序章
人の吐息も水も空気も、人を取り巻く全てを凍てつかせる冬が過ぎると、段々と春が近づいてくる。
季節の変わり目なんて曖昧なもんだ。
秋なんか気づけば始まり、気づけば終わってる。その逆が夏で、その容赦ない暑さと日差しで春とも秋とも明確に区別させる。
で、春の訪れを感じさせるものなんて人それぞれだろう。
例えばマフラーがいらなくなった時、例えば店先に春物が並べられるようになった時、等々本当に些細なものから大きな変化まであるだろう。
しかし、最も顕著なのは桜だろう。
これはオレの思い込みじゃなくて、日本人ならそう刻み込まれている。文化や風習とかじゃなくてその魂や根底に。
オレ達は桜を見て浮かれ騒ぎ、一時の春を謳歌する。
人には一時の、そしてすぐに忘れ去ってしまう美しさであり風情だ。だが自然のものの常で桜はずっと在り、在るが故に長きに渡って人々を見守ってきた。
どれだけの時が過ぎようと、世の趨勢がどう移り変わろうとずっとその場所に根付いている。
そんなことはよくよく考えれば当たり前のことだが、普段は脳裏を過ぎりもしない。
指摘されて、ごく当たり前のことのように「ああ、そういやそうですね」と気のない
返事をすると旦那はニヤリと笑った。口の端を持ち上げ、歯を見せた嘲るような、皮肉ったような笑みだった。
旦那は皮肉屋でもないが、素直な人でもないんで時折こうした笑みを見せる。だから腹も立てずにいたが、旦那の次の言葉が胸を殴りつけられたようにズシリときた。
だから〝自然のもの〟を愛する者は〝在る場所〟に縛られる
たとえ朽ち果てても心に思い描いた景色は残り、囚われる。…キリがねぇんだよ。思い出なんてのは
旦那はひどく苦々しそうに吐き捨てた。