主人と雌犬。
「あわわわっ遅刻だ~~~!!」
日本のある街、そこにある家の一つから慌てふためいた可愛らしい声が響いた。
その声の主はバン!と戸を開け、転ばないように気をつけながらも慌てて階段を下りる。
それから一直線に洗面台へと駆け込んだ。
「う~、せっかく早起きしようって目覚ましかけたのに二度寝しちゃうなんて~」
少し長めの茶色の髪を可愛らしい花のワッペンがついたゴムで二つのお下げをつくり、ササッと前髪を整える。
次に部屋を出る時に着てきた、着慣れたブレザーの制服がどこか崩れてないかを確認した後、今度はリビングへと走る。
「お母さんおはようっ!それから今日はご飯いらないから~」
「おはよう由梨。それから今日はっていつものことでしょ?はい、お弁当」
「えへ~、ありがとう」
慌しくドアを開けて入って来た由梨と呼ばれた少女に苦笑しながら弁当を渡したのは、ちょっと太目の40歳の由梨の母親である。
ちなみに現在ダイエット10年目に突入しているが成果は無しだ。
「じゃあ遅刻しちゃうから行ってくるね」
「はいはい、気をつけてね」
「はーいっ」
相変わらずな娘に呆れながらも微笑む母を置いてユリはリビングから玄関へと進んでいく。
それから学校指定の革靴を履き、いざ出陣!というところで別の声がかけられた。
「由梨?もう学校へいくのかい?」
「あ、お父さん。……う~、もしかして起こしちゃった?」
そこにはパジャマ姿に黒縁メガネをかけた男性、由梨の父が立っていた。
ちなみに母親とは違い痩せている。いや、少々痩せすぎと言えるかもしれない。
「ん?違う違う。今日は寝つきが悪くてね。読みかけの本を読んでいたんだ。
そしたら由梨の慌てる声が聞こえたからね」
ちなみに由梨の父は仕事上の関係で寝るのは朝の5時過ぎで起きるのが昼前といった生活リズムをするため、こうして由梨と朝会うことはめったにない。
というか彼女が高校にあがってからは今日が初めてであった。
「うっ、遅刻しちゃいそうだったから……ごめんねお父さん」
「遅刻?でもまだ7時過ぎじゃないか。
学校の始まる時間にはまだ早いだろう」
「うん、学校はね。でもそれより先に用事があるんだ」
「用事?」
用事があると言った由梨の顔がなんだか嬉しそうに見えた父が尋ねる。
が、この後父である彼は質問してしまったことを後悔することになる。
「うんっ。夜這い……じゃないや、朝這いに行かなくちゃいけないの!」
「へぇ~そうか、朝這いか………って、ええ!?」
「じゃあ行ってきま~す!」
「ちょっ、由梨ぃ!?…………母さん!母さん!!由梨がぁ」
僕は物凄く物覚えが悪い。
と、よく友人には言われる。
だがそれは間違いだ。
僕は興味の無い物を覚える気がないだけで、興味のある物は忘れることはない。
まぁ、自分で思っているだけだから本当にそうなのかは分からないのだけれど…。
それでもあの出来事だけは覚えている。
きっと忘れることなんて出来ない。
脳裏に、網膜に焼きつく程の衝撃。
繋いだ手から伝わる不安。
お互いの進む道を別けた出来事。
僕がまだ壊れていなかった最後の時。
空に惑星が浮かんでいた。
「―――……夢…か」
随分懐かしい夢を見たな…。
今は7時過ぎか、そろそろ起きるかな。
と、僕がガタがき始めているベッドから身を起こすとほぼ同時、玄関が開く音が聞こえた。
「……またアイツか」
普段は自分の立場を弁えているくせにこれだけは何故か直さない。
まったくもって鬱陶しい。
「はぁ、今日も躾してやらないとな…」
そういって部屋のドアの横に隠れるように立つ。
それから10秒ほどした後、寝ていると思っている僕が起きないようにとソイツはゆっくりとドアを開け入ってきた。
「えへ~、奏ちゃん夜這……朝這いにきましたよ~。なんてねっ」
なんて事を抜かしながら。
僕は青筋を浮かべながら、まだこっちに気づいてないそいつに腰を捻りまわし蹴りを顔面に叩き込んだ。
「なんてねっじゃねぇよ、この雌犬がぁ!!」
「ひぐほっ!?」
「おいお前、僕は何度も言っているよな。ピッキングして朝僕の家に入ってくるなって」
「う、うん」
蹴りを入れた後、目の前の不法侵入者を正座させ説教タイムに突入した。
まぁ、これも既に千回以上していることなので無駄だとは思うが、全然直そうとしないコイツにはほとほと腹が立っているのもあってストレス発散にやっている。
「それから、お前は僕の何だ?言ってみろ」
「わ、私は奏ちゃんの雌愛犬ですっ」
「愛は要らない。が、そう、お前は僕の雌犬だ。
雌犬が飼い主の言いつけを守らないなんて許されると思っているのか?」
「で、でも~」
「おい雌犬。何で犬が人の言葉を喋っている?
いいか?もう二度と勝手に家に入ってくるな。……返事は?」
「………ワン」
……これくらいでいいか。どうせ明日もくるんだろうから余り力を入れすぎると逆にストレスがもっと溜まってしまう。
「それじゃあ僕は着替えるから」
「ワンッ」
「……おい犬、僕は着替えると言ったんだが」
「ワンッ」
「もう一度だけ言ってやる。…僕は着替えると言っている」
「ワッフ~ン」
誘惑しているつもりなのだろう。腰をくねらし潤んだ瞳でこっちを見ながらポーズをとる雌犬。
確かにコイツは第三者から見るとかなり可愛い部類に入るだろう。おそらく他の男からしたら涎ものかもしれない。それは認めよう。
だが僕には逆効果だ!!
「さっさと……出て行け!この雌犬がぁ!!」
「きゃい~んっ」
「まったく朝から疲れる……」
着替えが終わり廊下に出ると部屋の前で雌犬が正座して待っていた。
なんだか凄くいい笑顔で待っていたので、ムカついたから蹴り飛ばした。
そして蹴られたっていうのに何故か雌犬は嬉しそうに笑っていた。……変態め。
そんな変態は置いといてリビングに出る。
リビングと言えば聞こえはいいが、この家は木造で築50年も経つボロ家である。
なのでゴキブリが大量にこの家に生息している。
掃除はマメにするほうだと自負しているが、奴らはどこにでも潜んでいるのだ。
そのまま粗大ごみ置き場にあり、勝手に修理し使っている冷蔵庫から卵とベーコンを取り出す。後、ついでに昨日の内に作っておいたサラダも。
サラダをテーブルの上に置いた後は料理に取り掛かる。
これでも一人暮らしは長い。だから一般レベルぐらいには料理は出来る。
といっても、今から僕が作る目玉焼きやこんがり焼いたベーコンなんてのは、ほとんどの人が多少の大差はあっても無難に造れるだろうが。
ちらりと横に視線を移す。
「はっはっはっはっ」
雌犬が床に座った状態で僕を見上げ舌を出しながら見ていた。
ここらへんコイツは学習している。
雌犬が椅子に座るなんておこがましいにも程があるからな。
「………」
僕は視線をフライパンへと戻し料理を再開する。
もちろん作るのは僕の分だけだ。
雌犬がご飯を食べてきていないのは毎度のことなので知っているが、だからといって僕がコイツにご飯を恵んでやる筋合いはない。
それにペットを正しく育てるには甘やかせるのは駄目なのだ。
料理が完成し、セットしておいたトースターからパンを皿にので席に着く。
傍らにはカフェオレ。ブラックなんて苦くて飲めたもんじゃない。
パンを一口、ベーコンも一口食べる。
うん、やっぱり朝はこんがりベーコンだ。
ぐぅ~。
その時、隣のほうから音が聞こえた。
見てみると……
「く~ん」
雌犬がお腹に手をあてコチラを見上げていた。
「……腹がへっているのか?」
「ワン!」
「目玉焼き食べたいか?」
「ワンっ!」
「そうか」
僕は雌犬に滅多に見せない優しい笑顔でそう言うと自分の食事を再開した。
二回目になるがペットを甘やかしてはいけないのだ。
「く~ん……」
朝食も終わり、尺だが雌犬を連れて家を出る。
「ん~今日もいい天気だね、奏ちゃんっ」
流石に外でまで犬語だと世間体的に僕が不味いので基本外では人の言葉をしゃべるのは許可している。
だが、話せるとなるとコイツはしつこいぐらい僕に話しかけてくるので本当にウザイ。
いい加減、放っておいて欲しい。
「あ、ここの塾も潰れてる……」
雌犬の声で意識を向けると、そこには一件の空き家があった。
確か此処は昔は有名塾で人気があったところだったな。
「………フン」
「あっ待ってよ奏ちゃんっ」
雌犬の言葉を無視して僕は歩く。
ああいうのを見ると何故かイライラして、そして改めて実感させられる。
僕は空にホログラムのように浮かぶ惑星『エデン』を睨むように見上げる。
あの星によってもたらされた魔法は僕たちの生活をがらっと変えた。
それは人でもなく、国でもなく、まぎれもなく世界全ての生き方を。
そして学生である僕たちの生き方が一番変わったところ、いや、これも学生だけじゃないか……。
今地球は魔法という力を得たことにより、この世界の人々の評価基準は学力から魔法力へと変わった。
そう所謂、学歴社会という概念は無くなり。
魔法歴社会へと時代は移っていた。