黙ってばかりいるのが申し訳なくなる。
「近頃大田沼の主の音沙汰がありませんが…」
「ああ。実は雷様に嫌われましてね…」
「何でまた?」
「何でも雷様の威を借りて近隣の村々に害をなしていたのを聞き届けになったとか…」
「そういえばこの前も…」
どれもがオレの理解の範疇からは程遠いのでほとんど聞き逃していた。だが、一つだけ耳を傾けた。
「そういえば春先から娘達が呆けたようになっているそうですが、何ぞ悪さをしたものでもいるんでしょうか?」
最近何件かの依頼で、娘がおかしくなったと泣きつく人がいた。不憫だなと思っていたが、今のところ旦那は何の手も打っていない。けど、きちんと気にかけ、原因を究明しようとしているようで安心した。
いや、この二年の付き合いで旦那が本当は真摯で誠実な人だとは知っている。だが、普段が普段なので時折不安になるから隙あらば良い所を見つけたり、再確認することにしている。
おせきさんが娘さん達にも話を振って事実確認しようとするが、みんな知らないようだ。おせきさんは頬に手をやって言う。
「あら、すみません。今度おいでになる時までには調べておきますね」
「いえいえ」
それから旦那は話題を提供することはなく、聞き役に徹した。そしてあらかた言い尽くしたのか、ふと気づいたようにおせきさんが旦那に聞いた。
「ところで龍さん。私の娘を嫁にもらいませんか?」
「丁重にお断りします」
即座に断ったのに気を悪くしたふうでもなくおせきさんは微笑んだ。
「龍さんにも同じことを言われました」
「仮にも息子ですからね」
そう言うからにはリョウさんとは旦那のお父さんのことだろう。
その場の和やかな雰囲気につい口を挟もうとすると、テーブルの下で旦那に足を思い切り踏まれた。それだけなら痛がっただけだろうが、運悪くオレはカップを手にしていた。そのせいでオレはお茶をこぼしてしまった。膝だけでなく胸からぐっしょり濡れてしまった。
「大丈夫かい?これ使ってくれ」
元凶だというのに白々しくオレを案ずると手拭いを差し出してきた。色々と思うところはあるものの素直に濡れた着物を拭こうとして、何か書き付けてあるのに気づいた。
そこにはこう書いてあった。
『何も話すな。しばらく咳き込んだふりして、オレが背を叩いたら〝もういい〟と手で示せ』
その指示に従ってオレは口元に手拭いをやって咳き込んだふりをした。万が一でも濡れた紙の墨が滲んで祖父ちゃんの着物が汚れても困るから拭くのは止めておいた。すると咳き込むオレを心配したのか、気遣ってくれていた娘さんが代わりに着物を拭いてくれ、旦那は背中を摩る。頃合を見て背中をポンポンと叩かれたので片手を突き出した。
「大丈夫ですか仁野様?」
おせきさんが聞いてきたが、オレは黙って頷いた。
それを皮切りにお開きになったので、心苦しかった。
おせきさんの屋敷を後にし、山道を下っていくと、いつしか街の外れにいた。
「え?」
さっき登ってきた時よりも山道が短い。それにどうして急にこんな所に…
戸惑って立ち尽くすオレを振り返り、旦那は先を促す。旦那の扱いからして祖父ちゃんのふりは続行のようなのでそれにあわせてえっちらおっちらと歩いていく。
「よっし、もう着替えていいぞ、士郎」
旦那は家に帰り着くと言った。
道中もオレを祖父ちゃんとして扱っていたが、家に帰り着くや元の扱いに戻った。何が何だかわからないが、どうせ聞いたところで煙に巻くんだろうから、もういいや。
オレは部屋に戻ってシャツとズボンに着替える。オレはズボンを穿く時はベルトじゃなくてサスペンダーだ。オレは旦那と違ってそうそうこだわりもないが、これだけは別だ。
祖父ちゃんは大正生まれで、ハイカラな人だったそうだ。年を取ってからは和服だったが、若い頃はイギリスの老舗の背広店で仕立てたスーツを着こなしていたらしい。
何でも当時の背広用のズボンにはベルト穴代わりにサスペンダー用のボタンが付いていたそうだ。今も本格的な英国調スーツならベルトじゃなくてサスペンダー仕様であるべきだという考えがある。祖父ちゃんももれなくそうだった。
だからオレにもベルトじゃなくてサスペンダーを使わせていた。本当の所、サスペンダーは肩が凝って仕方がない。でも、祖父ちゃんとの思い出なんで愛用している。




